やはり俺の数学教師が一色というのは間違っている   作:町歩き

15 / 93
読書をしない人への読書の薦め方(失敗例)

既に夕刻と呼ぶにはやや遅く、川沿いの並木道は暗くなってきている。

東京湾に沈む夕日を背にして、駅へと向かう道を一色と二人で並んで歩く。

 

「そんな難しいことした訳じゃないんです。弟に教えるときと同じようにしただけなんですよ。

だからやり方と聞かれても何て答えれば良いのか……」

 

てこてこ歩きながら俺がした勉強の教え方を教えて欲しいという質問に、

一色は小難しげな顔で首を捻る。

そんな悩ましげな彼女の姿に、俺の悩みもさらに深まる。

人と協力すること。

俺はあまりそういう経験がないから、誰かにきちんと勉強を教える方法がわからないのだ。

 

それで仕方なく、ざっと記憶をさらってみる。

すると、一色本人が口にした国語が苦手な理由を思い出す。

読書を殆どしない彼女は文章自体にあまり慣れていないとのこと。

なので、もしかして英語も苦手か? と尋ねると、一色は困ったような表情を浮かべる。

まあ同じ文字を扱う学問だから仕方ないのかも知れない。

そう思っていると、一色は拗ねた口調で英語不必要論をぶちかましてくる。

 

「だって、日本語あるのに英語っていります?」

 

その日本語もお前は不自由なんだろうが……、と思ったが、言いたいことはわからんでもない。

ならばどちらかの学力を上げれば、ある程度はもう片方の学力も上がるかも知れない。

 

国語と英語の学力を上げる。俺が考える一番手っ取り早く効率の良い方法。

それはそれぞれの言語で書かれた文章を読んだり、もしくは書いたりすることだと思う。

習うより慣れろというやつだ。

最初に読んで次に書いてみる。まあ一杯読んでも書けるとは限らないのだが。俺がそうだし

 

なのでまず本を読む事を薦めようとしたが、興味が無いものを読むほど苦痛な事はないと思う。

それで取っ掛りになるか分からないが、一色が普段どんなものを読んでいるか

尋ねてみることにした。

 

「一色はその、普段どういったものを読むんだ?」

 

「んー、まったく読まないですねえ。長い文章読んでるとすごく眠くなるんです。

なので勉強するのに教科書を読むくらいですね」

 

「そ、そうか、まったく読まないか」

 

予想してた以上に本を読まない一色に、さすがに俺も言葉が詰まる。

読書が当たり前の俺には読まない人の心理がよくわからないからだ。

 

どうしよう……と悩んでいる俺の姿を見て一色は慌てたように

「ファッション誌とかは読むんですけど」と呟く。

 

ファッション誌はどちらかというと読むというか見る絵本だよなぁと思いつつ

一色が興味のありそうなジャンルについて考える。

 

「あ、あと、好きな芸能人が書いたエッセイとかは読んだりしますよ!」

 

考え込んでいる俺を見て、一色は付け足すように言ってきた。

 

芸能人のエッセイか。

あーいうのは確か、専門のライターが当人から話を聞いて綺麗に纏めてると聞いた事がある。

ただ芸能人とかあんま興味ないんだよな、俺。

自分が全く興味がないジャンルだと薦めようがなくさらに困る。

俺と一色が二人とも好きなものか……。

悩む俺の脳裏にひとつだけ、それに近いものが思い浮かぶ。

 

「お金」である。

 

ジャンルといって良いのか謎だがそこからさらに思考を進めると

ある程度ではあるが方針らしきものが見えてきた。

 

「一色。お前、お金は好きか?」

 

俺の言葉に、一色の口が「おっ」と小さく開き、瞳をきらっと輝かせる。

 

「大好きですよ! すごーく好きです! 愛してるといっても過言ではありません。

なんですかくれるんですか、いつでもどこでもいくらでもウエルカムですよ!」

 

食いつきすぎでしょう、この子……。じりじりにじり寄ってくるし。その鼻息も心なしか荒い。

 

「……あげねーよ。むしろ俺が貰いたいまである」

 

呆れた声で答えると、一色はがくっと肩を落とす。

そして恨みをこめた声でぶつぶつとなんか言ってくる。

 

「なんでですかー、期待させておいて、先輩にはがっかりですよ」

 

「いや、そんな肩を落としてがっかりされても」

 

応えながら考える。ふむ、お金には大変興味をもっているらしい。ならば話を進めやすい。

 

「やっぱ好きなのはあれか、諭吉か?」

 

「もちろん、もちろんですよ、先輩!

