光陰矢の如しとは言うけれど、時が巻き戻っても時の流れる速度は変わらないようだ。
元旦の夜に行われた協議から早三日。気が付けば魔理沙が宣言した決戦の日の朝を迎えようとしていた。
「んー」
私は鳥居の向こう、雪化粧をした妖怪の山をぼんやりと眺めていた。もうすぐ朝日が昇りきりそうだ。
背中の翼を広げ、背伸びをする。澄んだ空気の匂いが肺を満たしていく。赤い霧が出てはいるけれど、朝の空気は清々しかった。
ちなみに幽霊だから日に弱いなんてことはない。変化といえば足元の影が無くなったくらいだ。
「さて、どーしようかな」
普段なら北斗や霊夢より遅起きなのだけれど、今日は早く目が覚めてしまった。おかげでやることがない。けれど、二度寝する気にもなれなかった。
手持ち無沙汰で実に困る。瓦屋根を歩きながらぼんやり考えていると……
「なら、私とお話してくれないかしら。火依?」
独り言に返事があったものだから、私は思わず飛び上がってしまう。辺りを見回すと、いつの間にか紫のドレスを着た紫が私の隣に立っていた。
「珍しいね。紫が霊夢でも、北斗でもなくて、私に用なんて」
「特段驚くことはありませんわ。今は逢魔時。草木も眠る妖怪の時間。なら、ここにいて話をするべきは貴女と私でしょう?」
「難しいこと言ってるけれど、つまりは北斗にも霊夢にも秘密の話がしたいだけなんでしょ?」
「……前から思っていたけれど、貴女ってシリアスな雰囲気を台無しにするわよね。まあいいけれど。その通りですし」
紫は珍しく胡散臭くない穏やかな笑みを浮かべながら、隙間からマグカップを取り出した。渡されるがまま手に取ると暖かさが伝わってくる。色からしてミルクコーヒー、かな?
そういえば今は冬だったね。完全な幽霊の身体になったせいか、私は気温の変化に鈍感になってしまっていた。単に温いだけなのかもしれないけど、マグカップから伝わる熱もあまり感じられない。
食事も取れるし、すり抜けも自由自在、私は比較的融通の利く幽霊だと思っていたけれど、季節を肌で感じられなくなったのは寂しい。
私はミルクコーヒーに口を付ける。甘さが少しくどい。北斗が淹れてくれるのは基本、甘さ控えめだから余計そう思えた。
「で、なんの話?」
「……ちょっとしたたわいもない昔話ですわ。けれど貴女……貴女達にとっては、とても大事な話になるかもしれない」
「………………?」
変な言い回しだ。紫はスキマ妖怪だけあって境界のない、曖昧なところはあるけれど……今の紫はどう伝えたらいいか迷ってるように見えた。
私は瓦屋根に腰を下ろし、紫の方ではなくほんのりと赤く染まった朝焼けの空を眺めながら呟く。
「聞かせてよ。二人に内緒の、二人に大事な話を」
「……きっと、貴女にも大切な話になりますわ」
微かな笑いと共に、視界の端で紫がもぞっと動く。横目で見ると、紫が体操座りのような格好で隣に座っていた。
「昔々幻想郷がまだ、幻想郷と呼ばれていなかった頃。一匹の妖怪と一柱の神様、そして……一人の人間がいました。けれど妖怪も神様も、この世から消えかけていました」
「人間が、妖怪や神様を信じなくなった?」
「ええ、科学が人間の信仰と畏れを忘れさせ始めた、そんな時代。一匹の妖怪は自分が消えるのが怖くなった。そこで妖怪は、神様の力を利用することにした」
「利用……」
不穏な台詞だ。私は少し怖くなって両手でマグカップを握りしめる。そんな私の気持ちを察してくれてるのか、紫は少し間を取ってから、再び口を開いた。
「……これはあくまで昔話。今では本当にあったかどうかも定かじゃない、埃の被った話よ」
「………………」
「続けるわ。神様は夢を現にする力を持っていた。そこで妖怪はその力を利用して、妖怪達の楽園を作ろうとした。神様を永遠と眠らせて、彼女の夢の中の世界で生きようとしたの」
「それって、もしかして……」
ううん、もしかしなくてもその楽園というのは幻想郷のことだろう。それじゃあ、今私達が生きてる世界は……一人の神様が見てる夢ってこと?
