空物語   作:向ヶ丘こよみ

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つばさキャンサー 其の貳

005

 

 深夜零時。

 片田舎の更に外れ──街灯などは一切置いていない。夜の闇に全てが溶けている。

 月が僅かに僕達を照らしている。

 前世を含めてこんな田舎に住んでいる僕としては違和感を覚えたりすることはない。勿論、こんな夜の闇には大抵何かが巣食っている場合が多い。この街も、前の街も、内と外の区分けがなくなるほどには危険な時間帯である。

 兎も角。

 僕達は自転車を走らせ──戦場ヶ原は自転車を持っていないので、阿良々木の後ろに乗っている──学習塾跡へと辿り着いた。

 その入り口に忍野さんは既にそこで待っていた。

「……え」

 その忍野さんの装束に戦場ヶ原が驚く。

 忍野さんはアロハシャツを既に着替え、頭髪も整え、全身白ずくめの浄衣に身を包んでいた。

 黒い闇の中で映える服装である。見つけやすいと言うべきか。

「忍野さんって神職の方だったんですね」

「いや?違うよ?その道の職にはついてないよ──大学の学科はソッチなんだけどね、思うところあって」

「思うところ?」

「まあ色々さ。何、それでも心配はしないで良いよ。これでも付き合い方は心得てる。無作法でもって台無しなんかにはしないよ。お礼ももらう事だしね」

 お礼というかお札だが。

「一応確認しておくけど、お化粧はしてないかい?」

「しない方がいいと思ってしてません」

「そ。正しい判断だ。阿良々木君と羽川君も体は洗ってきたかい?」

「ああ。問題ないよ」

「僕も大丈夫です」

「ふうん。羽川君は水も滴る、だけど、阿良々木君は代わり映えしないねえ」

「余計なお世話だ」

「じゃ、さっさと済ませちゃおう。三階に場を用意したから」

「場?ですか」

「うん」

 忍野さんを先頭に階段を進んでいく。

 僕はその後をついていき、少し遅れて二つの足音が後ろから響いてきた。

「さっさとって、そんなに早く済ませられるのか?」

「こんな深夜に未成年三人を連れ回してるなんて世間体が悪いからね」

 いや、ホームをレスしている状態でよっぽど悪いと思うが。

「じゃあ、その蟹は手早く退治できるのか」

「退治って、相変わらず考え方が乱暴だなあ阿良々木君は。さっきも言ったけど、今回はケースが違う。委員長ちゃんのときや阿良々木君の時と、悪意や敵意を持ってるわけじゃない」

「相手は神様ってことですか」

「ま、そういう事。だからこうやって平和的に解決をしようとしてるんだよ」

 さて着いたよ、と。

 忍野さんは妙に照っている部屋へと入る。

 しばらく暗闇にいたせいで一瞬目が眩んだ。

 そこには儀式然とした空間──扉を潜った瞬間に分かった。ここは既に神前だ。

「さ、頭を低くして。神様は僕ら人間を、人間がいるとしか認識はしないけれど、事礼儀とあっては話は変わる。群れの中に澱みがあればすぐに気が付いてしまう。神様は大雑把だけれど──」

