やはり俺の数学教師が一色というのは間違っている   作:町歩き

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すっごく久方ぶりの勉強会のお話です。


第四章 愛情深まる。それが傷の深さになると知らずに
十年後は大人


夏休みも六日目を迎えた月曜日の昼過ぎ。

八月に入ると日中の気温もどんどん上がり、そのうだるような暑さにひいひい言いながら

俺は一色を迎えに駅へと向かう。

駅に着くとクーラーの効いた近くのコンビニに逃げ込み、立ち読みしながら一色を待つこと暫し。

こんこんと窓を叩く音に気づき顔を上げると、一色が笑顔で手をひらひら振っているのが見えた。

普段とは違うその姿に少し驚きながら外へ出ると、一色は小走りで俺の傍へとやってくる。

 

「せんぱい、こんにちはです」

 

「おう、こんちは」

 

挨拶を返しつついつもの彼女と違うところへ目をやっていると、一色が体を隠すように

ぎゅっと自分の肩を抱いた。

 

「えっと、せんぱい。

なんでそんなにわたしのこと、じろじろ見るんですか? お金取りますよ?」

 

「い、いや。こうなに? 髪がいつもと違うから、珍しくてな」

 

着衣姿で金を取るとか、すげえなこいつ。でも水着姿ならワンコインは出す。

などと思いながら答えると、一色はあ~っといって自分の髪に手をやる。

 

「今日は暑いですからね。

そのままだと熱がこもって暑いんで、一本に縛ってきました。変ですかね?」

 

「んや、似合ってると思うぞ」

 

顔の輪郭を隠すような髪型でなくとも、美しいのが本当の美人だ。という持論をもつ

俺の目から見ても、一色の容姿は非の打ち所がないと言わざる得ない。

その上、美人なだけでいろんな所が美化されるもの。

普段見ることのないその白いうなじも形の良い耳も、俺の目を釘付けにしてしまう。

もしこいつの性格を知らなかったら、今この瞬間、俺はきっと恋に落ちていただろう。

そんな不幸な展開にならなかったことを心底ほっとしていると、一色がすーはーと

深呼吸しているのが見えた。

 

「普段のより、こっちの方が良いですかね?」

 

「いや、どっちも合ってると思うが。

でもまあこんな暑い日は、そっちのほうが涼やかに見えるかもしれんな。

そういや小町もな、今日は髪を後ろで纏めてたんだが、それがまたすげえ良かったぞ」

 

「そこで小町ちゃんを引き合いに出すのって、どうかと思うんですけど……。

せんぱい、シスコンが悪化してますね?」

 

「おう、もう手遅れだ」

 

「なんで自慢げなんですか……」

 

一色はいうと、呆れたように俺を見る。

それに苦笑を返しながら、彼女に会ったら言わなければと思っていた事を口にする。

 

「そういやその……。金曜は悪かったな。

俺の買い物に付き合ってもらったのに、途中で置いてちまって」

 

いうと、一色は顔を下に向け俯いてしまう。

そして言いづらそうに身を捩ると、下から見上げるように俺を見て

無理したような笑みを浮かべる。

 

「いえ。あの場合、仕方ないですよ。彼女優先するのは当たり前ですし。

それにあの後メールでも、先輩、謝ってくれたじゃないですか。それで充分です」

 

「まあ、うん。侘びをいれるのにメールでってのも、なんだか軽い気がしてな」

 

「先輩ってそういうとこ、律儀ですよね」

 

そう言われると、どんな顔をしていいのか困ってしまう。

一色やめぐり先輩を困らせた俺が困るとか、冗談でも笑えない。

そんな気まずい気持ちを誤魔化すよう頭をがしがし掻いていると

一色がなにか思い出したように、ぽんっと手を叩く。

 

「そういえば、せんぱい。クズ金、全部読みましたよ!」

 

「お、おう。もう読んだのか?」

 

ちょっと、というかすごく意外な気がする。

本を読まない一色のこと。そんな彼女にプレゼントしたクズ金は

カップラーメンを作るときの重しかなんかに使われるのが精々。

そう思っていたからだ。

てかクズ金って……。やっぱりみんな、そう訳すのね。

 

「なんていうかですね、とても読みやすかったんでさくさく読めました。

それに学ぶところがすごく多かったです」

 

え? ちょっと待て。学ぶとことかあったか、あれ。

むしろ学んじゃいけないことばかりのような……。

まあ確かに作中にあった人間関係に必要な三つのオー。

おだてる脅かす追いかけるは、なるほどと思ったりもしたけれど。

 

