どれみとおんぷ ♪ 春夏秋冬   作:シャンティ・ナガル

10 / 24
夏 前編
第十話 夏の始まり


 

           ♪

 

 

 ――熱い。

 

 

 曇天の空が暑気を押し込め、湿度が不快指数を叩き上げる。

 

 わたしは心臓がどくどくと悲鳴を上げるのを唇を噛んで堪えていた。

 顔が火だるまになったかのように熱く火照り、体は勝手に震え出す。

 

 何もかも、外が暑い所為。

 

 そういうことにしておきたい。

 けれど、心の扉は膨らみ続け、今にも溢れた感情に溺れそうになった。

 

 

 

 蕗山登山道入口。

 

 いつもの待ち合わせ場所にて、瀬川おんぷは絶賛悶絶中だった。

 

 想い煩わせ人は、未だ来ず。

 

           ♪

 

 同じ映像が、繰返し流れていた。

 

 わたしとどれみ。

 お互いの顔がゆっくり近づいていく。

 唇が震え、軽く触れあうように、キ――

 

 

 ――キ、キキキ、キス。キススゥゥゥ!?!?

 

 

 自作自演の思考回路。

 堂々巡りに、自分がしたことを反芻しては悶え苦しむ。

 まるで永久機関のよう。

 

 燃え尽きることを知らない恋の炎だ。

 

 

 ――え? わたしが? 誰に?

 

 ――どれみちゃんに。

 

 

 わたしは顔を手で覆って蹲る。

 

 またも悶絶。

 数日、ずっとこれだった。

 

 今ほど演技の勉強をしてて良かったと思わない日はなかった。

 こんな姿を人前に晒す訳にはいかない。

 それでも、もう限界だった。

 

 

 ふとした瞬間、どれみの唇を見る。

 

 流れる桃色の花が、ぷっくりと咲き誇り、笑みを作る。

 言葉を発する一動作にすら目が行ってしまう。

 そのまま惚けて見入ってしまうのだ。

 

 触れてみたい。

 指でその弾力を確かめ、唇で舐め、花弁の奥にある果実を、頬張りたい。

 

 

 ――うわぁぁぁっ……うわぁぁぁっ!!

 

 

 いい加減にしろ、と。

 欲望を檻に閉じこめ、頑丈に鍵を締める。

 いっそこのまま家に帰り、ベットに潜り込んで枕に齧りついていたい。

 

 

 でも、駄目だった。

 

 

 わたしの足はうろうろと道を行ったり来たりしながらも、その場を絶対に離れようとしない。

 

 

 ――会いたい。

 

 

 ただ、一心に。

 

 その疼きはほろ苦い脈を打って、甘い痺れが魅了するように絡みつく。

 

 別に会って何をするというのでもなかった。

 二言、三言、話すだけでいい。

 

 傍にいるだけで何もいらない――はずだ。

 自分の知らない自分が顔を出し、欲望を囁く。

 

 それを押さえ込もう、と。

 解き放ってしまったらどうなるのか、と。

 

 先を望み、身を竦ませ、感情が交錯し、居ても立ってもいられなかった。

 

 

 ――……整理しましょう。

 

 

 一呼吸置き、額の汗を拭った。

 

 恋愛遍歴、などというものは存在しない。

 クラスの男子に惹かれたこともなければ、アイドルに浮かれることも皆無だった。

 

 興味がないと言ったら嘘になるけれど、自分は同年代よりは大人びていたし、かと言って歳上の人は現実感がなかった。

 

 男性にちやほやされることは多くても、それはステータスとして積み上がるだけ。

 右から左へ流れるように、淡々と処理される情報として、受け取るだけだった。

 

 将来の夢はお嫁さん、などと殊勝な性格でもない。

 

 

 ――わたしって……。

 

 

 同性愛者。

 

 煙のように実感の湧かない言葉が頭に過る。

 そういう人がいることは知っているし、見たこともある。

 

 でも、親近感があるというわけでもなく。

 違う人種やTVの向こう側の存在といった、遠い響き。

 

 少なくとも、自分はそうではなかったはずだ。

 どれみに出会い、新しい自分を次々と発見してしまう現状からすると明言は避けたいけれど。

 

 もしかしたら、自分は男なのではないか。

 もしくは、どれみが実は男なのかもしれない。

 今まで確認しなかっただけで、新事実が――

 

 

 ――……さすがにそれはないわよね」

 

「なにがないの?」

 

 

 ロケット噴射で飛び上がりそうなほど、驚く。

 萎縮した首で、わたしは後ろを振り向いた。

 

