オーバーロードと豚の蛇   作:はくまい

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密命

「ああ、やっぱり接触してきたと…」

 

それは疲れきったような声だった。

うんざりしたような、勘弁してくれとでも言いたげな声だ。

それを不安気に見つめる視線に気づいたのか「至高の御方」はマーレと視線が合うと、ゆったりとした動作でその頭を撫でた。

表情の変化は乏しい人物なのだけれども、本当はとても優しい方なのだと、ここ数日でマーレは思い知っていた。

 

明朝と呼べる時間を少しばかり過ぎた頃。

同室に寝泊りしている人間が朝食を食べに部屋を出たところでポルコは――シュヴァインは、身に纏っていた外套を脱ぎ捨て、保護眼鏡(ゴーグル)を外して、身体に巻きつけていた布を取り払った。

そこに現れたのは皮膚に描かれた見事な鱗模様と整った青年の顔、そして見るものを畏怖させるような蛇の髪の毛だ。

思わず見惚れて「ほぅ」と溜め息を吐いたマーレにまるで気づく様子もなく、シュヴァインは部屋の隅に置いてあったたらいを部屋の中央まで転がすと、アイテムボックスから「無限の水差し」(ピッチャーオブエンドレスウォーター)を取り出してそこに水を溜め始めた。

 

それは湯浴みのためである。城壁都市エ・ランテルともなれば冒険者のための公衆浴場もいくつか存在しているのだが、二人はその浴場を使うことができない。理由はマーレが闇妖精(ダークエルフ)だから、そしてシュヴァインが人間だと種族を偽っているからだ。

石化の蛇(メドゥーサ)という異形種である以上この肌と頭を衆目に晒すわけにはいかない。しかしそれでも身体は汚れるものだ。ずっと風呂に入らないわけにもいかないので、シュヴァインは宿屋の店主に大きなたらいを一つ借りて部屋へと持ち込んでいた。それを使って湯浴みの代わりに身体を清拭するためだ。

 

それを不審に思われない言い訳として「おれは顔や身体中に重篤な火傷の跡があるので人目のあるところに出たくない」と「異種族が利用できない浴場で闇妖精(ダークエルフ)であるメーアを一人ぼっちにできない」とシュヴァインは周囲の人間に説明していたのだが、マーレにとってそれは、納得できるものではなかった。

 

なぜナザリック地下大墳墓の支配者たる人物が、人目を気にしてこのような貧相な小部屋で過ごさなければならないのか。

これがもう一人の支配者たるアインズによる命令で、自分が人間の中に紛れて生活するという任務ならばマーレはいかようにも耐えられる。けれどもこのお方は支配者なのだ。

支配者が、こんなところでこんな扱いを受けていいはずがない。

 

これはとてもよくないことだ。仲間たちの言葉を借りるならば万死に値する重罪だ。なぜ人間はナザリックの支配者たちの偉大さを理解しようとしないのか。

 

「マーレも一緒に拭くか?」

「いえ! 僕はあとでも大丈夫ですのでシュヴァイン様がお先にお使いください!」

 

ふつふつとしたなにかがこみあげてきたところで、それは自らの主人の言葉で掻き消された。

主人が自分に言葉をかけて下さったのだから、それ以外のことはどうでもいいことだとマーレは思う。ナザリック地下大墳墓の支配者たちの意思を尊重する、それに重きを置くべきだ。

 

「あの、シュヴァイン様、よろしければ僕がお背中をお拭きしましょうか?」

「お、頼んでもいいか?」

「はっはい! もちろんです!」

 

シュヴァインは上半身の衣服を脱いで、たらいにタオルを浸す。

それを固くしぼってからベッドの片隅に腰を下ろすと、シュヴァインは背中を向けてタオルをマーレに手渡した。マーレがそのタオルを受け取って引き締まった身体に押しつける。

ごしごしと上下に擦り付けて汚れを落とすべく奮闘すれば、背中がシュヴァインの呼吸の動きに合わせて大きく動く。その溜め息が落胆や失望の類いではなく安息から来ているものだとわかったので、喜びがマーレの胸中をいっぱいに満たした。

