どれみとおんぷ ♪ 春夏秋冬   作:シャンティ・ナガル

19 / 24
第十九話 審問

 

           ♪

 

「オーディションを受けてみてどう? 手応えは感じられた?」

 

「まだ全然です。気持ちがふわふわしてるし、周りも実力がある人ばかりでしたから……わたしも上から言える立場じゃないんですけど、自信はありますよ」

 

「へぇ~、それじゃあ初めての英語のお芝居は? 緊張したんじゃない?」

 

「はい、急なお話でしたから練習時間は限られてましたけど精一杯やったので悔いはないです」

 

「そ~う。向こうに行ったら生活は全て英語だろうから大変だね~。ヒューストン監督とはなにかお話したのかな?」

 

「演技審査の後に面接があって、そこでちょっとだけ。好きな食べ物とか聞かれましたよ。My favorite food is sushi. Sushi is traditional cuisine of Japan……なんてね♪」

 

 「英語うまっ!?」と戯けて転ける司会者に笑い声と拍手が浴びせられる。

 

 和やかな撮影現場。

 それとは裏腹に、わたしは冷めた珈琲のように味気なく、溜め息を我慢するほど白けていた。

 

 眩しさがギラギラと喧しい。

 頭の上には数十台の照明がぶら下がり、まるで尋問のように不躾な光を浴びせてくる。

 

 さっきから馴れ馴れしい態度の司会者相手にてきぱきと答えていたけど、内心は辟易だった。

 

 へらへらと笑うだけの共演者に、安っぽいおままごとみたいなセット。

 こんな低俗な代物がゴールデンの人気番組なんだから世も末だ。

 

 もう二度と出ることはないだろうから、どうでもいいことなんだけど。

 もはや日本という国が滅びようと、わたしには縁遠い話なのだ。

 

 わたし個人でどこでだろうと生きていける。

 ハリウッドという証明を、力の資格として、わたしはもうすぐ得ることになるのだから。

 

 

 

 オーディションの後、取材や収録のオファーがひっきりなしに入ってきた。

 

 雑誌、ラジオからTV番組まで。

 後からわたしの勇名は轟くことになるんだから、今さら業界やカメラの向こう側に胡麻を摺る必要はないんだけど暇潰し程度にはなる。

 

 片手間や戯れで仕事ができるほど、わたしはのし上がった。

 わたしは天上人になったんだ。

 

 やれ出演が決まっただけでTV局のお偉方は深々とわたしに頭を下げる。

 カメラが回る前は、この司会者だってわたしに敬語を使って腰低く挨拶していた。

 つまらない見栄を張って取り繕う大人の姿は哀れを通り越して可愛らしいくらいだった。

 

 わたしを見る観客だって、今頃は血眼で液晶にかじりついて惜別の涙を流してるだろう。

 

 皆、わたしのハリウッド前の姿を目に焼き付けようと必死だった。

 まさしく天に赴こうというわたしの足下で、人々が押し合いへし合いながら群がる。

 

 わたしに向け伸ばされた手は波のように揺れ、大海のように『人間』が広がっていた。

 

 

 ――あ~あ、かわいそうに。

 

 

 この世には大勢の人がいる。

 代わりなどいくらでもいる、大勢の人間が。

 

 どんなに特別を求めようと自分のちっぽけな才能や器からはみ出すことはできず、社会の枠組みに捕らわれ、その他大勢に飲まれる。

 

 大海の一滴とはよく言ったもので、生まれた瞬間から没個性。

 個も全もない、広い海を満たすだけの存在。

 

 わたしだけだ。

 世界で唯一、自分の名を持つ。

 

 虚者が蠢く大海を渡り、空ヘ。

 もっと高く、もっと広く。

 

 

 飛び上がるための(ちから)を持つ存在。

 

 

 無から有を生み出した神のごとく。

 宛ら、全てを支配する絶対者。

 

「びっくりした! 英語すごく上手だね~。これなら合格も間違いなしじゃない!? 急遽決まったコンサートでハリウッド行きを発表するんじゃないかって噂があるけど本当のとこどうなの!?」

 

「あぁ、それは……ナイショです。ふふ♪」

 

「えぇ~っ!? そんな~!!」

 

 どよめきが起き、司会者の詰まったような笑い声が長く尾を引いた。

 

 

 これでいい。

 

 惰性ではなく意志を。

 諦念ではなく理想を。

 

