桜の花びらが頬をくすぐられ、ぼんやりとした意識がゆっくりと目が覚めていく。
冬はとっくに過ぎてはいるけれど、外で眠るにはまだまだ肌寒い季節だ。私は身震いしながら、他人の肩に寄っかかって眠る魔理沙を退け、辺りを見回す。
「私……いつの間に眠ってしまったのかしら?」
夜更けだけれど、月明かりのおかげで散らかりきった境内は随分明るい。ただ誰も酔いつぶれて眠りこけているようで、静かだった。
久しぶりの宴なのもあって、今日はいつにも増して、飲まし飲まされていた。ウワバミ連中でも酔いつぶれても無理はないわね。けれど……一人だけそうじゃないのがいた。
「……片付けなんて今することないじゃない。ひと眠りしてからにしなさいよ」
「わ、霊夢か……」
声を掛けると北斗は驚いたようで、皿を片付けていた手を止めて振り向く。北斗もレミリアと紫に付き合わされて飲んでいたはずだけど……あまり酔っている様にも、眠たそうにしている様子も見られなかった。
そういえば今まで北斗が寝ているところを見たことがない。彼が居候を始めて数日しか立っていないから偶然なのかもしれないけれど……絶対に私より早く起きて朝食の準備をしている気がする。
そういえば一度目が覚めて水を飲みに行った時は縁側の柱に寄り掛かって眠っている『フリ』をしていたわね。夜は居間で寝ていると本人は言っているけれど……本当かどうかはわからない。
「アンタいつ寝てるか不思議なくらいずっと起きてるわね。ちゃんと寝てるの?」
「あー、うん。外の世界じゃずっと遅寝早起きの生活だったから、習慣みたいになっちゃってて」
「……それは答えになってないわ」
少し語気を強めて言うが、北斗は変わらず固い笑みを顔に張り付けている。誤魔化しているのがバレバレだ。けれど、だからこそそれ以上聞くことはできなかった。卑怯なやり方だ。
そんな私の表情が出てしまったのか、北斗は息を一つ吐いてから言い訳し始める。
「大丈夫、俺だって普通の人間だ。ちゃんと寝てるよ」
「……ならいいのよ。倒れられたら私に迷惑が掛かるんだから」
「そうだね、気をつけるよ」
「そうしなさい、っと」
私は適当に話を一旦打ち切り、立ち上がる。そして近くにあった酒瓶を数本手にとって軽く振ってみる。その中から半分以上中身が入った一本を持って、北斗へ掲げて見せた。
「さ、せっかくだしまだまだ飲むわよ」
「いや、俺はまだ片付けが残ってるんだけど……」
「さっきも言ったでしょ、ひと眠りしてからでいいって。これだけ散らかっていたら面倒でしょう? それにほっといたら誰かやってくれるかもしれないじゃない。ほら座る!」
お賽銭箱前の階段を叩きながら言うと北斗は肩を竦めてから、近くにあった盃を二つ手に取ってから片方を手渡してくる。それを受け取ると北斗は前のめりなるように階段に座った。
「まったく律儀ね。それに物分かりもいいじゃない」
「諦めが早いんだ」
「人生諦めが肝心よ」
「諦めたらそこで人生終了ですよ、っと」
私が手酌で自分の盃に入れようとすると、酒瓶を奪われ酌をしてくれる。その割には自分の盃にはさっさと手酌で入れて、文句を言う間もなく煽った。私はそんな北斗を見て……ふと頭に浮かんだ言葉をポツリと口走ってしまう。
「……本当、変なやつよね、アンタ」
「藪から棒に酷いな」
「どっちかっていうと褒めてるわ。人に執拗に気を遣って、自分には無頓着。逆なら結構いるんだけど、アンタみたいなのは、なかなかいないわよ?」
「絶対褒めてないだろそれ」
北斗が抗議の視線を向けてくるけど、無視してお酒に口を付ける。桜の香りと米酒の匂いが混じって普段以上に気持ちがふわふわしていた。