だとしたら私達は、一人の神様を犠牲で生きてることになる。あまつさえ、そのことを知りもせずに……
「結果として楽園は完成した。一柱の神様の犠牲で妖怪と彼女以外の神様の居場所は作られたわ」
「………………」
その、ひとりぼっちで幻想郷を夢見続けている神様のことを考えたら……可哀想だと思ったし申し訳ないとも思った。
けれど……その一人の妖怪を責める気にはなれなかった。だって、それが誰なのかわかったから。誰だってわかる。その妖怪は……
「ねえ、紫。その妖怪と神様は……友達だったの?」
「……さあ、どうかしら? きっとこんな酷いことをするのだから、知り合いですらなかったんじゃない?」
紫の投げやりな言葉。自嘲してるようでもあり、他人事のようでもあった。
私は思わず、意識して見ないようにしていた紫の顔を覗き込む。けれど偶然日の出に雲が掛かって、紫の表情を闇で隠していた。
「どちらにしろ、恨まれてるでしょうね。その妖怪は」
「紫……」
「昔話はこれで終わりよ。この話を、少しでも覚えておいて頂戴。そうすれば、貴女はきっと間違わないから……」
そう言うと紫はスカートのシワを直しながら立ち上がる。そしてクルリと一回転してから私を見遣った。そこにあったのはいつも通りの、明るく胡散臭い表情だった。
長い話になると思っていたのに、案外すぐ終わってしまった。本当に、子供に聞かせる昔話みたいだ。
紫はなんでこの決戦前……七日目の朝に、この話をしたんだろうか? 終ぞその理由に気付くことはできなかった。聞いてもはぐらかされるだけだろうし……
「さあ、妖怪の時間も終わり。もうすぐ北斗が起きるわ。私は……もう一度、眠るわ」
わざとらしい空欠伸を一つして、紫は逃げるようにスキマの中に入ろうとする。そんな彼女の背中に、私は一つだけ頭に浮かんだ純粋な疑問を投げかけた。
「そういえば……」
「ん?」
「最初に言っていた一人の人間は、いつ出てくるの?」
「……あぁ、人間? 彼女はねぇ」
スキマの中、紫がゆっくりと振り向く。今度も逆光の闇の中に隠れていたけれど……その疲れたような笑みは、はっきりと目に映った。
「この物語に登場しないわ」
その一言を残して、紫はスキマの中に消えてしまう。そして世界から音がなくなったかのような静寂がやってくる。
「……なにそれ」
残された私は雨降りの日のようなモヤモヤとした気持ちのまま、屋根の上からそっと飛び降りた。手の中のマグカップは、すっかり冷えてしまっていた。
「霊夢ー、背中の翼が通らないー」
「あーもう幽霊なら透過するなり何なりすればいいじゃない! ほら、後ろ向きなさい」
いつも通りの朝食を取り終えた私と霊夢は、霊夢の部屋で着替えをしていた。いつものポロシャツ、プリツスカートじゃない。この日のために霖之助へ注文していた特別製だ。
霊夢に手伝ってもらいながら服を着た私は、姿見の前で一回転してみる。
「おー」
巫女装束……というか、霊夢の服と構造の違い青い巫女服だ。翼の色と少し合ってない気もするけど、霊夢とお揃いなのは嬉しかった。
しばらく愉悦に浸っていると、霊夢が私の後ろに回ってきて両肩に手を置いた。
「まあ、似合ってるんじゃない?」
「ありがとう。霊夢も……なんか凄いことなってるね」
「褒め言葉じゃないでしょそれ。確かに私も派手過ぎるとは思うけどさ」