 生きる意味を持って、ここまで来たんだ。

 わたしの可能性、わたしの選択。

 

 これがわたしの現実だ。

 

 これでいい。

 これでいいんだ。

 

           ♪

 

 日差しが眩しくて、緩く目を瞑った。

 

 

 夏は嫌いだ。

 

 肌が焼けてしまうから。

 汗をかくのだって鬱陶しい。

 

 都会の夏は灼熱といった暑さだ。

 天高いビルが背を競い秩序正しく建ち並ぶ街に空から熱線が降り注ぐ。

 

 ゴウゴウと冷房が効いた車中。

 わたしは溶けた残雪のような薄汚れた街並みが後ろに流れていくのを窓から眺めていた。

 

 今日は記念すべき日だ。

 走り続ける車は一直線にコンサートホールへと向かっている。

 

 数時間後、わたしはそこでついに栄光を掴む。

 

 午前中にはオーディションの合否が発表されることになっていた。

 数々のライバルから、たった一人だけ。

 

 そして、それは間違いなくわたしだ。

 

 外部には知らされていない情報だけど、今や暗黙の事実。

 

 発表を受けた瞬間に様変わりする。

『チャイドル瀬川おんぷ』サヨナラコンサート。

 

 わたしが頂点へと君臨する偉大な一歩。

 それを大々的に号する、貴重な日。

 

 今までの努力が報われるのだ。

 慎重に着実に、キャリアを積み重ねてきた。

 

 時には、澱みや引っ掛かりを力で捩じ伏せ。

 才能が導くまま、川を流れる葉っぱのように、するすると。

 

 嬉しくないはずがない。

 まだ通過点とはいえ、一つの成果が実を結ぼうとしているんだから。

 

 なのに――

 

 

 

 なのに、なんなんだ。このやり切れなさは。

 

 

 

 オーディションを受けてからずっとだ。

 さっきからもっと酷く。

 

 痛みもないのに、呻きが漏れそうになる。

 疲れてないのに、息が上がってしまう。

 

 息を吸っても吸っても吸い足りない。

 何も変わったことはないのに、目はギョロギョロと動いて止まらない。

 

 強烈な疑念だった。

 何に対してかは分からない。

 

 

『分からなくなってしまった』のが、怖い。

 

 

『頂点だ』『栄光だ』と、嬉しくて誇らしくて、堪らないほど満足なはずなのに。

 

 血も凍るような恐怖感だった。

 

 得体の知れない何かに追われてるような。

 何か大事なことを見落としているような。

 

 満足だと思えば思うほど、体がブレる。

 震えではなく、揺れるんだ。

 

 コンパスが狂った船のように、波に晒され。

 自分がどこにいるのか分からなくなるんだ。

 

 自分がどこを目指しているのか、どこを目指していたのか見失ってしまう。

 無重力のように、どこが地面なのかも分からないまま、浮遊する。

 

 ちょっとでも気を緩めれば。

 

 このまま空を飛んで遠くに行ってしまいたい。

 小鳥を追っかけて、とんちんかんな方向へ。

 

 そんな馬鹿みたいな妄想に駆られてしまう。

 

 すぐにでもこの場から逃げたくなる。

 これ以上、前に進みたくないと後退りたくなってしまうんだ。

 

 だから、心を硬く重くして、『喜べ』『満足だろ』と隙間を埋めようとする。

 

 でも、心の密度をどんなに高めようと。

 恐怖感は次第に形を為し――

 

 

 

『悪霊』はゆっくりと忍び寄ってくる。

 

 闇さえも飲み込むようなどす黒さを携えて。

 

 

 

 余白なく満たされたわたしの輪郭を、付け入る隙を探してニタニタと嗤って見ていた。

 

 黒い指先。

 心中を見透かすように、射抜くように。

 

 

 わたしの目の前に『嘘』を突き付けてくる。

 

 

 張り詰めるほど蓄えた喜びや満足。

 今まで必死にかき集めてきた経歴。

 

 夢や希望を、一つ一つ現実のものにしてきた。

 その途方もない時間や労力が。

 

 

 全部、無駄だったんじゃないか。

 

 

『悪霊』が囁く。

 

 そんなのまやかしだ。ペテンなのだ、と。

 わたしにはどうしても振り払えなかった。

 

 大事に磨き抜いた煌びやかな宝石。

 自分が目指していた輝かしいビジョン。

 

