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入道雲が、天高く空を突いていた。
梅雨色の雲を寄り集めて、脱皮し、大きく地表を見下ろす偉容は白く輝いている。
おおらかで、神々しい。
夏の神様が、声を上げて笑っていた。
♪
机に乗せられた腕が汗ばんでくる。
暑いのはもちろん、期待に胸が高鳴っていた。
体が勝手に暖まり、蝉の声がじわじわと駆動音を鳴らすかのように体内を響き渡る。
隣に座るどれみは額に汗を滲ませながら、にこにこと顔は朗らか。嬉しさを隠そうともしない。
拳を握り締めた。
自分はああはなりたくないとプライドが感情に蓋をし、堪える。
それでも今、鏡を見たらきっとにやけているのだろうなと半分諦めていた。
『わたしもまだまだ子供ね』と呆れ。
『いやいや、そんなの当たり前でしょ』と自分で自分に駄目だしする。
やっぱり、浮かれてしまう。
瀬川おんぷ、小学生四年生。
何故なら、今日は――
「では、これで終業式を終了します。休校中は校庭も教室も開いてますから自由に使ってもらって結構ですよ。宿題等、分からないことがあったら私は職員室にいるので聞きに来てください。それでは、良い夏休みを――」
校長の鉄面皮は暑さでも揺らがない。
淀み無く閉式の言葉を述べた後は軽く手を上げておんぷ達に挨拶し、涼しげに長髪を靡かせ教室を出ていった。
いつもの教室で、あっさり開かれた終業式は、これまたすんなりと終わってしまう。
暫し、無言。
残ったのは積まれた宿題に、小学生二人。
それに教室の中を漂う暑気。
蝉が無音の中で鳴き続けていた。
「~~~っっっ!! いやっっっほぉ~~~いぃっ!!」
どれみが堪らず、飛び上がる。
わたしも勢いよく立ち上がってどれみとハイタッチした。
今日で終わる一学期。
今日から始まる、夏休み。
♪
「おんぷちゃんって誕生日いつ?」
隣を歩くどれみが尋ねる。
夏休みが始まった勢いのまま学校を飛び出すと、太陽が二人を出迎えた。
校庭を無駄に走り回り、奇声を発して。
汗が服に張り付くくらい、騒ぎ立てる。
疲れたら、座り込んで、笑って。
汗が流れ落ちるのも、構わずに。
訳が分からないけど、可笑しくて。
喜びすぎてへとへとの体を引きずりながら、夏の桐野村を肩を寄せ合って歩いた。
「3月3日だけど」
「えぇっ!? ひな祭りの日じゃん! 誕生日までオシャレなんておんぷちゃんらしいね! じゃあさ、バースデーケーキはひな壇の形で作るの? サンジュ~ダンくらいの高さで~。切ったら中は菱モチ! ひな人形はあられで出来てるんでしょ!?」
「違うわよ! そんなケーキ食べにくいだけじゃない! 誕生日はフツーに……そういえば雛祭りはやったことないのよね」
「へぇ~、そうなんだ。あたしんチはおっきいのがあるから来年は一緒にひな祭りとおんぷちゃんの誕生日、いっしょにお祝いしようね!」
どきりと、心臓が跳ねた。
――来年。
その一言に、驚いて目を見開く。
気付けば、一学期が終わった。
時は、あっという間に過ぎていく。
日々を積み重ねることに必死で、目の前のことが全てだった。
そんな当たり前のことにも、気付けないくらい――楽しい日々だった。
振り返れば、『過去』という冷たい言葉ではなく、『思い出』という優しさばかり。
春、夏、そして その先へ――
これから何が起こるか分からない。
今にも病気や事故で、死ぬかもしれない。
突然別れの時が来てしまうかもしれない。
未来は絶対ではないけれど。
それは杞憂で、信じたくない絶望だった。
未来はあるんだ。絶対に。
来年、再来年の予定を立てるほどには。
そんな、小さな希望を信じられるほどには。
「……そうね! じゃ、しっかり盛り上げてもらいましょうか。楽しみにしてるわ、どれみちゃん」
「オッス! 気合い入れて頑張りまッス! まずはデッカい御輿におんぷちゃんを乗せて村を練り歩くでしょ? それからぼんぼりが火を吹いて――」
「と、ところでどれみちゃんは? わたしだけ祝ってもらうのも悪いから何かしましょうよ!」
