東方影響録   作:ナツゴレソ

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110.5 現実逃避の奇跡

 先まで波立っていた湖面に元の冷たい静寂が帰ってくる。センパイが逆さのまま、夜の水底に沈んでいく。私はその姿を上空から目に焼き付けていた。

 この身体の内側から湧き上がる様な怖気には憶えがある。学生時代の時だ。センパイが屋上の縁に座っていたのを見た時だ。必死に否定していたけれど……センパイは今にも飛び降りてしまいそうだった。

 あの時の恐怖は今でも鮮明に憶えている。けれど、あの時と今じゃ状況が違う。昔は私がセンパイを止めたのだけれど、今は……私自身が手を下していた。

 

「セン……」

 

 たまらず湖に手を伸ばすけれど、その指先があまりに震え過ぎていて……すぐに引っ込める。

 ……これでよかったんだ。真実を伝えずに止めるには、こうするしかなかった。これで私は……霊夢さんとの約束を守ることができる。そして時間がリセットしてしまえば、センパイは生き返る。これで……今は、これでいいんだ。

 

「ッ!!」

 

 私は真横へ向けて力任せにお札を放つ。巨大な光弾となったお札は何処に当たるでもなく、遠くで霧散する。けれど、私の行き場のないこの気持ちはなくならなかった。

 

「ッ……ごめん、なさい。センパイ……ッ!」

 

 つい懺悔の言葉が口を突く。頬を涙が伝っていくけれど、強張った顔を溶かすには熱量が足りていなかった。

 本当にこれでよかったの? 霊夢さんの身勝手な約束を律儀に守るために、大好きなセンパイを自分の手で酷い目に合わせて。もっと誰もが幸せになれる様な選択肢があったんじゃないのか。私が泥を被ってしまえばそれで丸く済んだんじゃないか。

 後悔ばかりが止め処なく浮かんできて、背中にのし掛かっていた。

 

「でも、それでも私は……」

 

 霊夢さんが私に話してくれた、あのささやかな願いだけは破りたくなかった。私は天上の赤い月を見上げる。

 ……あの日も綺麗な月が出ていたっけな。秋の中頃、キメラ異変が起こった日。センパイがバケモノになり、火依さんの依り代だった封魂刀が砕け、霊夢さんが空を飛べなくなった、あの日。

 

 

 

 

 

「私は……北斗のことが好きよ」

 

 月下の縁側、霊夢さんは私を見つめながらそう言った。月影に隠れてどんな表情をしていたかはわからなかったけれど……その声音は穏やかだった。

 私は寝間着の裾を握り締めながら、いろんな思いの篭った一つの息を吐いた。

 

「ん、知ってました」

「言うじゃない早苗。私自身ですらここ最近気付いたのに。そんなにわかりやすかった?」

「そういう訳じゃなくて……勘というか、予感です」

 

 私はこめかみを指しながらウィンクしてみせる。前から霊夢さんと私は好みが似ている気がしていた。センパイはお節介焼きのお人好しだけれど、こと自分に関しては無頓着な節がある。

 不死の件に、キメラの件……初めて守矢神社に来た時だって、危ない橋を渡ってきた癖に何もなかったかの様に平然としていた。

 きっと霊夢さんはセンパイのそういうところを、放っておけないタイプだ。私とまったく同じ。霊夢さんも見る目ないなぁ、と内心で笑っていると……

 

「けれど私は、もうすぐ北斗と一緒に居られなくなるわ」

 

 目を逸らした一瞬、霊夢さんの不意の一言に胸を貫かれる。私はポッカリと空いた胸元のまま、自分の指先を眺めていた。処理出来ない。頭がフリーズしていた。

 

「一緒に居られなくなるって、どうして……」

「そのままの意味よ。私はもうすぐ幻想郷から居なくなる」

 

 ようやく搾り出した単純なオウム返しも、追い討ちの一言で続かない。

 居なくなるって……霊夢さんは博麗の巫女でしょう? 妖怪退治に、博麗大結界を維持する役目だってあるのに。

 ううん、そんなこと関係ない。霊夢さんは幻想郷の住人だ。何処にも行く必要ないじゃないか。

 

「……これは天魔に聞いたんだけれど、歴代の博麗の巫女には、博麗大結界の維持、妖怪退治以外に重要な役目があるらしいの」

「役目……? 後継の博麗の巫女を探す、とかですか?」

「それは紫の仕事。私の役目は……人柱よ」

「ひと……」

 

 人柱。いわゆる人身御供、生贄だ。霊夢さんが、生贄? 何かの冗談でしょう?

