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太陽を照り返しながら、雨粒が、するりと枝葉を滴り落ちる。
春風家の庭に紫陽花が咲いていた。
水が溜まっているかのような群青。
触れたら、そのまま弾け散りそうなほど潤った花々だ。
その花びらを、指で、そっとなぞった。
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早朝は雨が降ってたけど今は曇天が綻び、切れ間を陽光が押し広げるように降り注いでいた。
久しぶりに晴れた土曜日。
わたしは工房に向かっている。
初めて漆塗りをした日以来、雄介さんからちょくちょくと手伝いを任されるようになり、土日は必ず工房に赴くのが習慣となった。
勿論、どれみに会うことも重要だけれど――
今は会いたくなかった。
蟠りが黒い淀みとなって、心に滞留する。
淀みは純心な衝動を封じ、戸惑わせ、躊躇させる。
全身に絡み付き、愛しさの元へ駆け寄ることを、阻んでいた。
その正体は、分かっている。
分かっているのに、答えを出したくない。
逡巡が吊り下がり、心を落ち込ませていた。
手掴みできるほど、実感がある。
顔を覆いたくなるほど、面前にある。
後、一歩のところまで。
喉を競り上がる、言葉がある。
いつか、避け得ないと知りながら。
じりじりと後退り、決断を拒んでいた。
早足になる。
今はただ、漆塗りに没頭したかった。
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工房に入ると、シャッター音が響いてきた。
ストロボの白い光に、一瞬、目が眩む。
工房の奥、作業台に向かう雄介さんの横に、人影があった。
「あぐるしいのぉ。もっと離れて撮れや」
「まぁまぁ、そう言わずに。かっこよく撮りますから」
ぼそぼそと、雄介さんが人影に向けて文句を言っている。
見知らぬ存在に訝りながら、奥へと進んだ。
薄暗闇で顔は分からなかったけれど、段々と近づくにつれ朧気な輪郭が結ばれていった。
輪郭の線が記憶の糸と何気なく戯れ、繋がる。
その瞬間、衝撃が走る。
それは、自分の過去に直結するものだった。
心臓が鷲掴みされたかのように、身動きが取れない。
冷や汗が出る。
地を踏む足は摺り足になり、やがて止まった。
呆然と立ち竦む。
「おぅ、来たか。そうましゅうてすまんな。ちゃっと終わるけぇ、ちと待っといてくれや」
こちらに気付いた雄介さんが手を挙げる。
人影もそれに反応して、振り向いた。
妙齢の女性だ。
髪をカチューシャで纏め、チェックのネルシャツにトレッキングパンツ。
探検家と見粉うアウトドアな服装。
首から下げた一眼レフカメラを慣れた手付きで構えていた。
そして、わたしはその人物を知っている。
昔と変わらない姿で――飛鳥みのりが、目の前に立っていた。
懐かしさより、『どうして?』『なぜ、ここに?』と疑問ばかり湧いてくる。
まるで合成画像のような、ちぐはぐさ。
不気味な奇妙さだけが浮き出してきて、心を突き刺した。
「……っ!! あれっ!? おんぷちゃん!? おんぷちゃんじゃない!」
息を飲む音が聞こえた。
みのりさんは、はっと顔色を変え、驚きで声を上擦せる。
体を震わせ、覚束ない足取りで近づき、しゃがみこんだ。
「久し振りね~!! 元気にしてた? もう! どうして急にいなくなったりしたの!? ももこ、ずっとあなたのこと心配してたのよ!」
目を潤ませて、わたしの肩を抱き寄せるように揺さぶった。
手の熱が、肩から伝わってくる。
瞳は真剣さに溢れて、上辺だけの言葉ではない誠意が、態度から見て取れた。
けれど、わたしは何も言葉が出なかった。
目を伏せるばかりで、みのりさんと顔を合わせようともしない。
特別、悪いことをされたわけではないのに、直感で『嫌いだ』と思ってしまう。
わたしにとって、飛鳥みのりという人は、親切な大人で、仕事仲間で、どちらかと言えば楽しい思い出だった。
それでも、『過去』は『過去』だ。
忌まわしい、『悪霊』そのもの。
良い部分だけ切り取るなど、できはしない。
向かい合っても、気詰まりしか感じなかった。
体が引き絞られるような、息苦しさ。
うねりを伴う気持ち悪さが、わたしを苛む。
「本当に良かったわ~。連絡もつかないし、あちこち探したのに見つからなくて……ここには仕事で偶然来ただけなのに、不思議ね……ねぇ、今はどうしてるの? お母さんも一緒?」
「……すいません、心配かけちゃって。色々あったものですから。今は母と一緒に、この村に住んでます」
「そう。そうだったのね……」
ついには涙を溢しながら、みのりさんは膝をついて、 へたり込んだ。
