どれみとおんぷ ♪ 春夏秋冬   作:シャンティ・ナガル

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第十八話 至実

 

           ♪

 

「ふふっ、ねぇ、あれ……」

 

「うわぁ、本当に……」

 

「あ~あ、かわいそ~。ひひっ」

 

 くすくすと姦ましい笑い声。

 

 何がそんなにおかしいのやら。

 幻覚でも見えているのだろうか。

 

 音楽の授業中。

 わたしがリコーダーを演奏している時だ。

 

 クラスメイトが鳴き喚いている。

 寄り集まって一塊なった姿は害虫そのもの。

 

 わたしの演奏姿といえば目を抜き出して眼球ごと金庫に保存しても良いくらい、有り難い慶事。

 うだつの上がらない塵虫の人生じゃ今後二度と巡り合えない最大の僥倖だろうに。

 

 それを噛み締めていればいいんだ。

 そして、わたしに出会って運を使い切った絞りかすの余生を、黙って受け入れていろ。

 

           ♪

 

 教室に入ると、何やら人だかりができていた。

 

 さして興味もなく席に座ろうとすると、人だかりが一斉にこちらを見た。

 

『え?』と虚を突かれ、目を見張る。

 

「あら~? 瀬川さんじゃありませんか」

 

 人垣が割れ、その先に絵里華が現れる。

 顎を引き、相変わらずの嫌らしい笑み。

 

 そして、もう一人。傍らには男子。

 

「デュフ、おんぷちゃん……」

 

 名前は忘れたけど、クラスメイトだ。

 どうやらわたしの大ファンらしく、いつもおどおどと話しかけてくる。

 

 いかにもオタクといった風貌の気持ち悪い奴。

 

「同じクラスの中田君ですわ。瀬川さんのことをと~っても好いてらっしゃる御方ですのよ」

 

 絵里華が手を差して紹介してくれるけど、だからなんだというのだ。

 

 言いたいことが分からなくて眉を顰めていると、絵里華の背後、黒板に書かれた文字に目が行って唖然としてしまう。

 

 

 《祝!! 瀬川おんぷ LOVE 中田剛二》

 《間接キッス! 記念!》

 

 

 口がぽかんと半開きになる。

 

 

「瀬川さんが海外に行くということで中田君は大変悲しんでらしたのよ? わたくしも心配でしてね……最後に思い出になることでもあればよろしいのにと、いつも考えておりました」

 

 絵里華が拳を震わせながら、力説する。

 いかにも玉木らしい、稚拙な振る舞い。

 

 お座なりな芝居。

 付き合わされるこちらの身にもなれと、いつもなら考えるその光景が今は薄気味悪く感じる。

 

 背筋が粟立った。

 

「そしたら瀬川さんが……あなたはなんて優しい方なの。中田君やわたくしの想いを受け取って何も言わずリコーダーを置いといてくださるなんて……あぁ、さすがハリウッドスター……わたくし達、下々の者にも無私の精神で慈愛を分けてくれますのね。なんと貴い御方!」

 

 違う、と。

 叫びたかった。

 

 やられた、とも。

 床がひび割れそうなほど、足が重くなった。

 

 リコーダーを鞄の中に入れていただけだ。

 私物は家に持ち帰っていたけど、常に肌身離さずもっていれるわけがない。

 

 隙を突かれて、盗まれたんだ。

 

 悔しさで奥歯をギリギリと噛む。

 

「感動的でしたわ~。リコーダーに口付ける中田君の姿は。長年の想いが成就するんですから、それはもう熱心にチュパチュパと……なんて愛らしい仕草なんでしょう!」

 

 言い立てる絵里華の言葉に熱が籠る。

 

 聞かざる嘲笑が、わたしの中で渦を巻いてさざめいていた。

 

「もうお二人とも付き合ったらよろしいんじゃなくて? あなたも気があるのでしょう? あんなに軽快にリコーダーを吹いてらっしゃったのですから。お似合いのカップルじゃあ~りませんか」

 

 「オ~ホッホッホ!!」と背を仰け反らして笑う。

 

 絵理華の甲高い笑い声がびりびりと耳に響く。

 

 当の中田は吊し上げられているというのに、指を絡ませ顔を赤らめていた。

 満更でもなさそうに「いゃ~、その~」などと、にやにやと気色悪い笑みを浮かべる。

 

 ざわめくクラスメート。

 侮蔑、無関心、愚弄、興味。

 

 皆、顔色は様々だけど誰も笑っていなかった。

 助けも諌めもしなければ、一様にじっとわたしを見ているだけ。

 

 絵里華の笑い声。

 中田の指。

 クラスメートの瞳。

 

