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あの日以来、どれみと会うことはなかった。
荷物を整理し、やっと生活の体裁が整った頃、始業式の日がやってきた。
瀬川おんぷは、四年生になる。
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――あんまり無理するなよ。 ――死ね
――私に出来ることある?
――生で見ると、あんまり可愛くないな。
――これくらい、普通でしょ?
――おんぷちゃーん、サインくださーい!
――顔色悪いよ? ――キモい
――もっと可愛い服装したら?
――おんぷちゃんってナマイキよね。
――ワタシと友達になってヨ!
――あらあら、つまんないですわね。
それでは、歌っていただきます!! 瀬川おんぷちゃんで、曲は―――
夢を、見ていた。
誰よりも、強くあろうと誓った。
弱さは、悪で
弱さは、罪で
弱者は、罰を受けなければならない。
孤高であろうと
求めた。
勝者でなければ
縋った。
行動を起こす者こそ
粋がっていた、あの日
わたしは、逃げ出した。
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ゆっくりと瞼を開けた。
感覚が血流に乗って行き渡り、体は覚醒する。
けれど、頭の中は電源のONとOFFを繰り返して明滅し、意識は朦朧としていた。
昨日は、よく眠れなかった。
悪夢が添い寝するかのように、すり寄ってきたからだ。
今は何のしがらみもない、自分は逃げ切ったのだ、もう誰も追ってこれない。
何度、心の中で反芻しても蟠りを押さえつけることができない。
過去は消せない、と思い知らされる。
いくら距離を取ろうと、嫌な思い出は悪霊のように心に住み着いていた。
新学期、始業式――キーワードを思い起こすだけで腹の中を毛虫が這い回るような怖気が走る。
学校には嫌な思い出が、あまりにも多すぎた。
それでも、わたしはベッドから起き上がる。
どうしても学校に行きたかった。
行って、彼女との出会いが嘘でないことを確かめたかった。
どうしても――
あの日のことを思い出すと顔が火照ってしまう。
冷静になった今考えると、からかわれたのだと分かる。
あの日の狼狽ぶりは、さすがに恥ずかしい。
体が近づいた時 湯上がりのような芳しい匂いがしただとか、唇がマシュマロみたいにふわふわで、いやいや、羊羮みたいにぷるぷるだ、などと余計な雑念がちらつくけど、今の思いは この一言に尽きる。
――絶対に文句言ってやる!!
腹の底から怒りが沸いてくるのに、心の底から楽しみで胸が高鳴った。
むず痒い感情で、居ても立ってもいられなくなる。
背後で悪霊が奈落に引き摺り込もうと手招きしていた。
その悪霊の肩から、ひょっこり顔を出す どれみを想像すると、くすっ、と自然に笑みが零れた。
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仕度を終え、朝の八時に親子二人、連れ立って家を出た。
わたしは黒で統一されたシックな装いに身を包み、母はベージュ色のスーツを着て、並びながら歩き学校へ向かう。
母は口を、ぎゅっと噤み緊張しているのが雰囲気で伝わっていた。
いつものように会話はない。
でも、今は、それを苦痛だと思わなかった。
朝の風は冷たさを含み 身を引き締めるけど、溌剌とした清々しさを感じる。
朝日と朝露が混ざり合い、粉となって舞う。それは、わたし達二人の行く道を祝福する紙吹雪のように降り注いだ。
木々が騒ぎ、鳥が鳴き、雲の動きさえも、観客がパレード行進に喝采を浴びせていると夢想してしまうほどに、わたしの心は躍動していた。
――これでファンファーレがあれば完璧ね。
もし、ファンファーレが演奏されるならトランペットではなく、ハーモニカがいい。
秘かに、そう願っていた。
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学校に着いた時、違和感を覚えた。
登校中にも、薄々と感じていたことだけど――人がいないのだ。
学校という人が集まりやすい場所で、ましてや始業式の日なのに人っ子一人いない。