 

「…あー、もうちょい右…」

「はいっ」

 

幸福とも言える時間にうっとりとしつつも、マーレは気を引き締め、先日のデミウルゴスや姉のアウラの言葉を思い出す。これは、至高の御方にも悟られてはいけない重大な仕事なのだと。

 

 

×××

 

 

ナザリック地下大墳墓で過ごすものたちにとって、至高の四十一人のうち、モモンガが「柔」と例えるならば、シュヴァインは「剛」と呼ぶべき人物である。

他の至高の御方が隠れてもなお、ナザリックのために動き続けた偉大なお方だ。

 

しかし彼が生まれついた種族はけして強靭な肉体を持ち得ないものだった。

至高の御方が常識の枠組みにとらわれることはないという認識は、数日前に起きた事件をもって覆されることになる。

 

まずは第七階層で転倒しかけたという事件。

そこでなにが起こったのかという説明の過程で、デミウルゴスの許されない行動を知ることになったが、至高の御方であるシュヴァイン本人が許したという事実と、すでに懲罰を受けたということで守護者一同の中では言及しないことになっている。自分が同じ場面に遭遇したときは、同じことをするだろうと確信していたからだ。

どのような懲罰だったかについてはなぜか首の辺りを押さえて言いよどむのだが、アルベドやシャルティア、そして姉であるアウラはその意味に気づいたらしい。

とくに前者の二人は「私たちを差し置いて」と食ってかかっていたが、デミウルゴスは始終「誤解だ」と訴えていた。それが結局どういう意味なのかはマーレにはわからなかった。

 

そして二つ目にアウラが遭遇した、ナザリック地下大墳墓の外で倒れていたという事件だ。

本人は倒れていたということを否定したが、アウラからその状況を聞いたアルベドとデミウルゴスは、シュヴァインはおそらく守護者たちに知られないようにしたのだと告げた。

 

本当に気分転換をするだけならば地面に寝そべる必要などない。

アウラが駆け寄ったときに気を失っていたわけではなく、すぐに身体を起こしたということは、つまり弱っている自分を守護者たちに見られまいとしているということだ。

そのあとに空を眺めるために寝転んでいたのだと主張するような周到な演技すら行って。

 

「このナザリック地下大墳墓が転移したとき、しばらくの間シュヴァイン様の口調が変わっていたことを皆は覚えているかい?」

 

当然覚えているだろうね、と言いたげな態度だったが、事実、守護者たちは数日前までのシュヴァインの口調が硬いものだったことを覚えている。

無論、至高の四十一人に名前を連ねる人物が威厳あふれる支配者として相応しい態度で振る舞うことに感動こそすれ、落胆する者などナザリック地下大墳墓にいるはずもない。けれども。

 

「…シュヴァイン様…なんだかお疲れのようでありんした…」

 

シャルティアがぽつりと呟いた言葉に、守護者全員とセバスが同意した。

 

会話の途中で言葉を探すように、視線が動くことがあった。

ほっと息を吐くような仕草をすることがあった。

まるで一人になりたくてしかたないのだと言うように、近衛の前から姿を消すことがあった。

 

考えてみれば至高の御方が一人、また一人と隠れていく中で、ナザリック地下大墳墓のために活動し続けてきたのは最高責任者であるアインズとシュヴァインのたった二人だけなのだ。

そうしてかのお方は活動を行うたびに必ず宝物を持ち帰ってきた。

それは時間が経過すればするほど量を増して、世界級(ワールド)アイテムすら一人で手に入れたことがある。

 

疲労しないわけがないのだ。

 

石化の蛇(メドゥーサ)という種族の弱点を補うため、その指には耐性を付加するマジックアイテムの指輪がいくつもある。疲労無効をつける隙間は存在しない。

 

それでもなおシュヴァインが平然と振る舞い続けたのは、生き物としての本能ではないかとデミウルゴスは考えた。自分を使って体調が回復したと告げたのもブラフだったのだ、と。