わたしは機械入力のような、ぎこちない声音で喋るのが精一杯だった。
早く、この場を終わらせたい。
取り繕うために言葉を吐いた、結果だ。
終始、わたし達二人のやり取りを眺めていた雄介さんは事情が飲み込めず、口を出そうにも出せないといった困惑した顔で嘱目していた。
その視線が、居たたまれない。
まるで、異質なものを見るように。
いつもは魅力的に感じていた工房の薄暗さも、湿気を帯びた緩い風も、深緑の濃い匂いも、熱が漂う大地の感触も。
桐野村の自然が、自分を監視している。
わたしを中心に集まり、存在を際立たせ、異物を排除しようと立ち回っている気がした。
自分の居場所が急速に窄まっていく、心細さ。
胸が締め付けられる。
体が震えるのを必死にこらえながら。
わたしは『悪霊』が通りすぎるのを、ひたすら待っていた。
みのりさんが、口を開く。
悪霊が、背中越しで嗤った。
♪
仕事があるみのりさんを残して、そそくさと工房を後にした。
漆塗りも手伝わず、逃げるように。
気持ちの拠り所がない沈んだ心を引き摺りながら、わたしは俯いて春風家を出ようとした。
そんな時、ふと気配を感じて顔を上げると――
会いたくない時にかぎって会ってしまう。
どれみがポストの前で大きめの茶封筒を抱えて立っていた。
そのまま微動だにせず。
何かを考えあぐねてるかのように、封筒を見つめている。
咄嗟に足を止め、すぐに、また歩き出した。
一瞬――
このまま隠れてやり過ごそうと思った自分を嘲笑しながら。
真っ直ぐ、どれみの元へ進んでいく。
「何してるの? どれみちゃん」
「うっっっ、ひゃあぁ!! ぉ、おおお、おんぷちゃん! ちゃちゃ、チャオ!」
こちらの接近に全く気付いてなかったらしいどれみは、びくっと電気ショックでも食らったかのように肩を跳ね上がらせ封筒を後ろ手で隠した。
「チャオ♪ どうしたの? そんなにびっくりして。その手紙、誰から? あっ、もしかしてラブレター? 見せて見せて♪」
「ち、違うよ! ラブレターとかじゃなくて! というか手紙? えっ、なんのこと!? そんなの種も仕掛けもございませんなぁ~!!」
「だって今後ろに持ってる――」
「おんぷちゃ~ん! 空からUFOが!」
「その手には乗らないわよ!」
「ちくしょ~!!」
後ろを覗きみようと首を伸ばすけど、どれみは苦笑いで躱し決して背中を見せようとしない。
まるでもぐら叩きのようにひょこひょこ動き回り、傍目から見てかなり滑稽なやり取りだった。
「あぁ~!! おんぷちゃん! おじいちゃんの手伝いがあるでしょ!? こんなとこにいていいのかな!?」
「……今日は取材の人が来てるみたいで忙しそうだったから、止めたの」
「そういえばそうだったね! なんかゆ~めいな雑誌らしいよ! おじいちゃん、普段は部外者ぜ~ったい工房に入れないからさ!」
話を変えてぺらぺらと早口で喋るどれみ。
まくし立てるように話しているけれど、言葉はしどろもどろでこちらに注意が向いていない。
目が泳ぎ回り、体は落ち着きなく揺れている。
明らかに集中を欠いていた。
くしゃり、と。
握られた封筒が音を立てた。
「じゃ、じゃあ! あたし、そろそろ行くね! また学校で会おうね! 歯みがきしなよ! シュゴ~!! カンセ~ト~カンセ~トォ~! コチラ、ガトーショコラ! オ~ト~ネガイマ~ス!!」
どれみは強引に話を切り上げる。
気が動転しているのか、意味不明な台詞を残し玄関の方へ走り去っていく。
「あてっ!」と、途中で転けた。
わたしは何も言わず、それを見送る。
溜め息をつき、拳でこつんと頭を小突いた。
まるで八つ当たりだ。
難癖をつけるように、どれみに絡んだ自分に嫌気が差す。
どれみにだって、秘密がある。
そして、自分にも。
話していないことが沢山あるじゃないか。
自分だけ良い格好して相手のことを根掘り葉掘り聞こうなんて、甘ちゃんも良いところだ。
もし神様がいるのなら――
今日の飛鳥みのりとの再会は、罰なのかもしれない。
弛んでいたわたしの頬を打ち、戒めるために。
どれみの笑顔の裏に闇があるように、わたしの心の影には――汚泥が広がっている。
恋しさの前で、嘘をつきたくない。
気持ちだけでは、だめ。
例え、答えが返ってこなくても
言わなければならない、言葉がある。
慌てふためくどれみに心を和ませながら、わたしは静かに決意する。
遠退く後ろ姿を見つめて、視線を逸らさない。
すると、少しだけ、笑みが零れた。
やれやれ、と。
逃げ去るどれみの背中には、後ろ手に隠した封筒が丸見えだった。
印刷で大きく書かれた文字に、目が行った。
宛名は――ジュピタースクール。
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