身体の震えが止まらない。歯がガチガチなって鬱陶しい。濡れた衣服は氷の衣の様に重く、冷たい。口から漏れる微かな熱気すら、惜しく思えてしまう。
俺は残り僅かな体力を振り絞り、なんとか両腕に早苗を抱えながら岸まで辿り着く。ぬかるみに足を取られ膝を突いたところで、ようやく一息吐けた。
「……強かった」
舐めて掛かったつもりは一切ない。だが、同じ外の世界出身の人間だからと、少し油断していたのかもしれない。
本当に……本当に、早苗は強かった。勝てたのは早苗が霊力の制御に失敗したお陰だ。アレがなければ、まず勝てなかっただろう。
いや、本来なら完璧な一撃もらった時点で負けだったのだ。それを、不死の影響で無理やりリトライしただけ。ズルと相手のミスがなければ勝てなかったなんて……格好悪過ぎだ。
「……こんな奴を慕ってくれるなんて、お前も物好きだよ」
なんて本人には聞かせられない自虐を呟きながら、俺は早苗を近くの木の根元に縋らせる。そして、赤い月明かりを頼りに様子を伺う。
……浅い呼吸はしているものの、グッタリとして意識はない。唇も真っ青だ。このままじゃ二人とも凍死しかねない。とりあえず薪木を集めて火を起こさないと……
俺は潤滑油の足りてない機械の様なぎこちない動きで歩き出そうする。その時、突然周囲が明るくなった。
「新春の夜に寒中水泳なんて古めかしい健康志向ねぇ。しかも、学生時代の後輩にまで付き合わせて」
振り向くと紫さんが、焚き火の前でレジャー用のチェアに腰掛けていた。分厚いダウンジャケットを着込み、これ見よがしに金属製のタンプラーで暖かい飲み物を飲んでいる。
実に好都合なタイミングだ。今二番目に会いたい人に出会えた。
「用意がいいですね。真冬にキャンプですか?」
皮肉と白んだ視線を返すと、紫さんは困った様な苦笑いを浮かべた。
「そんな怖い顔しないで早苗と一緒にこちらへ来なさいな。そのままじゃ二人とも風邪引くわよ」
「それなら早苗はどこか暖かい場所に連れてってくれませんか? このままじゃ風邪どころじゃ済まないんで……」
「随分と過保護ねぇ。彼女なら大丈夫よ。貴方が思っているほど彼女は弱くないって知っているでしょう?」
……そう言われると、俺も強く言い返せない。
内心イライラしながらも、俺は早苗を焚き火の側まで移動させる。そして早苗の隣、紫さんと向き合う位置に腰を落とす。砂利と枯葉の絨毯の座り心地は最悪だった。
焚き火に身体を晒して冷え切った身体を温めていると、しばらくして紫さんは何も言わずスキマを介してタオルとタンプラーを差し出してくる。
金属の容器からは湯気と柚子の香りが立ち昇っていて、今すぐ飲み干したい衝動に駆られるが……俺は先にタオルを受け取って、早苗の顔を拭くことにした。
心の中で押し殺していたが、本当は今すぐ霊夢に会いに行って全て問い質したかった。そうしなかったのは早苗への罪悪感と、霊夢と同じくらい……いや、霊夢以上に事情を知ってそうな紫さんがここに居たからだった。
出来る範囲を拭き終わり、ようやくタンプラーを手に取ったところで紫さんは喋り出す。
「どうやら霊夢のこと、彼女から聞いたみたいね。どこまで聞いたのかしら?」
「……詳しくは聞いてません。悠長に立ち話をしていた訳じゃないですから。ただ、早苗は霊夢が人柱になるって言ってました」
「そう、きっと霊夢から聞いたのね。誰にも話すなって言ったのはあの子なのにねぇ……確かに霊夢は近い未来、人柱に捧げられるわ。次の冬は迎えられないかもしれないでしょう」
紫は枝を折ると、焚火に一本、二本とくべる。淡々とした作業は、飾り散らかした口調が印象的な彼女には似つかわしくなく思えた。
……否定して欲しかった。決して早苗が嘘をついていると思っていた訳じゃない。ただ何か勘違いであって欲しいと、微かな期待に縋っていた。