 頭を過り、視界が赤く歪んだ。

 

 砂時計がさらさらと流れるように。

 憎しみが、怒りが、冷静に、酷薄に。

 

 注ぎ込まれていく。

 拳が砕けそうなほど、強く握った。

 

 手を白く染めながら、黒々とした残忍な炎は絶えることなく、わたしの手中で燃える。

 

 

 

 ――殺すぞ。

 

           ♪

 

 校庭の横、渡り廊下の影になる洗い場。

 

 わたしは手で水を掬い取り、顔に浴びせた。

 

 髪先からぽたぽたと雫が落ちる。

 

 何度も顔を洗った。

 何度もうがいをして、何度も唇を拭った。

 

 それでも、穢れは落ちることはない。

 嫌悪感が肌に染み付き、心は汚泥に浸かっているような、最悪の気分。

 

 でも、これ以上は駄目だ。

 顔が腫れて、オーディションに響いてしまう。

 

 溜まった水が鏡となって、わたしを映し出す。

 

 目は充血がないか。

 唇は荒れてないか。

 肌は傷んでないか。

 

 一通り確認して、ほくそ笑む。

 

 

 大丈夫。

 わたしは何も変わらない。

 

 いつもの『瀬川おんぷ』。

 可愛くて、美しい。

 

 何一つ欠けることはない。

 満天の、『月』だ。

 

 

 水鏡が揺れて、わたしの影が溶けて消える。

 流れの向こう側で、絵里華が、中田が、クラスメートの顔が、揺れていた。

 

 ゆっくりと水に手を入れて、それをかき回す。

 

 わたしの顔に泥を塗った糞雑魚共の顔を一人一人握り潰していく。

 

 紛い物の分際で調子に乗りやがって。

 わたしはお前達が気安く触れられるほど、低い御身分じゃない。

 

 ハリウッド女優、瀬川おんぷだ。

 

 粗製濫造の欠陥品がのさばる中で唯一無二。

 日本で、いずれ世界でも絶対の価値を持つ。

 

 わたしの人生に比べれば、お前達は塵芥。

 わたしの命は地球より重く、お前達とは比べることすら烏滸がましい。

 

 まだ理解できてないのか。

 何故、認めようとしないのか。

 

 塵、カス、間抜け、バカ、低能。

 どいつも、どいつも、どいつも。

 

 

 ――殺す。

 

 

 お前達の腹を裂き、内臓を引き出してやる。

 腸を口にくわえて、自分の糞を食らいながら死んでしまえ。

 

 脊骨を粉砕してやろうか。

 脳髄をばらまいてやろうか。

 手足を引きちぎってやろうか。

 

 

 ――殺す。

 

 

 例え『許してくれ』と乞われても。

 誰が許すものか。もう遅いんだよ。

 

 消えろ。くたばれ。失せろ。

 塵の身分のくせに、このわたしを虚仮にした報いを受けさせてやる。

 

 お前達の血で赤く染め上げ、お前達の死体で築いた階を堂々と登って。

 

 お前達を存分に踏みにじって、わたしは『天』へと赴く。

 

 やがて神に、神さえも超える。

 何もかも飲み込んで、わたしは誰よりも――

 

 

 

 そのためなら、誰であろうと――

 

 

 

 ――殺してやるぞ、糞共。

 

           ♪

 

 オーディションに向け、仕事は全部オフにしてもらった。

 

 もう幾日もない。

 学校に未練はなく、自宅に直帰する。

 

 稽古をするため自室に入ると、誰もいないはずの部屋には父がいた。

 

 いきなり視界に飛び込んできて、腰を抜かしそうになる。

 わたしも父も多忙で家で会うことは滅多になく、外で待ち合わせることが殆どだった。

 

 びっくりはしたけど、とんだサプライズだ。

 ハリウッドに行ったら、父とも離ればなれ。

 

 素直に嬉しかった。

 

 目元が柔らいでいく。

 愛しい家族との貴重な時間。

 

 まずは一人娘の部屋に勝手に入ったデリカシーのなさを嗜めてやろうと心中で笑みを堪えていたら、父の視線に足が竦んでしまう。

 

 

 父はじっとわたしを見つめていた。

 怖い目付きで、悲しげな顔で。

 

 何か言うわけでも、近づきもせず。

 佇むだけで、微動だにしない。

 

 

 わたしは唾と一緒に言葉を飲み込む。

 浮わついた心がみるみる萎んでいく。

 

『叱られる』と感じ取り、『なんで?』と胸がざわついた。

 

 怒られることはなにもしていないのに。

 それでも父は有無を言わせない。

 

 

 端整な顔立ち、その眼光は鋭く。

 服の上から盛り上がる筋肉から気炎を発して。

 

