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最初は気不味そうに顔を背けるだけだった。
誰も口を聞いてくれないけど、慣れれば堪えられる程度のこと。
けれど――
やがて、それは『ゲーム』になる。
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廊下を擦れ違うと、後ろ指を指される。
飛び上がるように、わたしを避けて「 触ったら罰ゲームだかんな~!」と囃し立てる。
一人がふざけ出し、二人三人と雪崩を切るように、クラス全体から学年全体に波及していった。
戸惑っている顔が、徐々に、狡い笑みを堪えきれないといった表情に変わっていく。
わたしは沈黙を守った。
取るに足らない児戯に騒ぎ呆ける馬鹿共に付き合っている暇はない。
時間の無駄だ。
学校の連中との距離が遠退いたくらいで何も困ることはないのだから。
わたしには学校よりも、優先的にこなさなければならない仕事が山ほどある。
悪ふざけやちょっかいなど、芸能人なら誰でも被害に遭う当たり前のことだ。
相手は素人。
区切られたレールの上を転がることでしか生きられない、ちっぽけな人間。
燦然と輝く世界で生きるわたしとは違う人種。
話が合わないのは当然で、妬まれるのは必然。
一々、気を散らせてたら切りがない。
居ても居なくても変わらない連中。
無価値なゴミ共がやることに、何故、心を割かなければならないのだ。
怒鳴り付けた所で、クズ共を喜ばせるだけ。
お前達が楽しんでるんじゃない。
わたしが楽しんでるんだ。
お前達が無視してるんじゃない。
わたしが無視してるんだ。
♪
『ゲーム』は進行する。
成長し、拡大する。
無意識な恨みが、無意味な憎しみが、ただ単に増殖していく。
純粋な悪意が、心を蝕んでいた。
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一週間、二週間と学校で誰とも関わらず授業を黙々と受け仕事を淡々とこなす日々が続く。
言わば、孤高の存在だ。
クラスメートなんて所詮赤の他人。
仲良くなんてする必要はない。
友達なんか、いらない。
わたしのファンは何万、何億人といる。
たかが数十人、周りから消えたくらいで困りはしないのだ。
余計な気を遣わないから、清々する。
生活に無駄がなくなり、シンプルに。
プロとしての意識や活動の質が上がった。
自分の道から塵の方が勝手にいなくなって、逆に感謝したい気分だった。
ゴミ掃除だって楽じゃない。
ゴミはゴミの領分を理解して、才能ある人間の栄光を、指をくわえて見ていればいい。
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ニヤニヤと笑いながら。
へらへらと騒ぎながら。
はしゃいでるのは分かるけど、心底、楽しんでいるようでも喜んでいるようでもない。
溜まった不満や軋轢を、少しずつ溢すように。
抱える退屈や鬱憤を、少しずつ漏らすように。
ゆっくりと、首を絞めるように。
目的や理由もなく、ただ、そこに苦しみや痛みが注ぎ込まれる。
わたしは、ゴミ箱に捨てられた自分の運動靴を、呆然と見下ろしていた。
♪
体操服はおろか、置いていた私服まで切り刻まれていた。
教科書は一頁ごとに落書きされた。
机の中に埃や食べ滓やゴキブリの死骸が入っていた。
筆箱は便器の中で浮かんでいたし、上履きは溝の中で見つけた。
ステージが上がるたびに『ゲーム』は難易度を増していく。
クリアしていくたびに、自分のレベルが上がっていくのを感じる。
体が鉄になったかのように硬く、心には何の綻びもなく強く結ばれている。
人間としての完成度が高まっている。
この世に起こること全ては自分を成長させるものであり、この程度の我慢は努力ですらない。
通過点であり、ほんの些細な受難だ。
けれど、誰であろうと『月』を欠けさせることはできず、無礼な月見客もいたもんだなと軽く流せるものだった。
