生徒会室に一夏を連れ込むために、碧と美紀は自分たちが敵ではない事を一夏に伝えなければいけなかった。普段の幼児退行なら、自分たちを敵と思い込むことは無いのだが、今日の幼児退行は何時もと違うものだと二人とも理解していた。一夏が記憶を封印するほどの恐怖を味わった、あの日あの時あの場所にいた人間が今、この学園にいるのだと理解していた。
「落ち着いて、一夏さん。今から安全な場所に連れて行くから」
「嫌だ……怖い……助けてよ、お姉ちゃん……」
「大丈夫ですよ。私たちは、一夏さんのお友達ですから」
「お友達? 僕にお姉ちゃんみたいな綺麗なお友達はいないよ?」
友達と認められていない事を嘆くか、綺麗と言われたことを喜ぶか、美紀は一瞬悩んだが、今はそんな時ではないと思いなおした。
「大丈夫ですから。今から、安全な場所に一緒に行きましょうね」
「いじめない? 怖いことしない?」
「大丈夫ですよ。ほら、一緒に行きましょう」
安心させるように――昔救出した時と同じように、碧が一夏に手を差し伸べる。その差し伸べられた手を、一夏が恐る恐る掴む。
「はい、良い子ですね。美紀さん、先に行って刀奈ちゃんたちに事情を説明してきてくれる」
「分かりました」
自分は碧ほど上手く対応できないと理解している美紀は、受け入れ態勢を整えるべく生徒会室へ急いだ。
「お姉ちゃんたちは、僕の事知ってるの?」
「うん、知ってるよ。私たちが大事思ってる、世界的にも有名な人なんですから、一夏さんは」
「僕は何も出来ないのに……お姉ちゃんたちが凄いだけで、僕は普通の子供だよ?」
「そうでしたね。昔の一夏さんは、本当に巻き込まれただけですものね」
その当時の事をよく知る碧は、一夏を慰めるように話しかける。怖がらせないように、いつも以上に言葉尻を柔らかくし、笑顔で一夏の相手をすることを心掛けていた。
「怖い思いは、もう絶対にさせませんから、安心してくださいね」
「本当? もう痛い事もしない?」
「私たちは、一夏さんを痛めつけたりしませんよ。ちょっと愛情表現が過激な人もいますけど、みんな一夏さんの事が好きなんですから」
「僕も、お姉さんの事好きだよ。何でか分からないけど、とっても安心する」
そう思ってもらえるように心がけているのもあるが、一夏は昔から人の本質を見抜く傾向があった。だからではないが、篠ノ之箒は一夏に避けられていたのだ。
「ここ?」
「そうですよ」
「ここって、僕が入っても怒られないの?」
「大丈夫ですよ。ここは、一夏さんの知り合いしかいませんから」
幼児退行を起こしているのに、細かい事が気になっている様子の一夏に、碧はもう一度安心させるように笑いかけた。
「お姉ちゃんが言うなら、僕信じるよ」
こうも信頼されることが嬉しいものかと、碧は人知れず感動していた。これが織斑姉妹なら悶絶していただろうが、碧はちゃんと分別のある行動がとれる大人なのだ。
美紀の説明を受けて、虚は刀奈に釘を刺した。
「お嬢様、分かってるとは思いますが、一夏さんに抱き着くとか、そういった行動は慎んでくださいよ」
「分かってるわよ。私だって、ふざけて良い時と悪い時の区別くらいつけられるわよ」
「そうだといいのですが」
ため息でも吐きそうな勢いの虚に、刀奈が抗議の視線を向ける。
「虚ちゃん、私のメイドさんよね? 何だかお姉ちゃんみたいなんだけど」
「主の失態を未然に防ぐのも私の務めですから。ですから、姉のように細かい事を申し上げることも度々ございますが、それは全てお嬢様のためを想っての事です」
「そろそろ来ると思いますので、虚さんも刀奈お姉ちゃんもお静かに。今の一夏さんは、私たちと出会ったころと同じくらい繊細ですので」
初めて会った時は、本音がやらかしたのだが、今はその本音はいない。次にやらかしそうな刀奈は、虚に釘を刺されているので大丈夫だろうと、美紀はとりあえずの状況を確認して一夏を待った。
「ここ?」
「そうですよ。みなさん、お待たせしました」
ゆっくりと開かれた扉の先には、大人の体格をした子供がいた。身長では碧よりも大きい一夏が、彼女の後ろに隠れるように中を確認しているのだ。
「一夏君、本当に幼児退行を起こしてるのね……」
「本音のお菓子がありますから、一先ずそれを一夏さんにあげましょう」
「ジュースあったかしら?」
「……お二人とも、誰が一夏さんをもてなしましょうと言いました? 気持ちは分かりますが、落ちついてください」
幼児退行を起こしている一夏を見て、刀奈と虚が暴走しかけたので、美紀がそれを止めた。しかし気持ち的には二人と同じ思いだったのだ。
「えっと……あっ、さっきのお姉ちゃんだ」
ぶんぶんと手を振る一夏に、美紀も控えめながら手を振り返した。
「こっちのお姉ちゃん二人も、僕のお友達なの?」
「どちらかと言えば、家族の方が近いかもね」
「家族? 僕の家族は、お姉ちゃん二人だけだよ?」
「それは『織斑一夏君』の家族だね。でもね、今の一夏さんは『更識一夏』なのよ」
「? よくわからないよ」
しきりに首を傾げる一夏の姿に、刀奈の鼻から愛があふれた、
「お嬢様、もう少し我慢出来なかったのですか?」
「ごめん……美紀ちゃんティッシュ取って……」
なんとも情けない恰好だが、刀奈の表情はとても幸せそうだった。
さすが救出した時を知る女……