 今なら熊殺しも信じてしまいそうなほど、恐ろしい佇まいだった。

 

 

 わたしは喉がからからに渇いて、父の眼差しから逃げるように目を彼方に逸らした。

 

 その時、目に映ったモノ。

 頭の中が真っ白になる。

 

 

 床には、切り裂かれた服やずたぼろの上履き、ぐちゃぐちゃにされた教科書が置かれていた。

 西日が眩しいくらい部屋を照らしているのに、こんもりと山になってる『それ』はまるで光を吸い込んでるみたいに黒々と鎮座していた。

 

 

「――嫌だっ!!」

 

 

 わたしは一瞬呆然として、反射で飛び出した。

 床を這って、『それ』に覆い被さる。

 

 亀みたいに、卵を守る親鳥みたいに。

『それ』が外界に、父の目に触れないように体を丸めた。

 

 

『なんで?』

 隠し場所は完璧だった。

 

『どうして?』

 近い内に処分するはずだった。

 

 

 わたしは『それ』をお腹に押し込めるようにぎゅっと抱きしめる。

 

「え、えへへっ! これは違うの。ね? パパ? 参っちゃうな~。わたしってば人気女優だから悪戯とかよくされちゃうの。パンピーからしたらゲームみたいなもんでね。ハリウッドが決まったもんだからやっかみも増えちゃって。でも大丈夫。わたし強いから。ねぇ? パパ。パパが気にすることじゃないのよ」

 

 へへ、へへ、と馬鹿みたいに笑った。

 お腹が痙攣して、声が震えてしまう。

 

 それでも心の中で『頑張れ!』と自分を鼓舞して、なんとかアドリブを完成させる。

 わたしが今まで手掛けた中で、最悪の演技。

 

 けれど、そんなの気にしていられない。

 わたしは『わたし』でなくてはいけない。

 

 例え嘘でも、演じなければならないのだ。

 

 父に心配をかけたくない。

 父に失望されたくない。

 

 強い『わたし』を、『瀬川おんぷ』は完璧でなければ駄目なんだ。

 

 弱いのは『わたし』じゃない。

 父の考える『わたし』じゃないんだから。

 

『無邪気に』とか『元気よく』とか、殴り書きされた頭の中の台本を必死に追った。

 

「みんなガキなのよ。そのくせ嫉妬深くて。でもこんなこと問題にしてたら芸能人なんてやってらんないし今は大事な時期だから……ね? わたしってすごいでしょ? ちゃんと我慢できてるでしょ? 本当ならあんな生意気な奴ら一捻りなんだけどね~。なんたってわたしはパパの娘だもん」

 

 棒読みもへったくれもない。

 仕草も所作も関係ない。

 

 こんな演技じゃ誰一人騙せやしない。

 分かっているのに、口は止まらなかった。

 

 捲し立てるように言葉を吐き出し、蛙が潰れたような笑い声をへらへらと上げた。

 

 

 父が怖かった。

 わたしが黙ったら、今度は父が口を開く。

 

 なにを言うつもりなのか、知らない。

 分からない。どうでもいいとすら。

 

 ただ、父が話す一言が、怖い。

 わたしは父を喋らせまいと、隙を与えまいと、沈黙を埋めるために躍起だった。

 

 

 でも、そんな抵抗も虚しく、父が膝をついた。

 

 それだけで、わたしは息が詰まって言葉が出せなくなる。

 「ひっ」と悲鳴を上げて縮こまる。

 

 ぎゅっと目を瞑り、暗闇に逃げ込んだ。

 なんの解決にもなっていないのに、縋るしか他に方法がなくて。

 

 踞って、時が過ぎるのを待った。

 

 

 すると、わたしの頭にぽんと感触が一つ。

 

 父の掌。指が厚く硬い。

 太陽のみたいにぽかぽかした手がわたしの髪を撫でていた。

 

 不器用で、少し乱暴。

 けれど、心地いい。

 

 鋭敏になった神経を解すように、優しい雰囲気が広がっていく。

 

 父がふっと笑う。

 見えないけど、掌から伝わった。

 

 わたしはほとほと泣きそうになって、でも泣きたくはなくて、その涙を押さえ込むのに夢中で、父の手に、その安心感に身を任せていた。

 

 

 だからだろうか。

 

 

「なぁ、おんぷ――チャイドル、辞めないか?」

 

 

 

 ――え?

