116.0 みぞれ雨と終焉の時
凍りかけの雨が降る中、薄暗い竹藪を進む。足元は氷と落ち葉で滑りやすく、まともに歩くことは出来ない。数センチほど浮きながら移動する。
以前までこんな繊細な飛行は出来なかった。ただの人間だった自分が、いつの間にか、これほどまで当たり前に飛べるようになっている。そのことに、少しセンチメンタルになってしまう。
「変わったな、俺」
魔理沙の背中にしがみつきながら情けなく喚いた頃が、遥か昔のことの様だ。まだ、一年も経っていないというのに。
これまで俺は自分の意思で、時には誰かの望み通りに、あるいは誰も望んでいなくても幻想郷で変わり続けた。そして、結果として幻想郷を変え続けた。
今の俺は幻想郷の住人になれただろうか? 幻想郷に何か残せただろうか? 俺は、変われただろうか?
「雨が強くなってきた。急がないと……」
感傷に浸っている時間はない。竹にぶつからないギリギリの速度でしばらく飛び続けていると……開けた場所に出る。紅魔館に入る直前に、渡された紙に記された待ち合わせ場所だ。
俺は速度を緩めながら画面にヒビの入ったスマホで時刻を確認する。16時13分。天候で分かりにくいがもう夕方に差し掛かっていた。
待ち合わせ時間は昼過ぎと書いてあったのだが、デミリザレクションで腕を丸々治したせいで随分遅れてしまった。この天気だ、もう誰も待っていなくても文句を言えない。と思っていたのだが、どうやら杞憂だった様で広場には三人の影があった。
「お待ちしていました北斗様。貴方なら、必ず来て頂けると信じておりましたわ」
「まったく待ちくたびれたわよ。くたびれ過ぎて、そこの人間を食べてしまおうかと思ったくらいよ。命拾いしたわね、人間」
「……センパイ」
一人は胡散臭く微笑み、一人は退屈そうに欠伸する。そしてもう一人は気まずそうに俯いている。青娥さん、大人の姿のルーミアさん、そして……早苗。三者三様の様子で出迎えられた俺は、状況が読み込めず困惑してしまう。
「青娥さん、なんでこの二人がいるんですか? てっきり貴女一人だけだと……」
「成り行きですわ。それとも、私と二人きりになりたかったですか?」
「冗談でもやめてください。一人その手の冗談が通じないのがいるんですから。あくまで俺は、貴女から話したいことがあると伝えられたからここに来ているだけです」
俺は早苗から顔を逸らしながら言う。そもそも呼び出しの紙をこっそり渡してきたのは青娥さんだ。そこに二人がいることなんて書かれていなかった。
青娥さん、ルーミアさん、早苗。あまり接点がないように思えるのだが、この三人が集まったのに何か理由があるのだろうか? すぐに尋ねたくはあったが、それよりも気になることがあった。
「……この状況はなんですか?」
俺は荒れ狂う空を見上げる。笹の隙間からは、長く巨大な何かが黒雲の海を泳いでいるのが見えた。
あれは、もしかしなくても龍だろう。それも、博麗神社くらいなら一飲みに出来そうなほどの巨体だ。あんな巨大な生物がこの狭い幻想郷で隠れていられる訳がない。では、あの龍は今まで何処にいた?
「終焉の時が来たのさ」
そう答えたのはルーミアさんだ。金の髪を振り払いながら空中で足を組む姿を見た瞬間、俺は思わず腰に刺した霧雨の剣に手を伸ばしてしまう。
彼女に敵意がないのはわかる。だが、警戒せずにはいられない。何せ、あの天魔さんが警告する程の幻想郷の強者なのだから。
「……どういう意味ですか、ルーミアさん」
「前に言ったじゃない。この時のための顔合わせだってね。終わりが始まる。明けない夜が降りてきて、そのまま全てを飲み込む。この先には何もない。これがラストページなのよ」
「アレのせいで幻想郷が滅ぶとでも言いたいんですか?」
歌劇の様な言い回しに内心辟易としながら尋ねる。が、ルーミアさんは嘲笑を浮かべるだけで答えようとはしない。
腹立たしい。紫さんといい天魔さんといい、どうして幻想郷のトップは煙に巻く様な言い草しかできないのか。天魔さんや紫さんは立場的に言えないこともありそうだし仕方がないとは思うが、ルーミアさんに何のしがらみがあるというのか。
「まあいいです。それより、あれが龍神で間違いないですよね、青娥さん」
「えぇ、あれこそが幻想の祖。そして封印された幻想郷の最高神ですわ」
青娥さんが意味深な笑みを浮かべながら頷く。
幻想郷の最高神。確か里の真ん中にある祠にも龍神像が祀られていたな。そういえばキメラ異変の際にそこの像が壊されていたらしいが、まさか像を壊されたから封印が解けた、なんてことはないよな?