 

 それが全て偽物なのだとしたら。

 

 

 見事な色彩で描かれた水彩画。

『悪霊』は鑑定でもするように見つめて、何の躊躇もなく指で絵画に触れる。

 

 ほんの小さな、数ミリにも満たない傷。

 だけど、その傷は黒い染みとなって広がり続け、幾重にも塗られた絵具が剥がれ落ちていく。

 

 完璧な、わたしが完璧だと思っていた外装が溶け込んで消えて。

 残るのは真っ白なキャンバス――ではなく。

 

 

 色の形容はできない、何かだった。

 強いて言うなら、灰色だ。

 

 色を失うという意味での、灰色。

 

 わたしの髪の先まで染め上げ、手垢のように粘ついた卑しさ。

 

 

 

 虚しさだった。

 

 わたしの正体。

 

 わたしの全て。

 

 

 

 それに気付いてから。

 

 周りから色が奪われていく。

 景色から、時間から、空気から、色が失われていくんだ。

 

 窓から熱気が伝わる。

 でも、それは熱いだけで、夏の活気も、生の息吹も、何も。

 

 ビルも、街路樹も、モノクロの張りぼて。

 頭上高い太陽はセピアに燃えて、冷ややかな徒光を放つ。

 

 車の音、工事現場の音、店から流れるBGM。

 どれもこれも空っぽなんだ。空虚なんだ。

 

 あらゆる対価を払って、わたしはハリウッドの切符を、確かな将来を手に入れた。

 相応の報酬を得たはずなんだ。

 

 それなのに――

 

 

 

 わたしの得た世界は――

 

 

 

 外は一段と暑い。

 

 歩道には排ガス混じりの陽炎が立ち上ぼり、火に炙られる罪人のように亡者が行進する。

 

 その中に、父の姿が浮かぶ。

 桃子も、かれんも。

 

 何も訴えることもなく、すぐに人込みに紛れて消えてしまったけど。

 見送りに来てくれたわけじゃないのだと、それだけは分かっていた。

 

 頑張って頑張って。

 わたしが最後に手にしたモノは――

 

 

 

 どこまでも、ひたすら、果てしなく。

 

 ひとりぼっちだということ。

 

 

 

 もう嫌だ。やめてくれ。

 叫んでも、誰も助けてはくれない。

 

 悪夢だった。

 どこを向いても、虚しいだけなんだ。

 

 艶がなく、華やがず、ときめかない。

 もう何も見たくなかった。

 

 いつしか、膝を抱えていた。

 このまま、じっと時が過ぎるのを待っていたかった。

 

 そうじゃなきゃ、この寂しさに、押し潰されてしまいそうになるんだ。

 

 

 

 明暗しかなくなった世界で。

 

 光すら拒み、わたしは無明の中で踞っていた。

 

           ♪

 

「おんぷちゃん大丈夫? さっきから具合悪そうだけど……ちょっと窓開けるわね」

 

 目だけを上げて前を覗く。

 

 運転席に座る母がバックミラーからわたしを窺っていた。

 

 いつもならドライバーを雇ってわたしと後部席に座るんだけど、今日は母が運転していた。

 母は冷房を止めて、いきなり前後の窓全てを大胆に開け放つ。

 

 あっという間に車中の冷気は薄れて、荒れ狂う夏の風が入り込む。

 

 バサバサと髪が乱れる。

 いつもなら怒鳴りつけるところが、喉に力が入らなかった。

 

 大儀そうに母を睨み付けた。

 

「良い天気ね~。まだ時間もあるしどこかで休みましょうか?」

 

 少し外気晒されたくらいで母の額にはうっすらと汗が滲んでいた。

 窓を閉めればいいのに、何を我慢してるんだ。

 

 こっちを慮ってるんだろうけど、そもそもお前はそんな人間じゃなかっただろうが。

 

 豚が服を着て歩いてるようなモノ。

 気も利かない薄鈍のくせに。

 

「あ~、気持ちいい。夏っていいわ~。ねぇ、このまま海にでも行っちゃおうか? もう何年も行ってないわよね? おんぷちゃん、沖縄の海覚えてる? 小さい頃行ったきりだけど……なんかパーッとどこかに旅行したい気分よね! 夏だし♪」

 

 母は捲し立てるように大声で言った。

 嫌にテンションが高い。

 