 ──さて、と。

 頭を下げる僕らの前に忍野さんは立つ。

「これを」

 差し出されたのは透明な液体──臭いからして日本酒だろう。それが手のひらサイズの平皿に入っている。

「私、未成年です」

「お酒を飲むと神様との距離を縮められる。ま、ちっとだけ」

 少し考え込んだ後戦場ヶ原はそれを口に含んだ。嚥下し、少しの間があり平皿は忍野さんに返還される。

「さて」

 渡された平皿を神棚へと戻す。

「落ち着くことから始めよう。大切なのは状況、その場だ。場さえ作ってしまえば作法は問題じゃない──最終的にはお嬢ちゃんの気の持ちよう一つなんだから」

「気の持ちよう……」

「そう。リラックスして。警戒心を解くことから始めよう。此処は自分の場所だ。キミがいて、当たり前の場所。頭を下げたまま目を閉じて──数を数えよう」

 すう、と。この瞬間だけ、僕と阿良々木、そして戦場ヶ原の息を呑む音が重なった。

「一つ」

 雰囲気にのまれるように、頭が自然と下がっていく。

「二つ」

 蝋燭の炎が揺めく。空気が徐々に冷えていくような錯覚を覚えた。

「三つ」

 四月の半ば──寒いといえば寒いが、しかしこの冷えようは異常に思える。

「四つ」

 ほんのり周囲を見渡す。

「五つ」

 忍野さんが数えるたび、蝋燭の灯が揺れる。一見頼りないが、窓のないこの空間で、それは今この場においては確かな明かりだ。

「六つ」

 次いで阿良々木を見る。彼はどうやら落ち着いているらしい。薄寒さを感じている僕とは真逆だった。

「七つ」

 戦場ヶ原を見る。微かに肩が震えているように見えた。

「八つ」

 再び前へと視線を向ける。忍野さんも阿良々木と同様、やはり落ち着いているように見えた。

「九つ」

 数えが終わる。何が始まるのだろうかと、胸中少し穏やかではなかった。

「十」

 空気が平たくなる。息を吸い、丁寧な雰囲気で、忍野さんは「落ち着いた?」と、戦場ヶ原に問うた。

 その言葉に彼女は、さっきよりも明らかに平坦な、それでいて落ち着きを取り戻したらしい。

「はい」

 一呼吸置いてそう答えた。

「そう──じゃあ、質問に答えてみよう。きみは、僕の質問に答えることにした。お嬢ちゃん。きみの名前は?」

「戦場ヶ原ひたぎ」

「通っている学校は?」

「私立直江津高校」

「誕生日は?」

「七月七日」

 忍野さんは、戦場ヶ原に背を向けたまま、淡々と、変わらぬペースで問いかけていく。対する戦場ヶ原も、頭を下げ俯いたままの姿勢だ。

「一番好きな小説家は?」

「夢野久作」

「子供の頃の失敗談を聞かせてくれる?」

「言いたくありません」

「好きな古典音楽は?」

「音楽はあまりたしなみません」

「小学校を卒業するときどう思った?」

「単純に中学校に移るだけだと思いました。公立から公立に行くだけだったから」

「初恋の男の子はどんな子だった?」

 何故か──その質問には、今までの勢いが消え、一瞬の間を置く。

「──言いたく、ありません」

「今までの人生で」

 忍野さんは、続けて、

「一番、つらかった思い出は?」

 遂に戦場ヶ原は、問いに詰まった。言いたくないことは言いたくないと。答えられそうなことを応えてきた彼女ではあったが、ここにきての沈黙。

 この質問にこそ、きっと意味があったのだろう。

 僕は、ちらりと忍野さんを見た。

「どうしたの?言ってごらん。一番、つらかった思い出を聞いているんだ」

「……お」

 言いたくないと拒絶はできない。

 これこそが核心なのだろう。

「お母さんが──」

「お母さんが?」

「あいつらに殺されて、死んでしまったこと」

 直後、戦場ヶ原の背が黒くゆらめいた。

 

006

 

 一つ、思い出した事がある。

 否、思い出したくないとそう思っていただけだ。記憶に蓋をしていた。

 熱に倒れた戦場ヶ原を、家が近く教師からの信頼はまあまあある良い子ちゃんだった事もあり僕が送って行った事があった。

 電話をしてみても家にいる筈の母が出ることはなくチャイムを鳴らし、出てきた女性こそ、戦場ヶ原の母親だった。

 ふと。

 戦場ヶ原の母親の顔を見た。

 戦場ヶ原に遺伝したのであろう端正できれいな顔、そして、ストレートな黒髪が大人になった戦場ヶ原、という言葉がまさにぴったりであった。ただ一つ。彼女とは似ても似つかない、眼。彼女の眼は、まるで何かに取りつかれているようで、狂信的で何かにいつでもすがっているような、そんな眼をしていた。