「おっ……おは、おはよう。どれみちゃん」

 

「おはよう! おんぷちゃん! って、顔真っ赤だけどだいじょ~ぶ?」

 

 瀬川おんぷの想い人、春風どれみが、不思議そうな目でこちらを見ていた。

 

 いつの間に近付いていたのだろうか。

 まったく気付かず、心の準備も整っていない。

 泡を食って狼狽した醜態を晒らしてしまった。

 

 どれみは訝しげな表情。

 手を空中に漂わせ、何かを言いたげな仕草のまま、見定めるように静止している。

 

 

 マズい、と 。

 明らかに怪しまれていると感じ、脳を絞り尽くして打開策を練る。

 高速思考、懊悩の迷路を抜けて、手繰り寄せた わたしの答えは――

 

「あああぁぁぁ――――っっっ!! あれはっっっ!! UFOォォォ――――っっっ!!」

 

「えええぇぇぇ―――っっっ!! どこどこっ!?」

 

 指を天高く掲げ、大声を上げる。

 

 どれみは釣られて、指差す方角に顔を向けた。

 

 間一髪だった。

 

 

 「見えないよ~。おんぷちゃ~ん」と四方八方へ見回すどれみを横目に、心中にて『よっしゃ~!』とガッツポーズを取る。

 

「あっ、あははっ。もしかしたら、見間違いだったかも。ごめんね、どれみちゃん」

 

「な~んだ。つまんないの。ねぇねぇ、宇宙人ってさ、牛をいっぱいユ~カイしてるんでしょ? UFOの中でなにしてんのかな? ステーキパーティー?」

 

「違うでしょ。解剖とか採血とか、そういう……」

 

「知ってる! キャビンアテンダント!」

 

「キャトルミューティレーションよ!!」

 

 「あはは、なっがい名前~」と後ろで手を組みながら歩き出す どれみ。

 

 わたしはいつもの雰囲気に戻ったのを感じて、ほっと安堵した。

 

 自分ですら答えを出せていないのに、問い質されて、この未発達の感情をぶつけてしまうわけにはいかなかった。

 

 想像するだけで恐ろしい。

 黄金律とも言える、今の関係が崩れる。

 それこそ、何よりも耐え難い惨事だ。

 

 とはいえ、別にバレたからといって、どれみに嫌われるなど有り得ない。

 どれみはそんな人間ではないと、嫌になるほど分かってはいる。

 

 でも、もし想いを打ち明けたら、きっと どれみは眉を顰めて、憂いた声音で――

 

 

 

「あのね――

 

 

 

 どれみを困らせる様な真似はしたくなかった。

 その優しさに甘えたくも、縋りたくもない。

 

 おんぷを何の偏見もなく、一人の人間として見てくれた どれみに対して、常に同等で五分と五分の関係でありたかった。

 

 それに――

 

 

「おんぷちゃん」

 

 前を行くどれみが、ふと足を止め振り向いた。

 

 

 

「悩みがあるならなんでも言ってよね。慌てるおんぷちゃん見るのは楽しいけど、辛いのを隠されるのは嫌だからさ」

 

 

 

 「言いたくないならムリに言わなくてい~よ」と、それだけ言って、どれみは前を歩き出した。

 

 

 照れも気負いもない顔には躊躇も迷いもない。

 どんなに膝を抱えて、独りぼっちでいても、すぐに駆けつけて、寄り添う。

 どれみの言葉には、そういう暖かさがあった。

 

 ぶっきらぼうで無責任なのに、何があろうとも その人から離れることはない献身。

 

 その暖かさは人を癒す。過ちも愚かさも、全て包み込んで肯定してくれる。

 けれど、引き換えに一直線に向かう言葉は、相手が全て背負うことになる。

 

 照れも気負いも躊躇も迷いも、全て、相手が賄うことになる。

 

 

 ――もう、どれみちゃんったら。

 

 

 

 どうか、信じてください。

 

 言葉に当てられた照れを、

 

 慰めをかけられた気負いを、

 

 同性を好きになった躊躇を、

 

 打ち明けたい迷いを、

 

 ありのまま、受け入れてください。

 

 

 

 どれみの背中を、頬を膨らませて睨み付けた。

 

 

 ――誰のせいで悩んでると思ってるのよ。

 

 

 どれみの包み込む優しさが、今は余計なお世話だと、突っ返したくなる。

 涼しげな顔で言われた直向きな言葉は、心の中にずけずけと入り込むデリカシーの無さのように感じて、わたしはつんと不貞腐れた。

 