「でもせんぱい、あれですよね。

わたしのような女子高生が闇金を上手くやる方法は書いてありましたけど、

始め方なんかも、出来れば書いて欲しかったなーって思いました」

 

「………」

 

書いてあったら始める気かよ。

そうすっと餌食にされそうなのはうちの小町だな。

毎月、月の中頃になるとこずかいを使い切り俺に借りにくるし。

なので俺のこずかいの二割は、小町のために毎月使わずに取っておくようにしている。

でも不思議なことに、これまで一度も返してもらえてないんだよな……

まあ仕方あるまい。娘三人持てば身代潰すというように、女の子はお金が掛かるものだ。

思いつつ、読んだ感想を楽しげに話す一色へ目をやる。

どうやら読書に多少なりとも興味を持ってくれたご様子。

そんな彼女に薦めるのは今のところ同じようなラノベが良いだろう。

そう考え、尋ねてみる。

 

「同じ人が書いたのが他にもあるが、よかったら読んでみるか?」

 

いうと、一色は興味津々前のめりの上目遣いで問うてくる。

 

「どんなお話なんですか?」

 

善きかな善きかなと気分良く、愚かな弟子に説教する仙人のような気持ちで声を出す。

 

「学園モノなんだけどな。俺のようなぼっちが他人のお願いを手助けする部活に入るんだ。

それで、口は悪いけどすごく綺麗な女の子やちょっとアホだけど可愛い女の子と三人、

持ち込まれた難題を解決していく。そういう話だな」

 

答えると、一色は眉間にきゅっと皺を寄せ、首を傾げる。

 

「ん~、それはちょっと有り得ないですよね。現実味がないっていうか」

 

「そ、そうか? 結構あるんじゃないかな~って思うんだが……」

 

「ちなみにせんぱい。その女の子同士は、仲良いんですか?」

 

「ああ、うん。そうだな、仲良しだ」

 

最初の頃はすれ違いもあったが、巻を重ねるごとに仲良くなっていくヒロイン二人を

思い出しながら応える。のだが、一色にはいまいち納得していただけなかったようだ。

一色は呆れ顔で俺を見ると、やれやれといわんばかりに首をふりふりしてきた。

 

「それこそ有り得ないですよ。いいですか? せんぱい。

女の子はですね、自分より可愛い子とは仲良くならないんです。

なってるように見えるのは、そう見せてるだけなんですよ?」

 

「………」

 

こいつと話していると女子に対して夢とか憧れとかを持てなくなるな。

そんな感想を持ちつつも、思うところがあったので反論してみることにした。

 

「でもよ、一色。女子って大体、似たような容姿の子同士でつるんでない?」

 

「それは互いに、自分の方がこいつより上、って思ってますね、はい」

 

確信に満ちた一色の言葉。そのあまりの説得力に思わず納得してしまう。

弟子に論破されるとは……と、ぐぬぬな気持ちでいると、一色がぴっと指をたてる。

 

「まあそれはともかく、他にはなんかないですかね?」

 

「んー、ほかにか。そうだな、ちょっと古い本なんだが、原田宗典って人が書いた

平成トムソーヤとかスメル男なんかが面白かったな」

 

「どういうお話なんですか?」

 

「えっとな。平成トムソーヤは、大学受験を控えた高校生の話なんだが――」

 

そんなやくたくもないことを話しながら、てこてこ歩いて学校へと向かう。

川の傍にくると風がほんの少し涼しいものになり気持ちがいい。

遠くには入道雲が見え、それら全てが夏らしさを感じさせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

× × ×

 

 

 

 

 

 

 

 

一色と二人、勉強をするようになり一週間も過ぎると、それなりにとはいえ

彼女の苦手なところが分かってくるもの。

それを踏まえて今日は、夕べ作った俺のお手製テストを一色にしてもらうことにした。

真剣な表情で問題を解いていく一色を横目で窺いながら、俺もここ最近ようやく辿り着けた

高一の数学問題に取り掛かる。

一色の教え方が上手かったこともあり、以前はちんぷんかんぷんだったそれらの問題も

大分理解できるようになった気がする。

 

そうやって互いに黙々とそれぞれの課題に取り掛かっていると、テスト終了を知らせる

アラーム音が鳴り響く。

ペンを置いた一色に向かって、んっと手を伸ばしテスト用紙を渡すよう促すと、

一色はいやいやするよう首を振る。

 

「一色。採点するから、早く用紙を渡しなさい」

 