 確かに諏訪にも似た伝承はあるけれど、あくまで伝説だ。いくら幻想郷でも、そんな馬鹿馬鹿しい世迷言を真に受ける人なんて……

 そもそも人柱は重要な建物や天災の起こる土地に立てられるものだ。そんな場所、この幻想郷にある訳ない。じゃあ、霊夢さんは一体……

 

「一体、何の生贄になるんですか?」

「それはアンタに関係ないことよ。そもそも人柱の件だって紫や天魔から口止めされているもの。このことを知っているのは、ごく一部の奴だけよ」

 

 霊夢さんは終始落ち着いた口調で説明していく。その無機質的な対応が、霊夢さんが死ぬという事実を薄めている様に思えて……

 私は霊夢さんの頬を叩きたくなる衝動を必死に抑える。代わりに握り締めた拳の中で、掌に爪を立てた。

 どうしてそんなに平然としているのか理解出来ない。もっと嫌だと叫べばいいのに、悲しそうにすればいいのに。そんなの、死にたい死にたい言っている北斗センパイと何ら代わりないじゃないか。

 ……ただ、霊夢さんの気持ちも境遇も何も知らない私が勝手に抱いている苛立ちを、当の本人にぶつけるのは道理が通らないのもわかっていた。だから自分から私は怒りをひた隠しにしながら、尋ねる。

 

「あの……センパイは?」

「知ってる訳ないじゃない。アイツなら外の世界に連れ出してまで阻止しそうじゃない。そんな三流ロマンスまっぴらゴメンよ」

「……ですよね。センパイは、特にこういうのは許せなそうですし」

 

 何なら霊夢さんの為なら幻想郷を滅ぼすまでしそうだわ。二人の愛で世界が終わるなんて夢見がち過ぎだけれど……ちょっとだけ羨ましく思えてしまうのは、流石に幼稚かしら。

 なんて現実逃避的に考えていると、隣の霊夢さんが両手を後ろに付いて、足の爪先を伸ばしながらバタ足を始めた。

 

「それにアイツ……北斗と火依との時間をもっと大切にしたいの。あくまで普通の、いつも通りの時間を」

「………………」

「朝、北斗が朝食を作る音で起きて、お寝坊さんな火依を起こす。朝食を食べて、面倒臭い鍛錬と祝詞を終えたら掃除と洗濯を手分けしてするの。で、疲れたら三人で縁側に座って、干された洗濯物と布団を見ながら、煎餅片手にお茶を飲むの……」

「霊夢、さん……!」

 

 月を見上げながら微笑む霊夢さんの頬に涙が伝う。その時ようやく、これまで隠されていた彼女の感情が露わになる。

 当然だ! そんな時間が何より幸せなんだって私にもわかる。ずっと羨ましく思っていた。

 霊夢さんと火依さんと……センパイ。まるで家族みたいな三人に憧れていた。もし私が霊夢さんと変われたら、きっと毎日幸せ過ぎるんだろうな、なんて虚しい妄想だってした。だから、わかる。代わり映えがないけれど羨むほどに特別な日常を、霊夢さんは望んでいるのか。

 ……だったら、博麗の指名なんて捨てて何処かへ逃げだしてしまえばいいのに。そうすれば私だって、すっぱり諦められるのにり

 しばらく私達は押し黙って動かなかった。風情ある秋の虫の音も、煩わしく思えて仕方がない。静かにしてほしい。何を言っていいか、どうすればいいか、何も思いつかないじゃない。

 ……結局、先に口を開いたのは霊夢さんだった。

 

「ねえ、早苗。二つだけお願いがあるの」

「……なんですか?」

「このことは誰にも……特に北斗にだけは言わないで。あと、私がいなくなってから北斗と火依の世話、よろしくね」

 

 目の前が一瞬真っ白になる。気付けば、私は霊夢さんの首元を握り込んでいた。額を胸元に叩きつけ、嗚咽する。もう我慢出来なかった。あまりにも自分勝手で、自暴自棄、自己陶酔すぎる。

 まるで自分が、悲劇のヒロインだと言いたげの諦めが、気に入らない。気に入らない気に入らない気に入らないッ!!

 

「そんなの、出来るわけないじゃないですかッ! あそこは霊夢さんの居場所です! それを、そんな簡単に……!」

「……貴女しか頼めないの。きっと、私なんかより北斗が好きな、貴女以外に頼めない」

「嫌ですッ!! こんなの……私は望んでない! これじゃあ私は、貴女の代用品になるだけじゃない! 私は、私の思いでセンパイを振り向かせたかったのに、そんな、譲られたくなんて……!」

 

 私は、霊夢さんにしがみついたまま泣き崩れてしまっていた。もう頭の中がグチャグチャで、何がどうすればいいのかわからなくて、八つ当たりの様に泣きじゃくるのを止められなかった。

 

「……ごめんなさい」

 

 そんな最中、聞こえてきたおざなりな謝罪が更に私の頭の中をかき混ぜた。 

 

 

 

 

 

 一際強い北風が湖面に波を作りながら、霧を吹き飛ばしていく。センパイはもう見えなくなっていた。それでも湖の底から目を離すことは出来ない。半ば罰を受ける様な思いで、この場に立ち尽くしていた。

 ……霊夢さんがいつ人柱にされるかわからない。けれど、時が進みさえしなければその時はやってこないはずだ。

 だから魔理沙さんは時のループを作り、その中で霊夢さんを救う手立てを探していた。どこで知ったか知らないけれど、魔理沙さんも霊夢さんに人柱になってほしくないのだろう。

 だから、私も手を貸している。けれど……

 

「中途半端だな、私」

 

 あべこべだとも思う。結局私は約束通り霊夢さんの秘密を守り切りながら、霊夢さんの代わりになる事を拒んでいる。大好きな人を殺めてまでして、一体どうなりたいんだろう?