「封印された、と言っていましたよね。なんで今になって龍神の封印が解けたんですか? いや、そもそもなんで龍神は封印されたのですか?」
俺は自分の頭に積もった氷を払い除けながら、青娥さんに問いかける。
しかし、青娥さんはにこやかに肩をすくめるだけで答えようとはしなかった。わからない、あるいは答えるつもりがないのか。どちらかは判らないが、そんなことより小馬鹿にしたような青娥さんの仕草にイラつてしまう。
「……封印された理由はわかりませんが、龍神様の封印が解けたのは、きっと度重なる異変のせいだと思います」
と、今まで黙り込んでいた早苗が答えを返してくれる。だが俺の顔を見ようとはしない。やや右下に顔を逸らしながらマフラーを握り込んでいた。
……早苗とは霧の湖で戦ってからそれっきりだ。いつも通り話すには時間が足りていないのは、否めない。俺もつい返す言葉もぎこちなくなる。
「異変が続いたせいで、龍神を目覚めたのか」
「正確には、異変により不安に駆られた里の人々です。立て続けに起こる異変で、人々は藁にも縋るように龍神像に祈り続けていました。そして信仰の力が高まった結果が……」
「結界を破って、この有様ということか。だったとしたら、レミリアさんの未来視通りになってしまったな」
いずれ俺が幻想郷を滅ぼすかもしれない。初めて出会った時レミリアさんはそんな運命を見たと言っていた。あれはあくまで可能性の一つと言っていたが……本当にそうなるとはな。つい、溜息が白い息となって口から漏れてしまう。
俺と早苗との間に重苦しい空気が流れる。と、それを察してか無視してか、青娥さんがあからさまな明るい声で喋り始める。
「まあ、裏で不安を先導した者もいらっしゃったみたいですけれどね。スキマ妖怪から逃げ続けるなんて、よほどかくれんぼがお上手なのでしょう」
「………………」
……そいつに関しては心当たりがあった。あの、自称『影響を操る程度の能力』を持つ男だ。魔理沙が起こしたループ異変を手引きしたのもこの男らしいし、少なくとも無関係ではなさそうだ。
そういえば文は大丈夫なのだろうか? 適当なところで上手く逃げ果せていればいいのだが。心配しながら蠢く雲を見上げていると、サクと氷を踏む音がする。振り向くと、ルーミアさんが腕を組みながら地面に降り立っていた。
「ま、いずれにしろ遅かれ早かれ龍神は復活していたさ。何せアレは幻想を生み出す幻想だ。忘れられ、消えてしまえば、何もなくなる」
「………………? よくわかりませんが、龍神とは知り合いなんですか?」
「同じ封印され仲間ってところね。あまりウマは合わなかったけれど。何せアレには自分がない。透明人間みたいな奴だったし」
透明人間……? そもそも龍だし、あんな存在感があるのに? あまり納得出来ない例えに首を傾げる。
そんな俺を他所に、ルーミアさんは静かに、淡く微笑む。まるで……故人を懐かしんでいるみたいな顔だった。ルーミアさんは両手を後ろで組みながら落ち葉を蹴り上げる。そして……空に向けて白い息を吐いた。
「それにアレはね、在り方が矛盾しているの。だから封印され、利用された」
「利用された……」
幻想郷の最高神である龍神を利用するって、一体誰が何のために……
いや、そもそも俺は何で龍神が封印されなければならないのか、理由すら知らなかった。
「一体誰が何のために龍神様は封印されたのですか?」
早苗も疑問に思ったようで前に一歩踏み出しながら尋ねる。だが、勿体ぶっているのかルーミアさんは答えない。
