どれみとおんぷ ♪ 春夏秋冬   作:シャンティ・ナガル

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第九話 春の終わり

 

           ♪

 

 漆液が器の中を たわみながら流れていく。

 差し込まれた刷毛から逃げるように、まとわりつくように漂い、光沢が滑らかに変化する。

 

 まるで、生き物だ。

 小人がわらわらと群れているようにも見え、アメーバなどの一個の流動体のようにも見える。

 

 

 共通しているのは、物言わぬということ。

 

 息を潜めるような、神秘性を湛え。

 

 巡礼のように黙々と、礼拝のように粛々と。

 

 漆液は一つの縮図として、静謐な光輝を放ち、循環するように器をたゆたう。

 

 

「おんぷさは熱心やな~。そんねに必死に見ても、しょうもないやろ?」

 

 雄介さんが照れ臭そうに笑った。

 

「楽しいです。物が作られているのを見るとワクワクしますよね」

 

「そうかえな? そんならええが……まったく、どれみの奴もおんぷさ見習ってほしいで。奴はこの仕事のことなんにも分かっとらんぞ」

 

 喋りながらも雄介さんの手は止まらず、作業は着々と進む。

 呼吸と同じような均一な動作、それでいて他人には決して真似出来ない熟練の手並みだった。

 

 

 

 とある日曜の昼下がり、春風家の工房で漆塗りを見学していた。

 

 最初はどれみも一緒だったけど、開始数分も経たない内から飽きてしまい蜜を求める移り気な蝶のように、ふらふらとどこかに行ってしまった。

 

 雄介さんは何時もことだと言う風にそれを無視し、わたしはどれみの誘いを断り 工房に残った。

 

 「トホホ~。おんぷちゃんにフラれちゃった~」と背中を丸めて去っていく どれみに罪悪感を覚えながらも、苦笑いで見送った。

 

 

 今は、雄介さんと二人きりだ。

 

 友達の祖父とはいえ、気まずくないと言ったら嘘になるけど、お互いにやるべき事があって手持ち無沙汰ではなかった。

 

 

 雄介さんは、もちろん漆塗りの作業。

 

 対して、わたしは――分からない。

 

 

 さっきの言葉も建前だった。

 別に楽しくもなければワクワクもしていない。

 そんなものはこの場に止まる名目に過ぎない。

 

 

 あの日―――

 

 工房に初めて来た時に受けた感動は、今も泉のように溢れだし、心に本流を作り出していた。

 

 わたしが求めるのは、その『源』だ。

 その答えを探るため、舞い上がる微粒子にすら目を配るほどの集中力を発揮する。

 

 焼き付くような衝動だった。

 

 

 何故、こんなにも自分が熱心に見ているのか。

 

 何故、こんなにも心を揺さぶられるのか。

 

 何故、こんなにも――美しいのか。

 

 

 その疑問は、『予兆』を感じさせた。

 

 小さな羽ばたきが、いずれ大嵐を巻き起こすような、予兆。

 何かが大きく変わろうとする、その引き金を、指にかけていた。

 そして今、ここにいる自分自身に命数を感じざるを得なかった。

 

 

 初めて『春慶塗』を手に取った時のことを思い出し、電流のように走った感覚が蘇る。

 

           ♪

 

 胸に槍が突き刺さったかのような衝撃。

 衝撃は心より更に深く、切り刻み、打ち抜き、押し入り、遂には『我』に到達した。

 

 我如は硝子となって叩き割れ、破片が光を放って散乱する。

 しかし、瞬間、テープを巻き戻すかのように破片が宙を舞い、また組上がり、何事もなかったと素知らぬ顔で自我は『瀬川おんぷ』を象る。

 

 その時には、もう変わっていた。

 今の今まで草原だった大地が朝日を浴びた途端、森に一変するように。

 

 中身が掏り替わるなどという話ではない。

 心のあり方が一歩前へと進む。

 それが自分の意志とは関係なく起こったことに茫然としたのだ。

 

