「ねえ、北斗。聞いていいかしら?」
朝食を取り終えて食器を片付けていると、唐突に天子が後ろから話しかけてくる。こんな朝早くやって来たと思ったらわざわざ質問しにきたのか? 俺は家事の手を止めず、背中越しに応じる。
「俺が答えられることなら、それなりになんでも」
「そう。ならはっきり聞くけど、霊夢と何かあった?」
「えっ?」
俺は動揺のあまり皿を落としかけてしまう。
思わず天子の方へ振り向くと、天子は柱に寄りかかってどこから取ってきたのかわからない林檎に噛り付いていた。食べるなら頭の上に桃があるだろうに。
「なんでそう思うんだ?」
「……ん、霊夢の様子見たら誰でもわかるわよ」
俺が尋ねると、天子は咀嚼の合間にそう答えた。そしてシャリシャリと水々しい音を数度鳴らしてから、再び喋り出す。
「他人に興味を持たないアレが、北斗への接し方がわからなくなっている。まるで恋する生娘のようにね。それとももう生娘じゃなくなったかしら?」
「下品だぞ天子。大したことは何もなかったよ。強いて言うなら霊夢がいろいろ打ち明けてくれたぐらいかな」
そう、俺は何もしていない。霊夢の傷を共有することも、慰めることも出来なかった。
昨日、霊夢からずっと感じていた違和感は何巡もの時間の壁だったのだろう。彼女しかわからない時間の中で起きたことに対してどうすることも出来ないことくらい……俺にだってわかっていた。
再び皿洗いに戻ると水の跳ねる音に混じって、あからさまな溜め息が聞こえてくる。
「……くらい、ねぇ。前から言おうと思っていたけれど、アンタって自己評価低いわよね。少しでも貴方を買ってる私が馬鹿に思えるくらいに」
「酷い言われようだ」
「褒めてないもの、当然じゃない。自信は実力を十分に発揮する上で必要なものよ。それが欠けている様じゃ私の遊び相手も務まらないわ。張り合いないもの」
「………………」
「努力には才能の伸びしろを埋めるだけじゃなくて自信を付ける意味もある。ま、私には必要ないものだけれど」
ひとしきり語ると天子はまた林檎にかぶりつく。そんな彼女に悟られないよう、俺はできるだけ抑えた声音で自嘲の笑い声を上げた。
自信、か……天子にそれを語られると納得せざるを得ないな。まさに自信の塊の様な存在だ。だからこそ天子には憧れてしまう。
霊夢や妖夢との修行で俺は確実に実力を付けることができている。が、その中でたまに星を見上げているような絶望感を覚えることがあった。
どれだけ努力しようとも、いくら彼女たちの影響を最大限に肥大化させても……彼女達には一生追いつけない。何万光年という途方も無い距離すら抱いてしまう。こんな俺が自信を身につけられるとは到底思えない。
そう……天子も俺が見上げることしか出来ない星のひとつだった。
皿洗い終え、あとは水気を拭き取ってしまうだけになった。俺が布巾で茶碗を拭いていると、背後で軽い物音がする。
横目で見遣ると天子が林檎の芯をゴミ箱に放り込んだ音だったとわかる。まだ帰っていなかったのか。
「で、これから何を起こすつもりかしら?」
「唐突だなぁ……聞きたいことはもう聞いたんじゃなかったのか?」
「別にひとつだけとは言ってないわ。むしろこっちが本命よ」
天子は柱から背を離すと、腰に手を当て俺の顔を覗き込んでくる。
「時間を巻き戻す異変だったかしら? 一見誰もが夢見る永遠の世界かもしれないけれど……往々にして自然の理を捻じ曲げれば人も狂い始めるわ」
「……魔理沙が狂ってるって言うのか?」
天子の言葉が引っかかって、俺は再度手を止めて彼女に視線を送る。もしかしたら無意識に睨みつけていたかもしれない。
だがその程度のことで怯むはずもなく、天子は涼しい顔をしながら俺の方に近付いてくる。