盃が空いたところで、北斗がまた酌をしようとするので、お返しとばかりに酒瓶を奪って注いでやる。そうやってお互いに愚痴りながら夜桜とお酒を味わっていると……不意に北斗がポツリと呟く。
「まあけど、間違ってはいないかな」
「そうね。変なやつだもの」
「いや、そっちじゃなくて……」
「自分の命をかけてその日知り合ったやつのために行動するなんて、幻想郷ではありえないわ。外の世界では普通なのかしら?」
私の言葉に北斗の酒を飲む手が一瞬止まる。図星を突かれたから黙っているのか、はたまた返す言葉を探しているのか。私は落ちてきた桜の花びらを適当に追いながら北斗の言葉を待つ。
答えは案外早くに返ってきた。
「どうだろうな。その人次第じゃないか?」
「かもね。で、貴方はどうなの?」
「………………」
「あの大図書館での演技、私にはあれが『演技に思えなかった』のよ。ねえ北斗、貴方本当は……」
「ごめん、やっぱり気になるから片付けやるよ」
北斗は言葉を無理やり遮る様に立ち上がるとそのまま裏口へと行ってしまった。私はその背を見つめて、溜め息を吐いた。
さっきの反応で大体察しがついた。自慢じゃないけれど私の勘は当たる。当たってしまう。正直今回ばかりは外れて欲しかったけれど……
「……はぁ」
「フラれたわね」
「殴るわよ」
私は入れ替わりで隣に現れた紫を睨みつける。するといい歳した妖怪が、大げさに背筋を丸めてよよよと口を押えた。相変わらず胡散臭い。
「そんな怖い顔しないでよ。霊夢だって一人で飲んでちゃ寂しいでしょう?」
「……はあー、もういいわ」
まるで一人だけ周りに振り回されているような気持ちになって、なんだか疲れた。そんな私へのねぎらいつもりか、紫はなみなみと注がれた盃を差し出してくる。私はそれを奪い取る様に受け取ると一気に飲み干す。
「あら、それ北斗さんの飲みさしよ」
「むぐっ!? ごほごほっ!!」
私は条件反射的に咽てしまう。別に意識はしてないのに、あんな言い方されたら咽るのも仕方ない……はずだ。境内で溺れかける私の様子を見て、紫はいつもの胡散臭い笑みをさらに深めた。
「いやぁ、男っ気がないからつまらないと思っていたのだけれど、あてがってみると意外と面白い反応を……って、ちょ、グーは止めて! 妖怪だって痛いものは痛いのよ!?」
「まったく……私をおちょくりに来たの!?」
「そんなわけないわよ。一応忠告しに来たのよ」
紫の唐突な言葉に、私は眉をひそめた。妖怪の賢者は相変わらず胡散臭い笑みを顔に張り付けているけど、彼女の周りの空気が変わったのがありありと分かった。私は盃の口を袖で拭きながら紫に問いかける。
「……忠告って?」
「輝星北斗に近付き過ぎないようにしなさい」
「無理やり家に住まわせておいて、よく言えるわね」
「物理的な意味じゃないわ……精神的な意味よ」
謎かけのような台詞に、私は眉をひそめる。何を言いたいのか全く分からない。答えを待っていると紫は私を見ることなく、桜木と月が作り出す影をぼんやりと眺めながら……独り言のように呟いた。
「さっき彼にした話……どうも霊夢らしくないわ」
「私らしくない? まるで私を知りつくしたような口振りね」
私は我ながら棘のある言葉を返してしまう。まるで親かのような口振りが少しムカついてしまったのだ。けれど紫はさほど気にしたような様子はなく、ただ首を振った。
「そこまで自惚れてはいませんわ。けれど、これでも私は貴方の事を評価してるの。妖怪であろうと人間だろうと公平な人物だとね。あぁ、妖怪に対して公平に退治してるけど」
「そりゃどうも。で、それとこれが何の関係が……」
「私にはあの会話、北斗に入れ込んでいるように思えたのよ」
