どれみとおんぷ ♪ 春夏秋冬   作:シャンティ・ナガル

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第十五話 暗月

 

           ♪

 

 瀬川おんぷ。

 

 ミュージカル『トニー』にてデビュー。

 若干5歳ながら、幼少とは思えない高い演技力、歌唱力が評価され、注目を集める。

 以後は舞台を中心に、歌手やドラマ、モデルなど、チャイドルとして活躍し一世を風靡した。

 

 初主演映画『イアンとナナ』が大ヒットし、本人が歌った主題歌はオリコンチャート1位を記録、CD売上は100万枚を突破。

 その年のジャパンミュージックアワード最優秀新人賞を史上最年少で獲得する。

 

 そして、2度目の主演映画となった『愛のささやき』はブルーアカデミー最優秀作品賞を授賞。

 自身も主演女優賞に輝き、こちらも史上最年少の記録を更新、一躍トップ女優となった。

 

 年々勢いを増し、成長を続ける若き天才。

 

 

 

 ――映画トゥデイ 役者評論より抜粋。

 

           ♪

 

「おはようっ!」

 

 廊下を歩きながら、誰にとも向けずに挨拶。

 あちこちから同様に朝の挨拶が返ってくる。

 

 人の群れはおずおずと、わたしに道を譲った。

 ざわめきが静まり、憧憬や羨望の眼差しを送りながら邪魔にならないように輪を広げていく。

 

 

 壁があるわけでもないのに、誰もわたしに近付けない。

 言葉は掛けられても、どこかひきつったように声が震えていた。

 

 

 それも仕方がない。

 学校の中とは言え、わたしは『瀬川おんぷ』。

 

 プライベートでも、芸能界でも、そこらの人間とは立っている『ステージ』が違う。

 

 言わば、近さや遠さを超えた距離だ。

 例えば、月と地球は40万kmほど離れている。

 

 でも、多くの人はその途方もない距離を実感することはできない。

 

 ぽかんと、大口を開けて仰ぎ見続けるだけ。

 もしくは、届くんじゃないかと手を思いっきり伸ばすのかもしれない。

 

 けれど、その手で掴めるのは虚しさだけ。

 高踏な距離は幻想などではなく、確かに存在している。

 

 同じ地を踏みながら、同じ空気を吸いながら。

 けれど、生きる世界が全く違う。

 

 

 地球の表面に膠着く、その他大勢の人間。

 

 空に唯一つだけ浮かび、地上を見下ろす月。

 

 

 月を見上げるしかない人間達は、その圧倒的な神々しさに魅せられ崇拝するか、その完全的な高潔さに呆然とし絶望するか、二択。

 

 

 地球は廻る。

 崇拝し頭を垂れる人間、絶望し苦しむ人間。

 

 万華鏡のように互い違いの模様が入れ換わり立ち替わり、地表を彩る。

 

 わたしは遥か高みから、それを眺める。

 

 月を見上げ、地球と一緒に廻るしか能のない蛆虫共を、昂然と見下ろす。

 

 ある喜劇役者が、こんなことを言っていた。

 

 

『人生は大写しで見れば悲劇だが、遠写しで見れば喜劇』

 

 

 今なら、その意味がよく分かる。

 地上に蔓延る連中の顔は、実にコミカルだ。

 

 下界にいる人間はザッピングのように、その様相を変え常にわたしを楽しませてくれる。

 

 他人の人生を、天上から眺める。

 これこそ、最高のコメディだった。

 

           ♪

 

 黒板の前に立つ。

 

 分数の問題が整然と並んでいる。

 

 最初の人が根を上げて次に市川先生が指名したのは、わたしだった。

 

 

 何かと芸能活動に文句を言ってくる市川先生は皆が分からない問題でよくわたしを当ててくる。

 

 勉強が遅れていないか確認の為とは建前で、本当は恥をかかせたいだけなのが目に見えていた。

 

 芸能活動を否定する口実にもなるし、単にわたしのことが気に食わないというのもあるだろう。

 

 

 小賢しい。

 

 何故、『先生』などと言う職に就けたのか理解に苦しむ態度だった。

 こんな奴に教えを乞うことなど、砂一粒もないというのに。

 

 

 わたしはチョークで計算を書き込む。

 規則正しい音が、淀むことなく響き渡る。

 

 チョークを置いて、その場で暫し待つ。

 