腹の底に湖の水より冷たい何かが落ちていくのを感じながら俺は一つ息を吐いた。
「人柱って、城やトンネルを建設するために捧げられる生贄ですよね。いくら幻想郷でもまだそんな悪しき風習が残っているんですか?」
「まさか。怪談話として語られる程には廃れているわ」
「じゃあなんで……! そもそも博麗の巫女は結界を守ったり異変解決する役目があるじゃないですか! わざわざ霊夢が人柱にならないといけない理由なんて……」
「あるの」
拒絶にも似た短い一言と薪の弾ける音で、俺は沈黙させられる。気付けば紫さんは昇っていく火の粉の向こうでジッと俺を見つめてきていた。
深い宵闇色の瞳は真剣そのもので、俺は金縛りにあったかの様にその場から動けなくなる。
「本来博麗の巫女の使命はたった一つしかありません。そして歴代の博麗の名を冠するは例外に漏れず、その使命を全うしてきました」
「歴代の、巫女……!?」
そこでようやく俺は感づく。
考えが及んでいなかった。人柱が必要だったから霊夢が選ばれた訳じゃない。博麗の巫女が人柱に必要なんだ。霊夢じゃなればならない。だとしたら、もう、霊夢が『博麗霊夢』になったその時から……
「博麗の巫女は、そもそも大結界を維持するための人柱として選ばれ、育てられた者なのです」
「ふざけるなッ!」
俺はタンプラーを投げ捨て炎越しにリボルバーを突き付けながら言う。もし大刀が折れてなかったら、反射的に切りかかっていたかもしれない。
俺は震える指でトリガーに、ゆっくりと力を込める。トリガーの遊びは一切ない。あとほんの少し力を込めれば引き金が降りる状態だった。
「結界を維持するための人柱? なんでそんなものがいるんだよッ!? わざわざ博麗の巫女だなんて祭り上げてまで!」
「……ただの人柱じゃありません。大結界を維持するのには、相応の霊力と結界を操る技術が必要とされます。そして何より、人間でなければならない。人柱になった者はその命数全てを注ぎ込んで大結界を……ひいては幻想郷を存続させるのです」
つい荒くなる俺の口調に反比例して、紫さんは淡々と丁寧に説明を続けていく。それが逆にますます神経を逆撫でた。
「人を取っ替えの効く部品の様に言うなッ! 女の子一人犠牲にしてまで……そこまでして守らないといけないものなのか、ここはッ!?」
「その言葉を貴方が出会ってきた者達の前で言えるのかしら? 貴方は彼女達に消えていなくなれと言うの?」
「ぐっ……」
紫さんの正論に、俺は何も言えなくなる。
そんなの……言われなくともわかっている。俺は、歴代の博麗の巫女の犠牲のおかげで沢山の人と出会えたのだろうさ。魔理沙と、フランちゃんと早苗と火依と妹紅さんとこいしとぬえと……霊夢と。
そしてこの幻想郷で生きる、人ならざる者達の為に、霊夢が人柱にならないといけないことも、わかっている。わかっている! でも、納得出来るわけなかった。
「どうにも、ならないんですか……?」
「……短期間なら人柱なしでも私達で維持は可能よ。けれど、あくまで数日。それまでに人柱を捧げ封印を行わなければ博麗大結界は崩れるわ。そして、それが出来るのは……博麗の巫女しかいない」
……そうなれば、幻想郷で生きる妖怪、妖精、神々といった人ならざる者達は存在を維持出来なくなる。実質の死だ。
幻想郷の命を、霊夢の命で繋ごうというのか。そんなの酷過ぎる。歪んでいるじゃないか。あんまりじゃないか。理不尽過ぎるじゃないか。でも、一番酷いのは……
俺は銃口を降ろし、地面を見つめる。足元にはタンプラーの中身がジワリジワリと広がっていた。それを無感情に眺めながら、呟く。
「俺のせい、ですか?」
「……それは」
「俺が幻想郷に来たことで、博麗大結界は崩壊しかけました。もしそのことがなければ、霊夢は人柱にならなくて済んだんじゃないんですか?」