 

 

 

 父の一言はわたしの心を深く抉っていった。

 

 余りのことに、気が遠くなる。

 

『なにを言ってるの?』

『なんで?』

『意味分かんない』

『どうして?』

 

 思いは目まぐるしく、いくつも浮かんでは消えて、どれも口から出ることはなかった。

 

 胸が詰まって、呼吸を忘れるほど。

 

 

 そんなわたしを置いてきぼりにして、父は諭すような口調で語りかけてくる。

 

「凄いな~、おんぷは。こんな酷いことをされても暴力に訴えなかったなんて。普通なら怒ってもいいはずだし、実際周りの子達を打ちのめす力を持っているのに。おんぷがやったことはな。空手道の中で一番大切で一番難しいとされてることなんだよ。まずそれをパパは誇りに思うし、一人の空手家として尊敬する」

 

 変わらずわたしの髪を撫で続けながら。

 

 父は怒ってるわけじゃなくて励まそうとしているんだと、それだけは分かった。

 

 

 分かった。

 分かったから――

 

 

「チャイドルとしての活動もパパは回りに鼻が高くてね。大きな賞を取ったり、次はハリウッドだろ? 驚いたけど、おんぷの活躍が認められてパパはとても嬉しかったんだ。おんぷはパパとママの自慢の娘だよ。本当に良い子に育ってくれた。でも……」

 

 父の声が下がる。

 頭を撫でる手が止まって、わたしの背中に視線が突き刺さった。

 

 わたしが抱き隠す『それ』を見透かすように、父の眼差しが落ちてくる。

 

「芸能人として、空手道として、おんぷは正しいことをした。それは立派なことだけど、おんぷはまだ子供なんだ。嫌なことをされて我慢する必要はないんだよ。今のおんぷは……少し無理をしてるように見えるな」

 

 父の一言一言が、背中に重くのし掛かる。

 心を掻き乱されて、耳を塞ぎたくなった。

 

 わたしの将来が、夢が、希望が。

 わたしの光が、徐々に引き絞られていく。

 

「おんぷは一生懸命だから仕事に熱中してる間に友達と距離ができたのかもしれないね。頑張って頑張って……頑張りすぎて独りになる。そんなの寂しすぎないか?」

 

 わたしは床を睨みつけていた。

 腹の底から炎が上がり、心根を焼き尽くす。

 

 マグマのように煮えたぎる感情がもたげる。

 わたしはそれは父に向けないように必死に耐えていた。

 

 

 ――おねがいだから。

 

 

 心の中で、懇願する。

 

 

 ――もう何も言わないで。

 

 

「なにも芸能界の仕事を一生やるなってことじゃないんだ。ここらで一休みしたらいいんじゃないかな? おんぷは小さい時から仕事を頑張ったんだ。気分転換も悪くないだろ?」

 

 いつも通りの父、明るくけらけらと笑う。

 普段と変わらない様子で。

 

 けれど、その声を聞くたびに。

 口の中に苦汁が滲み、喉を掻き毟りたくなる。

 

 わたしと父の間に、溝が深々と刻まれていた。

 

 堰が切られる。

 溝からは血のように赤い液体が溢れだし、一気に迫って足元を濡らす。

 

 わたしはそれを無表情に冷視していた。

 

「今、親戚が空き家を持っててね。大自然に囲まれてて気持ちいい場所なんだ。別荘なんて洒落たものじゃないけど、たまにのんびり過ごしてリフレッシュするなんてどうだい? パパも仕事休むからさ。なぁ? 付き合ってくれないか?」

 

 そう早口に言い切って、父はわたしの顔を覗き込もうとする。

 

 わたしは手で顔を覆って拒んだ。

 

 父の顔を見たくなかった。

 父の顔を見ると、父の顔を見てしまったら、わたしは――

 

 父がどんな顔をしてるのか見なくても手に取るように分かっていた。

 

 会心の笑みだ。

 今まで言い募ってきたことを全部吐き出して、さぞ満足だろう。

 

 父は芸能界に入るのに反対だった。

 それを面と向かってわたしに言うことはなかったけど、そのことで母とよく喧嘩をしていたのをこっそりと見ていて知っている。

 

 父にとって、これは絶好のチャンスなんだ。

 わたしにとってのピンチは芸能界を引退させる口実になって、何気ない素振りで自分の思う通りに誘導しようとしている。

 

 でも、わたしを騙くらかすには物足りない。

 

 どんなに体を鍛えても感情は隠せやしないのに、わたしの前で芝居を打とうなんて百年早い。

 ずっと前から考えていたことを倩と並べ立て、ト書きの台本が透けて見えるようだった。

 

 父を信じていた。

 父なら、今のわたしを見ても「負けるな」とか「頑張れ」と応援してくれる。

 

 そう信じていた。

 

 「甘ったれるな!!」って叱られても構わない。

 父が背中を押してくれるだけで、わたしはどこまでも前に進めるはずだから。

 