みぞれの勢いが更に強くなる。身体も冷え切ってきた。あまり時間を無駄にしたくない。
「……ルーミアさん?」
「………………」
名前を呼んでみるが反応すらない。ルーミアさんはまるで何か思い出すかのように俯いたまま動こうとしなかった。
思わず早苗と顔を見合す。あれだけ饒舌に語っていたルーミアさんが突然黙り込んでしまったせいで、俺達も口を開くタイミングを逸してしまう。何とも言い難い沈黙の中、雨音を聞き続ける。
それからどれぐらいだっただろうか? ルーミアさんがおもむろに、おどけるような仕草で、両手を横に広げた。
「聖者は十字架に磔られました。さあて、なんででしょうか?」
「聖者、って……利用された龍神様のことですか?」
恐る恐るといった様子で早苗が聞くと、ルーミアさんは首を横に振る。そして、両手を下ろして金髪の長い髪を鬱陶しそうに払った。
「……聖者は神ではない。民衆を先導するための道具であり生贄だ。そして生贄を捧げられた神もまた、世界を編むための機械仕掛けに過ぎない」
生贄。その言葉に俺の身体が固まってしまう。
繋がる。人柱と生贄は同じ意味を持つ。そして大結界の崩壊と、龍神の復活。これらが、全て同じだったとしたら。そして、幻想郷を覆う程の巨体が封印されていたのが結界の中だったとしたら。
「まさか、龍神が利用された、というのは……」
「ご明察、博麗大結界とは龍神の封印そのもの。博麗の巫女は……その身をもって龍神を封印し、博麗大結界を守るのさ」
「ッ……!」
「そんなッ!? それじゃあ、霊夢さんはもう……ッ」
早苗が愕然とした悲鳴を上げる。俺は声すらも出せなかった。
死ぬ。霊夢が、死ぬ。なんて理不尽だ。俺は霊夢に、魔理沙に必ず救ってみせると約束したのに……その方法を模索する時間すら残されていなかったと言うのか。
そして幻想郷が、自分の居場所だと思えていた場所が、一人の少女が愛して守ろうと視界が、一柱の神と何人もの巫女の犠牲で成り立っていたことが信じられなくて。許せなくて。
まるで世界全てが血塗られているよに見えた。
「こんな話をしてる場合じゃない。センパイ、早く霊夢さんのところに戻ってあげて……セン、パイ?」
その時、拳を握り締め立ち尽くす俺がどんな顔をしていたのかはわからない。だが、俺の姿を見た早苗の、握り締めた紙みたくクシャクシャに歪んだ顔は……しばらく網膜に張り付いて離れなかった。
……そして、数時間後。みぞれ雨と風が強まり嵐の様相を強めている中、俺と霊夢は博麗神社の鳥居の下で向き合っていた。
「決めたことがある」
俺は不思議そうに顔を覗き込む霊夢に言う。見下ろす霊夢はいつにも増して小さく見える。真冬の夜、しかもみぞれ雨の中だ。身体が縮こまるのも無理はないが、俺は霊夢が不安に押しつぶされそうになっているように見えた。
俺は息を一つ吐く。足りない。もう一つ吐く。それでも気分は良くならなかった。
「北斗……?」
さすがに挙動不振が過ぎたようで霊夢が手を伸ばしてくる。おっかなびっくりといった形で細い指先が頬に当たり、そして優しく撫でられた。くすぐったくて、暖かい。満たされていく感覚が堪らない。
でも、俺は救わないといけない。俺がしたことの責任を取るために、約束を守るために、そして……
俺は霊夢の手を払いのける。そして震える手を握りこみ、怯える瞳を向けてくる彼女に言う。
「俺は、幻想郷を滅ぼすよ」
たとえ何を犠牲にしても、霊夢に生きてもらうために。