 だが、彼女の顔よりも、僕の目には──頭に蠢く怪異の方が目立っていた。

 真っ黒で真ん丸な粒が、無数にひしめいていたのである。前世でも見たことがなかったそれに僕は生理的嫌悪を感じ、雑にそれを祓った。

 ……祓って、しまった。

 それが本当は何かもわからずに。

 次の日に、戦場ヶ原は学校を休んだ。きっと熱がひどかったのだろう。

 でもその次の日も、その次の日も。

 彼女は学校へこなかった。熱を拗らせたのか、と、クラスのみんなは言っていた。

 結局。

 戦場ヶ原は卒業式まで学校に来なかった。

「母は──私が丁度熱を拗らせた時に、怪しい宗教団体の奴らに、生贄と称して殺されました」

 戦場ヶ原は語り始める。

「最初の一日は、私がまた病に侵された、と多額のお金を奴等に渡していました。でも──」

「でも?」

「……奴らは足りない、と。そう言って。母の、身体を」

「犯した?」

 戦場ヶ原は震えながら首を縦に振った。

「じっと。耳を塞いで、私は耐えていて、じきに音が聞こえなくなって……リビングに行ったら。母の、遺体、が」

 数秒の嗚咽と共に粘着性のある液体が戦場ヶ原の口から吐き出される。

 異臭が鼻を付いた。

 それでも、僕は耳を傾け続ける。

「……警察は殺人事件として立証して、そのあとその宗教団体の教祖が捕まりました」

「それはよかったじゃないか」

「……でも、お母さんはもう、帰ってきません。あいつらが捕まって、私には、私達には何も残りませんでした。多額の借金以外は」

 これだけの話が、直江津の町に伝わらなかったのは奇跡に近い。

 きっと彼女も口に出したのもはじめてなのだろう。報道もなく、被害は戦場ヶ原の家だけで済んだのもあったのだろうが。

 ただ、この場で僕だけが知っていた。

 僕があのとき祓ってしまったアレのせいなのかも知れないと。

「あのとき、私が、私が代わりになっていれば」

「そう思う?」

「思います」

「本当に?」

「思います」

「だったらそれは、それこそが君の思いだ。どんなに重かろうとそれは君自身がずっと背負っていかなきゃならないものだ。他人任せにしちゃあいけないね」

「他人任せ──」

「目をそむけずに、目を開けて、見てみよう」

 ゆっくりと、それが明確な意思を持って現れる。

「あ、あああああああっ!」

 戦場ヶ原が大声をあげる。

  深海にすむような生物が独特に進化したのであろう節足、そして、その三対計六本の脚には台形のような体がついていて、それとは全く別パーツとして、はさみのような手を、それは持っていた。

 きっと戦場ヶ原にしか見えないはずであろうその体は、背景が透けている──所謂透明という奴だった。しかし所狭しと何かが描かれており、かろうじて見えるその姿を形容するならば蟹──。

「何か──見えているのかい?」

 変わらない様子で忍野さんは戦場ヶ原に尋ねる。

「あの時と同じ──蟹が。大きい、蟹が」

「そうかい?僕には見えていないんだけどなあ。阿良々木くんは、何か見えるかい?」

「みえ──ない」

 僕は今度こそ目を剥く。

 忍野さんにも阿良々木にも見えていない?

