どれみとおんぷ ♪ 春夏秋冬   作:シャンティ・ナガル

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第十三話 切り裂く夜に

 

           ♪

 

 生地が、するりと肌を流れていく。

 冷たさが、少しだけ身に染みる。

 

 ふわふわと服と肌の間を風が通りくすぐったさで首が窄そうになるけど、お腹に帯が巻かれゆったりとしたの中にもきりっと心が引き締まる。

 

 まさに『涼』とした心持ち。

 

 わたしは浴衣の着心地に満足しながら、一つ深呼吸をした。

 

「うわぁ……」

 

「ほぉ……」

 

「えっ? どうかしたの?」

 

 どれみと陸さんが同時に溜め息をつき、不思議に思って尋ねた。

 

「おんぷちゃん、めっちゃ浴衣似合うじゃん! 超びっくりだよ! ヤマトナデシコ~って感じ!」

 

「ほんまやな~。こんに浴衣が似合う女の子は初めて見たわ。長生きはするもんやな~」

 

「そんな……大げさよ」

 

 二人の誉め言葉に、指をもじもじとさせる。

 

 

 お祭りの日当日。

 春風家へ赴き宿題をしながら時間を潰した。

 

 夕方から着付けを始め、陸さんの手伝いを借りて仕上がった装いは意外にも好評で、わたしは照れに照れていた。

 

 

 浴衣は白地に黒や紫の薔薇をあしらわれた一着。

 最初この柄を見た時は大人っぽすぎて、わたしに似合うのか心配だったけど、鏡で見た自分の姿は思ったより様になっていた。

 

「どれみに着せよ思うて買たんやけどあんまりにも似合わんくてな~。いや~、これは月とすっぽん。臍が茶を沸かすな~」

 

「覚えてるよ……おばあちゃん、着付けが終わったと思ったら急に笑い出すんだもん……って! 月とすっぽんってどういうイミさ!? シツレーな!」

 

「ほほっ。つい本音が出てしもうた!」

 

「もっと悪いじゃん!」

 

 どれみは目くじら立てて噛みつき、陸さんが笑って誤魔化す。

 

 どれみの着る浴衣は赤地に白の牡丹があしらわれた一着。

 清廉な色合いだけど、どれみが着ると子供っぽく町娘といった垢抜けなさ。

 祖母と孫のケンカという、今の状況にぴったりと合う所帯染みた印象を受ける。

 

 

 わたしは陸さんと言い合うどれみを眺めてた。

 

 髪型はいつもの団子頭で怒るたびに、それがぼんぼんと揺れる。

 浴衣ともミスマッチで人によっては失笑物の姿だった。

 

 でも、何故か見ていると、落ち着く。

 それが、いつものどれみだったから。

 

 

 不規律さという自然さ。

 

『らしさ』という美しさ。

 

 いつまでも、変わらないでほしい。

 

『どれみちゃんらしいわね』と、

 

 しわしわのおばあさんになるまで、

 

 何度でも、言わせてほしい。

 

 そう密かに願いたくなるような、美しさ。

 

 

 心の器がみるみると満たされていく安心感。

 

『惚れた弱味ってやつかしらね』と、熱くなった自分の頬に手を当てながら。

 感動の津波が押し寄せて、口から、ぽろりと言葉が溢れそうになる。

 

 

 ――どれみちゃんの方が、ずっとキレイ。

 

 

 恥ずかしくて、やっぱり言えない。

 

           ♪

 

「じゃあ、あんまり羽目を外しすぎんといてな」

 

「ちゃんと8時のバスに乗って帰るんぞ?」

 

「おんぷちゃん、どれみちゃんとはぐれないようにね」

 

 村のほぼ中心に位置する役場前のバス停にて、雄介さんと陸さん。そして、わたしの母の見送りを背に、バスへと乗り込む。

 

 後部座席に座って、どれみは膝立ちで窓から「さようならぁ~! さようならぁ~!」と露骨なほど手を大きく振り、それを合図にバスは発車した。

 

 やがて三人が見えなくなると「ふぅ~、一仕事お~わり」などと息をつき、席に座り直す。

 

