アリス・マーガトロイドは、人形を操り戦う幻想郷でも特に【器用さ】に秀でた魔法使いである。
その卓越した手腕をもってすれば、自らの体を囮として晒しながら、幾多の人形を操って膂力で勝る妖怪達を撃退するくらいは軽くやってのける。
平時の今ですら、アリスは考え事と並行しながら人形の洋服を縫製する、なんていう器用なことを行っていた。
すいすいと縫いあがっていくそれの出来は見事なものであり、とても片手間に行っているとは思えない。
それもその筈、器用な彼女は訓練のために恒常的に思考を分割しているのだ。そうでなくては十を超える数の人形をまるで人のように動かす、なんていうことは出来ない。
ただ、そんなアリスも人の子。今は人でなくとも元が人間ならば人の子ではあった。
まあ本当にそうなのかは、少し疑わしいところだが。ただ、神の子も人の子ではある。もし魔界の人の子であっても、それは人であり妖怪の視点を持つことはない。
そう、立ち位置が人であったからこそ、彼女は人間を思って悩むことが出来た。それも、近しい人間ならば尚更である。
しかし、今のように二つのことしか出来ないくらいに思考がとられてしまうのは、随分と久しいことではあったのだが。
「あ……痛っ」
そして、自らの指を針先で刺してしまったのは、何時振りのことか。
ついアリスは生地を幾つも駄目にしていた未熟な過去を思い出してしまうが、しかしそれに囚われることもない。
別のことで頭が一杯なのだから、どうしようもなかったのだ。
「大丈夫よ、上海。このくらいは自分で出来るから」
そして、慌てて沢山の包帯と消毒液を持って来て急いで処置しようとする人形の好意を、アリスはやんわりと断わる。
その中から一つだけを彼女は受け取り、戻るように促した。
しかし、いかなる技術によるものかそのガラスのような目に気遣わしげな色を湛えながら、上海人形はアリスの傍を離れない。
半年ほど前にアリスが気まぐれにスペルカードの名前を付けた、秀でた能力を持つ人形が十体ある。
どれも他の人形のように定期的にアリスが命令し直さなければならないために、残念ながら自立人形とは呼べないが、絡繰人形としては実に優秀なものばかりだ。
そして、そんな人形達の中で、最も自由な意識を持ち感情表現が多様なのが、この上海人形だった。
ある程度ルーチン化されているとはいえ、自由な意思を持ちながらも常に主を思いやるその在り様は、アリスの人徳故に成ったのだろうか。
傷口が包帯で覆われて見えなくなっても、上海人形はまだ不安気に見つめている。
そんな上海人形の自分を思いやる姿を見て少し、アリスは頭を冷やす。そして、言わなければならなかったことを、思い出した。
「ありがとう、上海」
言葉を受けて、上海人形は花のように笑う。
その様はとても、人形であるとは思えないものだ。まるで少女のようである。
上海人形から目を背けるように、感謝を忘れていたこともあってか気恥ずかしくてつい、アリスは窓から空を見上げる。
住みやすいように、アリスは魔法の森の中でも家の周りに上手く陽光が入るような場所を選んでいたが、それも曇り空では意味がなかった。
灰色の空に自分の心を投影して気分が悪くなってしまったために、アリスは視線をずらして花壇を覗き込む。
しかし、幸か不幸かそれが記憶を刺激した。
「気持ちの悪い奴だったわね……」
思い出すのは昨日のこと。今も自分を悩ます原因を作った、宴会の最中にやってきた妖怪のことだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――
アリスの記憶が確かならその宴会は一週間振りのものであり、気付けば数が集まったので始めてみたという程度のものだった。
それでも、最終的には十二人もの人妖が揃ってしまうのだから、博麗神社恐るべしといったところである。
まあ流石に、妖怪の巣窟になっているのではないかと人里の人間に恐れられているような場所ではあった。
しかし、性格もそうだがそういった場において裏方にまわることの多いアリスにとっては、数が多いのは好ましいことではない。
実際、アリスは宴会でも精々二、三人と会話するくらいだ。あまり多く居ても、彼女にとってはあまり意味がない。
ただ、その夜のように八雲紫や蓬莱山輝夜らが共に居るのは珍しく、今夜ばかりは彼女達を気にしていたのは確かだった。
何か画策しているのではないかと、彼女等にいいイメージのないアリスは漠然と危惧していたのだ。
もっとも、何だかんだでどんちゃん騒ぎをしたいだけの連中ばかりである。アリスもそのような些事は気にせず純粋に酒と喧騒を楽しむようになっていく。
そして、ほろ酔い加減の宴もたけなわとなってきた時に、その少女は訪れた。
酔い覚ましには過分なくらいの、強烈な妖気を発しながら。
