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ジリリッと目覚ましが鳴り響いた。
わたしは 布団の中を這うように手を伸ばしてスイッチを切る。
上体を起こして軽く伸びをし、欠伸を一つ。
始業式から二週間が経っていた。
学校生活に慣れ、田舎暮らしも落ち着き、まるで台風一過のように安穏な日々を過ごしていた。
室内をぼんやりと眺めた。
窓から朝日が照らし薄明が部屋の中を、ぼうっと浮き上がらせる。
広さは八帖ほど。
二階の洋室が、今のわたしの城だ。
けれど、中はがらんとしていて家具はベットと机、タンスが置いてあるだけで城の居館にしては、あまりにも寂しい室内だった。
桐野村に引っ越す前に、持ち物は粗方捨ててしまった。
荷物を減らそうだとか、そういう理由ではなく、物への興味が極端に失せてしまったのだ。
すかすかの室内は、わたしのがら空きの感情をそのまま表しているかのように、眺めているだけで寒々しい。
でも、それと同時に、思わず深呼吸をしてしまいそうなほど、晴れ晴れとした気持ちもあった。
殺風景な部屋は余計なものが削ぎ落とされ、体が軽く感じられる。
空白は新しい何かが始まるスタートラインな気がして、心が疼くように ときめいた。
蛹から蝶が羽化するような、新しい命の創生。
そう考えるとこの部屋がことが何だか誇らしく思えてきて、笑顔を堪えられない自分が ちょっとだけ恥ずかしかった。
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身支度を終えて、居間に入ると母が朝食の準備をしていた。
食欲を刺激する香ばしい匂いが辺りに漂う。
「おはよう、おんぷちゃん」
「おはよう、ママ」
お互いに朝の挨拶をし、わたしと母は向い合わせに座り、「いただきます」と朝食を食べ始める。
慣れる、という言い方もおかしいかもしれないけど、いつの間にか母と一緒にいることに違和感を覚えなくなっていた。
引っ越す前は母と一緒にいても、心がざわついて居心地が悪いばかりで。
今は朝夕と一緒にご飯を食べ、少しずつ笑みを交えて話すようになった。
雪解けのような仄かな幸せが食卓を包む。
波一つない大洋にぽつんと浮かぶ船のような、そんな平穏。
――ここにパパもいてくれれば。
幸せを感じると、遠くで働く父を思い出す。
最後に食事をともにしたのはいつだったか。
今、この平穏に父が入っていないことが、たまらなく寂しかった。
「どうしたの? おんぷちゃん」
母が訝しげに声をかける。
郷愁のような思いに馳せていると、いつの間にか箸が止まっていた。
わたしは、「なんでもないよ」と再び 朝食を食べ進めた。
食卓の上座に父の姿が浮かび上がる。
いつかまた家族一緒に食事がしたい。
それは天の星を掴むような手に余る願いなどではなく、足元にある花の蕾のような、儚くともずっとすぐそばにある、小さな祈りだった。
今はただ、その小さな祈りをそっと胸に抱き寄せる。
花が咲き誇るその日まで――
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朝食を食べ終えると、二階へ上がり自室で教科書を詰めたランドセルを背負う。
そのまま玄関へ行き、靴を履くと居間に向けて声をかけた。
「じゃあ、いってくるね」
「は~い、いってらっしゃい。気をつけて帰ってくるのよ」
母が居間から顔を出して、わたしを見送る。
親子二人の目が合った。
互いの視線は淡白すぎず濃密すぎず、まるで手作りお菓子のようなほどよい甘さが通っていた。
美保はおんぷの母親で、おんぷは美保の娘で、そんな当たり前のことを一直線に伝え合う。
わたしは先に視線を外し、ドアノブに手をかけ一気に家を飛び出した。
猫が群れですり寄ってくるようなくすぐったさを感じて、堪えきれずに逃げだしてしまう。
要するに、照れていた。
何気ない日常が、こんなにもこそばゆくて――
――こんなにも愛おしいなんて。
夢にも思っていなかったのだ。
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家から学校は十五分ほどの距離だけど、最短で学校には行かず少し遠回りをする。
山を沿うように道を進むと、蕗山というこの付近で一番高い山の頂上に続く登山道がある。
その入り口が待ち合わせ場所。