数日程度では癒せぬ疲労がシュヴァインを蝕んでいるからこそ、彼は気丈に行動して見せた。

その結果があの口調だ。

隙を伺わせることのないように、守護者たちへ偉大な支配者として顕現してみせたのだ。

 

「ツマリ、ドウイウコトダ」

「…シュヴァイン様は、私たちが裏切ることを危惧していらっしゃるわ」

 

コキュートスの質問に返答したのはアルベドだった。

そして、その言葉に誰もが息を呑む。

アルベドと同じ意見を持つデミウルゴスですら、改めて直視した現実に悲しげに目を伏せた。

 

「ありえないでありんす!」

「そ、そうよ、あたしたちが至高の御方であるシュヴァイン様を裏切るなんて!」

 

悲鳴にも似た声を上げたのはシャルティアとアウラ、そしてそれに同意するように、コキュートスの口から凍てついた呼吸が漏れる。

その反応も当然だった。この場にいる全員が「至高の御方」を最上の存在として崇拝しているのだから。けれどもアルベドはこぼれる涙をハンカチで拭いながら首を振った。

 

「シュヴァイン様の種族である石化の蛇(メドゥーサ)は本来ならば状態異常にも、物理攻撃にも弱い種族よ」

 

速度と魔力が上昇しやすい、実際ならアインズとはまた違った方向で魔法詠唱者(マジックキャスター)に向いている種族だ。守護者たちが知る由もないのだが、ユグドラシルでプレイヤーキャラとして石化の蛇(メドゥーサ)を選んだものは、回復役の聖職者(クレリック)として活動することが多かった。

後衛の最たる職業として挙げられやすい魔法詠唱者(マジックキャスター)タイプの種族をシュヴァインが盗賊として、それも超耐久型に育成できたのは、徹底したデータに基づいた廃人プレイと、あの収集癖の賜物とも言えるアイテムの装備による結果だと言える。

 

たとえシュヴァインが鉄壁たる装備を外していても、守護者たちと同等以上の戦いを行えると守護者たちは信じて疑っていない。しかし疲労困憊している状態ならばどうだろうか。吹けば飛ぶような貧弱な人間たちが相手ならまだしも、その名前に恥じない、ナザリック地下大墳墓の守護者を務めるものたちならば。

 

「無論、これは一時的なものだと私は信じている。けれども私たちがそれに違和感を感じたことを察し、改めて口調を直して行動するほど、現在のシュヴァイン様はお疲れだ。けして追い詰めるようなことをしてはいけない。浅慮で行動すれば、これまでお残りになってくださっていたシュヴァイン様までが……お隠れになるかもしれないからだ」

 

シュヴァインが隠れてしまう。

それは間違いなく彼が自らの生命の危機を感じたときだ。

 

当然、守護者たちにそのようなつもりはない。しかし意識していないところでなにか不敬な行動を取ってしまえば、自分たちは仕えるべき主人を――存在理由を失ってしまう。

デミウルゴスの言葉に含まれた恐ろしい意味を知ってマーレはぶるりと身震いした。

 

これはナザリックで「至高の御方」に仕える者たちにとって最大の危機だと言っていい。

しかしできることと言えばシュヴァインが回復するのを待つことのみ。至高の御方が苦しんでいるときに、なにもできないことがもどかしい。

「本当に自分たちになにかできることはないのか」と、マーレがそう言いたげにアルベドの顔を見上げればアルベドはもう一度、今度は言い聞かせるようにゆっくり首を振った。

 

「考えてもみなさい。かつて至高の御方々が揃っていたときでさえ苦難して、かの方々は十一個という世界級(ワールド)アイテムを集めたわ。けれどシュヴァイン様は、それをたった一人で二つ集めるという偉業を果たされたお方よ。その御身を蝕むものをひ弱な私たちでどうこうできるはずがないわ」

 

そこで一旦言葉を切り、アルベドは周囲の守護者たち、そしてセバスを見回す。

 