 市川先生が教科書と黒板を見比べて、わたしを一瞥する。

 

「正解です。良くできましたね」

 

 その一言に、教室が沸いた。

 

「スッゲー!! 誰も分かんなかったのに!」

「おんぷちゃん、スゴーイ!」

「頭もいいなんて、さっすが~!」

 

 口々に賞賛するクラスメート達。

 

 わたしは笑顔でそれに答える。

 

「皆、褒めてくれてありがと~! 偶々、予習してたとこが出ただけなんだけどね。わたしって、世界一幸せな美少女かも♪」

 

 手を大きく振って、自分の席へと戻る。

 拍手を浴びながら、凱旋するかのように。

 

 

 ちらりと、市川先生を見た。

 

 無表情な顔。

 けれど、つぐまれた口は面白くなさそうに、への字に曲がっていた。

 

 それを確認し、心中でほくそ笑む。

 

 

 ――浅はかなのよ。

 

 

 この程度で、わたしを貶めようなんて土台無理な話なのだ。

 

 

 ――いい加減、理解しなさい。

 

 

 生きる『ステージ』が違うのだと。

 

           ♪

 

 体育の時間、男子も飛べなかった8段の跳び箱を飛んだ。

 

 国語の時間、まだ習ってない漢字をすらすらと朗読する。

 

 音楽の時間、難しい曲の演奏を器用にこなしてみせた。

 

 

 距離が違う。

 

 他人の人生は、大写しの、切り取られた手狭な世界。

 

 

 高さが違う。

 

 わたしの人生は、遠写しの、広くあらゆる才能や名誉を内包して高く頂上から世界を見渡せる。

 

 

 他人の人生――その当事者達にとって、人生は悲劇の連続だ。

 

 自分の思い通りに行かないことばかりで。

 周りは足りない物、欲しい物で溢れ返ってる。

 

 飢えを、渇きを、満たそうと、潤そうと。

 苦しみ悶えながら、のたうち回る。

 

 

 本人は必死なのだろうけど、それを俯瞰するわたしからしたら、何とも滑稽な姿だった。

 

 人々は逃げ、押し付け合い、孤独に怯え、他人に揉まれ、同じ所をぐるぐると回っている。

 

 まるで蟻の巣を観察してるかのように見てて面白く、興味深い。

 

 一体、何をそんな真剣になっているのやら。

 傷付き、嘆き、倒れ、また歩きだす。

 

 一体、何度繰り返せば気が済むのだろう。

 社会とは、非効率で満ち溢れている。

 

 ちっぽけな体、ちっぽけな才能。

 指で押したら潰れるんじゃないかってくらい弱々しい、ちっぽけな人生。

 

 もし、それに意味があるとするならば――

 

 

 ――わたしを笑わせるためよね。

 

 

 それ以外、理由が見当たらなかった。

 他に言い様がないのだから。

 

 虫けらのように日々を虚しく過ごす人々。

 わたしが笑ってあげることにより、初めて、生まれた意味を持つ。

 

 でなければ、余りにも救いがないじゃないか。

 何のために、無価値な人生を送っているのか。

 

 ちょっとした慈善事業だ。

 無能な人間は、有能な人間を笑いで満たす時、必要悪が必要善となる。

 

 虫けらの、遥か頭上を浮かびながら、わたしは笑い声を響かせる。

 

 それは照光となって地上に降り注ぐ。

 慈悲深い、わたしからの恵みだ。

 

 喜び、踊れ。

 天からの慰めを、ありがたく受け取るといい。

 

 その代わり、あなた達は――

 

 

 ――最高の人生(コメディ)を捧げなさい。

 

 

 (わたし)を崇め、絶望しながら――

 

           ♪

 

 昼休み。

 

 

 給食後の穏やかな雰囲気の中、クラスの子達が集まってわたしは質問攻めにあっていた。

 

 大概は今撮影中のドラマのこと、もっと言えばトッキーのサインが欲しいだの下らない戯れ言。

 

「ねぇねぇ、トッキーって近くで見るとどんな感じ?」

 

「そうね~。話も面白いし撮影の合間にダンスとかで現場を盛り上げてくれる素敵なお兄さんよ」

 

「台本っていつ覚えるの?」

 

「夜寝る間に一通り読むわ。一回読んだら大体覚えちゃうかな」

 

「へぇ~、そりゃ頭もいいわけだぜ! なぁなぁ、飛鳥桃子ちゃんと話したりもすんのか!?」

 