広く緩やかにカーブしている登山道でしばらく待っていると、ドタドタと夢中で駆け降りてくる足音が聞こえてきた。
「おんぷちゃ~ん!」
光が溢れ出すかのような明るい声が響き渡る。
わたしを『ちゃん』付けで呼ぶ人間は、この村に二人しかいない。
一人は母、そしてもう一人は――
わたしは、その声に負けないように元気良く声を出して、手を大きく振った。
この村でたった一人の友達に向けて。
「おはよう!どれみちゃん!」
「お――――は――――よって、うわおああああああああああああ――――!!」
転けた。
一瞬、スローモーション。次の瞬間、盛大に。
おんぷの友達、春風どれみは無惨にも土埃を巻き上げ、「止~め~て~」と悲痛な叫びを伴い、激しい横回転で坂を下っていく。
わたしは「ふぅ」と一つ息を吐き、空を見上げた。
『今日のお弁当は何が入ってるのかな』、などとあらぬことを考えている間に、転がるどれみは猛烈な勢いで迫ってくる。
それをひらりと横に避けすれ違い様、空手の貫手を放つように回転の中に手を突っ込み、どれみが背負うランドセルの肩ベルトを掴んだ。
あわや、目の前の田んぼに落ちる所だった。
どれみは一瞬宙に浮かび、「ぐぇっ!」と尻餅をついて着地した。
「……おんぷちゃん、ナ~イス」
目を回してふらふらながらも、震える手でVサインを作る。
それを見て呆れながらも、わたしは自然と微笑んでしまう。
「どれみちゃんらしいよ。そういうとこ」
わたしの一日は、こうして始まる。
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「涙があるから、人は前に進めるのさ……あイテテッ」
「何言ってるのよ、もう」
時刻は昼休み。
わたし達は机を合わせて昼食を食べていた。
桐野小学校には給食はなく、それぞれ持参のお弁当だ。
どれみは坂を転がり落ちた後、さすがに無傷とはいかず体は生傷だらけ。
口の中も切ったようで涙目になりながら弁当をほうばっていた。
「こういう日にかぎって 揚げものが多いんだからな~、おばあちゃんめ~」とコロッケを箸で、チョイとつつく。
「それにしても おんぷちゃんのお弁当っておいしそうだよね。アザヤカ~ってカンジでさ。ねぇねぇ、あたしのコロッケと おんぷちゃんのハンバーグ交換しない?」
「いいわよ。はい、どうぞ」
「おぉ~! サンキューサンキュー♪」
おかずを交換し合い、弁当の蓋にのせられたハンバーグ。
冷めてなお香ばしい匂いを漂わせ、肉の甘味や肉汁の旨さが食べてもないのに実感できた。
どれみは今にも生唾が溢れそうな口を、にへらっと綻ばせ箸でそっと掴み上げる。
「いただきま―――あがっ?」
「あっ……」
ケチャップが滑ったか。
ハンバーグは箸から逃げるように抜け出し、重力に沿って落ちていく。
ぼとん、と。
ハンバーグ自体軽いはずなのに、まるで巨石を落としたかのような重々しい音が教室に響いた。
わたしは複雑な表情でどれみを窺う。
当のどれみは真っ白に燃え尽き 生気のない目で床に落ちたハンバーグを見続ける。
やがて右手がギギギと錆び付いた音を出しながら、 ゆっくりと、床に向け箸を近づけていく。
「春風さん、やめなさい」
突如として声が上がる。
二人と同じく、昼食を取っていたこの学校唯一の教師、水目校長が教卓から見下ろすかのように睥睨していた。
「床に落ちた物を食べるのは駄目です」と意地汚いどれみを嗜める。
「うわぁぁ~ん!! だって、鈴先生! あたしのハンバーグがボトッて! もうあたしはどうしたら……!あたしのおかずがッ!」
「どうもこうもありません。後、私を下の名前で呼ぶのは止めなさい」
飛び跳ねるように息を吹き返したどれみが捲し立てるも、校長はにべもなく切り捨てる。
校長は姓名を水目鈴と言い、見た目や言動に厳しさはあっても、性格は思ったより気さくで割りと付き合いやすい人柄だった。
本人は鬱陶しがっているけど、どれみは校長のことを『鈴先生』と呼び、よく慕っていた。
余談はさておき、よほどショックだったのか、落ちたハンバーグの前で項垂れるどれみ。
「トホホ……あたしって世界一不幸な美少女……」
世界広しといえど、ハンバーグ一つでここまで悲しむ人間も そうはいないはず。
「ま、まぁ、元気出してよ。どれみちゃん。ナポリタンあげるから」
「仕方ありませんね。私からは肉じゃがを提供しましょう」
あまりの落ち込み様にさすがに哀れに思い、わたしと校長が救いの手を差し伸べる。