「おぉっ! それそれ! その話をしようと思ってたんだ!」
二人の先行きに少し冷や汗が出たところで、わたしが話題を変えた。
どれみはぽんと手を打ち、思い出したかのように本題を口にする。
「ジャジャ~ン!! なんと! あたしの誕生日もうすぐなんだ! 7月30日!」
「そうなの。じゃあ、パーティーでもするの?」
「もちろんパーティーはするよ! でも、その日に隣町でお祭りがあるんだ! だから、パーティーは別の日にして誕生日はお祭りにくり出そうかな、なんて♪ でさ、おんぷちゃんもその日いっしょにお祭り行こうよ!」
どれみは明るい口調で提案を持ちかける。
爽やかな風のように、ウィンク一つ。
「……」
「ん? どしたの? ボケッとして。もしかして用事ある?」
「ッ!! いやいや、行く! 全然行くから! わたしがこの村に来てから忙しい日なんてあった!?」
「そっかそっか、よかった~。おんぷちゃんに断られるなんてカップラーメンで3分待つところを5分待たされるみたいなもんだよ」
「どういう意味よ、それ!?」
「それはそうと浴衣はあたしのお古があるから貸してあげるね。当日はバスで移動するから。あと、お祭りのためにおこづかいをたんまりもらっとくこと忘れないよ~に!」
「はいはい、分かったわよ……」
お小遣いの件で黒い笑みを浮かべるどれみに辟易しながら、顔をしかめて溜め息をつく。
けど、内心で意識が吹き飛びそうなほど、動揺していた。
誕生日、お祭り、浴衣。
これが意味するところは、つまり――
――それって、デートッ!?
脳内にて、緊急会議が開かれる。
てんやわんやの大混乱の最中、外身で冷静を装っていた。
幸い、どれみは「今年こそ型ぬきの難度SSを……」などと祭りの話で盛り上がっていて、わたしは適当に相づちを打ちながら態勢を立て直す。
とは言え、会議は紛糾している。
確実に現役時代より演技が上手くなったと納得する自分。万歳三唱する自分。「浴衣からのうなじは……」と着こなしの角度を気にする自分。これは夢なのではと頬をつねる自分。神に感謝とばかりに手を組んで祈る自分。
まるで 整理がつかない。
本来なら、会議などほっぽって村内を三周走り回り蕗山を駆け登って山頂から「やったー!!」と叫びたい気分なのだ。
痛みともつかない痺れが帯電し、体は放熱を忘れたかのように茹で上がる。
とにかく、全身が、痒い。
過剰な熱に支配され頭が白む中、ついには大慌ての自分を叱咤するように、感情が沸き起こる。
――もう、なるようなれよ!
もはや、逆ギレだ。
どんなに意識を働かせたところで、わたしが示せることは最初から決まっている。
やるしかない。己が命じる。
「あ~、なにしよっかな~。たこ焼きとか焼きそばとか。綿菓子、りんごアメ~。そうだ! あたしがソース系買うから、おんぷちゃんは甘いもの担当でどう!? 二人で分けよう!」
「なんで食べ物ばっかりなのよ……」
「ふっはははぁっ!! やっぱ出店制覇は祭りのハナやもんでな~! あっ! 安心して! ロマンチストのおんぷちゃんのために花火も打ち上がるから。けっこう地元じゃユ~メイなんだよ!」
「花火ね。いいじゃない。胃袋と脳みそが一緒のあなたと違って、わたしはそういう風情を楽しみたい方なのよね」
「ひっ……ひどい。おんぷちゃん……」
胸を押さえて「うぅ、乙女の心が……」などと呟くどれみを置いて、「ふふん」と笑い前を歩いた。
わたしだけ、驚いて、悩んで、求めてばかりだから――ちょっとだけ、仕返し。
お祭りの計画が、見る間に立てられていく。
話し合う度に想像が膨らんで、その日が早く来ないかと待ち遠しくなる。
けれど、そんなのはあっという間で。
時間は、前に進むしかないのだから。
今、この時が幸せで。
この焦れったさも大切にしたら、未来はもっと楽しくなるはずだから。
自然とスキップが出てしまうほど足が軽い。
どきどきして、わくわくして。
本当に、楽しみ――
――でも……
明るい気持ちに、影が差しこむ。
影はみるみると広がり、滾々と、嫉妬の炎が火花を飛び散らせて燃えた。
『誰に?』
『何に対して?』
そう聞かれると、答え辛い。