なんだかむず痒そうな表情で霊夢が頬を掻いた。
霊夢が着ていたのは赤のリボンとフリルが増量された巫女服だった。各部に金糸の刺繍も施されている。良く言えば神々しいけれど……ちょっと成金っぽいかも。
「ま、まあ、強そうには見えるよ? ラスボス感がある」
「最後にはやられちゃうじゃない私。ま、今日だけは負ける気がしないけれど」
霊夢はリボンで結んだ髪を払いながら、鏡越しに不敵な笑みを浮かべた。
少し前までの霊夢は、霊夢らしくなかったけれど……今日は私の知ってる彼女に近かった。少しテンションは高いかな。霊夢も霊夢なりに緊張してるのかも。
「霊夢」
「なに、火依?」
私は着替えを終え部屋を出ようとする霊夢を呼び止める。霊夢は振り向かないけど返事をしてくれた。その背中は私と同じくらい小さいのに私なんかより頼もしく見える。当然だ。霊夢は博麗の巫女なのだから。けれど……
「私は弱い妖怪だけど、絶対に役立ってみせるから」
以前私は霊夢に弱いと言われた。悔しかったわけじゃない。貶されて腹が立ったわけでもない。自分に価値がないような気がして、悲しかった。けれど……あの時の私と今の私は違う。
私にだって、居たいと思える居場所が出来たから。
「バカね。昔のことを引っ張り出して」
「霊夢……」
「アンタが弱くなかったことくらいもう知ってるわよ。北斗も私も何度も助けられたもの」
「……そうかな?」
「そうよ。だから……頼りにしてるわ、火依」
霊夢はそれだけ言うと、障子戸を開けて部屋を出て行ってしまう。
……そう、だよね。やっぱりあの時の私と今の私は違うよね。だって今の私は本当は霊夢が優しいって、知ってるもの。
私は霊夢に駆け足で追いついて、その背中に抱きついた。
二人で神社の表に出ると北斗と文、そしてチルノと大妖精がいた。
北斗は真新しい戦闘服を身につけている。相変わらずの黒づくめだけれど、霊夢の服と同じように金糸の刺繍が施されていた。もしかしたら何か特別な意味があるのかも。
文も天狗の正装を着ていた。こうやってたら真面目そうに見えるのにね。
さて、文がいるのはわかるけど、何で妖精二人が? 不思議に思っていると、私達に気付いたチルノが手を振ってくる。
「霊夢! 火依!」
「アンタ達ねぇ、悪いけれど今日は遊び相手になれないわよ?」
「ち、違います私達は……」
「アタイ達も戦うんだ!」
チルノと大妖精が声を挙げる。戦うって……確かに手を貸してくれるのは嬉しい。けど、二人が戦う理由なんてありそうにないのに……
「魔理沙が何やってるか、よくわからないけど……全然魔理沙に会えないもん! それに霊夢も北斗も火依も全然楽しそうじゃない! だからやめさせるんだ!」
「チルノ……」
霊夢が驚きの混ざった声音で呟く。
子供のような単純で、感情的な理由だ。けど……だからこそ、誰の理由よりも強くてまっすぐだった。
私達がチルノの言葉に感動していると、文が両手を叩きながら割って入ってくる。
「ささ、里前に陣を張ってます。そこで夜明けを待ちましょう! ここから忙しくなりますよー!」
底抜けに明るい文の声に私達は頷きを返す。そしてみんなが里に向かって飛んでいく中、私は一人赤い空に浮かぶ太陽を見上げた。
あの太陽が沈めば戦争が始まる。結果がどうなるかはわからない。けれど、せめて……悲しい結末にならないよう、心から願った。