いうと、一色は難しそうな顔をする。

 

「先輩、わたし思うんです。答えは人それぞれ。みんな違ってみんないいって」

 

「うん、ののワさんは置いといて、とりあえずかしてみ」

 

「そんな……。ののワさんが可哀想じゃないですか」

 

一色がののワさんを知っているとは……。

お前まさかアイマスファン、もしくはニコ中なのか? と思いつつ、さらに手を伸ばすと

一色は本当に辛そうな顔でテスト用紙をしぶしぶ差し出してきた。

用紙の端を掴むと手元に引き寄せようと引っ張るが、一色は綱引きの要領で同じように

引っ張り返してくる。よほど渡したくないのだろう。その手はぷるぷると震えていた。

 

「はよ渡せよ……」

 

「これが欲しければ、わたしを倒してからにしてください」

 

「なんでお前、キラーマジンガみたいなこというんだよ」

 

「あれ? せんぱいもドラクエ6やってたんですか?」

 

「ああ……。ヘルクラウドに楽勝した俺が負けるわけがないって、自信満々で挑んだんだがな。

あっという間に全滅したぜ。つーか一色も、ゲームとかするんだな」

 

「ひいろがやってるんで一緒にやるんですよ。

けど最近、セーブデータを分けてくれって言われるんですよね。

なんかいつの間にか、見たこともない鎧を装備してて困るって」

 

あー、うん。ひいろの気持ちはよくわかる。

うちも親父や小町が凝り性で、一度ハマると寝るのも忘れゲームに没頭するところがある。

それでドラクエ8は俺が始める前にエンディングを見せられるハメになったくらいだ。

なぜ買った俺より先に、お前らが楽しむんだ……と酷く恨んだのを思い出す。

 

それで苦々しい気持ちでいると顔に出ていたのか、一色が仕方なさそうにテスト用紙を

そっと差し出してきた。

変な勘違いをさせたことに若干申し訳なさを感じつつ、用紙を受け取り採点すること暫し。

妙な圧力を感じ首だけめぐらせて見ると、一色が後ろに立っている。

そして俺の肩口からひょいっと顔を出し、採点中のテスト用紙を覗き込んできた。

気にしないようしつつ黙々と答え合わせをしていると、〇が付くたび「よしっ!」と

景気のいい声やバツが付くたび小さな舌打ちが背後から聞こえてくる。

椅子に座って静かに待っててくれよと心の中で嘆きながら、一色が特に苦手とする

現代文の採点に入る。

ワザと難しい問題を出していた事もあり、それまで騒がしかった一色も

解答用紙のバツが増えるたびに、次第に大人しくなっていく。

 

んー。もう少し簡単な問題を解かして、自信を付けさせた方が良かったかも知れんな。

採点を終えた解答用紙を見て、一色が深くため息をつくのを耳にしながら思う。

でもこれで、一色への国語の教え方が決まった面もあるしなと考え顔を上げると、

一色はしょんぼりした様子で椅子に腰を下ろしていた。

その落ち込んだ様子を見て、元気づけるようなるべく優しい声を出す。

 

「その、意地悪するつもりは無かったんだが、あえて今の一色には難しい問題を出したんだ」

 

俺の言葉に、一色は顔を上げると恨みがましい声でいう。

 

「そうですよね。なんかすごく難しいなって思いましたもん。

わたしはちゃんと気を使って、とっても簡単な問題をさせてあげたのに」

 

まあ確かに一色は気を使ってくれたのだろう。それは俺にもわかる。

わかるけども、さすがに小学生の問題を高三の俺にやらせるのは如何なものかと思うのだが……

 

「それにですよ? なんかこうしてやってて思うんです。

今やってること、社会に出て役に立つのかなって」

 

「ふむ。まあ確かにな」

 

拗ねたようにいう一色の言葉に、とりあえず同意してみる。

するとそれで力を得たのか、一色はさらに言い募る。

 

「せんぱいもそう思いますよね? もっと他にやることがあるんじゃないのかなって。

よく言うじゃないですか、『社会に出たら学校の勉強なんて何の役にも立たない』って」

 

一色が口にした言葉は俺もたまに耳にする。

中学までの俺なら彼女の意見に一も二もなく同意していただろう。

なぜなら彼女が口にした言葉は中学生の頃、俺が口にした言葉でもあるからだ。

そしてそれを耳にした当時の担任が俺に教えてくれた言葉を、そのまま一色へ伝えることにした。

 

「一色。社会って単語を反対にすると、何になる?」

 

いうと、一色は首を捻る。

 