 だとすれば、なぜ僕に──。

「何も、見えない」

「だそうだ。羽川君は?」

「あ、み、見え、ない。何も。僕には」

「──本当に?」

「……見え、ません」

「ふうん。……だってさ。本当は蟹なんていないんじゃないか?」

「い、いえ──私には見えますはっきりと──」

「錯覚じゃない?」

 錯覚──こんなものが錯覚なはずなかった。

「錯覚じゃあないなら──まずは言うべきことがあるんじゃない?」

 それを形容するのなら『油断』きっと何かするつもりでもなっかたのだろうが、戦場ヶ原は頭をあげてしまった。どうだろうと。神様にはそんなもの関係がない。瞬間。戦場ヶ原は後ろに跳ねた。

 いや、跳ねたのではない。あまりに驚異的な速さなので見逃してしまったが、蟹自体が跳ねたのだ。蟹はそのまま戦場ヶ原を神床とは逆の位置、後方にある掲示板へと叩きつけた。戦場ヶ原自身に重さがなかったのも相まって壁には徐々に亀裂が入っていく。

 蟹は何をするでもなく、徐々に、徐々に壁へと食い込んでいく。壁が崩壊するか戦場ヶ原が押しつぶされるか。否。結末はどちらにしろ。戦場ヶ原がこのままだと危ないというのは確かだ。

「やれやれ。せっかちな神さんだ。まだ祝詞もあげてないっていのにさ……というか壁になってやれって言っただろう?阿良々木くん」

 忍野さんが落胆したように言う。

 格闘漫画の如く、クモの巣状に割られた壁に磔にされているその前に忍野さんは立った。

「よっこらせっと」

 蟹の脚をつかみ、軽く、まるで体重がないかのようにいともあっさり蟹の体を背負いなげる。

「大丈夫かい?」

 一応、といった様子で戦場ヶ原にそう聞く。面倒くさそうな口調だ。そして、蟹を見下しながら忍野さんはこういった。

「蟹なんて、どんなにでかかろうと、ひっくり返せばこんなもんだよな。こういう平たい物っていうのは踏みつけるためにしかないとしか僕には思えないんだけれど──さて。どう思う?阿良々木くん。始めからっていうのは面倒くさいし手間がかかる──僕としてはこのままぐちゃりと踏みつけるのが手っ取り早いんだけれど」

「手っ取り早いって──ぐちゃりなんてリアルな音……たかが一瞬顔をあげただけじゃないか。あんな程度で──」

「あんな程度じゃないんだよ。結局こういうのは心の持ちようだからね。お願いできないならこうやって──」

 足に力を込めたのだろう。ギチギチと蟹の体が軋む。

「こうやって危険思想に手を出すしかないんだ。鬼や猫を相手してきたようにね」

「……潰しても大丈夫ならそうしちゃったほうがいいと思うんですけど」

 なるべく蟹の方に目を向けず、忍野さんの顔を見ながらそう尋ねた。

「まあ、うん。このまま踏みつぶしちゃったらこれはこれでお嬢ちゃんの悩みはすぐに解決するよね。形の上だけ──根っこだけは刈り取らない形の姑息療法って感じで。僕としては気の進むやり方じゃあないんだけど、この際それもありかもね」

