学校暮らしは大変です。   作:いちちく

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くるみさんのターンです。


♭1

 

 

 

 

 あの悪夢が始まってから、今日でもう三日目だ。

 

 皆はすっかり変わってしまって、『あいつら』になってしまう悪夢。

 変わってしまった皆の中で、あたしたちだけが取り残されてしまう、そんな悪夢。

 無駄だと分かってはいるが、それでも早く覚めて欲しいと願ってしまう。

 もう一度、先輩やみんなと笑って過ごせるあの日常が戻ってきますように、と。

 

 それが絶対に叶わない願いだと、知っていながら。

 

 

 

 

 

 朝、固い屋上の上で目が覚めた。

 ここに毛布を敷いて寝るのはこれで三回目だが、やはりまだ体が慣れない。慣れてくれない。

 うんと伸びをすると、背骨がぽきぽきと小気味いい音を出す。

 ふと空を見上げると、どんよりと曇った灰色の雲で覆われていた。

 

 軽く首を振ったり、手首足首を回したりして体をほぐす。

 冷え切っていた体に、腹の底から段々と熱が戻ってくるのを感じる。

 

 よし、これなら大丈夫そうだ。

 そう判断して、ドアの横に立てかけておいたシャベルを手に取って、軽く振るう。

 この三日間でもうすっかり手に馴染んでしまった重さが、今ばかりは頼もしい。

 これがあるから、あたしは今、あたしでいられるから。

 もしこの道具がなければ。

 

 あたしは生きる意味のない、ただのお荷物でしか無いのだから。

 

 大きく息を吸い込んで、そして全ての空気を吐き出す。

 梅雨時で少し湿った空気からは、微かに屋上農園の土と草、そしてグラウンドから漂う錆臭い血と肉の臭いがした。

 鉄パイプで支えをしたドアからは、ドンドンとあいつらの誰かが扉を叩く音が聞こえる。

 早いとこ片付けないと。

 

 恵飛須沢胡桃は、全身で感じた現実の感触を確かめると、この悪夢はまだまだ続きそうだと、ぼんやり考えた。

 鉄パイプを持ち上げ、扉を開きざまにその手のシャベルを振り下ろしながら、そう感じた。

 

 

 

 

 

 屋上付近のあいつらを片付けてから三階に降りると、そこには床をモップで掃除するめぐねえがいた。

 そのモップの先端は、赤黒い液体で染まっていて――。

 そこであたしは考えるのをやめた。

 代わりに、出来る限り明るい表情と声音でめぐねえに話しかける。

 

「おはよー、めぐねえ」

「おはよう恵飛須沢さん。あとめぐねえじゃなくて佐倉先生」

「いーじゃん、かたいこと言わないどいてよー。……それにしても、早いね、めぐねえ」

 

 ちょっと、早すぎる。

 片付けたゾンビを捨てに行くのに少し時間がかかったから、その間に降りていたとも考えられるけれど、モップやバケツの水の汚れ具合から見ても少し無理がある。

 ということは?

 

「ああ、私は先に彼と一緒にこっちに来てたのよ。早起きしたら丁度彼が降りるところだったから、無理言って付いてきたの」

「……ふーん。そうなんだ」

 

 めぐねえが事情を説明してくれた。

 その時に出てきた「彼」という言葉を聞いて、途端にあたしの頭が冷えてきた。

 それは冷静さという冷たさではなく、冷酷な敵意なのだろうと思う。

 無意識の内に目が細くなる。

 

 それに気づいたのか、めぐねえは少し悲しそうな顔をして、それでも笑顔を保ちながら言った。

 

「……あんまり、彼のこと嫌いにならないであげてね。恵飛須沢さんの気持ちも分かるけれど、彼も仕方なかったのよ」

「……分かってるよ。分かってるんだけど、さ。どうにもならないんだ」

 

 この湧き上がる衝動は。

 ふと気づくと、シャベルを握る右手が力の入れすぎで白くなってしまっていた。

 ふっと自嘲気味の笑いが鼻から漏れた。

 

 なにやってんだろ、あたしは。

 

 今はそんなことしてる場合じゃないのに。

 こういう非常事態では、たとえどんなに嫌いな相手であっても仲良くやらなきゃいけない。

 しかもそれが、あたしたちにとって重要な役目を背負ってくれている人となれば尚更だ。

 それは分かっているはずなのに。

 体が言うことを聞いてくれない。

 何とかして右手に篭もる力を抜こうと頑張ってみるが、結局うまく行かずに諦めた。

 

「……で、あいつはどこ行ったの?」

「彼ならさっき、返り血を流してくるって言ってシャワー室に。あと、あいつじゃなくて柿ヶ谷先生」

「はいはい、分かってるってめぐねえ」

「佐倉先生です。……本当にどうしようもなくなる前に、ちゃんと相談して頂戴ね」

「……ん、ありがと」

 

 それだけなんとか言葉を返すと、めぐねえはモップとバケツを持って女子トイレへと入っていった。

 ……さて、あたしも仕事しないと。

 

 今度は自分の意志でシャベルを握り締め、あたしは二年の教室に向かった。

 

 

 

 

 

 二年の教室前の廊下はとても静かだった。

 今日が日曜日だからおおよその生徒は校外に出ているというのもあるのだろうが、それにしても少ない。

 あたし以外に、歩く足音が一つもない。

 いや――あった。

 

 前を見ると、しっかりとした足取りで誰かが歩いてきているのが見えた。

 先輩よりも更に大きく、太い影。

 その影はどす黒い染みが所々についている、真っ赤なジャージを着ていた。

 肩には、普通の蝙蝠傘を担いでいる。

 