『瀬川おんぷ』という土壌はそのままに、豊かな生命が蔓延る。

 煌めきが粒子となって体内を巡った。

 

 肉体と精神は初々しい軽みに支配され、疑問という重みがゆらぐ。

 

 ずっと昔からそこにあったかのように振る舞いだす情動に、まるで自分の中に もう一人の自分が生まれたかのような強烈な疑念を感じた。

 

 

『以前』の記憶が、『わたし』を見ていた。

 

 以後の『わたし』が、『わたし』を見ていた。

 

 

 鏡を見ているかのように、瓜二つ。

 心に線を引かれ、境域を分け合う。

 

 ドッペルゲンガーのような嫌悪感はないのに、「ああ、そう」と笑い合うと違和感がある。

 

 あまりに明確な虚像だった。

 影のように曖昧な姿を取りながら、誰もが必ずしも持っている実感だ。

 

 

 ――『わたし』は『わたし』。

 

 

 虚像が呟く。

 

 その言葉は波紋となって広がり心を満たした。

 強い意志が、境域を縫い合わせていく。

 

 その時、疑問は 鮮明な真義を持ち始める。

 物如の光が、虚像の姿を捉えた。

 

 

 名前を知らなければならない。

 

 意味も理由も、必要ない。

 

 それは元々、自分の一部。

 

 名前が無ければ名前を付けなくてはならない。

 

 

 虚像は笑う。

 

 肩をすくめ、まだ思い出せないのかと呆れるように。

 こちらが あたふたとしている間、虚像は ゆったりと寛いでいた。

 ひとときを楽しみ、幸せを噛み締める面持ち。

 

 

 虚像が指を差す。

 

 目線を合わせ、自分の胸を見る。

 そこには何もない。

 胸を撫で、掻き乱す。

 

 

 虚像の指は微動だにしない。

 まるで答えを差し示すかのように、そっと微笑んだ。

 

 

 原郷にて、二人は向かい合う。

 闇の中で二人の姿だけが、はっきりと形を取っていた。

 

 だが、本来は一つなのだ。

 指を差す指。

 胸を撫でる胸。

 実在と虚無の像がぶれ始めた。

 

 

 

 距離感が薄れるように交わる。

 違和感など、あるはずがない。

 

 

 

 大事なことは、『一つ』。

 

 

 

 虚像が言祝ぐ。

 

 ――すなおに なりなさい。

 

           ♪

 

 雄介さんは刷毛で漆液を適量取り、作業台の上に乗せ広げた。

 一回り小さい刷毛に持ち替えて、薄く伸ばしていく。

 横に置いてあった木箱から、重ねられた茶碗を一つ、手に取った。

 

 まるで和紙のように繊維が見え隠れする素碗。

 そのままでも芸術的な品だけれど、目に見えて軽い印象を受け料理が盛られる姿が想像できないほど、弱々しい。

 

 高台を指で掴み 刷毛を取ろうとした時、ふと、雄介さんの手が止まった。

 考えに耽るかのように目を臥せ、数瞬、決断を下し、 わたしの顔を見た。

 

「どうや? 一回塗ってみるか?」

 

 急な言葉に、固まってしまう。

 

「さっきから一生懸命見とるけど、思うことがあるならちぃとやってみいな」

 

「でも、仕事の邪魔に……」

 

「まだ下塗りの段階やから大丈夫やぞ。俺も子供の時にゃ親の手伝いでやったし、どれみだってやったことがある。心配いらん」

 

 好々爺とした表情に軽く勧める口振り。

 

 けれど、その喉の奥に、抑え込まれた険を秘めているのが分かった。

 力強い眼差しが試すように射抜き、静かに漂う気迫が返答を駆り立てていた。

 

 緊張感が にじり寄る。

 何故、とは問えない雄介さんの威圧に趣意を図りかね、わたしは生唾を飲み込んだ。

 

 熱風が叩きつけられたと錯覚するほど、体が熱くなる。

 それに反して、心は青冷め震え出す。

 