「どう? あたしの『涙の別れ ~山村の狭間~』の名シーンは? オスカー級の名演技でしょ?」

 

「わざとらしい。20点」

 

「ひでぶっ!!」

 

 ずるりと座席を滑り落ちる。

 

 わたしはぷっと吹き出して笑いながら、頬杖をついて窓の外を眺めた。

 

 村を出ると風景は木々に覆われて視界は一気に暗くなる。

 まだ日が落ちるには早いけど、辺りは葉が鬱蒼と繁って日を遮っていた。

 

 バスは薄闇を切り裂いて進んでいく。

 

「あ~あ~、ご乗客の皆サマ~。右手の方をごらんください。向かって右側~、森~、木~、葉っぱ~。全部、ミドリでございま~す。この森は~、え~っと、数おくねん前から森でして~、あとは~、キョウリュ~とかたまに出ます!!」

 

「バスガイドのお姉さん質問で~す! 恐竜は何の恐竜が出るんですか~?」

 

「えっ、キョウリュ~はですね~……キ、キリノヨセハネザウルス! 考古学者のヨセハネ教授が桐野村で見つけたという幻のキョウリュ~です!」

 

「へ~、そんな恐竜がいたんですね~。知りませんでした。も一つ質問いいですか? そのキリノヨセハネザウルスにこのバスって襲われたりとかは……」

 

「ダイジョ~ブ! 3センチくらいの大きさだから、へっちゃらです! 肉食じゃないしね!」

 

「じゃあ、何食べるの?」

 

「へ? 消しゴムとか?」

 

「もっと頑張りなさいよ!」

 

 どれみが途中でバスガイドごっこを仕掛けてきたりと車中で盛り上がっていたわたし達だったけれど、だんだんと口数が減っていった。

 

 話すことがない、というよりかは力を温存しとこうと暗黙の了解で頷き合う、そんな静けさ。

 

 隣町まで一時間半。長い道程を行く。

 

 改めて桐野村という村が、いかに辺鄙な場所にあるか気付かされる。

 大地にぽっかりと穴が空き、そこに集落が作られたかのように桐野村は外界と隔絶されていた。

 

 森の中を行くバスは、大海原を漕ぎ出す舟。

 

 さながら、桐野村は陸の孤島だった。

 狭くて、退屈で、足りないモノが多すぎる。

 

 

 でも、嫌いなところは一つもなかった。

 狭さに落ち着きを感じて、退屈にも馴れて。

 

 足りない以上に満たされるモノが、桐野村には沢山あった。

 

 

 都会は広くて、忙しくて、欲しいモノが沢山あったけど、今思えばそれは窮屈なほどの荷物を抱えていただけだった気がする。

 

 少なくとも、わたしの周りにいた人は皆そうだった。

 

 誰にも言うことなく、分け合うこともなく。

 物を、想いを。

 一人一人、胸に押し込め、背に負って。

 

 時に、人はそれに押し潰され、二度と立ち上がることはない。

 

 わたしは、それを何度も見てきた。

 冷たく横目であしらい、振り返ることもなく歩き去る。

 

 自分は自分、他人は他人。

 楽しみも、苦しみも、全て自分のモノ。

 

 報酬は全て自分の取り分で。

 他人がどんなに苦しもうが知ったことでない。

 

 それが この世のルールで、自分の中の鉄則。

 そして現実は過たず、わたしに苦しみを、今まで自分が重ねてきた業を罰として振りかざした。

 

 

 まるで板切れ一枚で海を漂流しているかのようだった。

 雨に打たれ、波に浚われ、海底に引き摺り込もうと群がる亡霊に足を絡めとられる。

 

『このまま死んでしまえば、どんなに楽か』

 

 そう思いながら目を瞑り、虚無の中をさ迷う。

 

 それなのに何故か体は沈まず流れに誘われるように、わたしはとある孤島に流れ着く。

 

 

 傷ついたわたしを受け入れてくれた、その場所はまさに――

 

 

 ――楽園。

 

 

 その楽園を、わたしは壊そうとしている。

 