「私に言わせれば、北斗も霊夢もおかしいわよ。時間を巻き戻せば、この時間もいずれは消えて元通りになる。そのことの真の意味に気付いているからこそ、おかしくなっているんじゃないかしら?」
膝が触れそうなほど至近距離まで迫ると、夕日のように強烈な緋色の瞳が問い詰めてくる。俺は答えることができない。我儘で唯我独尊といった性格の彼女だが時折鋭い指摘をしてくる。流石は天人だ。
沈黙は長く続かない。すぐさま天子が畳み掛けてくる。
「もう一度聞くわ。何をするつもりなのかしら、北斗?」
「………………」
きっと見透かされているんだろうと思う。
時間のリセットは死さえなかったことになる、つまりは何をしようが最終的にはなかったことに出来る。例え自殺行為の賭けに負けても失うものはないってわけだ。そんな安易な考えが俺の頭の片隅にあることを、天子は一目で察したのだ。
もし俺一人の犠牲でどうにかできるなら……なんて考えてしまうのはいつもの悪い癖だ。そうした末路は霊夢が流した涙が物語っている。もう霊夢にあんな顔をしてほしくない。だから、今の俺に出来ることは……
気付けばポツリと口から言葉が零れ落ちていた。
「大丈夫だよ。俺はみんなを悲しませるようなことはしないから……心配してくれてありがとう、天子」
「わ、私は別にアンタが死んでもなんとも思わなく……なくなくないけど! とにかく、どうせ何かするんでしょ!? なら私も一枚噛ませなさいって言ってるの! 暇つぶしぐらいにはなるでしょ!?」
わざわざ神社まで来て心配してない、なんてことはないと思うのだが……どうも素直にはなれないようで、天子は顔を真っ赤にしながら腰に手を当て仁王立ちする。
素直に手助けしてくれるって言ってくれればいいのに……子供っぽい反応に笑ってしまいそうになってしまう。まあ、俺は子分の身だし天子を立てるのも仕事か。
「そういうことなら……天子も付いて来てくれ。きっといい暇つぶしになると思うよ」
俺が不敵に言ってみせると、天子がキラキラと輝く。普段はどこか擦れたような言動を繰り返す天子だが、今目の前にいる彼女の瞳はギラギラとした熱量を帯びていた。
「ガッカリさせないでね」
天子は耳元でそう囁くと俺の肩を軽く叩いて居間に戻っていってしまった。腕を腰の後ろで組んで、実に嬉しそうな足取りだ。
この事態を楽しんでいるのには呆れてしまうが、天子が味方になってくれるのは心強い。これからレミリアさん達や輝夜達に対抗できる戦力が必要になるからな。
「いや……人頼みでいる訳にはいかない、か」
今の俺ではレミリア達とまともにやり合えないだろう。それは星さんとの戦い、そして白蓮さんの言葉で痛感した。
変わらないといけない。それはここに……幻想郷に来てからずっと突きつけられていた課題だ。否応なく必要に駆られながら、時に誰かに背を押されながら、俺は変わっていった。影響の力にもっとも影響を受けたのは間違いなく俺だった。
「……『影響を与える程度の能力』だなんて滑稽だ。もらってばかりじゃないか、俺」
自虐的に呟いてみるがそれは朝の冷たい空気に溶けて霧散してしまう。自分に自信を持てと天子は言ったが……やっぱり俺には無理そうだった。
洗い物を済ませ、外出の準備をして勝手口から境内に出るとそこには霊夢、火依、天子、こころちゃん……そして神子さんが居た。
なにやら深刻な表情で話し合っているが……何かあったのだろうか? 俺は嫌な予感を覚えつつ近付いていくと、真っ先に神子さんが気付いた。
「やあ、北斗。会って早々でなんだが、悪い知らせがある」
「悪い知らせ、ですか」