 視線を避け、猫背になり、苦笑いを浮かべる臆病な自分。

 残像が頭を過った。

 

 

 でも、一歩だけ、足が前に出る。

 

 

 えっ、と声を漏らしそうになった。

 心は怖じ気づき、脳は命令を発してないのに、体が勝手に動き出す不規律さ。

 

 おんぷの背中を、『何か』が押していた。

 

 

 

 ――すなおに なりなさい。

 

 

 

 思わず後ろを振り向きそうになって、止めた。

 代わりに、ふっ、と 小さく笑う。

 

 呆れが混じった吐息。

 答えはもう出ていたんだ。

 こんなことも分からなかったのかと頭を掻き毟りたくなるけど、いいや、と煩悶を放り投げた。

 

 今は、やることがある。

 胸を張り、背筋を伸ばした。

 決意という影が、わたしに重なる。

 指一本に至るまで満たされ体を支配していく。

 

 意志と体が完全に一致し、今度こそ、自分の足で、前へと歩き出す。

 

 

 

 雄介さんは満足したかのように、にこりと笑った。

 

「待っとれ。漆は手に付くと かぶれるけぇ。ゴム手袋を――」

 

「いいです」

 

 さっと手を上げ、断った。

 声は小さくても、はっきりと言い切る。

 

 今の感情を純粋にぶつけたかった。

 間にどんなに薄くても隔たりを入れたくない。

 

 呆気に取られてた雄介さんは、「そうか」と言うだけで特に反論もせず腰を下す。

 

 作業台を回って、雄介さんの側に寄った。

 雄介さんはわたしに席を譲り斜め後ろへと座り直して、説明を始める。

 

「茶巾摺……器の内側をぐるっと一塗りや」

 

「はい」

 

「漆の量は気にせんで、べたっと塗りゃええ。縁をくん出んように真ん中やぞ」

 

「分かりました」

 

 一つ一つの指示に、わたしは頷きを返した。

 

 説明を終えた雄介さんは後ろへ身を引き、後は見守るように口を固く結ぶ。

 

 その沈黙が開始の合図だった。

 

 

 刷毛を手に取る。

 絵筆とは違い、持ち慣れない。

 力を込めたり緩めたりと、手応えを確かめる。

 

 握り心地に違和感がなくなると、作業台に広げられた漆液を掬い取った。

 滴り落ちる漆は、ぽつぽつと溜まり山を築く。

 しっとりとした質感が、今の猛りを包み込むような温もりを与えてくれた。

 

 次は素碗に目を移した。

 弱々しい印象とは裏腹に、間近で見て触ると 飛び跳ねそうなほど生き生きとした活気が指を通して伝わってくる。

 

 俯瞰するように全体を見渡す。

『瀬川おんぷ』という意識すら透明にして、体を弛緩させる。

 

 全身全霊を統率する全能感。

 今度こそ、自分の意志で――

 

 

 

 漆が染みた刷毛が、じわりと素碗に落ちる。

 

 そのまま滑るように、内側を回った。

 

 刷毛を引き、ゆっくりと素碗を置く。

 

 束の間のことだった。

 

 

 

 雄介さんが出来を確かめようと顔を覗かせ、素碗を手に取る。

 しげしげと眺め、一言。

 

「筋がええ」

 

 その一言に、わたしの頬が火照った。

 さっきまでの落ち着きはどこへやら、血流が速くなるのを感じる。

 まさか誉められるとは思ってなくて、完全な不意打ちだった。

 

「いっ、一回で分かるものなんですか?」

 

「分かる。何十年とやっとるとな。塗りは単純やけど、その分職人さの腕が大きく関わるんぞ」

 

 照れ臭さで声が上擦ったわたしの問いかけに、雄介さんは何でもないかのように断言する。

 

 

 後を引き継いで漆塗りを始めた雄介さんの手際は鮮やかだった。

 傍らで見ると尚の事、それがよく分かり、わたしとは雲泥の差のように見える。

 先の一言をわたしに怪訝に思っていた。

 

