やはり俺の数学教師が一色というのは間違っている   作:町歩き

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雨が止むまで

降るかどうか迷っているような雨雲が広がる空の下。

一色の言葉に返す言葉が見つからず、一色もその後は何も言わずにいるので

互いに無言のまま駅への道を空の雨雲から逃げるよう足早に歩く。

 

だが途中で追いつかれ、俺たち二人に追いついた雨雲はそれまでの逡巡をなくし

アスファルトの地面に雨滴を落とすと、ポツリポツリと黒い染みを作り始める。

そして最初は弱かった雨も徐々に強くなり、黒い染みは瞬く間に地面のすべてを覆い尽くす。

 

強く降り出した雨を避けるため、近くのマンションの非常階段に走り込んで雨宿りをし

そこで俺と一色は二人、雨空を見上げる。

 

「たぶん通り雨だと思うんで、しばらく雨宿りしていましょう」

 

一色の言葉に頷くと、また雨空を見上げ薄く溜息をこぼす。

 

そして今朝の天気予報でお天気お姉さんが告げていた「お出かけの際は傘を忘れずに」という

言い付けを守らず、傘も持たずに外へ出ていたことを後悔してしまう。

 

隣で同じように雨空を見上げている一色も言い付けを守らなかったようだ。

仕方なく鞄を傘がわりにしてコンビニへ傘を買いにいこうとした俺に

彼女が掛けてきたのが今の言葉である。

そうして暫く、空から落ちてくる雨を眺め、地面を打つ水の音に耳を澄ましていると

一色が話かけてきた。

 

「先輩。一つ質問していいですか?」

 

「なんだ?」

 

「女の人で、なんで城廻先輩だけは名前で呼ぶんですか?」

 

一色は雨を見つめたまま、言われるまで俺自身が考えたこともなかった質問をしてきた。

質問の意図が読めず訝しげな視線を送るが、一色は雨を見つめたままなので

その横顔に答えを返す。

 

「いや、小町とか、ちゃんと小町って呼んでるぞ?」

 

いうと、一色は呆れたようにため息をこぼす。

 

「それは家族だからじゃないですか」

 

「確かに……」

 

なるほどごもっとも。じゃあ他には、と考え思いついたので口にしてみる。

 

「あー、でも。川崎の弟とか妹は名前で呼ぶぞ?」

 

「それだって、他のおうちのことですけど、家族だからですよね?」

 

「確かに……」

 

一色のさらに呆れたような声に居た堪れない気持ちになってくる。

なんとか反論しようとウンウン唸って考えていると一色の声が耳に届く。

 

「先輩って雪ノ下先輩や結衣先輩の事、苗字で呼んでますよね?

なのに城廻先輩のことは名前で呼ぶの、なんでかなーって思ってたんですよね」

 

いわれて、そういえば本当になんでだろうと考える。

今の今まで全く気にしていなかったのでとりあえず思いつくまま答える。

 

「初めからそう呼んでたからだと思うが」

 

応えながら、他の誰かが先輩を名前で呼んでいたから俺も真似したのだろうか? と思い

考えてみる。

 

だが思い出せる限り、生徒会役員のメンバーは会長と呼んでいたこと。

平塚先生も雪ノ下も由比ヶ浜も学校の誰も彼も皆、先輩を苗字で呼んでいたことに気づく。

そういや俺と陽乃さんだけだな、そう思っていると。

 

「じゃあ先輩って私のこと、なんて呼んでます?」

 

これまた最初の質問と同じくらい意図が読めない質問をしてきた。

そもそも俺は他人を名前で呼ぶことなど殆どないのだ。女の子なら特に。

 

「一色だから一色、だろ?」

 

言うと、一色は溜息をついて雨から視線を外し、俯く。

 

「そうですね……」

 

その声を聞くと、自分がなにやら酷い間違いをしている気分になる。

 

「じゃあ試しに一回だけでいいんで、私も名前で呼んでもらえますか?」

 

一色は俯いたまま先ほどよりも小さく言ってくる。

言われた通りにすることに、気恥ずかしさで躊躇っていると、一色は困ったように微笑む。

 

「試しにですよ。私は苗字も名前も同じ三文字です。

しかも頭文字は一緒だから二文字変えるだけじゃないですか?」

 

「小さい「っ」がはいるでしょ……」

 

「まあそうですけど……。小さいから無しの方向で」

 

無しの方向って……。まあ確かに言う通りなとこはあるのだが

でもなー、なんかなーと思っていると

 

「恥ずかしいんですか? せんぱいっ」

 

それまでの沈んだ声ではなく、普段通りの一色らしく俺をからかうような

小馬鹿にするよういってきたので何とはなしに安心する。

でも馬鹿にされてほっとするって、それってどうなんだろう……

 

「少し練習したら、一回くらいなら呼んでやるぞ」

 

「練習って……、まさか枕相手にとかですか?」

 

一色は笑いを堪えながら聞いてくる。

それで俺は、ほかの人って枕相手に告白とか名前を呼ぶ練習しないの? と

焦ってしまう。みんなするよね?