「……バカ」

 

 どれみには聞こえない、小さな呟き。

 

 

 ――鈍感なんだから。

 

 

 あなたから貰いたい言葉は、そんな言葉じゃないのに。

 

 

 どれみとおんぷ。二人の思いが行き違う。

 前を行くどれみに、後ろを追うおんぷ。

 春までは、そうだった。

 

 

 けれど、今は違う。

 わたしは、どれみに向かって走り出す。

 互い違いの想いを重ね合わせるように。

 肩を並べて――

 

 

 そのまま、ぎゅっと。

 

 

「おんぷちゃん?」

 

「……嫌?」

 

「ヤじゃないけど、急に手を握られたから……ふふ、今日のおんぷちゃんは甘えんぼだね」

 

 手を繋ぎながら、歩く。

 

 二人の間にある壁が透明になり、穏やかな熱を伝え合う。

 どれみは普通に握っているけれど、わたしは反応を窺うようにびくびくと指を絡めていた。

 

 もっと弱く握った方が、それとも強くか。

 分からないまま、何かを探るように、おっかなびっくり、隣同士で、前に進んでいく。

 

 キスまでしたくせに、どうして手を握るくらいで緊張めいた駆け引きをしなければならないのか、自嘲気味に思っていた。

 

 でも、そんな中に不思議な満足感がある。

 安定感と言ってもいい。

 

 箱いっぱいに猫が丸くなっているような。

 ぴたりと合う、定位置を見つけたような。

 

 

 近すぎず、遠すぎず、丁度良い距離。

 

 これが、今の私達。

 

 

『いいぞ、これ』『よくやった、おんぷ』と、自分で自分を誉めたくなる。

 妙にしっくりくる感覚だった。

 

 急ぎ過ぎても、仕方ないのだ。

 この想いは、ゆっくり育てていけばいい。

 

 

 わたしは、空を仰いだ。

 

 曇り空が山々に囲まれた桐野村を覆う。

 まるで、誰一人逃がさないと蓋をするように鬱屈した空模様。

 

 夏の前には、必ず梅雨が来る。

 人間にとっては煩わしくても、自然にとっては夏を生きるための活力を得る、重要な時期だ。

 

 

 そして、この空の先には、輝かしい太陽の季節が待っている。

 

 

 それと同じように、今の悩みや苦しみにもきっと意味があって、暗中模索の日々に太陽の光が照りつける日が絶対に来るはずなんだ。

 

 少なくとも、絶望はしない。

 そう思えた。

 

 

 ――だって、わたしは――

 

 

「どうかしたの? おんぷちゃん」

 

 いつの間にかじっとどれみを見ていたらしい。

 視線に気付いたどれみが、きょとんとした顔で尋ねた。

 

「ふふ……どれみちゃんがかわいいなって」

 

「えぇ~、何それ~? このこの~、おんぷちゃんの女たらし~。ホメたって何もでないよ~」

 

 どれみは顔を赤くしながら、照れ隠しでわたしの腕をつつく。

 

 わたしは、唇をそっとつり上げる。

 艶やかな、紅色。

 

「かわいいわ。ほんとに」

 

 

 ――好き。

 

 

 それだけなのだ。本当に。

 

           ♪

 

 五時限目が終わった頃から雨が降りだした。

 どれみは窓から空を伺いながら、げんなりとした表情を見せる。

 

「うへぇ~、傘持ってきてないや。どうしよ~」

 

「わたしの傘に入れてあげる。家まで送るわ」

 

「やった~! おんぷちゃん、ありがと~! でも、いいの? 帰りみち遠回りになるけど」

 

「別に予定もないし、平気よ」

 

「そっか、よかった~。おんぷちゃんがヒマジンで助かったよ~」

 

「……やっぱり一緒に帰るの止めましょうか」

 

「そりゃないぜ~、おんぷちゃ~ん」 

 

「ふふ、今日のは貸しにしておくわ」

 

 もうすぐ放課後という浮わついた気持ちを携えながら、六限目の音楽のために移動教室だ。

 

 人がいないせいか、雨音が容赦ないほどに響き渡る校内。

 まるで学校そのものが巨大な楽器になったかのように、色とりどりの音を奏でている。

 

「ド~レレ~ド~シシ~ミファソファミレ~」

 

「なに歌ってるの?」

 

「はっはっはっ! あたし、ぜった~い音感だからさ。雨がなんの音出してるか分かるんだよね~。あっ! ド! さっきの ミ! こっちは シ! 今通ったの ファ! もいっちょ ファ! ド! ソ! レ!」