 

「……おんぷさ、こりだけは憶えておって欲しいんや」

 

 狼狽するわたしを気にすることもなく、素碗を塗りながら雄介さんが呟く。

 

「こりからこの素碗は漆器になるまで何遍も塗って乾かしを繰り返す。おんぷさが塗ったのはたった一遍やけど……それは確かに刻まれとる。その一遍でも抜かしたらこの漆器は完成せんのや」

 

 すっすっと碗を塗る音が静寂に相槌を打つ。

 

「漆器は大切に使えば、百年や千年を平気で保つ。人から人へ、時代を越えていくんや。その時、おんぷさのひと塗りも一緒に受け継がれていくんぞ。それだけは忘れんとって欲しい」

 

 それっきり、雄介さんは黙々と作業をする。

 意識を張り詰めて、見据えるのは素碗だけ。

 

 何者も邪魔はできない。

 ここからは、職人の領域だ。

 

 

 

 わたしは作業を眺めながら神妙な面持ちで、さっきの言葉を受けとめていた。

 

 物を作るという意義。

 それを担うことが、どれ程重要なことか。

 身が引き締まるような思いだった。

 

 けれど、静粛な心の中を矛盾して、興奮が後から後から沸き上がっていた。

 

 自分が死んだ後も、漆器は残る。

 たった一遍でも、自分の軌跡が、他の人生を渡り歩いていく。

 先の見えない未来を見続けるのだ。

 

 その尊さに、手が震えるほど感動を覚える。

 嵐のように感情が舞い踊って、抑えつけようと必死だった。

 

 

 素碗は、雄介さんに上から塗られ、わたしが塗った部分は見えなくなっていた。

 けれど、どんなに上書きされても、その第一層は、わたしが塗った。

 それを知っているのは、二人だけ。

 

 あの碗の中に自分が隠れていると思うと、なんだかこっそりと宝物を埋めたかのような、むず痒い気持ちになった。

 

 頬が緩み、瞼が熱くなる。

 笑いたいのやら、転げ回りたいのやら、忙しい感情を胸に抱き込むように、わたしは雄介さんの後ろで静かに悶えていた。

 

 

『予兆』は昇華され、嵐の中を渦巻く。

 それは、『瀬川おんぷ』の生き様に混ざり合い、星の輝きとなる。

 

 

 ――好き。

 

 

 素直に受け入れて、疑わない。

 

 それ以上、他に何もいらない。

 

 

 心臓が細やかな鼓動を打つ。

 居た堪れない高揚が、わたしを急き立てた。

 内緒になど、できない。

 

 

 今すぐ、会いたかった。

 

 行って、この気持ちを一番に伝えたい。

 

 

 ――どれみちゃん!

 

           ♪

 

「ふぁ~ほ~! ふぁ~ひ~! ふぁ~ふ~!」

 

 

 ――なに、これ?

 

 

 第一印象は、熊のゴロ寝。

 

 

 

 わたしは工房を出ると、どれみを探し始めた。

 本家の方へ戻り、庭に入ると、苦もなくどれみは見つかった。

 

 見つかるのも当たり前だった。

 自分から、居場所を主張しているのだから。

 

 けたたましい空気音が春風家に響き渡る。

 最初は、陸さんが掃除機でもかけているのかと思い、音の方へ向かってみると、どれみが縁側で昼寝をしていた。

 寝姿の酷さといい、音源の正体といい、二重の驚きで、わたしはぎょっとしたまま立ち竦んだ。

 

 

 ごろんと横になり、塵埃お構い無しの大口で鼾をかいている。呼吸だけで どうしてそこまで大きい音が出るのか、謎だ。

 これでもかと体を広げ、陸さんが掛けたであろうタオルケットを激しく蹴飛ばす。

 脇には束の楽譜が散乱し、頭のお団子は解き放たれ洪水のように廊下に髪が溢れていた。

 