桐野小学校は映画の舞台になっていそうな木造の建物だった。
広い校庭に、関所のように構える校舎。
所々に補強はされてはても、指一本で崩壊しそうなほど、どこも古びていた。
まるで狐か狸に化かされたかのような不可思議な感覚に襲われる。
さっきまでの躍動感はどこへやら、わたしの体はおっかなびっくりと及び腰になり、朝の意気込みは車のノッキングのようにガタガタと虚しい音を立て空回りし始めていた。
昇降口から校内へ入ると、一人の壮年の女性が出迎えてくれた。
「校長の水目と言います」
黒毛が見え隠れする白髪頭に、鋭い目付きは眼鏡で幾分か和らいでいるけど、全体的に厳しそうな印象の女性。
痩せ形で、母の背丈を軽く越える長身は纏う白いパーティードレスが良く似合っていた。
わたしは、何故人がいないのか、何故校長がわざわざ出迎えるのか、と頭から疑問符が次々と浮かび悶々としていた。
それをよそに、母と水目校長は式の段取りなどの話を進める。
「―――では、お母様は講堂の方で お待ちください。式はすぐに始めます」
「はい、よろしくお願いします。じゃあ、おんぷちゃん、また後でね」
はっ、と気付いた時、母は校長との話を終え、校内の奥へと行ってしまった。
「教室に案内します。ついてきてください」
二人きりになった居心地の悪さを感じる暇もなく、校長はその顔同様の無表情な声だけを残し、一人で先に行こうとする。
慌てて上履きに履き替えようと靴を脱いだ。
広い玄関に、背の高い下駄箱が十台。
けれど、そのどれもが靴で埋まることはない。
静寂を溜め込んでいるかのようにがらんどうだった。
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水目校長の後に続いて、学校の中を進む。
廊下の横に教室が並び、廊下の端には階段。
体育館やプールはない。
学校の中身は至って簡単な作りだった。
活気がないのは校内も一緒で、二人の足音だけが染み入るように響いていく。
疑念は更なる疑念を掻き立てるばかりで、わたしはどうしても聞かずにはいられなかった。
「あの……校長先生、聞きたいことがあるんですけど……どうして今日は人がいないんですか?」
その質問に校長の鉄面皮が初めて崩れた。
まるでツチノコでも発見したかのように目を丸くし、こちらをまじまじと見つめる。
「あなた……もしかして さっきの話を聞いてなかったのですか?」
「えっと……その、はい……」
質問を質問で返され、狼狽える。
怯えながらも何とか返事をした。
校長は、やれやれと肩をすくめ、力を抜くかのように一つ息をつく。
校長の人間味ある仕草を見て、少しばかり和んだわたしだったけど、校長の次の言葉にびっくり仰天することになる。
「フゥ……まぁ、いいでしょう。さっきも説明しましたが……今この学校にはあなたを含め生徒が二人しかいません。今残っている生徒が卒業したら、この学校は廃校になる予定なんです。人がいないのも当然ですね」
――……は? ――
校長はなんとも口軽に言い切ったけど、わたしは余りの衝撃に息を飲んだ。
「生徒二人で寂しいと思うかもしれませんが……
校長は苦笑いながら、どこか嬉しげに話す。
――それって、もしかして――
「まさか ここに転入生が来るとは思いもしませんでしたが、何にしてもお友達が増えるのは喜ばしいことです。彼女……ずっと一人でしたから。仲良くしてあげてください」
着きましたよ、と校長は 《4‐1》と掲げられている教室の前に立つ。
校内は相変わらず静まりかえってる。
けれど、わたしの耳には心臓の音がまるで波動を放っているかのように反響して聞こえていた。
頬は赤く染まり、今なら氷も蒸発できそうなほど熱く感じた。
せめて目だけは反らすまいと、前を見据える。
校長が 引き手を持つと、戸は音もなくレールを走った。
――どお? ビックリした?
おどけた仕草で手を振ってくる。
あの日と同じ笑顔が、そこにあった。
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春と夏と秋と冬が巡る。
太陽と月が紡ぐ物語。
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