諭吉さん以外ありえないというか、最初から諭吉さんに決めてました! まであります」

 

なにがあるの……と呆れながらも、予想通りでほっとする。

まあ、諭吉さんを芸能人と呼んでいいのかわからんが、諭吉さん自体は好きそうだ。

諭吉さんがプリントされた紙が好きなだけで、本人には興味はないかも知れんが。

だが全然知らん人よりは、彼女の興味を引けるかもと考える。

 

「一色。なんで諭吉さんが一万円札の肖像なのかわかるか?」

 

さっぱりわからん。そんなぽけっとした顔で一色は俺を見る。

なんか可愛いな、こいつ。と思いながら話を続ける。

 

「中学から高校の六年間も勉強するのに、俺たちが英語を苦手ですませてしまうのは

最初から習う必要がないからなんだ。なんでかっていうと日本語が万能すぎるんだよな。

日本語は凄く応用が効く言語で、英語も含めたほとんどの言語を日本語で訳せるんだ」

 

「だから本屋に行けば日本語で書かれてある本ばかりだろ? 世界文学や学術系の殆ど総て。

それでうちの親父に聞いた話なんだが、じゃあ他のアジアの本屋に行けば、日本みたいに

その国独自の言語で書かれてある本ばかりかというと、そうじゃないらしい」

 

俺の話をふむふむと聞いていた一色は、他のアジアという単語を耳にすると前のめりになる。

 

「先輩のお父さんて、仕事で海外とか行くんですか?」

 

「商社勤めだからな。若い頃はあっちこっちに行ってたらしいぞ」

 

「商社って、確か給料良いんですよね?」

 

「え? あぁ、どうなんだろうな。うちは共働きだけど」

 

なんか伝えたいこととまったく違う方向に、一色の興味が向いてしまっている。

それでも話を聞く気はあるようだ。一色は俺の袖を引くと、並木道沿いのベンチに座るよう促す。

二人でベンチに腰を降ろすと、話しの続きを口にする。

 

「半数が英語の本らしい。なんでかっていうと、英語を母国語に翻訳できないから。

翻訳するにも母国語にはない概念。概念の意味はわかるか? 

物事に対してこんなもんだろうと感じ取る、おおまかな意識と言えばいいのかな」

 

「概念……」と一色は呟き、はてなと首を傾げる。

仕方がない。ここは彼女にも分かり易いように例え話でもしよう。

 

「例えばだな、ある会社で一色が営業の仕事をしてるとする」

 

「いえ、しませんよ私。だって玉の輿に乗って専業主婦になりますし」

 

心外ですと言わんばかりの顔で、しないしないと両手をぶんぶん振りまくる一色。

例え話だっていってんだろと思いつつ、同じく働く気のない俺はそんな彼女に親近感が芽生える。

 

「い、いや。しませんじゃなく、してると仮定してくれ……」

 

「はぁ……」

 

なにやら不満げな一色の表情。まあ気持ちはわかる。働いたら負けだしね。

だがここで諦めたら、一体なんの話をしていたのかわからなくなるので、頑張って話を続ける。

 

「でな、例えば不況だと物が売れなくなるから、一色も現在の不況の中で

営業に朝から晩まで駆け回ってもどうせ売れないだろうと思う」

 

「こういう感じで、何々だからきっとこうだろうというイメージを、

概念と呼んでると思ってもらえればいいと思うぞ」

 

「……なるほど」

 

今度は一色も納得してくれたようだ。ちょっと感心したような目で俺を見てくる。

よしよし多少なりとも俺の評価が上がってくれたようだ。調子にのった俺は更に続ける。

 