 もはや、災害レベルの寝相だった。

 

 

 あまりの寝入りっぷりに唖然とし、肩の力が抜けてしまう。

 心の締まりが緩み、今日得た感動や話そうとしていた言葉達がぽろぽろと零れ落ちていく。

 胸の底に穴が開いたような物足りなさで、体が妙に軽い。

 

 でも、わたしは、それを再び拾い集めようとは思わなかった。

 これでいい、と深い息を空に向けて吐き出す。

 

 どれみの大鼾で絡まった思考が吹き飛ばされ、心の隅々まで空っぽになる。

 脱力感が覆い被さり、『瀬川おんぷ』という一個の重さだけが残った。

 

 その重さが、少しだけ増えた気がする。

 重心がずれ、喜びとも悲しみとも判別がつかない深みへと一歩踏み出す。

 今はそれが、よりよい未来に繋がっていると信じたい。

 

 

 なんとなく、この寝姿がどれみの返答のような気がした。

 わたしとしては悟りの境地でも、どれみとっては当たり前のことなのかもしれない。

 話したかったことを態度で先回りされ、ぷっと吹き出してしまう。

 

 

 ――どれみちゃんらしいわね。

 

 

 健気さだけを持って、前へ進んでいく。

 

 木々や花々が成長するように小さく

 

 月や太陽が動くように大きく

 

 暖かさの中で、ゆっくりと――

 

 

 おんぷはすとんと収まるように、どれみの側に座った。

 

 タオルケットをかけ直し、楽譜を整える。

 鼾だけはどうしようもなかったけど、「起きるかな……」とイタズラ心に どれみの鼻を摘まむ。

 

 みるみると顔が赤くなり、ヤバいと手を離そうとした瞬間、どれみは「ブハァ!」と首を振って自分から逃れた。

 

 恐る恐るどれみを窺うと、穏やかな顔に静かな呼吸。

 鼾は収まったけれど、どうやら昼寝は続行するらしい。

 鼾を止めるスイッチを見つけたわたしはちょっとした優越感に、口元を緩めた。

 

           ♪

 

 どれみの鼾が抜け落ちた後、それを見越したかのように沈黙が押し寄せる。

 穴を埋める透明な森閑、ほっと落ち着くような静けさだった。

 

 時刻は昼と夕方の間。

 思ったより時が経っていないことに、驚く。

 

 

 濃密な時間だった。

 渦のように思考と感情が巡って、走馬灯のように過ぎ去る。

 心が脱皮を繰り返して、爽快と疲労がない交ぜになる。

 

 

 けれど、太陽はのんびり回っていたらしい。

 どんなに楽しくても、苦しくても、日は登り、暮れる。

 

 だったら、楽しい方がいい。

 一から十まで考えてたら、人生がいくつあっても、足りない。

 

 

 ――教えてくれたのは、あなたなのよ。

 

 

 庭に干してある洗濯物が穏やかに揺れていた。

 青々とした空の海を雲が悠々と泳ぎ、影が流れるように通り過ぎていく。

 

 縁側とは言え、外で昼寝が出来る季節だ。

 もうじき照りつける陽射しが肌を焼いて、ふと吹く風に涼を求め始める。

 

 自然を芽吹かせ、解きほぐす。

 春がその役割を終え、消え行こうとしていた。

 

 影が細く長く伸び、一本の線となる。

 するすると巻き込むように、残滓が、ゆっくりと後去っていく。

 

 今はそれに、小さく手を振った。

 切なさで、胸が ぎゅっと縮こまる。

 でも、寂しくはなかった。

 

 

 あの子と過ごした春――

 

 初めて息をしたかのような、充実した日々。

 その息吹は決して吐き出されることなく、わたしの生涯を通して、きっと輝き続ける。

 

 例え細部を忘れたとしても、良いんだ。

 思い出集めが目的じゃない。

 

 大事なのは――

 

 

 ――わたしとあなたが、出会ったこと。

 

 

 春は二度と来ない。

 