 声は戦慄いて、ミラーに映る瞳は挙動不審。

 無理をしてるのは明白なんだけど。

 

 さっきからなんだ、この女は。

 呆れを通り越し唖然としてしまう。

 

 態度といい、言葉といい、普段やらないようなことばかり。

 

 娘を働かせ私腹を肥やすことしか興味がない。

 話すことは仕事の話だけ。

 

 母親と娘という、他人同士。

 戸籍上で親子と書かれてる関係。

 

 誰が決めたかも分からないルールに則って、同じ家に住んでいる、ただそれだけだ。

 

 

 それだけなのに。

 

 それだけで良かったのに。

 

 それだけなら良かったのに。

 

 

 なんでだろう。

 どいつもこいつも、わたしを苛立たせるんだ。

 

 わたしの前を歩いていいのは『わたし』だけ。

 何者も、わたしの先を行くことも、わたしの前を横切ることも許さない。

 

 

 

 ――……『わたし』?

 

 

 

 ふと、心に過ったモノ。

 

 その時、見つけた。

 暗がりの中に、白い点が浮かび上がるのを。

 

 滲んで広がり、それはわたしに覆い被さる。

 夜を燃や尽くす、熱さ。

 

 

 

 ――あぁ、これだ。

 

 

 

 増せば増すほどに。

 心は畝り、奮い立つ。

 

 空っぽだと思っていた。

 

 ゼロになった。

 振り出しに戻ってしまったのだ、と。

 

 でも、違った。

 まだ残っていたんだ。

 

 変わらずにわたしの背中を押していた、わたしの最初の気持ち。

 

 太陽が昇って沈む。

 花が咲いては枯れて。

 人が生まれては死ぬ。

 

 どんなに時を重ね、世界に何が起きようが、これだけは変わらない。

 

 

 わたしのスタートラインだ。

 

 

 体と感覚が重なり合う充足感。

 哄笑が不確かな闇を打ち砕く。

 

 それにしても、塵に感謝しなければ。

 何故、この世界にカスばかりが溢れているのか、その理由がやっと分かった。

 

 エコやリサイクルだの言うがそれは人間にも言える話で、特にわたしにとっては、何よりも大事なことだったんだ。

 

 塵は燃やさないといけない。

 人間はわたしにとって薪と一緒だ。

 

 焼却されるたびに、炎は燃え上がる。

 精彩に、わたしを染め上げてくれるんだ。

 

 なんてわたしは人道的なんだろう。

 塵にも使い道を用意してあげるなんて。

 

 

 

 ――ねぇ、そうでしょ? ママ。

 

 

 

「北海道とか、今丁度良い季節なんじゃないかしら? パパの故郷、稚内なのよ。これもおんぷちゃん覚えてないかもね。宗谷岬って凄いのよ~。海がカ~ッと広くって!! ママ、見てたらひっくり返りそうになっちゃった!」

 

 母は盛大に声を上擦らせながら、今だに喋り続けていた。

 

 汗で髪が肌に貼り付き、無理に微笑もうとしてるのか目元がぷるぷると脂肪ごと震える。

 

 なんと醜悪な姿なことか。

 

 今日だけは、有り難いとも思える。

 まさか家畜に感謝する日が来ようとは。

 

 人生は分からないものだ。

 

 お礼に、今からズタズタに切り裂いてやるよ。

 ゴールからスタートラインへ。

 

 次の『わたし』へ送る、生け贄だ。

 

 靄がかかる視界が晴れ渡る。

 意識が明瞭になるにつれ、一つ、勘づいたことがあった。

 

 理由も何もない、直感。

 でも、決して揺らがない確信だった。

 

 

 

「――そう、ママの仕業だったのね。わたしが隠してた『アレ』をパパに暴露(バラ)したのは」

 

 

 

 何の脈絡もない。

 唐突に発した一言。

 

 普通なら意味不明で失笑ものだけど、バックミラーに映る母の表情は一瞬で曇った。

 

 さっきまでくちゃべっていた口から息を飲む音が聞こえ、瞳は愕然と光を失う。

 

 その反応だけで充分だ。

 

「はぁ……なんのつもりよ? お陰でパパの前で恥をかいちゃったじゃない。ちゃんと仕事はこなしてたんだから、一々わたしのプライベートを掘り起こさないでよ」

 

 淡々と諭すように。

 今にも爆発しそうな感情を内に秘め、欲望が鮮やかに彩られる。

 