「えぇ、まぁ……仕事は一緒だし」

 

 本当に口が減らない奴らだ。

 虫けらの相手をするのは、ほとほと疲れる。

 

 でも、これとて慈善事業の延長。

 プロの仕事の一環だ。

 

 さっきから桃子の話題がちらちらと出るのが耳障りだが。

 わたしの眼前であの女の名前を口に出す無神経さをまず叩きのめしてやりたいけど、それはさておき、警戒心がある。

 

 やはり、桃子は強敵だ。

 わたしと同様に才に恵まれた人間――悔しいけど、認めざるを得ない。

 

 現実として、芸能界は客商売。

 いくら月が美しく輝こうが、観衆がいなければ意味がない。

 

 桃子のプロデューサーは数多の芸能人を育て上げた優秀な人物と評判だった。

 所属してる事務所はアメリカに本社を持ち、世界中で事業を展開する大企業。

 強力なバッグボーン、桃子自身の力もあり、その人気は決して侮れない。

 

 わたしの所属はただの個人事務所。

 マネージャー兼プロデューサーである母はあの体たらく。

 

 孤軍奮闘とは、正にこの事だ。

 今もこうして聖人のごとき慈愛をもって、ゴミ共の相手をしている。

 

 泥臭い戦術は好きではないけど、地道な足場固めだと割り切っていた。

 

 優秀なプロデューサー、大企業。相手は強い。

 色んな手段を講じなければ勝てないだろう。

 

 しかし、それほどの強大な力をもってしても未だに両者は五分はおろか、桃子が二手三手遅れているぐらいなのだ。

 

 油断は禁物だけど、まだ余裕がある。

 

 ゆったりと構えていればいい。

 本来の実力は、わたしの方が上。

 

 名誉、財産。塵一つとて、渡さない。

 逆にこちらが、髪一本に至るまで、あの女からむしり取ってやる。

 

 

 負けない。絶対に。

 

 

 その時だった。

 静かで和やかな口調で、世間話の中に、ぽろりと出た一言。

 

「あ~あ、それにしてもいいな~、おんぷちゃんは。トッキーにも桃子ちゃんにも毎日会えるんでしょ? キレイな衣装着てコンサートしたり。あたしも芸能界に入っろかな~」

 

 クラスメートの何気ない会話。

 

 火花が散った。

 

「――なんですって?」

 

 炎のように怒気が燃え上がる。

 

「えっ、え? おんぷちゃん……?」

 

「今、なんて言ったのか聞いてるのよ」

 

 周りが凍りつくのを感じる。

 けれど、その言葉は、許さない。

 

「芸能界に入りたいだなんて簡単に言わないでくれる? プロの仕事なのよ。夢みたいな世界じゃないの。分かる?」

 

「うん……」

 

「どんなに一生懸命でも報われなかったり、無駄に終わることがあるの。批判されることだって、悪口を言われることもね」

 

 キレイなだけじゃない。

 芸能界はそんなに甘くない。

 

 能無しの分際で。

 口に出すのも烏滸がましいくらいだ。

 

 わたしですらここまでの地位を築くまで、決して平らかな道ではなかったんだ。

 

 絶対に許さない。

 その言葉は、わたしの『今まで』を、否定する言葉だ。

 

「二度と、そんな事言わないで」

 

「ごめん。おんぷちゃん……あの――」

 

「気分悪いから、先生に早退って言っといて」

 

 しおらしく頭を下げるクラスメートを無視して鞄を掴み、人の輪の中から飛び出す。

 

 勢いよく扉を開けて、教室から出た。

 

 胸糞悪い。

 だから、クズの相手は嫌なんだ。

 

 少しこちらがサービスしたら調子に乗って付け上がる。

 けれど、間違ったことは言ってないとはいえ、客を怒鳴り付けるのはマイナスだ。

 

 もっと冷静に対処するべきだった。

 つい頭に血が昇ってしまった。

 

 でも、明日になったらまた元通りだろう。

 クズの脳ミソは単純で、わたしを求めずにはいられないのだから。

 

「デュフ、デュフフ、お、おんぷちゃん。も、もうすぐ授業――」

 

「ごめん。邪魔」

 

 母に言うための授業をサボった言い訳を考えながら、わたしは一直線に昇降口へ向かう。

 

 どこか時間を潰して、仕事に行こう。

 イメージダウンのツケは仕事で返せばいい。

 