「ありかもって──」

「それにね──阿良々木くん」

 蟹の方に目を向け、自分より格下を、いわゆる見下すような──蔑むような目をして、こう言い放った。

「僕は蟹がとてつもなく嫌いなんだ」

 そう言って、足にさっきよりも力を籠め──

「待って」

 瞬間、壁の前に痛みで震えていた戦場ヶ原が制止の声を上げる。

「待って下さい。忍野さん」

「待つって──待つって何をさ。お嬢ちゃん」

「さっきは驚いただけだから──ちゃんと。できますから。自分でできるから」

「……ふうん」

 足を置いたまま、忍野さんは、

「じゃあ、どうぞ、やって御覧」

 と、戦場ヶ原にそう言った。

 その言葉を聞いた後に、おそらくは阿良々木の視点からではまるで忍野さんにやっているように見えるだろう所謂土下座を彼女はしていた。

 そして、深々と頭を下げ、

「ごめんなさい」

 と、謝罪の言葉を発し、

「それから、ありがとうございました」

 そこに感謝の言葉が続いた。

「でも──もういいんです。それは──私の気持ちで、私の思いで──記憶ですから、私が、背負います。失くしちゃ、無くなっちゃいけないものでした」

 最後には涙が混じったような嗚咽交じりの声で、

「お願いします。お願いです。どうか、私に、私の重みを返してください」

 そう、懇願した。

 祈った。

 一呼吸おいて、彼女は最後にこう続けた。

「だから。お母さんを──私の中に、返してください」

 その一言を最後に、忍野さんの足が、だん、と床にたたきつけられる。

 居なくなって、当たり前に戻ったのだろう。

 還ったのだ。

 その場には呆然と戦場ヶ原を見る阿良々木と、身じろぎもしないまま何も言わない忍野さん、苦虫をつぶしたような顔をする僕──そして、土下座の姿勢を崩すことなく泣きじゃくる戦場ヶ原が残った。

 

007

 

 蟹槌。

 後に僕の嘘を見破った忍野さんは、僕から話を聞いて、即答した。

「そりゃ、羽川くんにも見えるわけだ。真っ黒な、丸い怪異──勘違いされやすいけれど、こいつも神様なんだよ──そうだね。羽川くん。カニビルって知ってるかい」

 カニビルとは、カニを住処とするヒルの一種である。寄生ではなく、一種の共存だ。ちなみにその卵の量によっては蟹の価値を押し上げると言われている。

「蟹槌とおもし蟹はその共存と関係が似ている。おもし蟹の姿が変わっていたとしても、例外ではないって言うところがミソだね。おもし蟹は思いを切り取って、蟹槌は思いを生み出す」

「思いを生み出す?」

「或いは思い出す。お嬢ちゃんのお母さんも、おもし蟹に遭ったんだろうね。その副産物で、蟹槌にも魅入られてしまった」

「どうなるんですか?」

「さあ。そこは様々だよ。部外者の僕が、憶測で話すようなことじゃない。……で、キミはそれを安易に、無闇に祓ってしまった」

「ぐ、うう」

「素人根性で手を出してんじゃねえよ」

 軽薄に、忍野さんは言う。

「ちなみに、今はどうなんだい」

「そう、ですね。うっすらと見えてます」

「そ。じゃあ、まあ、始めようか」

 言って。忍野さんは昨日見た白装束のまま、やはり昨日入った教室へと向かった。

 僕もそれに倣う。

 ──同時に、視界にうっすらと映っていた影が今度は色濃く浮かんできた。

「お神酒は──必要無いみたいだね」

「ええ。あとは自分で」

「どうぞお好きに」

 言ってはいるが、その目線は僕の方に向いている。

 監視というよりは見守っているように見えた。

「……お久しぶりです。戦場ヶ原さんのお母さん」

 頭は下げたまま、目の前の人影に挨拶する。

「そして、すみませんでした。謝って済むことじゃ無いってのは分かってます。でも、もう貴女は怪異でいなくていい。戦場ヶ原は、ちゃんと貴方の死を乗り越えて行きましたよ」

 ゆっくりと、頭を上げる。

 戦場ヶ原母は、僕の目を捉えた。

 ゆっくりと。戦場ヶ原の母は笑う。

「翔さん」

 蟹槌だったものは、言う。

「娘のこと──ひたぎをお願いします」

 瞬きの後、その姿はかき消えた。

 ──そして、思い出した。

 あの時も、僕が戦場ヶ原を送り届けた時も彼女は僕にそんなふうに言ったのだった。

 宗教にのめり込んでも、その根幹にはいつも戦場ヶ原の姿があった。 彼女は想っていた。正気を失っていても自分なりに娘を大切にしていたのだろう。

 要は僕が祓った蟹槌なる怪異がその思いを生み出していた、というのが僕の見解である。

 おもし蟹で奪われた娘への感情を蟹槌は補完していた。きっとそんな背景があったに違いない。だが、僕がその均衡を崩してしまった。娘への感情は徐々に薄れ、宗教に一気にのめり込み、自身をも捧げた。