思わず口を噤んでしまう。図星、というほどじゃないけど言われて腑に落ちるところはあった。私はあの時北斗に『本当は死んでも良かった、死にたかったんじゃないのか』と聞こうとした。答えは分からず仕舞いだけど……そもそもこんな質問する必要なんてなかった。
「入れ込んでいる、ねえ……ま、確かにさっきの会話は私らしくなかったかもね」
「自覚はあったのね。いらぬお節介だったかしら?」
「アンタのアドバイスは大体お節介よ」
はっきり言ってしまえば、死にたければ勝手に死ねばいい。それが本人が望んだ結果で、妖怪が絡んでいなければ私の出番はないもの。
それは『影響を与える程度の能力』を持つ北斗でも変わらない。自らの意思で死を望むなら、たとえそれで結界が崩壊しても、少なくとも私には止める権利はないもの。
多分私に面倒事は被るし、止めなかったことを紫や魔理沙辺りに咎められるだろうけれど……それは私の事情であって、北斗の事情には関係ない。
そう、問題は、心から思っているはずなのに……私はどうして北斗にあんなことを聞いたのかだ。
「貴方の『空を飛ぶ程度の能力』はただ空を飛ぶだけの能力ではありません。重力、人里のしがらみ、何からも縛られない自由な存在……それが貴方」
「そうかしら? そんなこと思っても見なかったわ」
「暢気ねぇ。けれど、もし貴女が北斗に執着すればどうなると思う?」
「……北斗の能力に影響されて、私の能力がなくなるとでもいいたいの?」
紫は何も返さずに盃に映った月と桜を眺めている。
……そうね、紫の懸念は分からなくもない。大結界が危機的状態の今、博麗の巫女に何かあれば本当に幻想郷が崩壊するかもしれない。
私もつられて自分の盃を見つめる。丁度良く桜の花弁が一枚水面に落ちて、月が一瞬だけ揺らぐ。けれど、それだけ。空にある月の形は変わらない。
「そうはならないわよ」
「……どうしてそう言い切れるのかしら?」
紫が真剣な表情で尋ねる。いつもの胡散臭さは消え、純粋に不思議がっている様子だ。そんな珍しい紫の姿に私は袖で口を押えて笑った。
「分からないの? 矛盾してるじゃない。アンタの疑念は」
「矛盾?」
「ええ、私の力は何からも縛られない力なのに、どうして北斗の力には縛られないといけないのよ」
私が彼の能力に気付いたのは単なる勘だ。けれどその勘は私が影響を受けているとは知らせてはいない。影響も勘も目に見えないものだけれど、少なくとも私は自分の勘の方が信じられるわ。けれど、心配性な紫はしつこく食い下がってくる。
「けれど、今日貴女は……」
「彼に深入りしていた? ただ気になったから聞いただけよ。それ以上はないわ。別に私は誰にも無関心ってわけじゃない。血の通った、血行良好な健康的巫女よ」
私が冗談交じりに言うと、紫は一瞬呆けて……クスクスと笑い始めた。笑わせるつもりは一切なかったのだけれど……
「何よ、そんなに面白かった?」
「いえ、まったく。ただ……貴方は本当に暢気だと思ってね。深刻に考えていた私が馬鹿らしくなったの」
「馬鹿らしく……ふん、確かにそうね。そんなことも分からないようじゃ賢者の名が泣くわ。馬鹿だわ、ばーかバーカ!」
「私だってキレるときはキレるのよ? まあ、いいわ……それなら、私は貴方のその言葉を信じることにしますわ」
そう呟きながら紫は盃をそっと突きつけてくる。私はそれに酒を注いでやり……
「そうしなさい」
カタン、と盃をぶつけ、飲み干し合う。満開の桜は未だその栄華を誇示し続けている。そして月は夜明けの光に追いやられようとしていた。
「あ、けれど彼と恋人になるのは流石に認められな痛い! だから顔は……! あー、もう怒った! 今度から米送らないから今から野垂れ死ぬ準備を……痛い、痛いって、ごめんなさい! 謝るから許しててば!」