 また次の季節がやって来るだけ。

 だけど、何度だって来るんだ。

 次の、その次の春が必ず巡ってくる。

 

 今までと違うのは――

 

 

 ――あなたが、隣にいてくれること。

 

 

 寄る夏を背中に感じながら、思う。

 

 二人で過ごした春が去り、次は二人で過ごす初めての夏が来る。

 それが愛しくて、待ち遠しかった。

 

 そうして、わたしとどれみの日々が、少しずつ積み重なっていく。

 

 退屈で、波風のない毎日。

 他人から見たら、空虚で貧しいと感じるかもしれない。

 

 それでも良いんだ。

 気位の鎧は剥がされ、責務の荷は下ろされた。

 人の目を気にすることも、肩肘を張ることも、必要ない。

 

 

 

 楽しいは楽しい、嬉しいは嬉しい。

 

 それ以外の裏や理由を考えない。

 

 二人で一緒にいる貧しい日々は――美しい。

 

           ♪

 

 確かに昔の『わたし』は強かった。

 

 全力を出して、いつも『瀬川おんぷ』という偶像を演じた。

 100%の努力をして、他人との格の違いを見せつける。

 あらゆる物を薪に焼べ、怒りの炎は敵を凪ぎ払った。

 

 

 最後に残ったのは――燻された荒野。

 

 

 それでも、前を睨みつけ、風を切り、足元に転がる石を蹴りつける。

 

 その時、わたしは知らなかった。

 その石が、自分が本当に求めていたものだと。

 どんなに貧しくても――美しいものなのだと。

 

 

 ――どれみちゃん。

 

 

 出会いは、たった一回。

 石ころのような小さいことに、たくさんの愛が詰まってた。

 

 その後の付き合いも、一個ずつ。

 楽しい、嬉しい、怒った、悲しんだ、笑った。

『幸せ』を『幸せ』としか、考えない。

 

 今の自分は、ボケッとして弛んでて、見た目からして格好悪い。

 でも、昔の自分より、今の自分の方が、ずっと好きだった。

 

 闘争的で、戦士のように勇ましい自分。

 人から称賛され、名誉を得た。

 お金も物も、望まずとも与えられた。

 

 その代わり、いつも敵を見ていた。

 戦いに明け暮れ、侮られないように威嚇し、優しい言葉にも裏を読もうとした。

 他人を疑っていたんだ。

 

 背伸びをしていた気がする。

 いつも上を行こうと無理をして、喘いでいた。

 

 

 ――どれみちゃん。

 

 

 桐野村に来てから――

 

 うちひしがれ、疲れ切っていた。

 上げてた踵を、とんと降ろすしかないほどに。

 

 でも、たったそれだけのことで、今まで見ていた景色が一変した。

 その先に、新しい自分が、待っていた。

 

 そして、あの子の笑顔も――

 

 

 等身大の自分から見る世界。

 

 上でも、前でもなく、『あなた』を見る。

 

 明日でも、昨日でもなく、今日を。

 

 ひとときを、100%の素直さで、感受する。

 

 憎んでたら、愛する時間がなくなってしまう。

 

 

 わたしはどれみの安らかな寝顔を覗き、指で頬を突っついた。

 

 柔らかな薄桃色が輪になって弾ける。

 赤ん坊が甘えるような仕草で、口の中をもごもごとさせていた。

 

 頬をなぞるように、おでこヘ。

 

 髪を梳くように触った。

 汗をかいてるからしっとりと手に纏わり付く。

 生々しく艶めき、赤い粒子が手に絡みついた。

 

 おでこに張り付く髪をかき分けて、どれみの頭を優しく撫で続ける。

 

 

 まるで宗教画のように幻想的な風景。

 

 幸せが怖いと思ったのは、初めてだった。

 

 

 この一時が、永遠であればいい。

 願いが心を蝕み、黒い靄が立ち込める。

 

 

 ――ダメね、わたしって。

 

 