 

「……答えは、出てるよね」

 

 私も日常を手に入れたいんだと思う。霊夢さんの代わりなんかじゃない。誰も欠けてない、完璧な、毎日が……

 

 

 

 不意に水面に細かな波紋が浮かぶ。振動が……紅魔館の方で地響きがしている。もしかしたら、霊夢さんが紅魔館に辿り着いたのかもしれない。

 

「止めないと、私が」

 

 どうせ、世が明けたら何もかも忘れてしまうんだから、余計なことは考えなくていい。私は大幣を握り直してから、紅魔館に飛ぶ。

 が、突然目の前を遮るように激しい水飛沫が上がる。私はすぐさま後ろに飛び下がり、袖で顔を拭う。

 

「……そんな」

 

 滲む視界の向こう、湖の中から飛び上がってきたのは、濡れ鼠になった北斗センパイ。拳大程の七つの結界を数珠の様に右腕に纏わせている。否定結界。何度も練習に付き合ったから見間違えるはずもなかった。

 センパイは数度咳をしてから荒い息を整えると、充血した瞳が私を写す。

 

「……まだ、終わってない」

「セン……パイ……」

「たとえ霊夢が、嘘をついていたとしても……俺と霊夢がした約束は、本物だ。だから、叶えるまでは……!」

 

 そう言いながらセンパイは重そうな身体で宙を蹴り、ゆっくりと私に近付いてくる。いや、違う。その視線は、目の前にいる私に向けられていない。わかる、わかってしまう。センパイは、ずっと、約束の彼女を見つめていた。

 ……ねぇ、なんで……私じゃないの?

 

 

 

「『開海「モーゼの奇跡」』!」

 

 宣言と共に私はセンパイの目の前に転移、ありったけの霊力を込めた大幣を振り下ろす。ギリギリで右腕の結界に受け止められるけれど、その衝撃は確実にセンパイに届いていた。青白い閃光の中、センパイの口の端から血が溢れる。

 それでもその黒の瞳は私を写していなかった。それが、私には我慢できなかった。 

 

「やめてください! この時間が終わったら、霊夢さんは人柱に……死んでしまうんですよ!」

「なっ!?」

「ッ!?」

 

 自分の口から飛び出た言葉に、自分で絶句してしまう。言って……しまった。最悪だ、私……! 結局、霊夢さんとした約束を全て破ってしまった。

 ……センパイを止めるだとか、理的な理由じゃない。ただ、霊夢さんに嫉妬した。まるで物語のヒロインみたいな扱いが気に入らない。そんな、子供染みたエゴ。

 そんなことをしても、彼女に向けられた視線が、私に向けられることはないって、わかっている筈なのに……一度口を出したが最後、もう言葉は止まらなかった。 

 

「センパイは霊夢さんを助けたいんでしょう!? いずれ魔理沙さんが霊夢さんを助ける方法を見つけます! だから今は……」

「………………」

「明日にしたらダメなんです! お願いします、もう……止まってくださいッ!」

 

 全身の霊力全てを大幣に流し込む。溢れたエネルギーが、霧の湖の湖面を真っ二つに破る。なのにセンパイは右腕の結界だけで、それを防いでいた。

 届かない……! どうして!? 私の全力なのに……これでもセンパイは私を見てくれないの!? もう嫌だ。律儀に恋敵の願いを守るために好きな人に泣きすがって、戦って、それでもセンパイは私を見てくれなくて……

 私はどうすればよかったの? どうしたかったの? 答えはないとわかっていても叫びたくなる。

 

 

 

 もう、いい。やり直してしまえ。何もかも全部……ゼロに返ってしまえばいい。

 

 

 

 黒い思考が脳内を染め上げた瞬間、全身を痛みと虚脱感が襲う。霊力の放出が止まらない。手の中の大幣も弾け飛んでしまった。指先一つ動かせない。このままじゃセンパイを巻き込んだまま自爆……無理心中になる。

 これが私の望み……望んだ奇跡だと言うのか。酷い……酷過ぎる。これじゃただの……現実逃避じゃないか。

 

「それでも、俺は……ッ!」

 

 閉じようとした視界に眩い光が差す。気付けば私の周囲を、巨大な球体群が埋め尽くしていた。それは溢れ出していた霊力を打ち消しながら膨張していき……

 

 

 

 そこから全てが真っ暗になる。最後に感じたのは冷たい水の感触と、痛いほど強く抱きしめる腕の温もりだった。


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