「みんなぁ……サンキュ~ベリ~マッチ~」
さっきとは打って変わり、どれみは涙で目を潤ませて、みるみる元気を取り戻す。
三人しかいない教室は広く空虚だったけれど、どれみが騒ぎ、わたしが笑い、校長が見守る。
その空間は火が灯っているかのように暖かく、満ち足りていた。
わたしの一日はこうして過ぎていく。
♪
「あっ、ハンバーグ形の雲みっけ!」
「まだ言ってるの?」
授業が終わり、雲が西の空に帰っていく夕暮れ時、わたし達は獣道の先にある川原に来ていた。
どれみと初めて出会った場所だ。
川の流れる音に耳を澄ませ、吹き通る風に身を任せれば、あの日のことを思い出す。
まだ春が芽吹いたばかりの頃、どれみが誘い、わたしが導かれ、二人は巡り合う。
その出会いは、わたしにとって人生の転換点。
『運命』と言っても良いほど、衝撃的なものだった。
刻み込まれるような鮮烈なものではなく、かと言ってすぐに忘れ去られてしまうものでもない。
それは優しさや慈しみの雨となって、わたしの渇いた心にじんわりと染み込んでいく。
わたし達は今、川原の近くにある草むらに並んで座っていた。
時にぼそぼそと、時に大きな声で笑い合い、当たり障りのない雑談に花を咲かせる。
村に二人しかいない子供。
学校は同じ、村も狭いということで嫌でも顔を合わせることになる。
一見窮屈そうな関係だけど、わたしは自分でも驚くほど、その関係を自然に受け入れていた。
昔のわたしにとって他人は――全て敵か味方だった。
他人と話す時は全て仮面越し。
おべっかやお世辞に塗り固められた、仮面。
仮面の下で、他人と向かい合えば睨むように相手を値踏みし、並んで歩けば競争し蹴落とす。
味方とて、今は争わないというだけで油断はならない。
他人とは、それだけの存在だった。
だけど、この村に来て、どれみに出会って、全てが変わった。
わたしにとって どれみという存在は――敵でも味方でもなく、『どれみ』は『どれみ』だった。
向かい合っても、並んで歩いても――どれみのドジに辟易し、どれみの起こす騒ぎに呆れる。
どれみが考える遊びに胸をときめかせ、どれみの笑顔につられて笑う。
『どれみ』は『どれみ』。
それは例え千年が経とうと変わらない真実として、わたしの側に寄り添う。
それこそが、どれみの語り尽くせないほどの魅力であり、どれみとの関係を通して、わたしの殺伐とした世界は一変したのだ。
「ねぇ、どれみちゃん。ハーモニカ吹いてくれない?」
「うん、い~よ」
どれみは快く引き受けると ランドセルからハーモニカを取りだし演奏を始めた。
『赤とんぼ』。
二人の出会いの曲。
切なげで、人懐っこい。
純情をそのまま表したかのような音色が静かに舞い上がった。
わたしは耳を澄ませ、音楽に聞き入る。
二人が寄り添う姿は まるで一幅の絵画のように美しく、その瞬間は『永遠』だった。
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しばらくして、家に帰ろうと草むらから立ち上がった。
なだらかで欠伸が出そうになる健やかな毎日。
今日も一日が終わる。
お尻についた草を払っていると、視界の端を黒いものが横切った。
どれみの左手――黒い手袋に覆われたそれが、わたしの目に映る。
季節感もない手袋は異質で、ただのお洒落だとは到底思えず、明らかに秘密を隠し持っていた。
黒い左手が夜光虫のような妖しい光をたぎらせ、見る者を引き付けるかのように、蠢く。
「気になる?」
視線に気付き、どれみが左手をひらひらと振った。
心を読まれた一言に、わたしは動揺で顔を強張らせ、目を泳がせる。
「ふふっ」と、どれみは小さく笑い、無骨な左手を撫でた。
「もう少し仲良くなったら教えてあげる♪」
それだけ言い、「帰ろっか」と、一人先に歩きだした。
わたしは、よろよろとどれみの後に続いた。
話しかけようとするも、何を話せばいいか分からず、沈黙が気まずさを積み上げていく。
正直な子だ、と思った。
その正直さが羨ましくて――悲しい。
適当にはぐらかすのではなく、しっかりと自分の意見を言う。
突き放すような言い方ではなく、相手と目を合わせたまま 後ろ歩きに距離を取る。
――どれみちゃんらしいよ。そういうとこ。
どれみなりの優しさ。
その優しさが、今は苦しかった。
爛々と輝く太陽にも黒点が存在する。
底知れぬ闇が広がる黒い穴。
今のわたしに、それを覗き込む資格はない。
♪