 

 ここは、わたしの居場所じゃないのだから。

 

           ♪

 

 フラッシュが花火のように瞬く。

 静寂を、シャッター音が切り裂いた。

 

 スポットライトを浴びながら、カメラの前で様々なポーズを取る。

 

「いいよ~、おんぷちゃん。そのまま右に回って~。微笑んで、そうそう、かわいい!」

 

 カメラマンが音頭を取るかのように、わたしの姿を写真に収めていく。

 

 光が反射し、透過する。

 輝きの奔流の中で、舞う。

 

「うんうん、いい感じ! 今日はこれくらいで終わりにしようか。おんぷちゃん、お疲れ様!」

 

「は~い、お疲れ様でした~」

 

「おんぷちゃんを撮ってるとフィルムがいくらあっても足りないわね~。オーラがビンビン伝わってきてシャッターを押す手が止まらなくなるのよ!」

 

「ありがとうございま~す。わたしも飛鳥さんとの仕事が一番やり易いからそう思ってもらえると嬉しいで~す」

 

「ふふ、ありがとう。今度の写真集も大成功しそうね。これは桃子もうかうかしてられないわ」

 

 そう言って桃子の母、飛鳥みのりさんは朗らかに笑った。

 

 海外のファッション誌でも活躍した有名カメラマン。

 本来ならあの女の母親なんか顔も見たくないほどだけど、腕は確かだ。

 

 仕事への真摯な態度といい、直向きな情熱といい、悪い感情も抱けない。

 

 今のところ好都合だから仕事を断ることはないけれど、心中は複雑だった。

 

 何故、敵に塩を送る真似をするのか。

 仕事とは関係ないこととはいえ自分の娘の宿敵に、何故、裏表ない感情を見せるのか。

 

 理解不能だった。

 こちらとしては、その甘っちょろさを上手く利用させてもらうけど。

 

 

 スタジオの中の緊張感が和らぐ。

 撮影が終わり、スタッフが後片付けに入る。

 

 わたしは楽屋に戻り、私服に着替えた。

 荷物を纏め部屋の外に出ると、母と飛鳥さんが立ち話をしていた。

 

「お仕事お疲れ様でした。いつもうちのおんぷちゃんを撮ってもらって本当お世話になります」

 

「いえいえ、こちらこそ。おんぷちゃんは撮り甲斐がありますから。写真はすぐに送りますね。今回も良いのが多くて迷いそうですけど」

 

「ふふ、ありがとうございます。飛鳥さん相手だとおんぷちゃんはやる気が違いますから。信頼してるんでしょうね。ドラマでも、ももちゃんと一緒ですっごく張り切ってるんですよ?」

 

「そうですか。光栄です。桃子もおんぷちゃんとドラマに出れて喜んでました。お互いライバルと言われてますけど切磋琢磨して頑張っていきましょうね」

 

 笑みを交えての雑談。

 

 歯の浮くような台詞をべらべらと、好き勝手なことを言ってくれる。

 親という生き物はどうしてこうも子供の考えを決めつけるのか。

 

 わたしが桃子相手に張り切るだの、切磋琢磨して頑張ろうだの、ふざけたことを抜かす。

 

 わたしと桃子は敵同士。

 傷付け、打ちのめし、どちらかが倒れるまで、戦い続ける。

 芸能界という戦場で、両者の間にはそのルールが横たわっているだけだ。

 

 耳障りな会話を中断させるために、近づく。

 こうして眺めてるだけでも、むしゃくしゃと腹が立った。

 

 

 二人の姿、その対比に、羨望を抱いてしまう。

 

 

 飛鳥さんは、美人だ。

 体もスマートで、仕事を熱心にこなし、全ての女性が憧れを抱きそうな、理想の大人。

 性格も明るくて、歯を見せて快活に笑う姿は茶目っ気があって――桃子にそっくりだった。

 似た者同士で、お似合いの親子。

 

 

 対して、母はどうだ。

 趣味の悪い、ぶかぶかのワンピース。太った体型を隠そうとして隠しきれてない。

 弛んだ顎が笑う度に脂肪が小刻みに震え、見てるだけで吐き気がしてくる。

 出演料の交渉で値を吊り上げようと電話相手に怒鳴り付ける姿を、よく目にした。

 

 

 目眩を覚えるほど、醜い。

 二人の間には美醜の線がくっきりと引かれてるかのように、残酷なほど、違いは明白だった。

 