「ねえ、私もその輪に入れてくれないかな?」
それは、血のように赤い髪の毛と黒すぎる目、そして黄と白の混ざりあった色の付いた洋服がよく似合う少女だった。
そして、その日は不在であったレミリア・スカーレットよりも幼く、酒の飛び交う宴会に相応しいとはとても思えない、小さいながらに力を持った妖怪でもあった。
アリスの目が惹きつけられたのは、その幼いながらに整った、人形のような容姿。
それはアリスの隣にいた輝夜が思わず目を丸くしたくらいのものだ。並大抵のものではない。
稚気からだろうか、そんな彼女は整った顔を歪ませる。そして、どこか怯えた様子であった魔理沙に向けて、笑顔を作った。
そう、少女は魔理沙を見て嗤ったのだ。
「っ、何者だ、お前!」
「私は、生まれたての子供。酒の匂いにつられて来た、羽虫でもあるわね。だから私なんて気にしないで楽しんで、魔法使いの人間」
人形のような美しい少女の顔が歪む様は、笑顔であっても醜悪だった。
それこそ、心の弱い者が見てしまったなら、自分の目を潰してしまうのではないかと思うくらいには。
それだけでなく、彼女はそれまで背景が歪むくらいに小さな体に不釣合いな妖気を発していたのだ。
どこか気持ちの分かるアリスは、人の身である魔理沙が恐れて言葉を返してしまったのも無理はないと思う。気にしないで、なんてなんの冗談だとも思っていた。
宴会にいた人妖の殆どが思わず構えていたというのに、動じもしない霊夢がおかしいだけだ。視線が集まるのは当たり前のこと。
そして、これが来るからこそ【居なくて】、【居る】のかとアリスは端で口元を扇で隠している、紫の方を見る。
紫は少女を見つめていた。それも一挙一動を逃さないようにじっくりと。つられて、アリスも輪に入ってきた少女を目に入れる。
鬼に声をかけられても怯まずにに、力ある人妖たちに睨まれながらも嗤っていられるのはその幼さゆえか。自分では表情を固くするのが精々だと、アリスは思う。
その後も暴言を繰り返して、最後は礼儀よくお辞儀をしながら、少女はどこまでも不敵だった。
「うん。ごめんね皆、場を盛り下げて。私はとても楽しかった。じゃあ、お休みなさい。さようなら」
去り際の暴言に応じて魔理沙が放ったレーザーは、振られた手によって弾かれた。そのままばいばい、である。
動揺しながら放った魔法は出来が悪く、その程度は力ある妖怪ならば防げるものだった。しかし、避けずにわざわざ受けたのは、性質が悪いとしかいいようのないものだ。
呆然とする魔理沙。何時もの飄々とした様子はどこへやら、そこに残っているのは年相応の少女だけだった。
それがどうしてだか、アリスには気に入らない。だからつい、アリスは魔理沙の肩を叩いていた。
「……アリスか。何の用だ?」
「ほら、呑みなさい。顔が白いわよ。そんな半端にしか酔っていないから、半端なことになるのよ」
酔えば皆、大抵気が大きくなるものだが、そのせいで心の枷が外れてしまうというのもままあることだ。
そういう意味では笑い上戸に泣き上戸も、結局のところあまり変わらない。性質の悪さも変わりないのだが。
魔理沙もそんな心の隙をつかれただけだだろう。張っていた気が緩んだ隙に、入り込まれたのだ。怯えて自衛のために攻撃してしまうも、仕様のないことである。
まあ、幾ら恐怖を感じていても、ぐでんぐでんになるまで酔ってしまえば、その後は何も気にならなくなって潰れるだけのこと。
何であろうと酒で発散してしまえばいい。酔いがまだまだ足りていない。何事も、半端はよくないのだ。
「気になってしまうのならば、呑みなさい。そうすれば、そのうちに気にならなくなるから」
「そっか……そりゃそうだよな。よし皆、呑み直そうぜ!」
気を取り直した魔理沙の号令に、一斉に杯を持ち上げた人妖たち。
妖怪達にとって、まだまだ時刻は宵の口。宴会はその後も、朝まで続いていく。
その後アリスは過分な喧騒を避けていたため、宴会で散々に絡まれていた魔理沙と話すことはなかった。
また、どうしてだか冷静に観察する余裕も無かったために、自分の言葉で魔理沙が立ち直れたのかどうか確認できていない。
ただ、吐いた言葉のせいで、珍しく早々に酒に呑まれて眠ってしまった魔理沙の介抱を任されるようになってしまったのは、これまた珍しい彼女の失策だった。
――――――――――――――――――――――――――――――――
そして、寝て起きてから、家事を行い、ご飯を食べて。新しい人形に着せる服をいざ作ろうとする段に至ってから、アリスは悩みだした。
取り出した布は白と黒。型紙におこしたそれも、どこか典型的な魔女の服装に似ていたのだ。
「どう見てもこれ、魔理沙よね……」
意図せずに、似てしまうのはいいだろう。しかし、殊更【少女】を意識して作ったそれが、魔理沙に似てしまったのは問題である。