 

 でも、父の口から出た言葉は、わたしが一番聞きたくない言葉だった。

 

 

 父が好きだった。

 大きな背中、逞しい腕、頼もしい人柄。

 

 わたしはいつもそれを仰ぎ見て、見ているだけで嬉しかったんだ。

 

 自慢の父。

 娘として生まれたことを心底、誇りに思う。

 

 父を愛していた。

 だけど、わたしの愛した父はもういなかった。

 

 強い人だった。

 いくら芸能界に反対でも、易々と背中を見せるような台詞を父が言うはずがないのだから。

 

 父は弱くなった。

 そして、それはきっと、わたしのせい。

 

 わたしが強くなかったから。

 わたしが弱みを見せたから。

 わたしが完璧じゃないから。

 

 失望された方が、罵ってくれた方が良かった。

 わたしは父が与えてくれるものだったらなんだって受け入れる。

 

 例え踏んづけにされたって、父がいれば明日も頑張ろうと思えるんだ。

 

 でも――

 

 

 

「ふざけんじゃないわよ」

 

 

 

 ――同情だけは、いらない。

 

 

 

 わたしはゆらりと立ち上がる。

 かっと目を見開いて、父を睨んだ。

 

「なんだってわたしが仕事を放って山の中でバカンスなんてしなきゃなんないのよ。いい加減にして。休んでなんかいらない……ハリウッドよ。大舞台がわたしを待ってるの!!」

 

 詰るように、言葉を深く押し込める。

 

「さっきから散々言ってるでしょ? 大丈夫だって。わたしは大丈夫……仕事は好きで、仕事が好きだから、誰になにされようが関係ないのよ。別に傷ついてもいないし悲しんでもいない!! パパの考えをわたしに押しつけないで!!」

 

 ぽかんと間抜けな顔をする父。

 わたしの反発を予想だにしてなかったのか、気圧されるように身を少し引いていた。

 

 目には戸惑いの色。

 その瞳にさっきまで偽善の光が宿っていたかと思うと、際限なく、怒りが湧いてくる。

 

「こんなもの――」

 

 わたしは父から視線を移し、さっきまで自分がひた隠そうと守っていた『それ』を見下ろす。

 

「こんなものっ!!」

 

 激情のままに『それ』を蹴り上げる。

 教科書が羽ばたき、服から散る埃が斜陽に照らされてちりちりと舞った。

 

 次は叩き落とすように踏みつける。

 何度も、何度も、何度も。

 

「塵共がいくら足を引っ張ろうが! わたしはハリウッドに行くんだ!! 誰も及びつかない高みへ!! あいつらのクッソ安いプライドを粉々にするために! 世界中の人間の羨望を掻き集めて丸ごと袖にしてやる! もっと輝くわたしを見て、生き恥を晒せばいいんだわ!!」

 

「おんぷ……」

 

 父が息を吐くように呟く。

 肩を落とし、わたしを見つめる。

 

 父の目はクラスメートの連中と一緒だった。

 慈悲とも嘲笑ともつかない、力のない瞳。

 

 

 ――そんな目で、わたしを見ないで。

 

 

 父も同じなんだ。

 クラスメートと、母と、その他大勢の人間。

 

 溢れていた。

 悲しくなって涙が出るのとは、違う。

 

 水位が上がっていくように。

 喉元を、目頭を、冷ややかな感情が。

 

 憎しみが、込み上げてくる。

 

「パパには分かんないかな。わたしがどれだけ高みを望んでるか。どれだけの期待を背負ってるか。誰よりも潔白で、純粋で、貪汚で、残酷で。観客はわたしを通してでしか自分の欲望を叶えることができない哀れな奴隷達」

 

 頭の中が凍てつく。

 神経を切り離してしまったかのように意識が鈍っていた。

 

 それに満足感を覚えて、大きな溜め息をつく。

 

「わたしが自由であればあるほど人は幻惑に酔しれる。馬鹿共が譫言のようにわたしの名を叫ぶたび自分の力を実感するの。どう? 素敵な世界でしょ?」

 

 やっと、自然に笑えた気がした。

 痙攣していたお腹からすとんと憑き物が落ちたみたいに体が安定する。

 

「わたしの願いが叶うの。パパは嬉しくないかもしれないけど。もう誰にも媚びない、傷つけられない理想の『わたし』。その大きな大きな、第一歩。たとえパパであろうと邪魔はさせない」

 

 心が孤独で満たされる。

 大きな穴が開いて風が吹き荒んでいた。

 

 パズルのピースが零れ落ちるみたいに、一つ一つ、感覚が欠落していく。

 

 