 母は観念したのか、噤んでいた口を開いた。

 

「……部屋の掃除をしてる時にたまたま見つけちゃったの。それでパパに相談してね……ママから言っちゃうと、おんぷちゃんは話を聞いてくれないでしょ? だから――」

 

「だからなによ? 余計なことして拗らせただけじゃないの。なにがしたかったの? 理由だけ言ってよ。わたしに分かるように、はっきりと」

 

 着々と外堀を埋め、問い詰める。

 

 母はわたしの物言いに唸っては探るような口調で嗜めてくる。

 

「なにって、おんぷちゃんねぇ。親として心配するのは当然でしょう? さっきから言ってることがおかしいわ。苦しくはなかったの?」

 

「苦しい? ふん、あんなの些細なことでしょ。気にしてたら芸能人は務まらない。ママがいつも言ってるじゃない、プロ意識だって。それにもう終わった話よ」

 

「終わっちゃいないわよ、おんぷちゃん……『アレ』を見た時にママは気付いちゃったの。私がどんなに馬鹿だったか……おんぷちゃんにどんな重い荷物を背負わせていたのかって……もうやめましょう。間違ってたんだわ、私達。ハリウッドも考え直して、ね?」

 

 母は振り返り、わたしと目を合わせる。

 運転中だからちらっと見るだけだったけど、それしても一瞬だった。

 

 まるで顔を見る勇気がないみたいに。

 とても大事な話をしてるはずなのに。

 

 それも当然か。

 もし一連の流れの中で、母の言う『間違い』とやらがあったとして。

 

 罪があるかないかは別にしても、それは母の所為なんだから。

 

 母がわたしをオーディションに連れて行った。

 それが全ての始まりだった。

 

 だからこそ。

 

 

 

「あのさぁ……パパにも言ったんだけどね――

 

 

 

 ――ふざけんなつってんのよ」

 

 

 

 今さら、どの口でほざけるんだ。

 

 

 

「あんたが怖じ気づくのは勝手だけど……なんでそれにわたしが巻き込まれないといけないの!! ハリウッドを? 考え直して? はぁ!? よくそんなこと軽々しく言えたわね!! わたしは一人でもハリウッドに行くから、嫌ならあんたは残ればいいでしょうが!!」

 

 噛みつくような剣幕で怒鳴りつける。

 

 両親揃って、どれだけわたしを虚仮にすれば気が済むんだ。

 父は兎も角、母までも。

 

 お前にそんなことを言う権利はないんだよ。

 虎の威を借る豚の分際で。

 

 

 今まで散々わたしを利用してきたのは、お前じゃないか。

 

 

「おんぷちゃん、落ち着いて……ママはただおんぷちゃんを助けようと……」

 

「誰が助けてなんて言った!? それが余計なことだつってんだよ!! 何回言えば理解すんだこの頓馬!! 他人の気ィ散らせることばっかやって! 元はと言えばあんたが最初に始めたことでしょうが!! えぇ!? 『桜井くらら』!!」

 

 たじろぐ母に追い打ちをかけるように。

 母の、もう一つの名を口にする。

 

 階段から転げ落ち声を失い、二度と立ち上がることはなかったチャイドルの名前。

 舞台から消え失せても、今だに夢を諦め切れなかった女の名前。

 

 

 わたしの『スタートライン』。

 わたしの前にいる『わたし』。

 

 

「……あんたが切っ掛けを与えて、わたしが作り上げた。なにか御不満でも? 桜井くららさん? TVに出た。CDを売った。賞を取った。馬鹿にしてた連中を皆見返してやった。これ以上なにが欲しいの? ほら、言ってごらんなさいよ。さぁ!!」

 

 お前に足りないものは全てわたしが補った。

 お前が欲したものは全てわたしが手にした。

 

 お前の劣等感を全て。

 お前の過去を全て粛清してやったんだ。

 

 その為にわたしをアイドルにしたんだろうが。

 

 

 お前が望んだことは――

 

 

「――昔の自分に復讐できた気分はどう? ねぇ、正直に聞かせて。娘を使ってスターダムに上がった気分は? 最高だったでしょう? でもね、それは全てわたしの功績なわけ」

 

 わたしが階を一心不乱に登っていた時、こいつは何をしていた。

 

 何の苦労もなく、ぶくぶくと太り続けてただけじゃないか。

 そのくせ大事な場面では親心とやらでわたしの足を引っ張る。

 