 

「だったら、こっちは……な! ま! む! ぎ! な! ま! ご! め! な! ま! た! ま! ご!」

 

「むむっ! おんぷちゃん、なかなかやるね!」

 

「ふふふ、絶対音感が あなただけだと思ったら、大間違いよ……」

 

 わたしとどれみ、静寂と雨音。

 不規律な音色が、廊下を流れていく。

 ばらばらの音楽は自分勝手だけど、それぞれが一生懸命。

 

 飾り気もなければ、気兼ねもなし。

 陰鬱な空は、どこか自由で、心優しい。

 

           ♪   

        

 音楽室で待っていると、暫くして水目校長が入ってきた。

 教卓に立つと同時に日直であるわたしが「起立、礼」と、どれみ共々挨拶をし着席する。

 

「では、この前の続きから。教科書80ページ」

 

 間を置かず教科書を捲り、さっそく授業を始める校長。

 この学校唯一の教師でもある校長は国語や算数、体育や家庭科などの然程重要ではない教科でも、確りと授業をこなす。

 

 カリキュラム通りと言うよりかは 校長本来の生真面目さの現れといった印象で、すぐに気が散るどれみの存在も相まってか毎回どの授業も一波乱あり、内心でわたしは学校の授業をいつも楽しみにしていた。

 

 毎度毎度どれみを諫めるのは疲れるだろうなと苦笑いで校長の身を案じながら、二人の阿吽の呼吸といった掛け合いを見せられると羨ましいとも感じる。

 

「今回はモーツァルトについて勉強しましょう」

 

 音楽の授業は聴く、弾くと交互に繰り返して行われる。

 

 今日はクラシックについて。

 本当は教科書に載っている小さなコラムなのだけど、こういうのもきっちりやる辺り、校長らしさが滲み出ていた。

 

「お~! モーツァルトなら、あたし弾けるよ! おんぷちゃん! ヘンロチョ~、ヘンロチョ~」

 

「はいはい、エンガチョでしょ」

 

 どれみがチョップの仕草をすると、わたしは両手の人差し指をくっ付けて差し出す。

 それを手刀で切り「エンガチョ切った~!」と、どれみは腕を広げわたしとハイタッチした。

 

 校長はずっと冷たい視線を向けていた。

 二人の盛り上がりを無視して、話を続ける。

 

「モーツァルトは1756年、神聖ローマ帝国で生まれ、3歳の時に楽器演奏、5歳の時には作曲を始め『神童』と称えらました。生涯で書いた曲は900以上。その曲群にはオーケストラやオペラ、ピアノなど多種多様です……そうですね。せっかくですから春風さんに一曲弾いてもらいましょうか。楽譜はありますので」

 

「よっしゃ! まっかせなさい!」

 

 校長の提案に、どれみは即応で了承する。

 

 校長から楽譜をもらい、音楽室の隅に配置されているグランドピアノに、どれみが座った。

 

 

 どれみやわたしが生まれる前から、そこにあったであろう古ぼけたピアノ。

 漆黒は煤け、光沢は消え失せているけれど、時の流れが その身を引き締めさせ、楽器というよりかは民芸品に近い風情がある。

 

 

 わたしは期待の眼差しで、どれみを見ていた。

 初めて出会ったハーモニカの演奏然り、これまでの付き合いで、どれみの音楽の才能は本物なのが素人目にも分かっていたからだ。

 

 授業でも、リコーダーやピアニカなど弾くことがあったけど、どれみは何の楽器を取ったとしても巧みに使いこなす。

 

 わたしもフルートを弾き多少は器用な方だけれど楽器を道具として扱うことは出来ても、どれみのように楽器を体の一部とすることは出来ない。

 

 弾いてみれば、違いは一目瞭然。

 

 宛ら、神より音楽の才能を振り分けられたと言っても過言ではなかった。

 どんな演奏を見せてくれるのか、待ち焦がれるように見守る。

 

 どれみはばさばさと譜面台に楽譜を広げ、二回ほど軽く鍵盤を流れるように押し、足下にあるペダルの踏み具合を確めた。

 

 一呼吸置いて、場が静まり返る。

 どれみの顔に緊張はなく、微笑みの表情。

 

 

 

 旋律が、走った。

 

 

 

 旋律は、戦慄へ。

 

 愕然とする。

 

 なんだ、これは。

 

 一体、何を聞かされている?