そんな俺を見て、一色は楽しげに茶化してくる。

 

「本人が目の前にいるんだから、本人で練習すればいいじゃないですか?」

 

「それじゃ本番で、練習とはいわんだろう……」

 

「大丈夫です。ちゃんと採点してあげますから!」

 

一色は薄い胸を張り偉そうにいってくる。なんという上から目線……

 

「城廻先輩は名前で呼ぶのに、私は呼んでくれないんですか?」

 

それで内心ぐるると唸っていると、一色は甘えるような声を出し、

俺の顔を上目遣いで見上げてくる。

そのことで場の雰囲気がその声音と同じよう甘やかになった錯覚に陥り、

危うく勘違いしそうになってしまう。なので話を逸らすことにした。

 

「一色。アメリカだと台風……。まあ、向こうだとハリケーンだな。

その名称に女性の名前が付けられるのを知ってるか?」

 

俺の言葉に、一色はきょとんとした表情すると、顎に指を添え考える仕草をする。

 

「カトリーナとかキャサリンでしたっけ?」

 

応えると、合ってます? と視線を向けてくるので、うむっと頷く。

 

「台風という人の力ではどうしようもないモノに付けられる女性の名前。

それを呼ぶのは男にとって、とてつもなく難易度が高いものなんだ」

 

生真面目にそう伝えたのだが、一色はしらっとした目で俺を見ていた。

 

「せんぱ~い。アメリカは何にでもすぐに人名を付けるお国柄なんです。

街の名前や通りの名前、山や湖の名前とかもそうです。

なのでエベレストさんもホッチキスさんも人名なんですよ? ご存じですか?」

 

「え、マジで!? ホッチキスって商品名じゃなく作った人の名前なの?」

 

「ですです。ホッチキスさんていう親子が作って、その名前が付いたんですよ」

 

そうだったんだー! と思わず感心している俺の目の前で、一色は不敵な笑顔を浮かべ

腰に手をやり、なにやら勝ち誇った表情をしている。

 

そんな一色の姿に、いや別にお前がホッチキスを作ったわけじゃないだろう……と

呆れた視線を向けると、彼女もそこに気がついたのか顔を赤くする。

 

「ま、まあ、それはどうでも良いんですけど……。先輩なんか話し逸らそうとしてません?」

 

なんかもなにも逸らす気満々だったのです。

心の中で返事を返していると、一色が声音はぐっと鋭くして半眼で俺を睨んでくる。

 

「つーか、お前だって、俺のこと名前どころか苗字ですら呼んだことなくないか?」

 

いうと、一色は頬をほのかに染めごにょごにょとした声で尋ね返してきた。

 

「私がなんで先輩としか呼んでないか……わかりますか?」

 

問い返され、どう答えたら良いか迷ってしまう。

 

一色から視線を外し、その言葉への答えを探して空から落ちる雨を眺める。

雨脚はさらに強くなり街が霞んで見える。雨は当分止みそうになかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

× × ×

 

 

 

 

 

 

 

雨に霞む街並みを眺めながら、一色への返しをあれこれ思案していると

小さなくしゃみの声が聞こえた。

視線を向けると、バツが悪そうな顔をして恥ずかしそうに鼻を押さえている

一色の姿が目に映る。

 

一色は空いてる手で身体をさすっており、寒いのか小さく震えていた。

 

「一色、やっぱり傘、買いにいってくるぞ」

 

俺はまだしも一色に風邪でも引かれてもと思い、鼻を啜る一色にいうと

鞄を傘がわりにしようと手を上げる。

その俺の手に、一色は手を添えるとにぱっと微笑む。

 

「先輩。こっちは風が直に当たるんで、そっちにいけば平気ですよ」

 

言って、とててと俺の左側から右側に場所を変えてくる。そしてほっと息をつく。

 

「こっちだと先輩が壁になってくれてるから、風が当たらなくて暖かいです」

 

それはなにより。そう思い頷いた俺を冷えた風が撫で上げる。

そのあまりの冷たさに思わず縮こまってしまう。

仕方なく両手で自分を抱きしめ、さすりまくってなんとか身体を温めようとするが

マシになるとそこを狙いすまして風が吹いてくる。

 

「一色。なんか凄く寒いから、やっぱり傘、買いにいってくる」

 

「大丈夫ですよ、先輩。私はそんなに寒くなくなりましたし!」

 

「いや、俺は寒いんだけど……」

 

「せんぱーい、男の子なんだからそのくらい我慢してくださいよ~

それに子供は風の子っていうじゃないですか?」

 

「いやいや、その理屈はおかしいでしょ? 男の子だって寒いときは寒いぞ?