「これは私たちの、シュヴァイン様への忠義が試されているときよ。お身体の調子が優れないのならば、自らの命を投げ打ってでも御方をお守りするのが被造物たる我らの使命」

 

全員が真剣な面持ちでうなずいた。

 

「けれどもそれをシュヴァイン様に悟られてはいけないわ。これは恐れ多いことだけれど、あのお方がなにを欲し、なにを求めているのかを考えてひそやかに行動するのよ。そうしてそれらの積み重ねが、いつかきっとシュヴァイン様の信頼を得ることになる。私たちが御身の命を脅かすものではなく御身の身辺を守護をさせるに足る忠実なシモベであると認めていただけるはずだわ」

 

アルベドがそう言って口を閉じたときには、全員の目に強い意志が宿っていた。無論、アルベド自身の目にも。これはナザリック地下大墳墓の被造物たちによる聖戦とも言えるできごとだ。

「これからも自分たちが至高の御方にお仕えさせていただけるように」そんな存在意義を勝ち取るための神聖な戦いだった。

 

もしこれをシュヴァインもしくはモモンガが聞いていたならば、視線のことも溜め息のこともモモンガが骸骨だからわからないだけだと主張しただろう。

これはシュヴァインが骨ではなく生身だということが悲しいほどの格差を生んだ瞬間だった。

 

「ところでデミウルゴス、シュヴァイン様が自分を使って体調が回復したと告げた、というのはどういうことかしら?」

「……おや? 私はそんなことを言いましたかね? アルベド」

「ええ確かお聞きしましたとも。さあ正直におっしゃってくださいな」

「確かに聞き捨てならない話でありんすなぁ」

 

別の戦争があったことはマーレにとっては余談である。

 

 

×××

 

 

それでもシュヴァインという人物が本当は優しいことを、マーレは、そして他の守護者たちは理解している。疲労を感じて、なおかつ周囲のシモベに気を許せない状態ならば、他の至高の四十一人のように隠れてしまえば話は早い。

それをしないのはひとえに彼の慈悲深さに他ならない。こうしてマーレに背中を拭かせてくれることも、マーレの申し出を無下にしないための気づかいに違いなかった。

 

その慈悲に報いるためにも全力を尽くしてお役に立つのだ。

 

そう意気込んでシュヴァインの背中をタオルで丁寧に拭いていると、不意にシュヴァインの身体が硬直した。

それにつられてマーレの身体も大きく跳ねた。

シュヴァインが冒険者として活動するときのお供として選ばれた際「シュヴァイン様に悟られないようお役に立つように」と守護者全員に口を酸っぱくして言われた言葉を思い出す。

まさか……、まさか……!

 

「…ああモモンガさん、二日振りです」

 

うんともすんとも言わないその背中をどきどきしながら見守っていたが、やがてこぼれたその言葉で、もう一人の主人からの連絡が来たのだと理解した。

ほうっと息を吐きそうになったのを飲み込んで、マーレは邪魔にならないよう広げたタオルを畳み直してシュヴァインの隣で待機する。なんらかの指示があればすぐに動けるように。

 

そうして場面は冒頭に戻る。

 

「いえ、報告が遅かったことについては気にしてませんよ。他のチームと一緒ならば単独で動き回るわけにもいかないでしょう。…おれのところはこれといったものはないですね。ええ、他の冒険者の連中と一緒に夜間の街道警備です」

 

これまでの経過を報告している声が、マーレの耳に心地よく届いてくる。

このお方に、ナザリックに最後まで残ってくださったお二方に変わらぬ忠義を尽くすため、これからマーレは行動していかなくてはならない。

それをするのが自分であることが不安でたまらないが、同時にとても誇らしい。

 

「じゃあその生まれながらの異能(タレント)をどうするかについてはおまかせします。…へえ、この前の村にいるんですか…、ではこれからは本格的に別行動で…」

 

これは至高の御方にすら気づかれてはいけない密命である。

 


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