第一話 春の始まり
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木深い山道を車が進んでいた。
春らしい暖かな木漏れ日が注ぎ、木々の隙間から見える川は水晶のように輝き、真横を走る列車の線路はローカル線らしい素朴な風情がある。
人によっては快いドライブコースになるような道だったが、車に乗る母娘には過ぎ行く景色を楽しむ余裕はない。
8人乗りのワンボックスカー。
広すぎる車内には、滅入るような寂しさが立ち込めていた。
運転席に座る母親、瀬川美保は幼少の頃アイドルとして舞台に上がっていたが、今やその面影もない肥満の体、顔には生来の柔和さはあれど体の芯から疲れきったという憂うつさが漂っている。
そして、後部座席に乗る娘――瀬川おんぷは無気力に、ただ横たわっていた。
車の動きに合わせて揺れる子犬のしっぽのようなサイドテール。
まだ十代にもなっていないが将来は きっと美人になるだろう整った顔立ち。
紫のワンピースにレギンスを履いたシンプルな装いながら、その服から伸びる華奢で白い手足。
月のような清楚とした艶やかさを持つ、絶世の美少女。
だが、その表情は大理石のように美しさはあれど硬く冷ややかであった。
今の彼女にとって。
暖かな木漏れ日も、水晶のような輝きも、素朴な風情も、感動を呼び起こすことはない。
車が進むたびに流れ行く景色は千変万化と万華鏡のように煌めくが、反して、おんぷの心は鉛のように重く沈んでいくだけだった。
浮かれるはずがない。
今向かってる場所は、おんぷにとって流刑地も同然なのだから。
「おんぷちゃん、着いたわよ」
木々が晴れ、視界が光に包まれた。
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整列した田畑、寄り添う家々。
典型的な田舎の集落だ。
《ようこそ 桐野村へ》。
錆び付いた立て看板が見えた。
「……ハァ」
景色を眺めながらわたしは一人ため息をつく。
いつまでか分からない。
もしかしたら一生、うんざりするほど退屈なこの場所で過ごさなければならない。
大好きだった父は仕事の都合でこちらに来ることができなかった。
別れるのが嫌で嫌で仕方なかったはずなのに不思議なくらい体にも心にも力が入らず、流されるままにここまで来てしまった 。
「のどかで いい場所ね。ここでならゆっくりできそう」
運転席に座る母が、どこか ぎこちなさを感じさせる声で話かけてきた。
「……うん」
わたしは返事をしつつも顔は向けず寝転がって、車の天井を見続ける。
もう半年程前から家族としては一緒にいても会話は減る一方だった。
時間が経つにつれ、心の距離が遠くなる。
それを理解はしていても、どうしようもできなかった。
罪悪感が体を蝕む。
痛みを堪えるかのように、わたしは深く、深く、目を閉じた。
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しばらくして、車はスピードを緩め一軒家の前で止まった。
母は「よいしょ」と車を降り、わたしものっそりと体を起こしそれに続く。
周辺の家より少し大きく、庭はない。
特徴と言えば それだけの質素な家。
今日から ここが我が家となる。
玄関を開けると、他所の家独特のニスのような酸っぱさを含んだ異臭が鼻を打つ。
玄関の前には階段があり右はダイニングキッチン、階段の横は洗面所にトイレ、左は和室。
二階へ上がると洋室と和室の二部屋。
どの部屋も段ボールや家財道具が山積みに置かれ、引っ越しの慌ただしさが窺えた。
母がダイニングに置かれている段ボールを開き、整理を始める。
「おんぷちゃん、ずっと車で疲れたでしょう。気分転換に散歩でも行ってらっしゃい。ママは荷解きがあるから」
「……わかった」
早朝に出発し、途中休憩を入れつつ着いたのは夕方に差し掛かる頃だった。
少し休みたいとも思ったけど新しい家だからかそわそわと気持ちが落ち着かず、重く鈍い体を引きずるように、わたしは家を出た。
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外は肌寒くはあれど、春の柔らかさが静かに村を包んでいた。
行く当てがあるはずもない。
足の向くまま、さ迷い歩く。
道はアスファルトで舗装はされてるけど、すぐ横は田んぼが続いている。
見通しはかなり良く、民家のほかに自分が通うことになろう学校、郵便局、スーパー、診療所など村の全貌が把握できた。
ニュースで聞いたことがある限界集落という言葉が頭を過る。
ここには城壁のように反り立つ高いビルも、油のように湿った風も感じられない。
今は、それを少し物足りなく思った。
「……」
特別見るべき場所もない。
帰ろうと踵を返すと、はっ、とするほど心地よい春風が優しく体を撫でて通り過ぎた。
ざわざわと木々が騒ぐ中に、音楽が、一筋の光のように響いてきた。
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