「それで翻訳するにも母国語にはない概念が英語には無数にあるんだ。例えば光合成は

英語でphotosyntesisだが、 多くのアジア諸国にはそれに当たる言葉が母国語にないんだ

じゃあ理科の授業はどうすんのって話なんだが、英語で勉強するしかないらしい。

だから何を学ぶにしても英語が必要になるんだ」

 

「昔の日本にも、そういう英語知らずして学問成らずって時期があったんだ。

当時はまあオランダ語だったけど。今の俺たちの文明の基礎を築き上げた

ヨーロッパの人たちの文明思想や学問を日本語で著した本がないから、

ヨーロッパから講師を招いて、その講師の言葉で学問に励んだらしい」

 

俺の話に一色は、ほーと感心混じりの声を出した。

 

「NOVAとかみたいな感じですか? 駅前留学とかそういった感じの」

 

ちょっと違うがまあ認識としては間違ってないだろう。

そう思って頷くと、一色も頷いて先を促してくる。

ここからが本番。上手く伝わるといいんだが……

 

「でもそうやって学んだ当時の人たちはそれで決して満足しなかったんだな。

自分たちに続く明日の子供たちには自分たちが学んだ事を母国語で学んで欲しい。

そこから日本語にはないヨーロッパの言葉を、沢山の造語を作ったりして

日本語化するという途方もない作業をやってのけたんだ」

 

「東大あるだろう。そこに昔は翻訳科というのがあってな、毎日のようにヨーロッパの言葉の

日本語化という仕事をしてたんだ。それをしていたのが福沢諭吉さんとかだったりするわけだ。

経済や自由という言葉は諭吉さんが日本語にしたんだぞ」

 

まるで自分がやったかのように自慢げに語ると、わかったか? と確認するよう一色を見る。

それに応えて一色はにやっといやらしい笑みを浮かべると、親指と人差し指をくっつけて

お金をあらわす丸を作る。なんだよその手……

 

「いくらくらい貰ってたんですかね? やっぱり一千万くらいですかね?」

 

「い、いや……。金のことじゃなくてだな……」

 

どうしてもお金の話にもっていこうとする一色。

お札の肖像画に選ばれるほどの業績を残した諭吉さん。

その彼が書いたエッセイともいうべき学問のススメを、一色に読ませようと企んでた俺は、

困ってしまう。こんなはずでは……

それでも咳払いをして気を取り直すと、なんとか話を続ける。

 

「ま、まあ、だから今の完成された日本語がある訳だ。その仕事の素晴らしさは

一色がさっき口にした「日本語あるのに英語いります?」って言葉につながるわけだ」

 

「俺たちが英語を苦手ですます理由、それはもうそもそも英語が必要でなくなった

言語環境の中で生活してるからなんだよな」

 

そんな素敵な仕事をした諭吉さんの本を読んでみないか?

そう言いかけた俺の言葉を一色は手をあげて遮る。

そしてベンチから勢いよく立ち上がると、えっへんと胸を張る。

 

「わかりました先輩。つまり先輩が言いたいのは、諭吉さんたちの想いに応え

もう英語は勉強しなくても良い! って事ですよね?」

 

「うむ。えっ? そうじゃねーから! 違うから」

 

なんかダメすぎる方向で納得してしまった一色に、俺は慌てて説明しようとするが

そんな俺を尻目に「早く帰りましょー」と一色はいうと、ささっと歩き出してしまう。

 

仕方なく俺もその後を追ってベンチから立ち上がると、

二人並んで歩きながら、駅へと向かったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

× × ×

 

 

 

 

 

 

 

 

 

到着した駅の改札口。改札を抜けた一色と俺はさよならの挨拶を交わす。

 

「先輩。明日、お家にお邪魔させていただきます。

それと勉強会の方、よろしくお願いします!」

 

一色の言葉に、俺はうむっと頷いて応える。

 

一色はぺこりと一礼すると歩き出し、人ごみに紛れてだんだん見えなくなっていく。

その後ろ姿を見送っていると、後ろからとんとんと肩を叩かれる。

 

「あれ? 比企谷くん。また会えたね!」

 

その聞き覚えのある声に、振り返った俺の視線の先には

ほわっとした笑顔を浮かべためぐり先輩が立っていた。

 

 

 




それでは次回で。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。