 

 理解が追いつかない。

 

 

 驚愕という城塞が一挙に構築され、一斉に崩落する。

 外郭から破裂するように溢れだしたのは、賛嘆だった。

 その時になって、やっと自分が感動していることに気付く。

 

 

 岩石を鳩尾に叩き込まれたかと錯覚する、痛みすら伴う感動だ。

 砕かれた石片が飛散し、全身に降り注ぐ。

 心に微少な傷をつけ、血とも涙ともつかない熱い液体が滴り落ちた。

 

 遅れてやって来た理解が、感情に追い付く。

 

 すると、継承される音楽はベッドに横たわっているかのように、熱いシャワーを浴びているかのように、柔らかで心地よく肌と触れ合いだす。

 

 体の芯から暖まり、悴んだ体を癒してくれる。

 

 

 わたしは口をあんぐりと開けたまま、その音楽に聴き入っていた。

 それしか能がないかのように、呆然と。

 

 どれみは目を瞑り、楽しそうに鍵盤を弾いていた。

 何も欲することなく、謙虚に。

 実に自然な姿だ。

 

 

 音色は波動となって室内を渦巻く。

 おんぷの思考すら、巻き添えにして。

 

 体は打ち据えられ、変容する。

 服や皮膚を裂いて、感動という巨大な原石が、みるみると膨れ上がった。

 

 鳥肌が立つ。全身の細胞が総毛立つほどに。

 

『見よ』『聞け』。

 意識が視覚と聴覚に集中する。

 目を惹き付けられ、耳で聴かざるを得ない。

 

 魂が引き寄せられる。

 抱き締められ、連れ去られる。

 演奏は隔絶された異世界を、形作っていた。

 

 

 

 牽引力、包容力、強制力。

 

 漲り、迸る。

 

 美しさという、『力』そのもの。

 

 

 

 旋律は、終わる。

 

 

 

 どれみが鍵盤に指を置き、余韻を遊ばせる。

 やがて、慈しむようにピアノを撫でて、席を立った。

 

「久々だったからちょっとナマったかな~。どうだった? って、おんぷちゃん泣いてない?」

 

「なっ、バカ。泣くわけないでしょ! 目にゴミが入ったの! 思ったより凄くてびっくりしたけど……というか、あんな演奏するなら先に言いなさいよ! 卑怯者! 条例違反!」

 

「え? あ~っと、ごめん……いやいや、なんであたしが謝んないといけないのさ?」

 

 わたしは慌てて、目を擦った。

 魂を抜かれた自分を見られるのが嫌で、取り繕うように支離滅裂な暴言を吐いてしまう。

 

 どれみは何が何やらと複雑な顔でぽりぽりと頭を掻いていた。

 

「素晴らしい!」

 

 パチパチと拍手が鳴る。

 校長が席を立ち、絶賛していた。

 

 見るからに肩の力が抜けていて、穏やか笑顔。

 あの鉄面皮ですら感動を真っ向から浴び、解きほぐされていた。

 

 いつも冷静な校長らしくない語気の強さといい、どれみの演奏が如何に凄まじいかを、わたしは改めて実感する。

 

「さすが百年に一人と言われた天才ですね! 見事な――ッ!!」

 

 突如、校長の顔が強張る。

 

 息を詰まらせ、言葉を無理に飲み込んだ。

『しまった』と言外に物語り、失態で顔色を曇らす。

 動揺で、目の光が揺れた。

 

 どれみも一瞬、はっとした顔を見せ、すぐに元に戻った。

 頷くように、瞼を深く閉じる。

 

 

 無言の空間。

 不安の炎が広がり、沸々と心をざわつかせる。

 

 

『えっ?』と、わたしは反応が遅れた。

 

 急ブレーキをかけたかのように場の空気が悪くなっていくのを感じ取るけれど、原因が分からず周りをきょろきょろと窺うばかりだ。

 

 先の一言に何か意味があったのか。聞きたくても、聞けない。

 靄がかる雰囲気に、口が閉ざされていく。

 

 

 苦痛に堪えるかのように、校長は下を向いたまま、申し訳なさそうに萎んでいた。

 

 どれみは何も言わず、微笑んでいる。

 演奏する前と、同じ。

 

 でも、そこに、先ほどの暖かさはなかった。

 諦念が線を引き象られた、悲しみそのもの。

 

 

 

 どれみの左手――黒い手袋が、ギチリと、巻き付いた鎖を引き絞るように、嗤った。

 

 

 

 手を繋いで、歩いた時。

 

 わたしが、決して触れることが出来なかった、どれみの、過去(ひだりて)

 

           ♪


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。