 

 わたしは桃子に勝っている。

 わたしは桃子より、ずっとずっと上。

 

 

 自分にそう言い聞かせても、何か決定的な所で負けている。

 

 そう感じてしまうのだ。

 

 

 拳を硬くして、歯を食い縛る。

 迷いを振り切るかのように、足を踏みしめた。

 

「ママ、帰りましょう」

 

 蟠りを押さえ込んで言った。

 早く、この場を立ち去りたかった。

 

 二人の並んでいる姿は、見るに堪えない。

 まるで拷問だ。

 

「あぁ、おんぷちゃん。ごめんね~。ママ、これから打ち合わせがあるから一緒に帰れないの。その代わり、今日はパパが迎えに来てるわよ」

 

「えっ! パパが来てるの!?」

 

 思わず、声を上げてしまう。

 

 頭の中が弾けた。

 

 母の一言に、苛々した気分が即座に消し飛ぶ。

 堕落した飛行機が機首を一気に90度傾けるかのように、心が急上昇する。

 

 目の前が真っ白になり、晴れ晴れとした気持ちが広がった。

 

「わ~い! わ~い! やった~! じゃあ、ママ打ち合わせ頑張ってね~! 飛鳥さんも今日はありがとございました! さようなら~!」

 

 挨拶を済ませて、そそくさと退散する。

 背後で母の溜め息と飛鳥さんの微笑が雰囲気で伝わるけど、そんなものはどうでもいい。

 

 全速力で走った。

 疲れてもないのに、息が上がる。

 喜びで、胸が弾んでいるからだ。

 

 疾風のように、正面玄関を抜ける。

 

 外の熱気の真っ直中に飛び込む。

 太陽は西の空に、どろりと溶けていた。

 

 世界を赤色に染めながら、月が青々とした夜を引き連れてくる。

 太陽が置き忘れた暑さを冷ますかのように、氷の光を浮かび上がらせて。

 

 

 夏の濃い陰影の世界。

 大きな正門の前で、佇む男性。

 

 

 わたしは迷わず、駆け寄る。

 飛び上がって、その人の胸の中へ。

 

「パパァ―――!!!」

 

 もはや突進に近い抱擁を、その人は頑丈な腕でしっかりと抱き止める。

 

 そのまま、勢いでくるくると回った。

 

「はははっ! 元気だなぁ、おんぷ!! そんなに焦らなくてもパパは逃げたりしないよ!」

 

 わたしの父――瀬川剛は、わたしを抱き締めながら、そう言った。

 

 まるで雷鳴のような声だった。

 頭先から足裏まで突き抜けるように響く。

 

 鼓膜を震わせて、陶酔が押し寄せる

 痺れるような声。わたしの、大好きな声。

 

「だって、早く会いたかったんだも~ん!」

 

 父の腕の中で、負けじと叫んだ。

 厚い胸板が、わたしの声を吸収する。

 

「そうか、パパも同じ気持ちだよ。よし! じゃあ、帰ろうか! 何かご飯でも食べに行こう!」

 

「わぁい! やったぁ! わたし、お寿司食べたい!」

 

「おいおい、あんまり高い所は止めてくれよ」

 

「ふふ~ん。今はパパよりわたしの方が給料高いもんね~。ねぇねぇ、どうしてもって言うなら奢ってあげてもいいけど?」

 

「こいつ! 生意気な口を!」

 

 父はわたしをひょいっと持ち上げて肩車をしながら歩いていく。

 

 時折、急に走り出したり、脇を擽ってきたりと親子二人で騒ぎ合った。

 

「ちょっと軽くなったんじゃないか? 体型を気にするのもいいけど健康に悪いぞ。今日くらいはモリモリ食べるんだ」

 

「体調管理もプロの仕事なんでご心配なく~。太ったらイメージダウンだし」

 

「な~に、食った後動けばいいんだ。たまには稽古、付き合ってくれよ」

 

 父が正拳突きを放つ。

 空気を斬る音がした。

 

 必倒の拳が繰り出される。

 わたしを担ぎながら、一切のブレがない一撃は、まるで一つの芸術。

 

 

 北海道生まれの父は学生の時、道大会を制覇し、インターハイにも出場した空手の名手だ。

 「昔、熊を倒した事があるんだ」という自慢は、さすがに苦笑いしたけど。

 