 いい加減にしろ。

 お前の気紛れに付き合うほど、こっちは暇じゃないんだ。

 

「あんたの過去なんて関係ない。そんなものはとっくにわたしの未来が捩じ伏せてるのよ。わたしの意思で、わたしはどこまでも高みに行く。あんたはわたしの言うことだけ聞いてりゃいいの。分かった? なら、さっさと会場に行きなさい」

 

「おんぷちゃ――」

 

「喋んな。ムカつくだけだから。黙って進め」

 

 それから、母は何も話すことはなかった。

 

 どんな表情をしているのか。

 目を瞑るわたしには分からないけど、そんなことはもうどうだっていい。

 

 こっちは言いたいことを言い切ってすっきりしてるんだ。

 相手がどう思おうが知ったこっちゃない。

 

 闇の中でわたしは手応えを確かめる。

 弄ぶように、肩を組むように。

 

 武器であり、友人。

『桜井くらら』が教えてくれた『わたし』自身。

 

 

 

 狂おしいほどの怒りだ。

 憎しみすら伴って、わたしの側にある。

 

 もう何もいらない。

 怒りは熱に変換され、胸の鼓動と相まって強靭なエネルギーを作り出す。

 

 無限に、尽きることがない。

 

 

 

 これさえあればいい。

 

 どこまでも追い続けて。

 

 どこまでも走っていける。

 

           ♪

 

 だじだじと床を蹴りつける。

 

 貧乏揺すりは速さを増して、それに反して時間は萎むように針の刻みが遅くなる。

 

 

 どうしようもない苛立ち。

 もう四時間も待たされていた。

 

 会場に到着し、正午はとっくに過ぎた。

 リハーサルも終わり、今や本番10分前。

 

 周りは慌ただしさを通り越して無音だった。

 もう準備万端という証拠。嵐の前の静けさだ。

 

 何時まで待たせる気なのか。

 コンサートが、何万という観客が控えてるっていうのに。

 

 こちらの都合とはいえ、やってくれる。

 バタ臭いヤンキー共が、約束一つすらもろくに守れない。

 

 

 誰も彼も不快だった。

 だけど、これがいいんだと思える。

 

 抱えきれないほどの怒り。

 憎しみが今にも張り裂けそうだ。

 

 これがわたしなんだ。

 

 虚しくなんかない。

 この激情がありさえすれば。

 

 満足とは違う、この覚醒感。

 意識が冴えて、体と心が噛み合う高揚感。

 

 遮二無二、走ってきた。

 ここまで、わたしは空っぽになるまで頑張ってきたんだ。

 

 一度は燃え尽きて、そして、わたしの奥底から湧き出した『一歩』。

 やっと見つけた、本当の『わたし』だ。

 

 ずっと昔から、わたしを支えていた。

 一番最初の気持ち。

 

 

 

 この気持ちさえあれば――

 

 

 

 着信音が鳴る。

 

 

 

 ――どこまでも、ひたすら、果てしなく

 

 わたしは戦えるんだ。

 

 

 

 机に放り出されていた携帯が震える。

 部屋の隅でじっとしていた母は顔を上げるも、見つめるだけで手に取ろうとしない。

 

 わたしが『出ろよ』と目顔で睨み付けて、やっと母は恐る恐るといった手付きで電話に出る。

 

「……はい、ルカエンタープライズの瀬川です。えぇ、その節は……はい、はい……えぇ!? それはどういうっ!?……はい、はい、分かりました。ありがとうございます……」

 

 プツと、切られた電話。

 

 母は携帯を置いて、椅子に崩れ落ちる。

 力が抜けたようにぷらんと手が垂れ下がった。

 

 背中を見せるばかりで顔は窺えない。

 なんだか雲行きが怪しかったけど、どうせまた契約面でのいざこざだろう。

 値が高いほど良いに越したことはないけど、物には限度がある。

 

 欲の皮が突っ張った糞女。

 やっぱりお前は何も変わらないな。

 

 良い薬、好い気味だ。

 この唐変木なら三日もすれば忘れてしまうだろうけど。

 

 その証拠にいつまでもぼけっとしてる母に、わたしはいい加減痺れが切れた。

 

「ちょっと、なんか言いなさいよ。ハリウッド、決まったんでしょ。また出演料で揉めたみたいだけど。そういうのもうやめてくれない? こっちまで恥かくでしょうが。わたしはお金より――」