「えっと……。『会社』ですよね?」

 

その答えにうむっと頷くと、言葉を選んで口にする。

 

「大人がいう社会っていうのはその殆どが、自分が勤めている会社のことなんだ。

それでな、その手のことを口にする人は、学校で習ったことが役に立たない仕事に

就いているからそういうんだよな」

 

「それとな、俺も含めた子どもがいう、『社会に出て学校の勉強が役に立つのか』って

いうのは、社会に出ていないからこそ出る言葉なんだと思うぞ」

 

もしくは、自分が今勉強していることを役立たせる仕事に就けないという

無自覚の現れかも知れない。

 

「せんぱいの言うことはわかるんですけど……」

 

理解はしてくれたようだが納得はしかねている一色の姿を見て、

思うところを伝えようと、俺は姿勢を正した。

 

 

 

 

 

 

 

 

× × ×

 

 

 

 

 

 

 

以前どこかで目にした話なのだが、物理学者のファラデーが研究成果の発表の席にて

記者の一人に「あなたの研究はどう役立つのですか?」と聞かれたことがあったらしい。

それに対してファラデーは、その記者に向かってにこやかに微笑みながら

「あなたは生まれたばかりの赤ん坊が何かの役に立つと思うのですか?」と返したそうだ。

 

この話は一色が先ほど口にした、「今やっている事の意義がいまいちわからない」というのと

どこか通じるものがある。

物事の基礎は成果が目に見えにくく、それをどう活用するかを説明するのは難しい。

それでうんうん捻って悩んでいると、一色がはいっと手を上げた。

 

「せんぱい。例えばですけど、理系に進めば国語とかやらなくて済むんですかね?」

 

「いや、お前。葉山追っかけるのに、文系いくんでそ?」

 

「だから例えばですって」

 

ふむっと頷き考える。

俺は文系一筋なので理系にあまり詳しくないが、それでも人並み程度の知識はある。

なのでその知識をフル活用しながら、一色の問いかけに答えていくことにした。

 

「理系っていうとあれだな。研究とかするよな」

 

「ですです。白衣とか着て、試験管をふりふりしたりしますね。

昔から憧れてたんですよ。白衣ってなんか知的じゃないですかー?」

 

「これまた知的じゃない発言だな……」

 

「いいじゃないですか。前もいいましたけど、イメージは大事ですよ」

 

まあ確かにね。それに一色なら白衣も似合うと思う。

それで出来れば白衣を着た上で、眼鏡なんかも掛けて欲しい。

そしたら多分、童貞だらけの理系男子(偏見)なぞイチコロだろう。

おっと、いかん。気を抜くと、つい一色のペースになっちまうな。

 

「まあそれでだ。研究したことを纏めるのに、論文を書かなきゃならん」

 

いうと、一色ははてなっと首を傾げる。

 

「口で説明するんじゃダメなんですか?」

 

おう……、そうきたか。

一色のいうことはどちらかというと屁理屈のたぐいだが、一応理屈ではある。

ただ屁理屈ならば俺も負けてはいられない。ここはひとつ、木っ端微塵に論破せねばなるまい。

ダンガンロンパを一話切りした俺の実力を見せてくれようぞ!

 

「いちいち口で言って回るのも大変だろ?」

 

その点、紙に書いて出せば、と言いかけたとき、俺の言葉を遮るよう一色が口を開く。

 

「録音すればいいじゃないですか?」

 

もうやだ、この子。ほんとあーいえばこーいうで嫌。

つーか、他の人からみたら、俺もこうなのかな……。これからは気を付けよう。

そんな反省をしつつ挫けそうな心をなんとか奮い起こす。

そして一色が納得してくれそうな方向へと軌道修正を図る。

 

「いいか、一色。話すにしてもだ。

相手に上手く伝えるにも相手の言ってることを理解するのにも国語は必要だぞ?

戸部をみろ。俺の話を半分くらいしか理解してくれねーんだから」

 

「戸部先輩は単に、人の話を聞いてないだけだと思いますけど……。

でも、いわれてみればそうですね」

 

納得した感じの一色の姿に、ほっと安堵した俺はさらに話を続ける。

 

「それでな、読解力もないやつがまともな文章は書けないだろ?

だからまず本を読んで読解力を身に付ける。そうすればそれなりに文章が書けるようになる。

それとな、文章力はどこにいっても必要になるぞ?