 

「どれみちゃん、わたしね。聞いてほしいことがあるの」

 

 外を眺めたまま、どれみに語りかける。

 然り気無い振りをしながらも、口はわなわなと震えて力が込もってしまう。

 

「ホントどうでもよくて、ううん、ホントにホントに……大事な話。林檎飴食べてる最中とか、花火を見上げてる時。帰りのバスの中で、どこかで、必ず言う……ね? その時、聞いていてほしいの。そしたら、わたしも、あなたの、話を……」

 

 最後の言葉は、紡げなかった。

 独り言のように呟いて所々掠れてはバスの音に掻き消され、ろくに伝わったのかも分からない。

 

 どれみから、返事はなかった。

 もしかしたら、寝ているのかも。

 

 伝わらなくても、構わない。

 どうか、届きますように。

 

 背中合わせの思いが、バスの揺れに合わせて、シーソーのように傾く。

 

 どれみの気配を、確かに背中に感じながら。

 振り向くことが、どうしても出来なかった。

 

           ♪

 

 風景に建物がぽつぽつと混ざり始めた頃、どれみが「降りま~す!」と降車ボタンを押した。

 

 まだ市街地には到達してないけれど、どれみに「行こっ! 行こっ!」と背中を押され、それを疑問に思う間もなくバスを降りた。

 

「よ~し! 出発しんこ~う!!」

 

 大きく腕を振り、どれみが先立って歩きだす。

 

 よくよく周りを見渡してみると、他にも人がちらほらと同じ方へ向かっていた。

 それはどんどんと数を増して、目の先にある一つの光を目指して進んでいく。

 

 夜が迫る中で淡い光が幾つも浮かび上がり、華やかな祭り囃子が聞こえてきた。

 

「うわぁ……」

 

 思わず、感嘆の声を上げた。

 

 

 屋台が列を為し、人が賑わう。

 

 赤や黄色、仄かな火が延々と連なり、輝きが徐々に増していく。

 闇を全て追い払うことなく、艶かしい薄明かりが目に染み込むように流れている。

 

 屋台や提灯の明かり、集まった人々の活気が、お祭りという灯火を作り出していた。

 

 

「驚いた? 町全体で お祭りやってるから、どこもかしこも賑やかなんだ。駅前が一番スゴくてステージショーとかもやってるんだよ! でも、いきなりメインに行っちゃうのもつまんないからさ、歩きながらウォーミングアップね♪ よっしゃ~! 燃えてきたぁ~!」

 

 どれみが腕捲りして、荒い鼻息を吹く。

 

 わたしもうずうずと体が小刻みに揺れた。

 

 

 

 気温まで上がりそうなほど興奮して。

 お祭りの火中へと、飛び込んでいく。

 

           ♪

 

 それから、二人で大いに祭りを楽しんだ。

 

 楽しんで。楽しんで。

 

 胸に抱いていた想いも忘れてしまうほど。

 

 

 金魚すくいで、身を乗り出しすぎたどれみが水槽に落ちそうになったのを笑って。

 

 焼きそばを食べた時、「歯に青のりついてる! カッコわるっ!」とどれみに指摘されて怒ったり。

 

 人気キャラクターを模したようなパチモノのお面をつけて、ふざけあい。

 

 当たりクジの箱に二人同時に腕を突っ込んだら手が抜けなくなり、出店の人に叱られた。

 

 歩くだけで、何をやっていても。

 笑顔が溢れていた。涙が出るほど笑って。

 

 全身で喜びの塊を抱き締めているかのように、はしゃぎ回った。

 

 

 楽しかった。本当に。

 楽しくて。楽しくて。夢のような時間だった。

 

 

 

 時計が針を刻む。

 

 その楽しさが、ガラスのように砕け散る。

 

 刻一刻と迫っていた。

 

『審問』と『懺悔』の時が。

 

           ♪

 

「んっ!? あの子は……お~いっ! のんちゃ~ん! こっちこっち!!」

 

 綿菓子を食べていた最中、どれみが人混みに向かって手を振った。

 