 今はそれが心地好い。

 

 

「パパなんて――」

 

 昔、いつまで遡ればいいか分からないけど、前の父なら、あんな弱音を吐くことはなかった。

 

 今の父は、わたしが仰ぎ見てた父より、ずいぶん小さく見える。

 

「パパなんて――」

 

 ずっと愛してる。

 

 あなたから貰ったものは数えきれないほどあって、抱えきれないほど大きい。

 

 でも、手離す時が来た。

 

 脆い同情、薄ぺらな憐み。

 そんなもの、足手纏いなだけだ。

 

 悲しんで、傷の舐め合い。

 そんなもの、弱者がやることだ。

 

 父も、わたしも。

 互いの道を歩く時が来たんだ。

 

 別れて、また出会うために。

 次に会う時は、背伸びをしなくて済むように。

 

 もっと強くなって、あなたの前に。

 正真正銘の『わたし』になって。

 

 だから、今は――

 

 

 

「パパなんて、大っ嫌い!!」

 

 

 

 ――さよなら、パパ。

 

           ♪

 

 ざわざわと、張り詰めた空気。

 

 

 選ばれし少女達が一つの部屋に集う。

 

 オーディション会場の控え室はゆとりがありすぎるほど広い。

 けれど、隅に至るまで緊張感が漂っていた。

 

 皆、思い思いに過ごす。

 ずっと黙って下を向いてる人、何度も深呼吸をしてる人、最後まで練習をしてる人、ぺちゃくちゃとお喋りしてる人。

 

 人それぞれだけど、それは必死に自分を取り繕ってるだけで、共通する思いは一つ。

 わたわたと慌てることはなくても、無視できない焦点が彼女達に命令を与えてロボットのように機械的な行動をこなしてるだけなのだ。

 

 わたしはそんな気の毒な連中を誰に視線を向けるともなく、ぼうっと眺めていた。

 

 控え室はちょっとしたオールスターズだ。

 日本の芸能界を代表する子役が一堂に会する。

 

 きらびやかな活動を続けるスターの卵達。

 プロ意識はさすがに高く、緊張はしていても不安で浮わつく醜態は晒さない。

 

 一人残らず、わたしの足元にも及ばないけど。

 所詮は塵と名がついてるだけ有り難い小者共。

 

 その中には、桃子もいた。

 緊張で俯いてる子達に声をかけて、励ますように周りに笑顔を振り撒いている。

 

 敵に塩を送ることが許されるほど実力があるわけでもないのに、殊勝なことだ。

 底辺で馴れ合ってくれれば、こちらとしては都合がいいが。

 

 桃子は時折ちらちらと視線を送っていたけど、わたしはそれを悉く無視する。

 

 脳裏には、あの日告げられた言葉がまだこびりついていた。

 

 

 

『ワタシと友達になって!!』

 

 

 

 愕然とした、と思う。

 その言葉がわたしを貫いていた。

 

 わけがわからなかった。

 わけのわからない感情が身を包んで。

 

 わたしは何も答えることなく、握られた手を振り払い、その場を走り去ってしまった。

 

 唐突で、世迷い言も同然。

 嘲笑することもできたはずなのに。

 

 目の前にあるモノが信じられなかった。

 瞬きすら忘れて、桃子を見る。

 

 その桃子から逃げるように。

 居ても立ってもいられなくなったんだ。

 

 

 ――わたしが? 逃げる?

 

 

 残ったのは、圧倒的な敗北感。

 そして、絶対に有り得ない虚妄。

 

 

『もし、賭けの勝負に挑んでいたら』

 

『もし、あの手を握り返していたら』

 

『もし、違う場所で出会っていたら』

 

 

 答えの出ない問い。

 わたしは頭を振って、それを断ち切る。

 

 相手を動揺させる罠なら、楽だったのに。

 相手が桃子じゃなければ、悩まないのに。

 

 あれは桃子の本心だった。

 それをどうしようもなく信じてしまう自分。

 

 でも、もう遅い。遅いんだ。

 わたし達は引き返せない所まで来てしまった。

 

 桃子の願いに、わたしは答えることはない。

 YesかNoか、そもそも紡ぐ言葉すら。

 

 足元が揺らぐ。

『もしも』『もしも』『もしも』。

 

 積み重なるたび、平常を保てなくなる。

 

 断ち切らなくては。

 わたしは、一体なんのために戦ってきたのか、分からなくなってしまう。

 

 早くハリウッドに行ってしまいたい。

 オーディションが終わったら、わたしと桃子の間を流れ行くなにかが、別たれ消える。

 

 多分、もう二度と出会うことはない。

 少なくとも、桃子が願う『友達』としては。

 