 おんぷは苦笑いを浮かべて、首を振った。

 

 すぐ、形に拘ってしまう自分に呆れる。

 どうあがいても、いつか終わってしまう。

 全て、壊れてしまうものだ。

 

 でも、終わりを考えてたら、虚しくなるだけ。

 

 形に拘り、人からの評価を気にして。

 認められたくて、分かってほしくて。

 

 100%の判断を下すため、監視するように周りを見ていた。

 

 

 そんなことは始めから必要なかったのに。

 

 

 一日を、一時を、抱きしめるだけでいい。

 今を、じっくりと、楽しめばいい。

 それで、十分だった。

 

 

 桐野村の、ありのままの自然が――

 

 春慶塗の、謙虚な佇まいが――

 

 カエル石の、誠実な面影が――

 

 

 わたしに、新しい価値観を与えてくれた。

 傷を癒してくれた。

 自分を許すことを教えてくれた。

 

 

 そして何よりも――わたしの心に優しく触れてくれた笑顔があった。

 

 

 偶像だった自分、戦士だった自分は砕け散る。

 瓦礫の中からひょっこりと顔を出したのは、か弱い雛鳥のような『瀬川おんぷ』自身。

 

 その雛を慈しんで拾い上げてくれた女の子。

 その子の手は暖かくて、絶え間なく『愛』を伝えていた。

 

 

 その時から、出会いという『奇跡』が、始まっていたんだ。

 

           ♪

 

 

 ――ひとつだけ、分かることがあるわ。

 

 

 力なく寝そべるどれみ。

 無垢な寝顔で、胸が忍びやかに震えてる。

 

 わたしは、どれみの胸を撫ぜるように手を当て、その鼓動を確かめた。

 

 

 トクトクと、か細い音。

 

 未発達の胸は、骨の固さ。

 

 けれど、安心するような温もりがあった。

 

 

 命の暖かさだった。

 

 わたしに、奇跡を与えてくれた少女。

 神のような曖昧な存在ではなく、肉も骨もある――人間だ。

 

 

 輝きに目を奪われた。

 一歩でも近づきたいと憧れた。

 

 それが今、目の前にある。

 感じられる、触れられる。撫でられる。

 

 

 そのことに言い様のない驚愕を覚えた。

 

 物語の主人公でも、歴史上の偉人でもない。

 今、この時、この場所で、一緒に存在する。

 これこそ本当の奇跡なのではないか。

 

 

 この『愛』を独占したい――

 

 心踊り、火花のように閃き、沸き上がる幽炎。

 欲情が、頭をもたげる。

 

 

 真剣に、惹かれていた。

 

 自分自身を、受け入れてほしかった。

 

 あなたを分かりたい。

 

 抱きしめたい。

 

 

 ――あぁ、わたしは――

 

 

 どれみの唇が、ぽってりとした赤い果実のように、膨らんでいた。

 穢れを知らない無邪気さが、何の衒いもなく、晒されている。

 

 

 ――きっと、あなたに――

 

 

 おんぷは ゆっくりと、どれみに近づく。

 

 まるで心を寄り合わせるように、届きますようにと祈りを込めて。

 

 ぎゅっと、どれみの手を握った。

 指を絡ませ、柔らかく強く、かきしだいた。

 

 自分の心臓の音が聴覚を支配する。

 痛いほどに切なく、脈打つたびに快い痺れが走った。

 

 規則正しい寝息が顔にかかるほどの距離。

 

 視界が朧気だった。

 

 熱に浮かれた自分が揺れているかもしれない。

 世界が揺れ、この世が終わるのかもしれない。

 

 どっちでも、構わなかった。

 

 今、この瞬間が絶対で。

 

 求めるものの全て――

 

 

 

 揺れに合わせるように

 

 おんぷの唇と、どれみの唇が

 

 触れあった。

 

           ♪

 

 求めるほど、甘くて。

 

 あふれ出すほど、美しい。

 

 春の終わり。

 

 初めてのキス。

 

           #


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