 そして戦場ヶ原母は死後、思い出した娘への想いだけで新たな蟹槌となり戦場ヶ原に憑いていたのだろう。

「うまくいったかい」

「まあ、そうですね。少なくとも、彼女は」

「そりゃ重畳だ」

 ありがとうございました、と。忍野さんに頭を下げる。

 ひらひらと手を振って僕を見送り、教室のドアが閉じられた。

 階段を下り学習塾跡を出る。

 ……黄昏時を過ぎ、既に月があたりを照らしている。

「あれ」

 そんな夜遅くに、月明かりに照らされた戦場ヶ原が佇んでいた。

「戦場ヶ原さん。どうしてこんなところに」

「羽川くん。少し話があるのだけれど」

「……なんで今?」

「明日明後日は私病院にかかりきりなのよ。急に症状改善したせいでお医者様がどったんばったん大騒ぎ」

「まあ、バナナの皮で滑って転んで階段落ちるような体重の持ち主が急に健康体になったらそりゃそうなるわな」

「ちょっと待って頂戴。そのバナナの皮ってなに」

「いや、今朝阿良々木から聞いて」

「……後で灸を据えておく必要があるみたいね」

「で、話って」

「……そうね。この可憐な美少女を送りがてら話しましょう」

「本物の可憐な美少女は自分では言わねえよ」

 と、しばらく黙って並んで歩き、僕から声をかけようかと思ってやめてを数回繰り返したあたりで戦場ヶ原は重い口を開ける。

「私、中学生のころ貴方の事好きだったのよ」

「………………は?」

 突然何を言ってるのか理解できないままでいると、畳み掛けるように「下ネタとかそういうのを言う男の子っていうのはあなただけだったわ」といった。

 戦慄であった。

 いや、それはあくまで友好だと思っていた。まさかあの時の僕に対して恋愛感情というものを向けていたと思うと、顔が熱くなってくる。すっげえ恥ずかしい。

「けれど」

 一方戦場ヶ原は顔色ひとつ変えずに僕の目を見据える。

「貴方がお母さんを殺したと思うと、そんな感情一切消え失せてたわ」

「……お前」

 知ってたのか、と。

「オカルト的な相談を受けていたのは中学では有名だったし、それに、私あの時寝てはいなかったのよ(、、、、、、、、、、、、、)

 本当に、今思えば随分と少女だったものね、と戦場ヶ原は言う。

「それを言いにきたのか?」

「ええ。昨日の夜までは」

「夜?」

「夢にね、お母さんが出たのよ。私をずっと見てたって、私は私のせいで死んだって、羽川くんに挨拶をしたら、もう行くって言ってた」

「……なんだそれ」

「ほんとよね。でも、現に貴方は忍野さんのところに来た。大方、今朝急にお母さんが出たからビックリして相談しに来たってところだと思うのだけれど」

「……」

 図星である。

「……お母さんになにかいわれた?」

「……恨言の一つでも吐いてくれりゃいっそ楽だったんだけどな。ただ一言、「ひたぎをよろしく」だと」

「……そ。お節介な人ね」

「ああ。でもいいお母さんじゃないか」

「金遣いが荒いのが難点だけれど」

 アパート前で別れ、押していた自転車に跨る。

 ……僕が彼女を──戦場ヶ原ひたぎを好きだったか、と言えば否と答えよう。僕は彼女に、ただ単に妹の姿を重ねていたに過ぎない。前世で残してきた、二人の妹の姿を。

 夜の風は微かに春の香りを帯びていた。

 もうすぐ夏である。

 




これにてキャンサー編終わりです。
迷い牛まではかかるかも知れないしかからないかもしれないです。でもいつか投稿します。絶対に、必ず。それまで気長にお待ちください。

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