 すると、自分達と同じ歳くらいの、頭にバンダナを巻いた女の子がこちらを振り向いた。

 

「えっ~!? どれみちゃん!? 久し振り~!」

 

「おひさ~。こんなとこで会うなんてキグ~だね。てか、一人なの? まさかカレシ待ちとか!? 抜け駆けはキンシだってあれほど言ったのに~!」

 

「なわけないでしょ。友達と来たんだけどはぐれちゃって……」

 

「あははっ、ドジだな~。よしよし、おね~さんが助けてあげる! ホノルル~マラソン~、魔女よ! 現れろ! なんてね♪」

 

「ポトリラポトララだよ!? あたしの呪文勝手に使わないで~! というか、どれみちゃんにドジなんて言われたくありませんよ~だ!」

 

「あ~! 言ったな、こいつ~! バンダナひっぺがしてやる!」

 

「やめて~! あたしのチャームポイント~!」

 

 互いにきゃっきゃっとじゃれつきだす。

 

 わたしは一人仲間外れにされて眉をひそめた。

 折角、二人で楽しんでいたのに。邪魔な横槍。

 

 不愉快だった。

 その感情を隠そうともせず、わたしは口を尖らせる。

 

「どれみちゃん、その子、だれ?」

 

「あっ! おんぷちゃん。ごめんごめん。つい話が盛り上がっちゃって。紹介するね。和久のぞみちゃんだよ! あだ名はのんちゃん! バンダナが本体だから話す時はバンダナと目を合わせてね♪」

 

「変なこと言わないでよ、もう! 初めまして和久のぞみです。え~っと……」

 

「こちらは瀬川おんぷちゃん! 春から桐野村に引っ越してきたんだ!」

 

「へぇ~、えっ? 瀬川……おんぷ?……」

 

 どれみが手を差し示して、わたしを紹介した。

 和久のぞみ、という少女と向かい合う。

 

 水色の下地に青紫の朝顔というさっぱりとした浴衣がとても良く似合っているけど、やはり先に目につくのは頭に巻かれたバンダナだった。

 祭りの浴衣着というより台所の割烹着といった場違いな雰囲気で、本人はそれを欠片も気にしていないのが 印象的ななんとも洒脱な女の子だ。

 

 

 そんなのぞみを前に、わたしは口を埴輪のように開けたまま一言も発することが出来なかった。

 

 

 別にのぞみの雰囲気や印象などどうでもいい。

 

 さっきまで感じていた、二人きりを邪魔された嫉妬心や早く話を切り上げようといった焦燥感も、どこかに消え失せた。

 

 

 気になったのは、たった一つ。

 

 のぞみの、『目』。

 

 

 その目を見た時、わたしは凍りつく。

 硬直して動けないのに、皮膚の下で不安がどろどろに溶けだして蠢めいていた。

 

 

 その目に秘められた意味を、一瞬で理解して。

 

 

 フラッシュバックが起きる。

 過去が、走馬灯のように脳裏を通りすぎた。

 

 目、その目だ。

 かつて、自分が幾千と浴びた物と同じ。

 あの目だった。

 昨日のことのように、覚えている。

 

 

 ――ははは、ヤバいかも。

 

 

 体は力が入り身構えているのに、心はからからと渇いた音を立てた。

 

 失望にも似た、濁った笑い声が木霊する。

 まるで、のぞみの次の言葉を拒絶するように。

 

 けれど、皮肉にもその言葉は、わたしの耳に、はっきりと届いていた。

 

 

 

「もしかしてチャイドルのおんぷちゃん!? 去年引退しちゃった!?」

 

 

 

 のぞみの声は、お祭りの中でも、よく響いた。

 

 それを境に 喧騒が、ざわざわと集中し始める。

 

 

 ――えっ? 瀬川おんぷちゃん!?

      ――よく似てるけど違うんじゃね?

――マジで!? サイン欲しい!

        ――ねぇねぇ、ホンモノ?

     ――コンサートとかやんの!?

  ――さっきから気になってたんだよな~

 ――なになに? どうしたの?

