太陽が山の向こうにゆっくりと向かっていく。紅い霧と相まって、赤みの強い夕暮れが眼前に広がっていた。
あの太陽が姿を隠したその時、始まる……幻想郷の在り方を決める戦いが。
決戦の直前だ。紅魔館前には数日前から集まっていた妖怪や妖精メイドの軍勢が待機している。里の前に敷かれた陣の中も、みんな慌ただしく準備をしていた。
そんな中、俺はそんな喧騒をぼんやりと聴きながら里前の陣の上空に浮かんでいた。
「……はぁ」
俺は数え始めて八度目の深呼吸を行う。だが緊張を解くためのルーティンを繰り返しても、体の震えが止まらなかった。
取り返しの付かないところまで来てしまった。そんな今更どうしようもない恐怖が俺の背を逆撫でていた。
現代……とりわけ日本は戦争と無縁な場所だ。ドラマや映画、あるいは海外のニュース映像……俺にとって戦争は画面の向こうの光景でしかなかった。
直前になって、事の重大さを理解した。戦争を俺が望み、仕掛けた。その事実が今になって重くのしかかってきていた。
そんな情けない俺の肩を、小さな手が叩く。振り向くと、そこには霊夢と火依がいた。
二人とも真新しい衣装を着ている。以前二人で出かけていたが、どうやら霖之助さんにこれらと俺の分の服を頼みに行っていたようだ。
「大将がこんなところにいていいのかしら? やることいっぱいあるんじゃない?」
巫女服姿の二人に見とれていると、霊夢が相変わらずの減らず口を零し始める。いつもなら皮肉の一つや二つ返すところだが……俺は力なく首を振った。
「……やることなんて何もないよ。戦争素人な俺より神子さんや文の方がしっかり纏めてくれるって」
「そんなこと求めてないわよ。私は、アンタが焚きつけた奴らに何か言うことはないのか、って聞いてるの」
「………………」
「下には霖之助さんとか妹紅とかいたわよ。一言くらい、気の利いた言葉を掛けてもいいんじゃない? 私も含めてね」
霊夢はそう言うと、腰に手を当て片目をつむる。まるで子供に謝り方を教える母親のような態度だ。
何か言うことって……何があるのだろうか?
謝る? 何を? こんな大事になってしまって申し訳なかったと? 今更になって?
無意味だ。そんなことを言っても呆れられるだけだろう。文も、神子さんも、幽々子さんも、妖夢も……既にたくさんの人を巻き込んでしまった。もう後戻りは出来ない。
彼女らに報いるために俺にできるのは……彼女達に後悔させないようにすることだけだ。
「……必要ないよ。後は結果を勝ち取るだけだ」
首を横に降りながら答える。
そうだ、言うことなんて何もない。後悔なんて何の意味もない。恐れる必要も……ない。
気付けば身体を支配しようとしていた震えが止まっていた。確かめるように右手を握り締めていると、火依が顔を覗き込んでくる。
「もう大丈夫?」
そこでようやく気付く。どうやら緊張が顔に出ていたようだ。
……だから霊夢はあんな発破をかけるようなことを言ったのか。まったく、二人には頭が上がらない。
「二人のおかげでね。ありがとう」
「どういたしまして」
「アンタは妙なところで心が脆いもの。致命傷になる前に指摘しにきただけよ」
お礼の言葉を言うと火依は素直に、霊夢は斜に構えた様子で頷きを返してくれた。
そんな二人に小さく微笑み返してから、沈んでいく太陽の方に向き直る。真っ赤な西日が目に痛い。だが俺はそれから目を逸らさなかった。
使命感に駆られたように、その時が来るのを見守った。
交わす言葉も少なく、三人で夕日が沈むのを待っていると陣の方から文が登ってくる。普段の風のような高速飛行じゃない、緩やかな速度でこちらに向かってきていた。
「あやや、お三人方こんなところにいたのですね。もう下では準備が終わっていますよ。後は、北斗の合図を待つばかりです」
「合図って……別に俺じゃなくていいだろ。あと口調はいつものでいい」
