それは、恐怖であった。
悪魔であるデミウルゴスにとって、恐怖とは与えるものであり、与えられるものではない。
そんな彼に絶望的なまでの恐怖を叩きつけたのは、灼熱の地面へとゆっくり傾いていく一人の男の姿だった。ナザリック地下大墳墓の者であれば誰もがその人物を知っているだろう。至高の四十一人。そこへ名前を連ねるなによりも尊い御方なのだから。
そんな人物が倒れていく姿は、デミウルゴスにとってなによりも恐ろしいものであり、なによりも許しがたい光景であるのは言うまでもなかった。
「シュヴァイン様!」
考えるよりも先に悲鳴が喉を走り、身体が動いた。
許可もなく、…例え許可が出たとしても、このような粗雑な触れかたは死に値するだろう。それでも自らの命を失うことよりも、至高の御方の身体が傷つくことのほうがデミウルゴスには耐え難いことであった。それはナザリック全ての者共通の認識と言ってもいいだろう。
すぐさま怪我はないかと確認をするも、仕えるべき人物の反応は薄い。まさか遅かったのか。どこかに酷く傷を負ったのか。
至高の御方に見せるにはあまりにも無様な姿であったが、自分の声が震えるのも抑えられずに怪我の有無をもう一度問えば、微かな声であったが「眩暈がしただけ」と返答があった。
怪我がないならば、それよりも喜ばしいことはない。
けれども眩暈を起こすほど身体の調子が優れていないのならば、早急にその身を休めるべきだ。
至高の御方が体調不良一つで外部の敵対者に後れを取るとは微塵も思っていないが、それをそのままにしておいていいはずもない。
これが至高の御方でなく、ましてやナザリックの者でなかったならば、デミウルゴスは嬉々としてその状態を引き伸ばすだろう。けして相手を休ませることなく悲鳴をあげさせて、やがて力尽きるまでいたぶる行為を心から楽しんだことだろう。
けれども、今デミウルゴスの目の前に立っているのは、仕えるべき主人であり、創造主であり、なにものにも代え難い至高の四十一人のうちの一人なのだ。その人物の体調が優れないというのならば、なにを優先してでもまずは休息していただける環境を整えるべきだ。
ただでさえ
ナザリック地下大墳墓を作り上げたという偉業をもってしても、シュヴァインという人物がどれほど優れている人物だと理解していても、生者には「生まれつき」という避けては通れない道があるのだ。
「至高の御方には差し出がましいかもしれませんが」
至高の御方がナザリック地下大墳墓のどこへ行こうとも、それは自分のような者が意見するのはとてつもない無礼にあたるだろう。
しかし先程支えたときに触れたシュヴァインの肌は、第七階層の業火に当てられて、蛇系の種族としてはあってはならないほど火照っていた。
たとえシュヴァインが灼熱地による弊害を緩和することのできる魔法道具を身につけていると知っていても、体調が優れないのならば、ここは
「第七階層の焦熱は、今のシュヴァイン様のお身体にはよろしくないかと。ここはどうか一度、第九階層へ赴いて御身を休ませていただければと愚行致します」
ここでシュヴァインが否と答えれば、デミウルゴスはどうすることもできない。
御身を休めていただくには、焦燥している自分の胸中をいったいどう伝えればいいのか。
そうして主人の返答を聞こうと顔をあげたところで、衝撃と、とてつもない絶望が深く心の臓に突き刺さった。
自らの二の腕をさするシュヴァインの指に、耐熱魔法のかかった指輪がない。
それはつまり、今この瞬間、ほんの一秒が過ぎ去るたびに、第七階層の灼熱は至高の御方の身体を蝕み続けているということだ。
シュヴァインが自ら触れた二の腕に薄く傷が残った光景を見て、デミウルゴスは弾かれたように立ち上がり、至高の存在の腕を取った。
この無礼な振る舞いは万死に値する行為だ。
デミウルゴスは自分が許すべき存在ではないものに変わったのを自覚し、今後至高の存在に尽くすことが許されないことに絶望した。だがそれよりも、これ以上尊い存在に傷がつくことがなによりも我慢できなかった。
×××
「シュヴァイン様、先程の無礼、許されるものとは思っておりません」
ペストーニャ・S・ワンコの元へシュヴァインを連れ、傷が癒えたことを確認したところで、デミウルゴスはすぐさまその場に跪いた。
失望されただろうか。仕えるべきではない、できそこないの存在として認識されただろうか。
なによりも尊い至高の存在が一人、また一人と姿を隠す悲しみを知っている。しかし己の真正面から、不要だと宣言される絶望を味わったのは初めての経験だった。
死刑宣告をされる囚人のような気分でデミウルゴスはシュヴァインに頭を垂れる。
どちらにせよ、先程のような無礼な振る舞いを行った者は生き残るに相応しくないのだ。もしこれが他者の立場であるならば、デミウルゴスはいたぶる時間すらも与えずに相手を亡き者にしている自信がある。それほどまでに自分が行ったことは罪深いことだ。
「至高の御方に無断で触れ、あまつさえ意思も聞かずに別の場所へお連れするとはこの命で償えるものとは思っておりません。ですが私にそれ以上に捧げられるものがないのも事実。どうか私の死を捧げることをお許しください」
だからこそ至高の手を汚すまでもなく自害するべきである。
デミウルゴスは腕に魔力を込めて爪を伸ばし、自らの首を掻き切ろうと――、
「やめろ」
腕は止まった。至高の言葉を聞き漏らすほど、デミウルゴスの耳は愚鈍ではないからだ。
「デミウルゴス、お前の死を誰が許可した」
「…っしかし、至高の御方に無断で触れた私に捧げられるものなど、命しかないのです…!」
これは許されざる罪だ。死してなお払拭できるとは思えないほどの大罪である。
椅子に座したシュヴァインの咎めるような視線を受けて、死よりも強い恐怖が身を焼いた。デミウルゴスがこれまでにもてあそび、死へと追い詰めてきた人間だろうとここまでの絶望は味わったことがないだろう。
「至高の、とは知らん。お前がなにを崇拝しているかも知らん。お前がわたしに触れたことなど蚊ほども意識していない。しかしな、わたしをお前の失態の理由にするな」
「…」
つまりこれは、無礼を嘆いて自害することすら許されていない。無礼を働いたことを懺悔する機会すら与えられないということか。即ち、自分が創造された必要性すら皆無だと。
更に深い絶望がデミウルゴスの身体を飲み込もうとしたとき、足を組み直したシュヴァインが再び声をかけた。
「お前がこれを無礼だったと感じているならば、わたしから後日お前に罰を与えよう。自ら死に逃げることはけして許さない。いいかデミウルゴス、お前が死ぬのは、わたしが死ねと命じたときだけだ。お前の愚行で至高の我らが作った命を捨てることはあってはならない」
「…!」
それは神の慈愛にも勝る言葉であった。
デミウルゴスの無礼な振る舞いを受けてなお、シュヴァインは今後も仕えることを許すと言ったのだ。驚愕に目を見張るデミウルゴスの視線など気にした様子もなく、シュヴァインはさも当然のように「いいか」と返答を促す。
至高の御方の命令とあれば、デミウルゴスの死の決意など塵芥に等しい。
「はッ、しかと…しかと承りました…!」
なんと寛大な御方なのか。
そう感じたのはデミウルゴスだけでなく、この部屋にいるナザリックの者全ての総意だった。
慈悲深い至高の御方に対して、この場にいるものは、改めて忠誠を誓った。