そう尋ねると、紫さんは目を見開いて押し黙ってしまう。そしてしばらく間を空けてから顔を伏せ、ダウンジャケットの襟あたりに顔を埋めた。
だが何も言わない紫さんが、全てを物語っていた。
「それだけじゃない。今回のことだって、俺が霊夢に余計なことを言わなければ……」
今になってようやく、レミリアさんがここに導いてくれた理由がわかった。魔理沙が時間のループ……常世の幻想郷を作ったのは、きっと霊夢のためだ。
幻想郷の時間が巻き戻れば、結界の崩壊が起こることはない。その間に魔理沙は霊夢を救う方法を考えているのだろう。
だが、俺はそれを邪魔しようとしている。多くの人達を巻き込んでまでして。このままじゃレミリアさんが見た運命の通り、俺が幻想郷を滅ぼす可能だって……
「いいえ、余計なことなんてこと……ないわ」
くぐもった声。焚き火の音にも負けそうなほど小さかったが、それは確かにはっきりと聞こえた。
紫さんは静かにレジャー用のチェアーから立ち上がると、鋭い瞳で俺を見下ろしてくる。
「思い上がらないで、貴方が全ての原因なんてあり得ないし、人柱になるとわかっていながら博麗の巫女になったのは霊夢の意思よ」
「だが、それでも俺が居なければ……」
「そうね、確かにあの子は貴方の言葉で決心したのかもしれない。けれど……それでも選んだのは霊夢。勝手に自分のせいだと思い込んで、あの子の決断を奪い取らないで頂戴」
凄味のある紫の瞳に睨まれる。が、紫さんはすぐに表情を和らげる。そして、ダウンジャケットを脱ぎながら早苗の元に近付いていく。
「……もし貴方が霊夢に対して贖罪を臨むというなら、霊夢の願いを叶えてあげなさい。それが霊夢と、貴方の選択した結果に誠実でいられる唯一の方法よ」
「そんなこと……」
「出来る、いや……もう、しているわ。だから貴方は早苗を倒した。輝星北斗は、霊夢が人柱にされると聞いてなお、彼女が望むまま異変を解決することを選んだのよ」
「……ッ!」
頭に殴られたかの様な衝撃だった。だが、同時に飛び出ていた釘が綺麗に収まった様な納得も感じていた。
そう、か……そうだ。あの時、俺は止まらなかった。風花の中でした約束が、今にも溶けて消えそうな儚い表情が、唇から伝わってきた微かな熱の残滓が、走馬灯の様に過ぎったのだ。
きっと霊夢はこうなるとわかっていたのだろう。口から笑いの混じった咳が出る。なんだよ……それじゃあ、本当に呪いみたいじゃないか。
「選んでいたのか、俺は。頭の中ではこんなにも納得出来てないのに……」
俺は背後の幹に背中を預けながら呆然と赤く染まった湖を見つめる。
しばらくそうしていると、紫さんは早苗にダウンジャケットを羽織らせ両手で抱え上げた。その背後には既にスキマが開いており、その中から無数の目がこちらを見ていた。
「まあ、魔理沙はまだ倒されていないし、考え直す時間はあるわ。けれど、今の霊夢が貴方に裏切られたらどうなるか……それだけはよく考えなさい。それじゃあね」
「一つ、聞いていいですか?」
身を翻しスキマに入ろうとする紫さんを、背中越しに呼び止める。一つ、素朴な疑問があった。別に重要なことじゃないかもしれない。だが、俺はそれを聞かないと……ここから動けそうになかった。
「紫さんは、最初時間ループに肯定的だった。なのに今はこうやって俺に話をしてくれた。貴女は霊夢と魔理沙……どちら側の味方んですか?」
「……私は勝った方の味方よ。幻想郷の住人達が血を流しながら得た答えこそ、私の願いだもの」
答えが耳に届いた時には、もう紫さんはいなかった。いつの間にか焚き火も消えていた。俺は生乾きの袖に触れながら……白い息を吐く。
「……卑怯だな」
呟きは闇の中に溶けて消える。誰にも聞かれたくない台詞ではあった。
……急ごう。きっと霊夢はもう紅魔館に着いている頃だ。俺は暗い森から上空に飛び上がる。目前には紅い月に照らされた紅魔館が迫っていた。