「さいで……他の雑務は神子さん達に押し付けてるんだから、それくらいやってくれないと困るわ。何か派手なことをしてくれたら勝手に盛り上がるから……ほら、もう夜になるわよー?」
「その派手なことをするのが苦手なんだが……」
文の無茶振りに困った俺は、視線を彷徨わせた末に眼下へ目を向けた。
……そういえば陣地の喧騒が収まっている。紅魔館前の陣からも、里からも、物音一つしない。幻想郷全体が静寂に包まれていた。
太陽はもう僅かに頭を出しているだけ。雪の積もった山も赤っぽい橙色から赤紫色に染まっていた。薄っすらとだが月も見えつつある。
……もうすぐ、夜が降りてくる。
俺は冷たい息を思いっきり吸い込んでから、腰のホルスターから拳銃を抜いた。蓮根のような回転式のシリンダーを開けるが当然、弾丸は入っていない。込めるのは……
「『現想「夢葬回帰」』
7つの否定結界。それを弾丸サイズにまで収縮してシリンダー内に込める。手首を素早く返し、掌で押し込むと小気味好い金属音と共にシリンダーが収納された。
一連の動作を終えると、ずっと黙っていた霊夢が尋ねてくる。
「北斗、それって……」
「『否定弾』って呼んでる。まあ、否定結界を弾丸として使ってるだけだけどね。威力も抑えてる……つもりだ」
「つもり、ねぇ……? 結界を豆粒ほどの大きさにするなんて考えたことなかったわ。けれど、一体それをどうするつもり?」
「弾は込めた。なら後は撃つだけさ」
銃口をやや上向きに向け、両手で構える。特に狙いはつけない。つけても意味ないからな。少なくとも、この一発は。
日没直前の、蝋燭の最後の炎のように眩い光が一瞬だけ俺達を照らし、消えた。
「……北斗」
背中を押すように名前を呼んでくれたは火依。少し声が震えていたような気がした。気持ちはわかる。俺だって……怖いさ。だが、もう手は震えない。
連続で六回トリガーを引くと、撃鉄音と反動が軽快なリズムを刻む。だが弾は飛んでいかない。マズルフラッシュと共に銃口の先で球弾が風船みたく膨らんでいくだけだ。
これは俺が始めたことだ。ならば引き金を引くのは俺であるべきだ。なら……
「『貪狼「一天雨弾」』!」
スペルの宣言と共に七発目のトリガーを引く。瞬間、凄まじい跳ね上がりを起こしながら球弾が亜音速で飛んでいく。
放物線を描きながら飛んで行ったそれは、空中で二つに分身する。更に二つが四つ、四つが八つと倍々ゲームの様に増えていく。そして……
「……確かに派手なことをしろとは言いましたが、先制攻撃をしろとは言ってませんよ」
「これしか思いつかなかったんだ」
珍しく文が引き気味に呟いたその時には、一発の球弾は千発近い弾幕に変わっていた。それらはゲリラ豪雨のような激しさをもって紅魔館前の軍勢に降り注く。
静まり返っていた幻想郷に鬨の声と怨嗟の叫びが上がる。そしてそれを皮切りに紅魔館側の陣地から土煙の如く敵が押し寄せて来る……!
「さっきので北斗がいるのがバレたみたいね。飛べる有象無象が突っ込んできてるわよ」
「わかってる!」
俺は霊夢に急かされるがまま、すぐにシリンダーを開き、否定弾を込め直す。
さっきのをもう一発撃てれば相手の陣地の混乱は相当なものになる。もしかしたらあっさり崩壊させることもできるかもしれない。
魔理沙達との交渉で、この戦争の間はお互いスペルカードルールを守らせる様に取り決めている。が、俺達も魔理沙側も寄せ集めの軍勢だ。いつまでお行儀よく弾幕ごっこに付き合ってくれるかわからない。出来るだけ早く終わらせたい、そのためなら多少荒っぽいことだって……
「とことんやってやる! 『貪狼「一天雨弾」』!」
気合いを入れ直し、再度球弾を打ち出す。
このスペルは、以前より使っていたスペカ『ローレンツ・バタフライ』と『スロー・ザ・ストーン』の性質を合体させたものだ。敵との距離が離れれば離れるほど分裂回数が増え、弾幕の層は厚くなっていく。対個人戦では使いづらいが……こういった集団戦では最大限の威力が出せる!