  ――ほら、いたじゃん。チャイドルのさ~。

 

 

『来るぞ来るぞ』と、どこかで予期していた。

 

 それなのに張り詰めた警戒心や覚悟はあっという間に崩れ去る。

 

 無防備なまま、群衆の真っ只中に晒された。

 

 頭を抱えて蹲りたくなる。

 けれど、それも出来ないほど体から力が抜けて、足が地面に埋まったように一歩も動けない。

 

 

 目、目、目。

 

 

 皆が、わたしを見ていた。

 人の目が、ぐるぐると取り囲み、わたしを羽交い締めにする 。

 

 視線は銃弾の嵐となって、わたしの体を蜂の巣にした。

 自分からは手を出さず、逃がさないよう回り込んで嬲り、わたしを苛み続ける。

 

 誰もが、にやにやと笑いを浮かべて。

 

『何がおかしいの!?』と怒鳴りたくなり『あぁ、これはゲームなんだ』と一人で納得する。

 

 好き勝手に的へ球を当てる、ゲーム。

 その的が人間だったら、もっと楽しい。

 それだけのことなのだ。

 

 決して死にはしない。

 それでも、ぼろぼろと、わたしを覆っていた外壁が剥がれ落ちていく。

 

 否、切り替わったというべきか。

 よく分からない。

 

 

 ――皆さん、こんにちわ~!

 

 ――チャイドルの瀬川おんぷで~す!

 

 ――わたしに会いに来てくれて、ありがと~!

 

 

 昔の自分なら、こう言うのだろうか。

 よく分からない。

 

 

 何もかも分からなくなる。

 体は手足の感覚や内臓の重みまで失ってすっからかんなのに、部位一つ一つに痛みが走った。

 

 頭が痛い。首が痛い。心臓が痛い。骨が痛い。

 喉から、ひゅーひゅーと音が鳴る。

 潰れてしまったかのように、声が出なかった。

 

 視界の端で誰かが動いたのを見て、びくっと反応する。

 瞬きも忘れて目を見開いた。

 輪郭が赤く染まり、びりびりと歪む。

 

 唇が震えた。

 何か喋ろうとしたわけでも、寒いわけでもないのに、震えだけは、止まらない。

 

 

 ――無様。

 

 

『わたし』が『わたし』を見ていた。

 自分を客観的に捉えようとする、『わたし』。

 

 罵倒と中傷が、わたしに降り注ぐ。

 わたしが『わたし』自身に贈る、言葉。

 

 まるで人形劇を見ているかのような感覚。

 痺れた舌先で「ブラボー!」と叫びたくなるほど、チープで、下らない劇だ。

 

 借り物の体で、笑い出したくなる。

 頬を吊り上げて、声無き声で。

 

 耳鳴りが聞こえる。

 記憶が、過去が、『わたし』を引き裂いてく。

 

 

 

 それでも――

 

 

 

「――おんぷちゃん?」

 

 

 

 手放した意識を、瞬時に取り戻す。

 そのまま、反射で振り向く。

 

 どれみが佇んでいた。

 わたしを、じっと見つめて動かない。

 

 口は語りかけたまま、どう言葉を紡ぐか迷うように、不確かな感情が吐息となって漏れていた。

 

 

 

 瞬きも、息することすら忘れる。

 何もかも止まって。

 

 どれみの姿を見た瞬間――

 

 

 

「――ッ!? おんぷちゃんっ!!」

 

 

 

 わたしは、どれみの叫びを振り切って、走り出した。

 

 人混みを掻き分け、押し退ける。

 足が縺れるのも構わずに、全力で走った。

 

 動いてる手足も、頭も、首も、意識が途切れ途切れになる。

 

 飛んで――

 

 飛んで――

 

 視界が揺れる。

 風景も断片的になり、端から、じわじわと白く塗り潰されていく。

 

 音も消えて――

 

 感触すらも消えて――

 

 

 

 あの日と同じように、わたしは逃げ出した。

 

 

 

 世界には、何十億も人がいるのに。

 

 誰も、何処にも、人がいない。

 

 わたしだけが、ひとりぼっち。

 

           ♪


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