千冬と千夏が膝から崩れ落ちるのを、一夏は不思議そうに眺めていた。姉二人からすれば、最愛の弟が自分たちの事を覚えていなくてショックを受けたのだが、記憶の無い一夏には、見ず知らずの年上の女性がいきなり膝から崩れ落ちたとしか思えないのだ。
「この人たち、何で泣いてるんでしょうか?」
刀奈の背中に隠れながらも二人の姉の事を見て、そんな事を口にする一夏。事情を知っている碧だけが、その言葉に反応出来た。
「この二人は一夏さんのお姉さんで、二人とも凄く一夏さんの事を大事に思っていたんですよ」
「お姉さん? 僕はここのお家で生活してるのに、何で二人は別のお家で生活してるの?」
「それは……」
一夏は自分が攫われた事も覚えていない。気が付いた時には拷問されていたので仕方ないのかもしれないが、自分がどんな目に遭って、何故救出されたのかも正確に理解していないのだ。
「一夏君、私たちは向こうで遊びましょ。碧さんはこのお姉さんたちとお話があるみたいだから」
「そうなの? じゃあ仕方ないね」
子供ながらに一夏とこの二人の姉を同じ空間にいさせてはマズイと感じ取った刀奈が一夏に移動を提案する。一夏の方も、刀奈の言う事を信じて移動に応じた。
「碧さん、また後でね」
刀奈の背に隠れながらも、可愛く碧に手を振る一夏。他の大人には驚き以外のリアクションを見せない一夏も、碧には懐き始めているのだ。
そんな一夏の姿を見て、千冬と千夏は小鳥遊碧という人間に殺意を抱いた。自分たちの方がよっぽど一夏に近しい人物なのに相手にはされず、数回会った事があっただけの碧は、一夏からあんな風に手を振ってもらえるのだ。多少ブラコンが過ぎる二人とはいえ、理不尽に思ってしまったのは仕方の無い事だろう。
「小鳥遊……少し話があるのだが」
「わたしも話が出来たわ」
「……何となく想像は出来るけど、あれは一夏君の意思だからね? 私がやってほしかった訳じゃないの。まぁ可愛かったけど」
元々幼い一夏だが、記憶を失ってからそれ以上に幼児退行してしまっているのだ。誰かの後ろにくっついて歩いたり、先ほどのように、無邪気な笑顔で手を振ってくれたりと、見てる周りの人間の心をほっこりさせてくれる行動が目立つ。
だが千冬と千夏にとっては、その行動は自分たちに向けて欲しいもので、他人に向けられているのは耐えられない物であったのだ。
「裁判抜きで有罪」
「控訴上告は却下され、一審で死刑確定」
「じょ、冗談に聞こえないんですけど……」
「「無論、本気だからな!」」
「何この姉妹……凄く怖いんですけど……」
本気の目、一瞬でも気を抜けばやられる、そんな雰囲気が二人から感じ取れる。碧は何とか話題を逸らそうと必死に考えを巡らせ、ここに来たもう一つの目的を思い出してもらう事にした。
「そ、その殺意は一夏さんを攫った連中に向けてくれない? 私に向けてもあまり意味は無いんだけど」
「……むっ、確かにそうだな」
「小鳥遊は何時でも屠れるしね」
千夏の発言を冗談と取れるわけが無かった。目が笑っていない、本当に何時でも屠る事が可能だと目が碧に訴えているのだ。
「では侍女殿、一夏を攫い私たちから天使を奪った愚か者の場所に案内してくれ」
「それから、わたしたちがその場所について暫くは、その場所に他の人間が近づけないようにしてください」
「……一応ご忠告させていただきますが、いくら相手が犯罪者とはいえ、殺人は罪です。ましてや更識の屋敷内でそのような事が行われようとしているのをみすみす見逃すわけにはまいりません」
侍女の言っている事は至極当然な事だが、今の千冬と千夏には通用しない。理屈ではなく感情で動いている今の二人に、正論など邪魔以外の何物でも無かったのだ。
「もし屠るのであれば、その事を一夏さんにご報告しなければならなくなりますが、それでもよろしいのでしたらどうぞ。ご満足いくまで弄り、屠ってくださいませ」
「「………」」
戦力では千冬と千夏に適うはずもない侍女だが、口でなら勝つ事が出来る。それ程行っているわけではないが、やはり年の功だろう。
「……分かった。とりあえず一発殴るだけに止めよう」
「そうね。わたしたちが一夏の恐怖の対象になるのは避けたいものね」
「賢明な判断です。それではご案内いたします」
「じゃあ私はお嬢様たちと一緒にいるから、終わったら呼んでください」
千冬と千夏の行動に興味の無い碧は、案内を再び侍女に任せて一夏たちの許へ向かう。本当なら千冬と千夏も一夏の許へ行きたいのだが、今行っても自分たちは一夏を怖がらせるだけ。断腸の思いで一夏の許へ向かう事を諦めて侍女の案内に従い一夏を誘拐し、拷問した愚か者たちがいる部屋へと向かう事にした。
「念の為に申し上げますが、一撃で屠るのもダメですからね」
「分かっている。私たちだってそこまで愚かでは無い」
「大体屠っても一夏がわたしたちの事を思い出してくれるわけでもないし、簡単に屠ったら己の罪を自覚させられないじゃない」
「左様ですか……」
恐ろしく自分本位――この場合は仕方ないのかもしれないが、侍女はちょっとだけ誘拐犯たちの同情をした。あの集団はこの二人のブラコンの逆鱗に触れ――いや、逆鱗を蹴り飛ばしたのだろうと理解し、案内するのをちょっとだけ躊躇ってしまう。もちろん、同情の余地は無いので、あくまでちょっとだけなのだが。
今のところは天使な一夏……ここからどう展開しようか悩みます……