VTSとはいえ、香澄にとって美紀と戦うと言う事はすごく緊張する事だった。一学期の成績は赤点すれすれだったことを考えれば、この夏休みの間で学校を辞めるかどうか考えていた前半と、今の状況があまりにも違いすぎており、また相手は国家代表候補生なのだ。緊張しない方がおかしいのだ。
「準備出来ましたか?」
「は、はい! よろしくお願いします、四月一日さん」
「美紀、で良いですよ。クラスメイトなんですから」
「で、ですが……」
「私も『香澄さん』と呼びますから、ね?」
試合前だというのに、こちらの事を気に掛ける美紀に、香澄は力の差を改めて認識した。そして、美紀の気遣いをありがたく思い、呼び方を改めることにした。
「分かりました。じゃあ、改めてお願いします、美紀さん」
「はい。一夏さんに言われてる以上、本気で行きますからね、香澄さん」
「で、出来れば手加減してくれると嬉しいんですが……」
限りなく代表に近い候補生である美紀が本気で行くと言うと、香澄は引きつった笑みを浮かべてそう懇願した。
「そろそろ始めたいんだが、二人とも準備は出来てるか?」
「大丈夫ですよ。一夏さんのタイミングで始めてください」
「わ、私も大丈夫です」
普段より低い声で話しかけられた所為か、香澄が少し驚いた声を上げた。今の一夏は既に研究者モードなので、普段相手の事を慮って柔らかい声質を心掛けている時とはだいぶ声が違う。こっちが地声なのだが、IS学園の生徒の殆どは、一夏の地声を聞いたことは無いのだ。
「一夏さん、どうやら本気でデータを集めたいみたいね。私だけならともかく、香澄さんも聞いてるのに地声を出すなんて」
「あれが一夏さんの地声なんですか?」
「男の子だもん。多少低くて当たり前よ」
「普段は私たちを怖がらせないようにしてた、と言う事ですか……」
一夏のさりげない心遣いを知った香澄は、自分の中の一夏の評価をさらに高いものに変えたのだった。
VTSルームの外では、ダリルが中の様子を窺えないかと扉の前をうろうろしていた。
「何をしてるのかしら?」
「ちょっとトレーニングをしようと思ってたんですが、更識君が使ってるようなので、入っていいのか悩んでただけですわよ、小鳥遊先生」
「そうは見えなかったけど? 中の声を聞こうと必死になってたように見えたんだけど」
「更識の技術は何処の国も知りたいですからね。ちょっとでも聞こえれば開発戦争を勝ち抜くヒントになるのではないかと思っただけですよ。それ以上の考えはありません」
「そう、でもあまり感心しないわね。他人の会話を盗み聞きしようだなんて。これも返しておくわね」
そういって碧は、ダリルが仕掛けた盗聴器をポケットから取り出し、ダリルに投げ返す。それを受け取ったダリルは、一瞬だけ顔を顰めたが、すぐに何時もの表情に戻った。
「仕掛けるならもっと精巧で小型のものにするのね。それなら本音ちゃんですら見つけることが出来るわよ」
「先生は私が仕掛けたと思ってるのですか? それは心外ですわよ」
「あまり大人をなめない方が良いわよ。今回は未遂だから見逃しますけど、一夏さんに危害を加えようものなら、学園の生徒だろうが他国の代表候補生だろうが関係なく、貴女を潰します」
「随分と怖い事を言いますわね。まぁ、これ以上疑われたくないのでトレーニングは諦めますわ」
碧の殺気を肌で感じたダリルは、捨て台詞のように吐き捨ててその場から退散した。角を曲がり碧の視界から抜けたダリルは、盛大に舌を打ち鳴らした。
「やはり暗部組織の人間……一筋縄ではいかないようね。ただの次期当主候補じゃなさそうね、あれだと……」
そこまで愚痴をこぼして、ダリルは人の気配を感じ取り独り言を止めた。
「何をしてるのですか? 今の時間、VTSルームは生徒会が貸し切っているはずですが」
「布仏……そうみたいね。トレーニングしようとして、小鳥遊先生に止められたわ」
「そうですか。利用可能時間は二時間後ですから、それまでは別メニューでトレーニングしてください」
「そうするわ。ところで、なんで布仏がここに?」
この先にはVTSルームくらいしかないので、虚がここにいる理由は一つしかない。だがそれに気づかないフリをして、ダリルは虚に問いかけた。
「生徒会の案件で一夏さんに確認したい件があったのでここに来ただけです。しかし、何故そのような事を気にするのです?」
「一夏君に興味があるから、って言ったら信じる?」
「信じませんね。貴女は後輩のフォルテ・サファイアとそういう関係だとお嬢様から聞いたことがありますので」
「恋愛は自由でしょ? 女の恋人がいるからって、男の子に興味がない訳じゃないんだから」
「私には分からない考え方ですね。とにかく、VTSを利用したいのでしたら、アリーナ同様生徒会か職員室で許可をもらってからにしてください。例え候補生であろうと、ルールはルールですので」
「分かったわよ。じゃあ布仏、二時間後に私が使えるようにしておいてくださいな」
「分かりました。では、私はこれで」
ダリルの横を通り抜けVTSルームに入っていく虚を、ダリルは忌々しげに睨んでいたのだった。
「布仏……やっぱりアイツは嫌いな部類ね。まぁ、いずれ決着をつけられるでしょうけど」
意味深な言葉を零し、ダリルは今度こそVTSルームから寮へ戻る廊下を歩き進める。そんな彼女の事を、見張るようにしていた視線には、最後まで気づかなかったのだった。
さすがの一夏も、亡国機業のスパイだとは分からず……