 今も鍛練を続け、列車の運転士というハードな職業にも堪える強靭な肉体を誇っている。

 

「嫌だよ~だ。パパみたいに筋肉ムキムキになったら困るもん。もう初段は取ったし、わたしは稽古なんてしなくても強いから」

 

「こらこら、空手道は長いんだぞ。初段なんてまだ入り口だ。師範も筋が良いって褒めてたし、いっそのこと空手チャイドルになってくれたらパパは嬉しいんだがな~」

 

「そんな一発屋みたいなキャラなんてなりたくな~い。わたしが目指してるのは、もっと高くて広くて、世界的な大女優になることなの!!」

 

 わたしは胸を大きく広げ、腕を羽ばたかせる。

 

 父に担がれながら見る景色は少し目線が違うだけで、いつもと同じ、ありふれたものだった。

 けれど、これから、いくら背が伸びようと、いくら高い塔に昇ろうと、これに勝る光景は一生出会えないと感じる。

 

 

 親子二人でなければ、見れない景色だ。

 

 

 世界中に見せ付けてやりたい。

 世界で唯一人、わたしだけが見る景色。

 

 

 桃子の父は海外の名だたる賞を受けたこともある一級建築士。

 今も国内の大きなプロジェクトを指揮して忙しく働いているのだという。

 

 話だけを聞けば飛鳥さんと一緒で、やり手の実業家なのだろう。

 無論、会ったことはない。

 

 

 けれど、分かる。

 

 

 桃子の父より、わたしの父の方が、ずっとずっと、素敵で強くて、かっこいい。

 

 父は熊だって倒した事がある。

 桃子の父が建てたビルなんて、一撃で倒壊だ。

 

 運転士は多くの乗客の生活や命を守ってる、尊い仕事。

 一級建築士なんて、名前負けもいいとこだ。

 

 顔もイケメンだし筋骨隆々、桃子の父は女の子一人持ち上げるだけでへたり込むに決まってる。

 

 

 一つ玉に傷があるとするなら、何故、そんな父があんな醜い母と結婚することになったのか。

 

 強く疑問に思った。

 

 けど、きっとそれは――

 

 

 ――わたしに出会うため!

 

 

 確信している。絶対に、違いない。

 父も、きっと、そう思っている。

 

 なら、わたしは その期待に応えるだけだ。

 応えてみせる。必ず。その『愛』に。

 

 

 ――もっと高く

 

 ――もっと広く

 

 ――パパと一緒に。

 

 

 桃子に打ち勝ち、その親が連れていけない高みにまで。

 わたしが父を、わたしと父が、どこまでも、いつまでも――

 

「ねぇ、パパ? わたしが大女優になったら欲しいものなんでも買ってあげるね! 線路でも、電車でも、鉄道会社でも! なんだってあげちゃう!」

 

「ははっ、そうか。期待してるよ」

 

「――うんっ!!」

 

 

 ――パパ、大好き。

 

 

 父の頭を両手で抱いた。

 「おいおい、前が見ないぞ」と、父がぼやくのも構わずに、強く深く、抱き締めた。

 

 

 蝉の声。わたしの心臓。父の吐息。

 

 音が空を漂い、体の奥で共鳴する。

 

 静かで、優しく。ずっと、響いていた。

 

           ♪

 

 翌日、わたしは何時ものように教室に入った。

 

 昨日は父と一緒に食事をしたり、お風呂に入ったりと、エネルギー充填は万全。

 

 指先から腹の底まで、活力が漲る。

 最高の気分だった。

 

 この幸せを少しくらいはお裾分けしてやろうと、今日も冴えない人生を謳歌しているゴミ虫共に溌剌と挨拶をする。

 

「おはようっ!」

 

 

 

 ――……ん?

 

 

 

 僅かな違和感が、心をざわつかせる。

 

 何時もなら、我先にと群がってくる挨拶が返ってこない。

 

 それどころか、教室が嫌に静かだった。

 

 抜き打ちテストの噂もなければ、事件や事故があったという話も聞いていない。

 そういう感情の落ち込みで押し黙っているのとは違う、薄気味悪さが、教室を覆っていた。

 

 直感が、警鐘を鳴らす。

 

 嫌な気配の正体を探る。

 目を細めて周りを窺いながら、たまたま近くにいた森野かれんに話かけた。

 

「おはよう、かれんちゃん。今日って――」

 

 

 ――何かあったっけ?