 その顔が見える直前であたしは目線を下に逸らした。

 顔を見ると、自分が止められなくなりそうだったから。

 

 大きな赤い影は、私の近くまで来ると声を掛けてきた。

 

「おはよう、恵飛須沢。早いな」

「……おはようございます。先生」

 

 出来るだけ普通の声音で返事をする。

 彼はそれを聞いて、少し笑ったようだった。

 

 柿ヶ谷先生。担当科目は国語。

 趣味は体を動かすことらしい。

 

 下の名前は知らない。

 先生は二年の担当だったし、部活顧問をしていた陸上部にも月に一度ぐらいしか顔を出さず、特に話す機会もなかったからだ。

 そして今は、進んで話すことを避けている。

 

 あたしはこの人が死ぬ程嫌いだからだ。

 もっとも、だからと言ってこの人がやってくれた事に感謝していない訳じゃないが。

 

「二年の教室はあらかた片付いたとは思うが、一応警戒はしておいてくれ」

 

 なんでもないように先生がそう言ったことに、顔には出さなかったが内心驚いていた。

 ここに居たあいつらの数は日曜だからそう多くはなかったが、それでも数体はいたはずだ。

 それをたったひとりで、どこにでもある普通の傘で倒す。

 顔色一つ変えずに、淡々と。

 

 とても普通の人間ができる所業とは思えなかった。

 あいつらを倒した、倒してしまったあたしだから分かる。

 

 この人は、『普通』じゃない。

 

 そして、だからこそあたしはこの人が嫌いだ。

 何故って、教え子であったはずの先輩を殺しても、平然としていられるのだから。

 あたしは、同じ学年だった、会話もろくにしなかった生徒だったモノを片づけるのにも動揺したというのに。

 その、どこから来ているのか分からない冷静さに腹が立つ。

 

「おい、恵飛須沢。大丈夫か?」

 

 ふと気付くと、あの人があたしの顔を覗き込んでいた。

 その顔は本当に心配そうで、先輩を殺した時のあの顔とは大違いだった。

 

「……なんでもないです。大丈夫ですから」

「……本当か?」

「平気です。心配しないで下さい」

 

 いつかこの人があたしに、先輩に向けたあの表情を向ける時が来るかもしれないと思うと、ぞっとする。

 そしてその時が来る可能性は、あたしがあいつらの掃討を続ける限り、なくならない。

 でも、だからと言ってやめる気はない。

 

 何故って、これがなければあたしはただの役立たずでしかないのだから。

 何一つ価値もない自分なんて、あたしは耐えられない。

 そんなんじゃ、先輩に顔向けできない。

 だからあたしは戦うんだ。

 ここから無事に脱出する、その時まで。

 

「……そうか。無理だけはするなよ」

 

 あの人はそう言って、職員室の方へと歩いていった。

 私物でも取りに行くのだろう。

 彼は昨日、一度も休まずにこの階と二階の制圧のために動いていたから、そんな暇はなかった。

 あたしもそうしようとしたけど、無理するんじゃないと止められた。

 

 人に無理するなって言うくせに、その実自分が一番無理してる。

 

 そういうところが大っ嫌いなんだよ。

 

 

 

 

 

 三階にはあいつらは殆どいなかったので、今日は思い切って二階の購買に物資を取りに行くことになった。

 主に制服とか生理用品とか、そういうものをだ。

 

 めぐねえが掃除してくれていた三階と違い、二階は血の臭いが充満している。

 床にもあちこちに血溜まりが出来ていて、ここで何があったのか容易に想像できてしまった。

 

 一緒に行ったりーさんもゆきも想像してしまったのか、顔を青褪めさせている。

 数が数だし、仕方ないのかもしれないが、いくら何でも酷い。

 

「ここも、後で掃除しないとだな」

「……ええ、そうね。雑巾とモップもいくつか取って来ましょ」

 

 ポツリとこぼした独り言に、りーさんが相槌を返してくれた。

 

 りーさん。本名は若狭悠里。

 一、二年の時はクラスが同じで、結構仲の良かった家庭的な女の子。

 細かい気配りが出来るけど、不測の事態にはちょっと弱い子だ。

 

「購買の備蓄って、どこにあるんだ?」

「ああ、衣類とかはそこの奥の引き出しで、雑巾はあっちの棚の中にあったはずよ。ダイヤルは4869で開くから」

「りーさん、お菓子どこにあるか分かるー?」

「お菓子はその引き出しの中よ。きなこ棒だけは向こうの隠し戸棚の中に入ってるけど」

「ありがとー!」

「……何でそんなに詳しいんだ?」

「……ないしょ♡」

 

 ……あと、何故か学校の構造を知り尽くしている。

 理由は不明。聞くとはぐらかされる。

 もっとしっかり聞き出したいけど、聞いたらもう引き返せないような気がしてとても怖い。

 

「なあ、りーさん」

「なに?」

「この学校の購買、前から品揃えが豊富だったのは聞いてたけど……何で制服とかナプキンとかも売ってるんだ?」

「購買部の意図は私にもちょっと分からないけど、多分顧問の先生の趣味じゃないかしら? ……あ、それだけじゃなくて、布団とかブランケットもあるわよ。カウンターの下の段ボールに」

「だから、なんでそんなに詳しいんだよ……」

 

 何はともあれ、物資は無事に回収することが出来た。

 途中でゆきが暴走して、お菓子を買い占めようとしていたが、りーさんにすぐに捕まっていた。

 

 その時何があったのかは、聞かないことにした。

 

 

 

 

 




大幅に修正入れました。
事件発生日の思い出は、後で主人公の日記でやります。
あと一、二回はくるみさんのターンが続く予定です。

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