大丈夫。
わたしは、何も変わらない。
『月』は、笑わなくなった。
まるで、それで何かを支えてるかのように
その口は、閉ざされていた。
♪
スポットライトが白く滲む。
靄が足元に漂い、舞台を白く染める。
吐息にすら、力が籠った。
揺らめくように、台詞が零れ落ちる。
睡眠時間が減った。
明け方まで眠れず、寝れたと思ったらすぐに目覚まし時計が鳴る。
かと言って眠気に襲われるでもなく、脳が震動してるかのように覚醒し続けていた。
体が妙に軽い。
指先一つ一つの感覚まで鮮明だった。
今までの自分とは比べ物にならないくらい、動きが滑らかに、声には張りが出る。
まるで自分の体じゃないみたいに全能感が満ち溢れていた。
カメラに撮られる自分、舞台にいる自分。
今、ここ立っている自分こそが本当のわたし。
『瀬川おんぷ』なのだと知らしめるために。
渾身の演技を、その魂を訴え続ける
「カッ~トッ! おんぷちゃん、調子いいねぇ!」
「ありがとうございま~す……」
「よ~し、少し休憩しようか。次もこの調子で頼むよ!」
一人演技の場面が終わり、わたしはフロアに設けられた休憩スペースへと下がる。
椅子に座ると同時に、頭に痛みが走った。
腹の中を虫が這い回っているかのように嘔吐感が喉を競り上がる。
舞台の上では、なんともないのだ。
こうして休むと――体が拒絶反応を示す。
視界が揺れ、瞼が重い。
泥のように体が椅子に沈み込み、指一本動かすのも億劫になる。
これが、『プロ』というものなのだろう。
舞台では鋭敏に、袖では愚鈍に。
今の自分は、本当の自分じゃないのだから。
体が重いのが当たり前。頭が働かないのが当たり前で。
呼吸も鬱陶しいくらい、面倒で、居心地の悪い、暗闇の世界。
わたしの居場所はここじゃない。
もっとスポットライトを浴びたい。
1秒でも長く、カメラに写してほしい。
永遠に、舞台の上で浸っていたい。
声が出る。
足が動く。
目が開く。
生きるために必要なものが全て揃っている。
早く、出番が来てほしい。
歌、演技、ダンス。なんだってこなす。
さぁ、早く。わたしを――
「お~ほっほっほっ!! 皆様ご機嫌麗しゅう~! 玉木麗華が差し入れを持って参りましたわよ~!」
甲高い笑い声が天井を突く。
騒音が頭に響いた。
意識が引き絞られるような痛みに苛まれ、わたしは横をじろりと睨んだ。
麗華が菓子折を共演者に配って回っている。
そして、わたしに気付き、にやにやと笑いながらこちらに近づいた。
「おやおや、どうしましたの? そんなにお疲れになって♪ さあさあ、スウィーツでも食べて元気を出しなさいな。銀座の名店の品ですわよ? ほらほら、遠慮なさならずに♪」
「煩いわね。放っといてよ。第一、今日あなたの出番ないじゃない。なんで来るのよ」
「い~じゃありませんこと。わたくしも共演者なのですから、見学する権利くらいありますわ」
「そ。気が済んだら早く帰ることね。ここは遊び場じゃないんだから。仕事の邪魔」
「まあまあ、そう仰らず♪ わたしに演技のご教授でも――」
「うるさいつってんのよっ!!」
思わず、叫んでいた。
椅子を蹴りつけて、立ち上がった。
フロアが静寂に包まれる。
「あらあら、どうなさいましたの? そんなにいきり立って。リラックスリラックス♪ はいはい、深呼吸深呼吸♪」
「その減らず口を止めなさい! ちょろちょろと目の前を彷徨いて……目障りなのよ!! あんたが学校で絵理華を使って何しようが勝手だけどねぇ……わたしの邪魔をするなら容赦しない!!」
「……はぁ~あ? あなた何を言ってますの? 言いがかりは止してくださる?」
「白々しい。分からないとでも思ってるの? 嫉妬だけは一人前のど三流の分際で、わたしを煩わせるんじゃないわよ!!」
「まぁ、なんて口の聞き方! およよ、お助けくださいまし~! 皆さん聞きまして~!? 今をときめく大女優、瀬川おんぷ様がなんて酷いことを~!」
はっと我に帰り、血の気が引く。