 

 話の途中で、母が振り向く。

 

 わたしは言葉を失った。

 

 

 

 母の眼差しに、気圧されてしまう。

 

 

 

 いつもと同じ、いつも以上に弱々しい光。

 なのに、ただ一筋、射抜いてくる。

 

 まるで鉄柱が胸を指し貫いてるみたいに。

 体が全く動かなかった。

 

 

 母は椅子から立ち上がって足が縺れながらも一直線にわたしに向かってくる。

 強引にわたしの手を掴んで、部屋の外に連れ出そうとする。

 

 肩を引っ張られ、はっとしたわたしは全力で抵抗する。

 

「ちょっとなに! 離せ! どこに行くのよ!? ハリウッドは!? なんとか言いなさい!!」

 

「……コンサートは中止よ。家に帰りましょう。おんぷちゃんはここにいちゃいけないわ」

 

「あぁ!? なに意味分かんないこと言ってんのよっ!! とうとう頭がイカれたのっ!?」

 

 わたしは腕を無茶苦茶に回して母を振り払う。

 腕を擦りながらキッと睨みつける。

 

 母は尚もじりじり迫ってくる。

 

「……なにがあったのか言ってよ。もうコンサートが始まっちゃうわ」

 

 さすがのわたしもその姿に恐怖を覚え、強気にはなれず声は萎縮してしまう。

 

 もうすぐスタッフが呼びに来る。

 こんな馬鹿騒ぎをしてる場合じゃないのに。

 

「……おんぷちゃんをコンサートに出すわけにはいかないわ。行けばおんぷちゃんは――」

 

「だから、その理由を聞いてるんでしょ。さっきから一方通行なのよ。なんでわたしがあんたに従わなきゃならないの?」

 

「……分かった。おんぷちゃん、落ち着いて。冷静によ。大丈夫だからね」

 

 まるで自分に言い聞かせるみたいに、母は呼吸を整える。

 

 やっと本題に入るのかと、わたしは苛つきながらも黙って話に耳を傾けていた。

 

 

 

 馬鹿で無防備で。

 

 無我夢中に走り続け。

 

 齷齪と階を登り続けてきた。

 

 

 

「いい? おんぷちゃん、よく聞いて――

 

 

 

 栄光でも、頂点でもなく。

 

 

 

「ハリウッドはね――

 

 

 

 スタートでも、ゴールでもなく。

 

 わたしは自分がどこに辿り着いたのかを知る。

 

 

 

 ――おんぷちゃんは、落選したのよ」

 

 

 

 ガンガン、と。

 耳障りな音だ。頭に響いてくる。

 

 なんだろうと顔を上げたら、『月』がいた。

『神』がいた。『世界』がいた。

 

 わたしの思い描いた理想の『わたし』がずらりと並んで座っていた。

 

 横には父や母が。桃子もいた。

 互いにひそひそと耳打ちしあっていた。

 

 後ろにはクラスメートが揃っていた。

 みんとちゃん、中田もいる。

 麗華と絵里華の姉妹も。

 市川先生だって。

 

 なんで皆いるんだろう。

 ここはどこだろう。

 

 目の前には、高い机。

 背伸びをしないと顔を出せない。

 

 

 

 証言台。

 

 

 

「――ゲホッ!! ゲホッ!!」

 

「……え?」

 

 母が床に手をついて倒れていた。

 

 わたしは今まで何をしてたんだろう。

 

 母の脇腹に拳が突き刺さる。

 

 拳。誰のだろう。

 

 

 瓦五枚を叩き割る拳だ。

 わたしのちょっとした自慢だ。

 

 綺麗に真ん中を割るのって案外難しい。

 やり方が悪いと逆に拳を痛めてしまう。

 

 

「え?」

 

 

 違う。違わない。

 なんで殴った。違う。わたしじゃない。

 

 誰かがわたしを。

 怒りも、憎しみもない。この拳は。

 

 一瞬、自分が分からなくなった。

 また、自分を見失ってしまう。

 

 噛み合わなくなってしまう。

 全部、嘘に。だめだ集中しろ。

 

 吹き出した汗は頬を焦がすほど冷たい。

 わたしは頭を振って現実を呼び戻す。

 

「ッ!! 誰よ!! 誰!? あぁ有り得ない。嘘よそんなの……嘘嘘。誰!? 別の子役って!? わたしはぁぁ」

 