「紅魔館に魔理沙の時間遡行を支持する輩が集まっている。私達が吸血鬼と衝突したこと、そして永遠亭の者達の行動が引き金になったようだ。もう私達だけで手に負えないほどだよ」
神子さんはあくまで落ち着き払った口調を保とうとしているが……表情は険しい。これほど苦渋を強いられた神子さんは初めて見る。状況が芳しくないことがありありとわかってしまう。
当然だ。ただでさえ力のある紅魔館と永遠亭の面々が大迷宮のような紅魔館内に立て籠るばかりか、さらなる増援まで来て……その状況であと6日以内に解決しないといけないのだから。
「霊夢……」
俺は盗み見るように霊夢の顔色を伺うが、特に驚いたような表情はない。きっとこれはどの周回でも起こることなのだろう。なるほど……道理で誰もこの時間のループを断ち切ることができないわけだ。
絶望的な状況に口から乾いた声が洩れる。そんな俺を見てどう思ったのか、神子さんはずいと俺の前に進み出てくる。
「さて……そんな状況で君たちは動こうとしているようだが、一体何をするつもりなんだい?」
「それ、さっき天子にも聞かれましたよ」
「もったいぶって教えてくれなかったそうじゃないか。私としては何か妙案があればそれに乗っかりたいと思っているんだが……それとも諦めるかい?」
「諦めません」
神子さんの挑発的な言葉を俺は一言で跳ね除ける。昨日から心を支配していた葛藤はもう微塵もない。この異変は解決しなければならない。そう心に決めた。
ふと霊夢と目が合う。瞳の奥が震えている。怖いんだろうな……わかってる、俺がやろうとしていることは霊夢の望みとは違う。これは俺の願望だ。例え100回時を巡ろうとも100回この選択をするだろう。
「元の幻想郷に戻したいなんて偽善じゃない。俺は、俺が気に入らないからこの時間をぶっ壊します。誰かに恨まれようとも……関係ないです」
「そう……やっぱり、そうするのね」
霊夢の悲しそうな呟きが耳を震わす。心臓に針を刺されたような痛みがじんわりと広がっていく。ごめん、霊夢。それでも俺は……
歯を食い縛って霊夢の言葉を聞き逃したフリをしていると……目の前に桃色の髪の小柄な少女が立つ。そういえば、こころちゃんは知りたいと言っていたな。俺の感情を。さっきのが俺の答えになったと思うんだが……どうだろうか?
無言で立つ彼女に困惑しながら反応を待っていると、こころは無表情のままサムズアップポーズを俺に突きつけてくる。
「いい……実にいいぞ北斗! お前の言動はまさに感情に依るものだ! ようし決めた! 私もお前を手伝うぞ! 輝星北斗よ!」
「は、はあ……ありがとう」
昨日から思っていたのだが感情の振れ幅が劇的で、若干ついていけてない。そのくせ無表情なせいで察しにくいし。こころちゃんと今後の付き合い方に一抹の不安を抱いていると、天子がこころちゃんを押し退けるように前に出ってくる。
「で、具体的にどうするの? まさか策はないですとか言わないわよね?」
きつめな口調で言うと、天子は腕を組みながら真っ直ぐに俺を見つめてくる。それに対して俺は息を一つ吐いて、境内にいる五人を見遣った。
霊夢、神子さん、火依、天子、こころちゃん……それだけじゃない。幻想郷での交友関係は外の世界にいた時のそれとは比べものにならないほど広がっていた。それをわずらわしく思ってしまったこともあったが、ここに今居られるのは間違いなく幻想郷で出会ったみんなのお陰だ。
「今から仲間を集めようと思う」
俺には勿体無いと思えるほど、色とりどりの縁だ。成り行きではあるけど幻想郷に来てよかったと心底思える。
だけど、ごめん……今回は利用させてもらおう。その縁を。
「出来る限り、たくさんの仲間を……それこそ戦争ができるほど」