放った球弾は向かって来る妖怪を撃ち落としていく……はずだった。
「なっ!?」
「ちょっ」
霊夢と火依が同時に声を上げる。俺の放った弾幕は敵に当たる前に巨大な閃光の壁によって吹き飛ばされいた。壁? 違う、あれはきっと……光線の束が壁のように見えただけだ。
俺は一瞬呆然としてしまう。
「今のは……マスタースパーク、なのか? あの一瞬で何発撃ったんだ?」
「わからないわ。けれど……以前の魔理沙じゃあんなこと出来なかったはずよ」
霊夢も珍しく動揺した口調で言う。今のは俺の攻撃を防ぐために使ったが、あれを地上の軍隊に撃ち込まれていたら……壊滅していただろう。
思わず息を呑んでいると、文がスペカ片手に声を張る。
「詮索してる暇ないわよ! 『風符「風神一扇」』!」
真横を吹き抜ける烈風に我に返った俺は、銃をホルスターに仕舞い腰の刀を構える。否定弾を補充しておきたかったがそんな暇はない。
俺は文の風撃を掻い潜って高速で迫って来る黒い影……その三体の内一体へと、居合抜く。
「ぐぅ!?」
すれ違いざま呻き声と同時に、藁を切ったような確かな手ごたえが伝わってくる。
すぐさま振り向くと、烏天狗の男が錫杖を振り上げようとしていた。避けられない、刀が折れるの覚悟で受けようとするが、直後烏天狗の男の腕が止まる。霊夢の放ったお札が張り付き身動きを封じていた。
「ホント、いつまで経っても世話が焼けるわ!」
「いつまでも頼りなくて悪い、ね!」
俺は霊夢のお小言に自虐を返しながら、前宙からの踵落としで烏天狗を真下に吹っ飛ばす。そして小さく息を吐いてから刀を正眼に構え直した。
目の前に浮かんでいるのは二人組の烏天狗の男。片方は片側の羽の三分の一がない。どうやら俺が切り落としてしまったみたいだ。
「文、なんで天狗が攻撃してくるんだ? 裏切り?」
「やるならもっと致命的なとこでするわよ。あれはただのはぐれ天狗。要は人間社会にも天狗社会にもあぶれ者はいるってことね」
そう言いながら文は辟易とした溜息を吐く。それに反応したのははぐれ天狗の一人だ。
「はっ、天狗の誇りを忘れて人間とつるんでる女がよく言う。今だってそんな馬の骨に手綱を握られて……この雌犬が」
「プライドだけは一人前ですねぇ……」
文の顔が一段暗くなる。心無い悪口自体はなんとも思っていないようだが……さながら身内の恥を見られたかのような陰鬱な表情をしていた。
「どいつもこいつも実力の伴わない奴らばかりだから私が出世してしまう。一丁前に大口叩くなら私を倒してからにして欲しいですね」
「……そのためにここにいる! どうせ何もかも元通りになるんだ。貴様らの首を取り天魔のやつに突き出して」
「『突符「天狗のマクロバースト」』」
話を聞けたのはそこまでだった。黒翼を広げた文が喋り散らしていた烏天狗に蹴りを食らわせる。暴風を帯びたその一撃は烏天狗の男を瞬く間に彼方へ吹き飛ばす。
「なっ……こいつ!」
あまりに唐突で隣の烏天狗も一瞬ほうけていたが、すぐに立ち直って文に向かって錫杖を振るおうとする。が、人間の俺から見ても遅い。
「『剣伎「紫桜閃々」』
連続の縮地で踏み込み、渾身の一閃で烏天狗の身体を錫杖ごと斬る。手応えは十分。刀を鞘に収めながら振り向くと、斬られた烏天狗の男が落下していくのが見えた。
「……余計なお世話、だったかな?」
俺は文の様子を伺いながら尋ねる。しかし彼女はいたって平然としていた。背中の翼を大きくはためかせ、クルリと一回転してから朗らかに笑った。
「まさか! むしろ清々したわ。彼奴らも人間にこっぴどくやられれば考え直すでしょ。ま、私も負けたから大口叩けないけれど」
「……じゃあ文も色々考えたのか?」
「そういうこと聞くのは流石にどうかと思うわよ」
そう言うと文は腕を組んで唇を尖らせた。む、確かに無神経だったかもしれない。慌てて謝ろうとしたその時、ゾッと背中に怖気が走る。
「ッ! 北斗!」
後ろからの霊夢の呼びかけに身体が勝手に反応する。ほぼ無意識で障壁を張った瞬間、それに紅い槍が突き刺さった。
苛烈なエネルギーの迸りが、肌を焼き眼球の水分を蒸発させる。圧倒的な威力だ。
「ぐ……! これは……」
受け止めきれない! 咄嗟に障壁の角度を変え、紅の槍のベクトルを横に逸らす。刹那、まるでコンクリートの壁に無理やり擦り上げられたような衝撃と共に障壁が砕ける。
危なかった……あと数秒判断が遅れていたら胸元を抉られていただろう。
俺は僅かに防ぎきれなかった指の先の傷を舐めながら、月を見上げる。そして思わずニヤついてしまう。
「……相変わらず派手好きだなぁ」
紅い月をシルエットに浮かぶのは蝙蝠羽の小柄な少女。そして、彼女の足元には隊列を組んだ妖精メイド達。
……わかっていたことだ。必ず、彼女とは戦うことになる。彼女が紅魔館の主人である限り、彼女が俺との戦いを心待ちにしてる限り。だが、これほどまで堪え性がないとは思っていなかった。
「この夜を待ちに待ったわ。まるで逢瀬の時を待ち焦がれる少女のようにね」
そう、これは避けて通れない必然……彼女の言葉を借りれば運命、なんだろう。
俺は拳銃に否定弾を込め直してから、今日九度目の息を吐く。そして……永遠に紅い幼い月、レミリア・スカーレットに向けて右手を伸ばした。
「それじゃあ……一曲踊りましょうか。レミリアさん」
「一曲なんて言うなよ。こんなに月が紅いんだ……今夜は夜が明けるまで踊りましょうか」