 わたしはそれに堪らなく安心感を覚えて。

 決定的に遠退いていく二人の距離に、なにも言わず歩き去ろうとしていた。

 

 

 桃子はいつも通り、初めて会う子役達とも打ち解け合い仲良く談笑している。

 

 くすみのない笑い声。

 わたしは桃子の笑顔を揉み消そうと、目を逸らし続けていた。

 

 

 

 そして――

 

 

 

「おんぷちゃん」

 

 わたしは顔を向ける。

 

 森野かれんが、そっと歩み寄っていた。

 

           ♪

 

「なに? 話って」

 

 控え室を出て、人気のない方へ。

 

 昼間なのに暗い廊下。

 蛍光灯は自分にしか興味がないみたいに光を内に籠め、仄かな陰りに視界を包まれながら、わたしと森野かれんが向かい合う。

 

 かれんは何か言いたそうにしているけど、未だに踏ん切りがつかない。

 俯きながら此方を窺っていた。

 

「まさか、あなたも選ばれてたなんてね」

 

 まごまごと喋り出さないかれんに溜め息をつき、先にわたしが話しかけた。

 

 疑問を口にしたけど、驚きはない。

 控え室には特に有名でもない役者や、そもそも顔すら見たことがない人間も何人かいた。

 

 監督独自の審美眼というやつだろう。

 こっちもプロだ。それに口を挟むようなことはしない。

 

「うん……あたしもびっくりしちゃって。大して活躍してないのに急に電話がきたから……自信はないけど出てみようって思ったの。あたしのお父さんがヒューストン監督の大ファンだったから」

 

 父、という言葉にぴくりと方眉が上がる。

 

「お父さんね、役者さんだったの。あたしが小さい時に死んじゃったんだけど、一緒によくヒューストン監督の映画を見てた。ずっとヒューストン監督に会いたいって、監督の作品に出てみたいって楽しそうに言ってたの」

 

 動悸を押さえようと胸に手を当て、か細い声を張り上げる。

 瞳はまっすぐ、わたしを見ていた。

 

「だから、今度の映画には絶対に出たい。あたしが頑張ってオーディションに受かって、お父さんの夢を……あたしが叶えてあげたいの!」

 

 かれんは息急き切って話した。

 咳き込みながら軽く息をつく。

 

 わたしは黙って、それに聞き入る。

 

「でも……その前に、どうしてもおんぷちゃんに謝りたくて……」

 

 そう言って、かれんはわたしから視線を逸らして壁に手をつく。

 

「おんぷちゃんが絵理華ちゃん達にいじめられてた時、あたし、なにもしてあげられなかった。仕返しされると思ったら怖くて臆病で……本当にごめんなさい。友達なのに助けられなくて……」

 

 廊下に、すすり泣く声が響いていた。

 ぽたぽたと滴り落ち蛍光灯の乏しい光に、涙だけは、輝いて見えてた。

 

「ごめんなさい。ごめんなさい……今さら謝っても遅いけど、それだけは言いたくて……おんぷちゃんがかわいそうだったから……」

 

 壁に寄りかかって力なく膝をつく姿は、まるで神に許しを乞うように儚げだった。

 

 黙って見ているには重すぎて。

 けれど、見ていることしかできない。

 

 心を苛み、抱えきれないモノ。

 かれんも辛い責め苦を受けていた。

 

 わたしとよく一緒にいたから、絵理華にも当然マークされてたのだろう。

 影で脅したり恐喝するようなこと、あの女ならやりかねない。

 

 誰だって自分の身がかわいい。

 自己犠牲の精神など、現実にあるわけがない。

 そんなものは映画や小説が作り出した虚構の最たるものだろう。

 

 わたしはしげしげとかれんを観察する。

 項垂れた姿は自分の行いに対する悔いを明確に表し、深く反省しているのが分かった。

 

 

 

 だから――

 

 

 

「で?」

 

 

 

 それがどうしたというのだ。

 

 

 

 わたしは静かに歩み寄る。

 

 ぐずぐずと泣き崩れるかれんの襟首を引き、力ずくで立ち上がらせる。

 胸ぐらを掴んでそのまま壁に叩きつけた。

 

 硬質な音が廊下を跳ね回る。

 目の前には、かれんの驚愕した顔。

 

 瞳孔まで開いて自分がなにをされてるのかさえ理解できていないのがありありと見て取れた。

 

 そんなかれんの表情に、わたしは満面の笑みを浮かべる。

 

「オーディションの予行練習はお仕舞い? なかなか上手じゃないの。それで? 気は済んだ?」

 

 胸ぐらを捻じ曲げ、首を絞める。

 かれんは顔を歪めて、悲鳴ともつかない吐息を漏らす。

 