それに年でいったら一色の方が俺より子供だろ」

 

不満を凝り固めていうと、一色はやれやれとばかりに溜息をつく。

そして左手をあげ、俺の冷えた腕にそっと手を添えてきた。

 

「確かに先輩の身体、ちょっと冷たいですね」

 

急に触れられ慌てた俺は、ずずっと横にずれる。そんな俺を見て一色はくすっと笑う。

 

「仕方ないですね……。変な勘違いしないでくださいよ」

 

一色は言うと、目を瞑ってすーはーと深呼吸する。

そして、ちらっとこちらを見やっると、おずおずした様子で俺の方へ身体を寄せてきた。

それで互いの二の腕が触れ合い、その感触に心臓が跳ねる。

ほのかに香るアナスイの香りが雨の匂いと混じって鼻腔を心地良くくすぐり

これは不味いと横にずれ一色から距離をとる。

そんな俺を見て一色も空いた隙間を埋めるよう、ちょこちょことずれてくるので

とうとう壁際まで追い詰められてしまった。

 

「なんか狭いんだけど……」

 

「先輩が逃げるからじゃないですか?」

 

いわれて、確かにそうなんだけどと思いつつ、横目で隣を窺うと

視線の先で一色が耳まで赤くしているのが見えた。

 

そんな彼女の姿に、なんだこいつも恥ずかしいのかと思い安心しかけたが

恥ずかしげな一色を見ているとこっちまで恥ずかしくなる。

確かに暖かくなったけど暖かくなりすぎだ、どうすんだこれ……

 

そんな内心が表情にでてたのか、一色は俺の顔を見ると

眉根を寄せ口をへの字に曲げ不満を露わしてくる。

 

「城廻先輩とはにやにやしながらずっーと、手を繋いでいたじゃないですか」

 

一色は唇を尖らせて拗ねたようにいうと、ぷいっとそっぽを向いてしまう。

いわれて、まあ傍からみたらそう見えるかと思い誤解を解こうと口を開く。

 

「いや別に、にやにやはしてなかったと思うがな。

それに繋いでいたというより、掴まれていたんだけなんだが」

 

「年上お姉さんに手を掴まれちゃう、モテる俺自慢ですか?」

 

「自慢じゃないですし……。それにこういうのは、なんかほらあれじゃない?」

 

「なにがほらであれなんですか?」

 

一色は不機嫌そうに言うと、ぷくっと頬を膨らませて横目で睨んでくる。

 

「他にもあります。なんかここ最近、先輩の私の扱いが雑すぎじゃないですかね?」

 

「いや、前からだろ?」

 

言うと、一色はかくりと肩を落とす。

そして俺を薄く睨みながら、恨めしそうな声を出す。

 

「前からですけど……。そこは反省して欲しいんですけど?」

 

「お前そう言うけどな、お前の俺の扱い、最近どころか最初から雑だよね?」

 

「それは全然良いんです!」

 

「いや、全然良くないと思うぞ?」

 

いうと、一色は指先を唇に当て、何か考えるように口を開く。

 

「ではですね。先輩は私にどういう扱いをして欲しいですか?」

 

一色は言うと、両の手を後ろに組み首を傾げ、楽しげに覗き込んでくる。

 

「んーまあ、もう少し尊敬というか謙虚な態度をだな……」

 

その視線から逃げるよう顔を逸らし応えるが、途中で声が詰まる。

ふむ、謙虚な一色か……。

想像してみるが俺の溢れる妄想力を駆使しても上手くイメージが浮かばない。

まあ有り得なさ過ぎるので、仕方ないのかもしれん。

それに万が一、一色が俺に謙虚な態度で近づいてきたら、

何か裏があるに違いないと疑うこと間違いなしだ。

でもまあこいつはこれでいいのかも知れんな。なんかもう慣れたし。

 

「一色はなんつーか、今のままで良いかも知れんな」

 

「つまり、それは今まで通り、可愛らしい後輩の私に我侭をいって欲しいってことですよね?」

 

ああ、自覚はあるんだと思いつつ、得意げに胸を張るその姿を見ると、思わず微笑んでしまう。

でも俺、可愛いとか一言も言ってないよね? まあ可愛いけどさ。

 

「まあなんだ、お手柔らかに頼む」

 

「はいっ わかりました!」

 

そんなやり取りを交わしていると、強くなった風が雨雲を連れて行ったようで

雨はいつの間にか止んでいた。

 

 

 


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