自分だけわかってても他人にわかりやすく伝えるために必要」

 

「他にも受験科目の現代文は人の考えを論理的に理解する練習になるわな。

結局何をするにも、国語は必要な訳だ」

 

言い終えると、こそっと一色を窺てみる。

すると一色は人差し指を顎にあて、くりっと小首を傾げた。

 

「せんぱいはそういう事の為に、本を一杯読んでるんですか?」

 

「いや、単に面白いからっていうのが大きいな。

そんで楽しみながら、語彙や読解力を身につけたって感じだ」

 

「せんぱい。語彙っていえばなんですけど。

クズ金で意味がわからない単語があったんで、辞書で調べながら読みましたよ」

 

「おー、偉いぞ。そうやって言葉の意味を理解していけば、さっきやったテストなんかも

すぐ解けるようになるしな」

 

「そうなんですかね?」

 

頑張って褒めてあげたのに、一色はその俺を疑いの眼差しでじとっと見てくる。

ほんとこいつは……。

まあ普段の俺の言動を見れば、ちゃんとした事をいっても疑われてしまうのもやむをえない。

なので汚名返上も含めて、話を続けることにした。

 

「えっとな、英語でも古文でも現代文でも、語彙力がなければ文章を読むことは出来ないんだ。

その点、現代文は普段使っている日本語で書かれているから、英語や古文のように語彙を

勉強する必要はないけどな」

 

「でもな、評論や小説文では普段あまりお目にかからない言葉も多く出てくるだろ?

止揚や抽象といった言葉の意味がわかってないと、文章を読んでもいまいち理解できねーからな」

 

「だから一色はまず、漢字の書き取りじゃなく読みと意味を覚えることを中心にしたほうが

良いと思うぞ。それで理解し読むようになれば、もっと楽しめると思うしな」

 

そこまで言うと、一色を見やる。一色は神妙な顔でふむーっと唸っていた。

返事はないものの、一応話は聞くつもりはあるらしい。なので俺は勝手に話を進めることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

× × ×

 

 

 

 

 

 

なぜ勉強するのか? それは多分、誰もが一度くらい考える事だと思う。

でも誰も、それについてきちんと応えてはくれない。

世の中にある当たり前の事は当たり前だからこそ、説明しずらいから。

 

なので思ってたよりもずっと、先輩がわたしの言葉を真剣に受け止めてくれた事に驚いてしまう。

今までそうだったように呆れられ鼻で笑われるのが精々、そう思っていたから。

そして、わたしがいなくてもあっという間に一人で数学をこなしていく先輩を見て、

置いてかれたような気になって、拗ねた自分が恥ずかしくなる。

そんな気まずい気持ちでその声に耳を傾けていると、先輩が不思議なことを尋ねてきた。

 

「一色は十年後に、どんな生活をしていると思う?」

 

なんでそんなことを聞くのか意味がわからずぽかーんとしていると

先輩は困ったときの癖なのだろう、頭をがしがしする。

 

「どこの国の、どの地域の、どんな家に住んで、どんな家族を持ち、どんな仕事について、

平日は朝何時に起きて、昼は何をして、夜は何時に帰り、休日はどんな一日を過ごしているか。

そういうのでいいんだ」

 

そうやって具体的に聞かれれば、なんとかイメージしやすい。と思ったけど、

上手くイメージすることができなかった。

普通にOLかなぁ……

 

「う~ん。上手く思い浮かばないですねえ……」

 

「まあ、俺もだ」

 

先輩はいうと、困ったように笑う。

 

「それでな、どうなっているかわからないから、なにが必要かもわからないわけだ。

まあ、金が必要ってのはわかるけどな」

 

「確かにそうですね。お金があれば大抵のことは解決しますし」

 

「まったくだ」

 

二人してくすくすと笑う。それでなんだか、嬉しくなる。

 

「でな、今やってる勉強なんかは将来なにか起こったときの保険なんだと、俺は考えてる。

例えば金を稼ぐにしても知識のあるなしで結果は変わるだろうし、運良く稼げたとして

それをきちんと守れるようにするのにも、やっぱり知識は必要だしな」

 

「だから今やってることは、将来使うため、難しいことでも覚えたという経験を得るため

それと問題を解決できるようにするためだと思うぞ」

 

こんなふうにきちんと、わたしの質問に応えてくれた人、今までいなかったなと思う。

それで胸の奥が温かくなるのを感じつつ、思ったことを口にする。

 

「じゃあ、今していることは、将来の自分へのプレゼントなんですね」

 

わたしの言葉に、先輩は嬉しそうに微笑んで頷いてくれた。

 

 

 

 

 

 





それでは次回で。

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