「わたしを哀れんでるつもり? 冗談じゃないわ。いつ、わたしがいじめられたって? あんなの鬱陶しい蝿がブンブンと飛び回ってただけ。あんたの助けなんて最初から望んでないのよ」

 

 空気を求めてるのか、金魚のように口をパクパクと開く。

 後悔の涙とは違う、透明ななにかが、かれんの目から溢れて、わたしの手に落ちた。

 

「あんたがわたしを見て見ぬ振りをしようが何も言わない。謝る必要もないし臆病とも呼ばない。けどね……今あんたがした、お涙頂戴のご高説はなに? 他人の同情を買おうっての?」

 

 聞いてやっただけ、わたしも優しい。

 

 なにがしたいんだ、この女は。

 自分のみみっちい過去を悦に語って、結局なにが言いたいんだ。

 

 挙げ句の果てに、こっちにお情けを分けてくださるとは。

 

 泣いて喜べばいいのか。

 良い子ぶりたいだけの姑息な言い訳に。

 

 友達、父親。

 よりによって、わたしの逆鱗に触れる言葉ばかり選びやがって。

 

 苛つくんだよ。

 お前のやることなすこと全てが。

 

「口ではごめんなさいして、やってることは悲劇のヒロイン? ふん、ちゃんちゃらおかしいわね。自分で手を汚さないだけの卑怯者じゃない!! あんたみたいな下種を見てるとこっちは虫酸が走んのよ! あぁ!? なんとか言ってみなさいよ!!」

 

 わたしはかれんを揺さぶって反応を促す。

 

 縋りつくような眼差しで、かれんは首を横に振るだけだった。

 

「たまたまわたしの同級生ってだけで、それ以外の存在価値のないあんたがわたしのことをかわいそうだって? 友達だから? 知った口きくんじゃないわよ!! そもそもなんであんたがここにいるの!? 自信がないって言ってたくせに!!」

 

 どうせ父親もぼんくらだったんだろう。

 ろくに台本も読めない大根の親だ。

 

 早くおっ死んで正解だったな。

 娘のろくでもない姿を見ずに済んだんだから。

 

「父親のことなんて本当は建前なんでしょ? 自分にも芽があるんじゃないかって期待してんじゃないの? バッカみたい! 能無しのあんたがハリウッドなんて行けるわけないでしょ!」

 

 希望を持つのはいい。夢を見るのはいい。

 だけど、人には分相応がある。

 

 わたしの前をうろちょろと。

 目障りに歩き回れるほど、この女に才能があったのか。

 

 ありはしないんだよ、そんなものは。

 ドラマで一言二言喋れただけでも万々歳の役立たずが。

 

 まぐれで選考に残っていい気になったか。

 身の程を知れよ。

 

 奇跡は二度起きるわけがないんだから。

 

「今まであんたが自分の力でなにかを勝ち取ったことがあった? 全部、わたしのおかげでしょ? 後ろをちんたら着いてきてお零れに預かってた乞食が勘違いしてんじゃないわよ!! あたしの隣にいてさぞ気分が良かったろうけど……あんたの正体は月の光を浴びて光ってるだけの泥たまりよ!!」

 

 不快感が口の中に凝縮される。

 舌で掻き出して、表出した怒りと憎しみをかれんに叩き込む。

 

「……なんでわたしがノコノコとあんたに着いてって静かに話を聞いていたと思う?」

 

 語気を弱めて、かれんの耳に語りかける。

 

「あんたに伝言を頼みたかったからよ……クラスの塵共宛にね。よく聞きなさい……

 

『わたしはもっと輝ける場所を目指して遠くへ行きます。皆さんは引続き、暗くて貧しくて冷たくて汚い肥溜めで惨めな人生を送ってください。お元気で、おんぷより』

 

 分かったらさっさと自分の居場所に戻れ!! このクズ!!」

 

 わたしは力を込め、かれんを床に放り投げる。

 それを最後に見向きもせず歩きだした。

 

「おんぷちゃん、待って、おんぷちゃん……」

 

 上擦ったかれんの声が背中を追ってくるけど、わたしは一瞥もくれてやらない。

 

 

 塵屑と戯れる時間は終わりだ。

 

 

 これから、わたしが全身全霊で打ち込むに値する戦いが始まる。

 

 穢れを溜め込んだ体を、取り零したモノを。

 

 全て帳消しにする。

 何度でも、何もかもを手にするために。

 

 今はただ、没頭する。

 

 わたしのモノだ。

 全部、全部、全部。

 

 何一つとして、逃しはしない。

 

 堂々と、わたしは戦場へと向かう。

 

           ♪


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