強いて言うなら『今の、この関係に』だ。
どれみも、誕生日を楽しみにしている。
きっと、絶対に。それを疑い様はない。
でも、どれみの考えている『楽しみ』と、自分の考えている『楽しみ』は、違う。
大慌てに右往左往して体が熱くなるほど喜ぶ自分に対して、どれみは何時も通り。
その意識の違いが、まるで二人を分断つ距離を、再確認させられているようで――
わたしにとっては、たった一つの想いなのに。
あなたにとっては、たった一人の友人。
その違いに気付いて、拗ねている自分がいる。
どれみは――
友達として、わたしを見ているだけで。
もし、この村に来たのが、わたしじゃなくても、今と同じような笑顔を、その人に向けて――
これから先、どれみに何人の友達ができるのだろうか。
どれみのことだから、きっと作ろうと思えば何人だって。
明るくて、前向きで。
植物が太陽に向かって伸びるように、必然と。
人が集まってくる。大勢の友達に囲まれて。
その中の一人が、わたし。
――違う。
「浴衣はどんなのがいいかな~。あたしは赤いぼたんの花柄のやつがお気に入りなんだ。今度見せてあげるね。おんぷちゃんには何が似合うかな~? やっぱ紫がいいよね~。おんぷちゃん、キレイ系だから涼しげな感じでさ」
どれみが、わたしに向かって話しかけている。
正確に言えば、『友達』という曇りガラスを通して、わたしに話しかけていた。
わたしの姿を、直視することはなく。
その視線も、その言葉も、全て友達のために、用意されたものだ。
それは、ある面では正しくて。
互いに視線をずらし合い、互いの本当の姿を見ようとしない。
表面をさらうように、人と接して。
自分は自分、他人は他人。
それぞれの人生は添うことはあれ、決して交わることはない。
程々の関係。
笑い合い、肩を寄せあって。
別れて、それぞれの時間を過ごす。
友人としては理想的な付き合いだ。
気楽で、気儘で、気軽で。
――そうだよね。
頭では、納得している。
――違う!!
心が、叫んでいた。
事実で、正論で、妥当で。
反論する言葉を、何一つ持っていないけど。
違うんだ。絶対に。
その正しさの中には、何一つ、わたしが望むものは入っていなかった。
正しさは、決して、わたしを満たさない。
わたしが欲しいのは、真実。
そして、ただ一つの――
「そんでさ、花火見る場所はいろいろあってね。マンションの屋上とか、河川敷とか~。でも、ヨソからも人が来るから、どこも多くてさ~。おんぷちゃんはラッキーだよ! なんたってあたしは――ッ!? ……おんぷちゃん?」
どれみの声音が、急に下がった。
わたしは、どれみの『左手』を、握った。
「どうかした? どれみちゃん」
にこりと、何の不純も感じさせない笑顔で、どれみを迎えた。
相手を切り裂いてしまうほど。
真っ直ぐな、笑顔で。
「ふぅん……いや、な~んでも♪ そんで今年は地元人から穴場スポットの情報を掴んだのさ!」
どれみは一瞬驚いた顔を見せたけど、すぐに元の表情に戻って話を続けた。
『離せ』とも『嫌だ』とも言わない。
けれど、どれみの言葉の端に、さっきまではなかった刺々しさを感じた。
会話の歯車が回る。
その歯先が、わたしの心を抉っていく。
手袋越しに握る左手は、まるで茨や鉄線を直に掴んでいるかのように痛々しい。
それでも、手は離さない。
そういう図々しさも、春の間に身に付いた。
身に付いてしまった。
『バカだ、わたしは』
頭の中で、警鐘が鳴る。
『わたしに何ができるというの?』
『傷が癒せるとでも?』
『自己満足ね』
『支えになれるとでも?』
『今なら、引き返せるわ』
『背負えるとでも?』
中傷し、諌める自分がいる。
――でも、
反発。
吐息と見粉うほど、か細い。
説得力の欠片もない、弱々しい反発だった。
でも、それは岩のように頑なに動かない一つの決意だった。
『どれみちゃんに、わたしは何を願ったの?』
決意が、問う。
答えは、既に出ていた。
『心を預け合いたい』
『共有し合いたい』
『持ち合いたい』
『分け合いたい』
その情熱は。
その祈りは、今もなお、消えていない。
♪