 汗が止まらない。

 全身がどろどろに溶けてしまいそうだ。

 

 母を揺さぶって、母に縋るように誰、誰、と繰り返した。

 

「……まさか、桃子……?」

 

 またあの女が。

 そうだ、そうに違いない

 

 感情の渦が巻き起こり、体の奥底から怒りが沸き上がってくる。

 

 不愉快なのに、心地良かった。

『そうかそうか、あの女か』と笑い出しそうなほど血が勢いを増す。

 

「あっははは!! いたわよね~、そんな奴。飛鳥! 桃子! これで勝ったつもりじゃないでしょうね? 見てなさい。絶対にわたしは這い上がって、これでやっと、五分よ。ははは、やっぱそうでなきゃ、潰し甲斐が! あ~あ!! 楽しみっ!! ねっ!」

 

 わたしは闇雲に手を振り回した。

 ふらふらと体を踊らせる。

 

 目の前にいる桃子に向かって。

 パンチを繰り返す。

 

「……違う……わ……」

 

 そんなわたしの叫び声に。

 母は首を振り続けていた。

 

 荒い息遣いの中に、その子の名前が重なる。

 

 

 わたしの肩を誰かが叩いてきた。

 

 

 

「――もり、野、かれ、ん、ちゃん、よ」

 

 

 

 歌が聞こえてくる。

 

 よく耳に馴染んだ曲。

 母のデビュー曲だ。

 

 母は有名なアイドルじゃなかったけど、何故かCDは、レコードだけは飛ぶように売れたのだ。

 CMにも起用され、母の世代なら憶えてる人は多いのだと。

 

 歌手は分からなくても、歌だけは、誰もが口ずさめる。

 

 遠く、懐かしい。

 その曲はずっと、わたしの側で。

 

 

 

 ――そろそろコンサートの時間だよ。

 

 そう言った。

 後ろを振り返ると。

 

 

 

 ――みんな、待ってるよ。早く行かないと。

 

『桜井くらら』が言う。

 

 

 

「――嫌だ」

 

 

 

 ――ほら、いいから行こうよ。

 

 わたしの腕を取って引っ張りこもうとする。

 

 

 

「――どうしてかれんちゃんがいないのよ!?」

 

 ――どうしてって?

 

 シュプレヒコールが上がる。

 口笛を吹いて、騒ぎたてる。

 

 

 

 ――だって、これはあなたの舞台(ステージ)なんだもの。

 

 ガンガン、と。

 

 

 

 ――これ、みんなぜ~んぶ

 

「――」

 

 

 

 ――あなたがのぞんだことでしょ

 

 

 

 さっきから。

 嫌に光が眩しいな。

 

 見上げると、天辺には『月』。

 わたしの大好きな、わたしを象徴する耀き。

 

 なんて美しいんだろう。

 思わず、溜め息が出る。

 

 でも、これはあんまりだ。

 これじゃあ、まるで太陽じゃないか。

 

 光に溺れそうになる。

 沈み、二度と浮かび上がれないほど。

 

 ちょっと待ってよ。

 熱い。苦しいよ。

 

 よろめく。一歩、二歩、後ずさる。

 わたしを映す光から逃げる。

 

 現実が徐々に追い付いてくる。

 火花が散り、痛みが爆ぜる。

 

 それが合図で。

 わたしはスタートを切った。

 

 

 

「――ッ!? おんぷちゃんっ!!」

 

 

 

 今まさに。

 部屋をノックしようとしていたスタッフをドアごと押し退けて、わたしは飛び出した。

 

 派手に廊下の壁にぶち当たっても。

 構わず、何も考えられず、逃げ惑う。

 

 光の中心は常にわたしを捉えて急き立てる。

 光の中心にいるわたし以外が欠落していく。

 

 外へ――

 

 外へ――

 

 ゴールも、『わたし』も、誰も、いない。

 

 もがいて――

 

 もがいて――

 

 悲劇が蔓延る地上へ。

 

 停滞する下界へ。

 

 虚ろが犇めく大海へ。

 

 底無しの暗闇へ。

 

 

 

 わたしは、自ら身を投げ出した。

 

 

 

 その時になって、やっと気付いた。

 

『悪霊』に囁かれていたんじゃなく

 

 ずっとずっと昔から

 

 わたしは、問われ続けていたんだ、って。

 

           ♪


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。