お転婆な商売敵が、無垢な少女のイメージに変わってしまっているのをアリスは認識して、よく分からない喪失感に胸を押さえる。
そして、その喪失感が何よりも、不可解なことだった。
「私は魔理沙に、何を期待していたのかしらね?」
独りごちていても、器用なアリスの手は動いていた。しかし、次第にそれも始めと比べればどこかぎこちないものになっていく。
分からないのは不愉快である。不可能を可能にするために魔法使いをやっているアリスは、殊更その気が強かった。
おまけに、分からないのは自分の心なのだ。次第に、悩みは強くなり、それに囚われるようになる。
もっとも、正確には分からないのではなく、自らその答えを隠しているというだけなのだ。上手に隠せてしまうのがまた、器用ではあった。
そのことに気付いていながら認めないアリスは、どこかで折り合いをつけない限り、悩み尽きることはない。
そう、元気な友人が気を落とした様を見て、アリスはそんな顔をさせてはいけないと思ってしまったのだ。
心が不安定な間くらいは守ってあげたい。でも、理由がなければ傍に居れない素直になれない、そんな自分が悔しくて、アリスは無意識に魔理沙を求めていた。
それが、少女という題材の中に落ち込んで、人形に与えるはずだった役割の方向さえも変えていたのだった。
戦う少女ではなく、守られる少女へとその人形に対するアリスの印象も変わっていた。気付かないのは、気付こうとしないアリスばかりだった。
そして、悩みを持ってそのまま縫い進めていった結果が、指先の包帯である。
過程は散々なものだったが、アリスも悩む間に答えを一つ見つけられていた。
アリスが目を背けていたもの。そう、それは上海人形の笑顔の中にあった。
「何時ものように笑いかけて欲しい、か。変わらずにいて欲しい、なんて勝手よね」
そう口にして、アリスはついと視線を上げる。
それは咲いたままに変化のない花壇に飽きてのことだったが、期待していなかった割に曇り空はよく変化して蠢いていた。
何の形も見つけられないその混沌とした様は気持ちのいいものではなかったが、別に楽しめないということもない。
形にならないもやもやは、生まれようと苦心する何かにも見えて、何時しかアリスの心はそこに寄っていた。
だからだろうか、ノックの音に気付けなかったのは。上海人形が袖を引っ張るまで、彼女は心ここにあらずといった様子だった。
「……誰かしら」
誰に向けて言うこともなく、アリスは問いを口の中で転がした。魔法の森にまでアリスを訪ねてくる者はそうはいない。
迷い人でないとしたら客人は、何時か迷い込んできた妖精か、それとも魔理沙か。後者の可能性の方が高いのは、アリスもよく分かっていた。
胸が一拍強く鳴る。心は迷うが、足は止まらない。
そして、アリスは扉を開いた。
「こんにちは、人形のお姉さん。突然だけど貴女のお友達、お一つ下さらない?」
「はぁ……突然何なのよ、あんた」
しかし、そこに居たのは、昨日の宴会に訪れた少女だった。
溜息が出てしまうのも仕方がないことだった。アリスも、これだけ空気を読まない相手を見るのは初めてだ。
あるいはこいつはそういう能力を持った妖怪なのではないかと疑ってしまう。まるで、空気を悪くする程度の能力ではないか。
それに、あろうことかこのタイミングで友達を下さいと強請るとは。これでは何らかの作為を疑ってしまうのも無理はない。
アリスもその様子から人形を欲しがっているというのは分かるが、知らず人形を魔理沙と重ねている今では、少女が魔理沙を付け狙っているのではとも疑えた。
その、向けられた内面から滲み出たような醜い笑顔の拙さもあって、アリスも沸き起こる怒りを堪え切れない。
そして、別に堪える理由もないのだ。
「付いて来なさい」
「はーい」
アリスは庭の端まで少女を連れる。そして、住み家を背にするように位置取ってから、白魚のような手を持ち上げた。
器用な魔法使いであるアリスは、即座に幾百もの糸を当時に操る。魔法の糸によって集めに集めた人形は、次第に十を越えて百に近い数となった。
作りかけの人形は家の中で、それ以外の戦闘に耐えうる人形は外に集まる。
空中に沢山広がった人形は、主人たるアリスよりもその後ろにある何かを守っているかのようにも見えた。そしてそれは、錯覚ではない。
アリスは、鬼気迫るような人形達の重圧をよそに、むしろ目を輝かせている不敵な少女を敵と定めて、指令を出す。
口を開いて、溜息を一つ。返答は弾幕で。まずは上海人形が口火を切り、そして残る人形達全てが弾幕を放った。
それは圧倒的な、多勢に無勢。しかし、名前も知らない妖怪に向ける情けはなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――