周りを見渡すと休憩スペースで休んでいた演者やスタッフが遠巻きに集まり、わたしと麗華のやり取りを窺っていた。
ひそひそと耳打ちし合い訝しげにこちらを見て、居たたまれない視線が肌を刺す。
麗華は床に座り込み、顔を手で覆っている。
ぐずぐずと啜り泣く声には灰汁のように忍び笑いが浮き出していた。
糞みたいな三文芝居だ。
見てるだけで膓が煮え繰り返る。
わたしは胸ぐらを引き摺りあげてやろうと手を伸ばした。
「――いいんですの?」
麗華が、呟く。
「天才子役まさかの暴力沙汰、共演者を殴る。見出しはこんなところですわね? ふふ、栄光からの転落劇。中々ドラマチックで視聴者が好みそうなシナリオですこと」
麗華が、指の隙間から、わたしを見ていた。
暗く深い洞穴のような瞳が、覗き見ていた。
「わたくしはそれでも構わないですが、どういたしますの? ほらほら、殴りなさいな。さあさあ、早く。蹴りあげてひっぱたいて怒りをぶつけなさいな。楽になりましてよ?」
麗華は顔を覆いながら、背を丸めて震える。
ぐぐっと、鼻が鳴る音がして笑い声を我慢しているのが分かった。
わたしは拳を握り締める。
胸の底が焼けるように重たくなり鳩尾が軋むの構わずに、飛び出しそうな怒りを飲み込んだ。
黙って椅子に座り直し、無視を決める。
「あらあら、我慢がお上手。さすがの演技力と言ったところですわね。芋役者のわたくしとは比べ物になりませんわ~!」
麗華は手を解いて、けろっとした顔を見せる。
「まぁ、いいです。ふふっ……すぐに終わっちゃつまんないですものね~」
下卑た笑いを浮かべる。
わたしの耳元に、そっと口を近づけて言った。
「手も足も出ないとはこのことですわね。少しずつ、少しずつ、いたぶって差し上げますから楽しみにしていてくださいな。お・チ・ビ・さん」
♪
車の揺れに合わせて、頭がぐらつく。
まるで首が据わっていない赤ん坊のように、為すがままされるがままに震動に身を預けた。
溜め息が車内に溶けていく。
強く効いた冷房の中、胸に溜まった重苦しさだけはいつまでも消えない。
芸能界は戦いの連続。
プライベートだってその戦場の一つだ。
絶対に気は許せないし、油断など有り得ない。
ずっとそうだった。
そういう戦いをずっと続けてきた。
でも、たまには、わたしも、少しぐらい疲れる時がある。
麗華のことが正にそれだ。
素人に毛が生えた程度のぼんくらとの暗闘。
バッシングを受けるのは良い。
誹謗中傷はこの先の芸能人生に幾度となく待ち受けているのだ。
将来のための予行練習だと思って、割り切ってはいる。
それでも、気が滅入ってしまう。
仕事に集中しやすいというメリットがあるとはいえ、何時までこんなことが続くのだろうか。
プロとして――
プロとは――
わたしはまだ、甘えているのだろうか。
携帯の着信音が鳴る。
隣に座る母が鞄を漁り、電話に出た。
「はい、もしもし。ええ、ええ。はい……えぇ!? それは本当に!? はい、はい、分かりました……」
電話相手にきゃんきゃんと吠える。
わたしは母を睨み付けた。
持っている携帯を握り潰してやりたいほど、神経を逆撫でする声だった。
どうせまた仕事の依頼だ。
どこそこの有名監督が指揮を取るだの、大物俳優との共演だの、代わり映えのしない謳い文句。
こんなせせこましい仕事をこなすだけの毎日。
何かが足りなかった。
もっとないのか。何か。何か――
大きくて、広くて、世界を引っくり返してしまうような。
常識だろうがなんだろうが飛び越えてしまうような、何か。
誰にも傷つけられない、誰一人いない高みの世界へ、わたしを連れていってくれる、何か。
「おんぷちゃぁん!! ビッグニュース! ビッグオファーよぉぉぉっ!?」
母が電話を切り、興奮し詰め寄る。
脂でぎとぎとの顔を突き出され、わたしは眉をひそめながら体を離す。
「で、今度はなに? 映画? ドラマ? それとも歌? どうでもいい仕事なら断ってね」
「ふふ、どうもこうもないわ。よく聞いて、おんぷちゃん。次の仕事は――ハリウッドよ」
♪