 

 

 言い終わる前に、かれんは逃げた。

 自分の席に座り、下を向いたまま動かない。

 

 皆、そうだった。

 視線を床に落として、俯いている。

 

「お~ほっほっほ! よくもまぁ、ノコノコと顔を見せられましたわね!」

 

 甲高い笑い声が木霊する。

 

 静寂の中、一人の女子がわたしの前に立つ。

 

「……誰?」

 

「あれま? わたくしのことを知らない? それはそうですわね~。知らないのも当然ですわ~」

 

 女子は質問に答えず、周囲を歩き回るだけ。

 

 勘に障る女だ。

 早く答えろ。

 答えの前に、その薄汚い顔面を潰されたいか。

 

 こちらの眼差しを察してか、女子はやれやれと肩をすくめて溜め息をつく。

 

「嫌ですわ、愛想がないお方。まぁ、いいです。自己紹介して差し上げますわ――玉木絵理華と申します。以後、お見知りおきを……瀬川さん♪」

 

 恭しく頭を下げる玉木絵理華という少女。

 

 玉木、絵理華。

 

 

 ――あぁ、そういうこと。

 

 

 全てに合点がいく。

 

 よく見れば、彼女は麗華にそっくりだった。

 

 くりくりの髪に私服とは思えない派手な服装。

 わざとらしい動きに、芝居がかった口調。

 姉妹か従姉妹か、間柄は知らないけど、品性の無さまで似通ってるとは恐れ入る。

 

「昨日の昼休み、わたくしのお友達のみんとちゃんに酷い事を言ったそうじゃありませんの? しかも、学校を早退してサボるなんていくら芸能人だからってやって良い事があるんじゃなくて?」

 

 

 ――そうそう、調子乗りすぎ。

      ――みんとちゃん泣いてたよ?

  ――サイッテー。

        ――チビのくせに。

  ――頭いいんだから学校来る必要なくない?

 

 

 クスクス、と。

 絵理華の後ろで、取り巻きの女子が忍び笑いを浮かべる。

 

 わたしは黙って、連中を睨み付けた。

 

 「お~、怖い怖い」と取り巻きは大袈裟に身を竦ませ、今度はゲラゲラと、大声で笑い出した。

 

「学校の風紀を乱すものは誰であっても、この玉木絵理華が許しません! 瀬川さん、あなたにはすこ~しだけ、『罰』を受けてもらいますわ」

 

 笑い声を背後に、絵理華は大きく手を広げて頬を吊り上げる。

 笑顔で綻ぶのとは違う、醜悪で、顔が歪む。

 

 

 それを合図にして、チャイムが鳴る。

 

 「では、また後ほど♪」と絵理華は手を振って、わたしの横を通りすぎる。

 取り巻きが後ろに続き、薄笑いを浴びせながら教室を出ていった。

 

 

 教室は火を消えたかのように静かだ。

 そして、誰もわたしに目を合わせない。

 

 ふんと、鼻で笑う。

 揃いも揃って絵理華に靡きやがって。

 

 元から役立たずのゴミ共だから大して期待はしてなかったけど、こうも低能ばかりだったとは呆れて物も言えない。

 

 

 ――まぁ、どうでもいいけど。

 

 

 まさか麗華の私怨がここまで発展するとは思いもしなかったけど、だからどうしたというのだ。

 

 有象無象に集られることがなくて、返ってすっきりした気持ちになる。

 

 

 ――この程度で、わたしが動揺するとでも?

 

 

 家族まで引っ張り出して御苦労なこと。

 どうせ無駄骨に終わるのに。

 

 悠々と見下ろしてやろうじゃないか。

 

 

 

 月は、必ず頭上にある。

 

 誰も無視できず、触れることすらできない。

 

 生きる『ステージ』が、違うのだから。

 

 

 わたしは席に着いて、始業の時を待つ。

 顎を手に乗せて、力なく瞼を下げた。

 

 退屈しのぎにもなりはしない。

 暫くは、周りが静かで眠くなりそう。

 

 優雅に冷静に。

 才能ある人間は孤独になる運命なのだ。

 

 何も気にする必要はない。

 全ては、わたしの思うがままだ。

 

 

 

 その時のわたしは何の危機感も抱かなかった。

 それが、最大の過ちであるとも知らずに。

 

 皆が視線を落とす中、ぼんやりと、何も書かれていない黒板を、ただ眺めていた。

 

           ♪


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