「風が気持ちいいー」
飛ぶことは、周囲に風を孕むことと同じ。とびきりの涼を感じながら、私は周囲に手を伸ばす。抵抗は様々に、少女の身を撫でていく。
風は流れて具体を持たずに消えていくもの。しかし、その軌跡は様々に呼称される。風食は優しく綺麗な崩壊とも言えた。影響与えて世界を美しく。そんなものに、私もなりたかった。
「まあ、なれなくて、それでもいいんだ」
可能性は時間と共に消えていく。子供は大人に、そしてやがて死を迎える。その順こそが、正しいもの。そして、望ましいものでもあるのだ。
そのために、私は今を生きなければならない。間違いで起こってしまった水仙庵を懐いて己を大事とする。それこそが当たり前。
「でも、辛いなあ」
しかし嗤えないのは、意外と辛いものだった。嫌味を過去にしてしまった私に、自虐は今更なこと。故に、馬鹿をして紛らわせずとも、心が凪ぐまではと独りを選んだのだった。
ゆっくりは、霊夢さんに魔理沙さんと遊んでいる。早苗も後で来ると聞いていた。それに、どうせ遠くへは行かないのだ。だから、被保護者を放ってこうして散歩をしても悪くはない。
最悪、私が爆発した時に近くにいては、ことだろうし。
「死期、そろそろなのかな……」
力なく手を握りしめ、そうして、私はすっかり身近になってきた暗闇を思う。五体を十分に操れずに、そして時を追う毎に大切なものを零し続けてしまっている現在。
生き、弾幕ごっこを親しむ人間等に憧憬を感じてしまえば、心と共に身体に不調が起きてしまうのも仕方のないこと。末は崩壊、だいばくはつだ。
自爆に大切を巻き込むようなことをしたくなくて、私は上手くできるようになった笑顔を向けて、そうして神社から立ち去った。ゆっくり以外の不信な視線を振り払い。
「猫は死に場を選ぶというけれど、私はどうしようかな?」
不出来が補填されなければ、崩れるのは当たり前。そして、私はそれに逆らうつもりはない。醜く悪い、私の生。でもせめて、終わりくらいは綺麗で居たかった。
何時かの死が判るくらいに決まって来る前に、出来れば素晴らしい死に場所を見つけてみたらいいのかもしれないと思う。
「それが、近かったら、草葉の陰でゆっくりを見守れるのにね」
嘘の笑顔で放ったそんな自分の言葉は、あまりに白々しい。私は自分が死後も認められるような存在でないことを、当然のように知っている。故に、私の死は幽霊にもなれず輪廻にも乗れない消滅だ。
物語の中で決して、何にも続くことはない。そんな私がゆっくりというひと粒をこの世に残せたのはあまりに幸せなことだったに違いなかった。
「愛しているよ」
だから私は捻くれているために一度も言えない文句を、警戒目線以外に何もない、お空の端で転がす。
――――――――――――――――――――――――――――――――
「なんだか、惹かれる匂いがするなあ……」
飛んで、降りて、杜の中。臭いとも取れる青の香りに包まれながら、私は違う臭みを追う。私に寄り来る無邪気な妖精を弱めの弾幕で一回休みさせつつ、その元を探っていく。
おどろおどろしいほどに暗さを抱いた、目に優しい深緑の一面が視界の端を何度も通り過ぎて行った後、それが転がる広場に出た。
「ああ、なるほど。気になるわけだね」
反対から続く血の跡が、それが引きずられてきた道程を示す。角も尾もあるそれは、人でなし。しかしまともな生き物ではあった。今や、過去形でしかないが。
そう、私がふらふら追いかけていたのは、鹿の死骸の香りだった。私は果たしてそれを食べたかったのか、弔いたかったのか、それはもう分からない。
そして、それは暗中に次第に消えていく。どうにも昏過ぎる、それは明らかな怪異である。すなわち、妖怪の仕業だった。
「くぁ。お食事中だったんだ」
くちゃりくちゃり。偶の一人に冒険をしてみれば、そこには美味しそうに肉を食む妖怪が一人。小さくそして、秘められた黒。昼の空に暗くあるその闇に、私は近寄り思わず手を入れてみる。
「ん」
「わ、食べられちゃった」
暗黒から僅かに見えていた揺れる金色に触れるその前に、振り向いた子供の顔は牙をむいて、私をかじった。失くなる指に、滴る血。
私の先端の一部をしばらくもぐもぐしてから、彼女は満面の笑みを見せる。愛らしい、子供の微笑み。口元の血の赤が、まるでケチャップソースのようである。
「貴女、美味しいね! 人間?」
「ううん。私は妖怪だよ」
「本当?」
彼女は怪訝そうに私を見つめた。それはそうだろう、私は憧れ過ぎて、身体の味まで人に似せているのだ。酷似しながらも僅かな違和感を覚えさせる肉の味を噛み締めながら、宵闇の妖怪、ルーミアは再び笑った。
「んー。何だかカミサマっぽい味もする。私はルーミア。貴女、凄いね!」
「食べ物として褒められるのは初めてね。私は一応、水仙庵と言うわ」
「え、水仙って、あの、毒がある? 通りで少し気持ち悪くなる味なんだね」
「よく分かるねえ……」
私は思わず感嘆する。きっとルーミアは毒も神も一度は容れたことのある妖怪。どうにも中々の食通である。私の毒の一端、リコリンの催吐作用にも気付いている辺り、ただの大食いではないのは明らかだった。
更に、それでも気分を悪くして、げーをすることもないのは、ルーミアの大器を感じさせる。彼女の頭にちょこんとあるくすんだ赤が、風に揺れた。
「体調、悪くなったりしていない?」
「大丈夫。毒薬変じて甘露となるって言うでしょ?」
「ん? それって貴女の知識?」
「水仙庵の記録だよー」
「くぁ!」
さらりと、そう言うルーミアに、私は驚く。対して、小指ほどとはいえ私の一部記録を得た少女は、少し寂しげに笑った。
食むということ。それは、確かに他を噛み砕いて自分のものにする行為だろう。食べ物から多くを得て、変じるのは当たり前。とはいえ、その人間程度とは段違いの吸収効率にはびっくりである。
人食い妖怪が人に交わらずに、どう人を知ったのか。その一端が、私の前にて披露されていた。
「なったばかりでよく判らなかったけれど、妖怪って凄いんだね」
「私はちょっと、特別だよ」
「そうなの?」
「うん。水仙庵は私が闇を操ることが出来るっていうのは知っていたみたいだけれど、無知も闇の一部。光が闇を濃くするものなら、知恵の果実だって沢山不安の闇を広げてくれるものだよね。だから、私は特に多くを手に容れられる身体を持っているの。闇と、隣り合わせになってそれを強調するために」
「なるほど。確かにいくら見上げても、宇宙は闇だらけだものね。見知ることは或いは不明を増やすことに似ているのかも。だから、貴女は知るに易い子供の形態なんだ」
「ふふ。そーなのかー」
おどけ、少女は笑う。私の身体は微かとはいえ、全知の一部。それを受け容れ知りすぎたルーミアは輝き、反するように暗がりを増させる。
学びが世界を明るくさせる行為であるならば、自分に届く以外の全てが深遠だと気付いた時に、どれだけ愕然とするものだろう。そして、如何程まで恐怖するのだろうか。
法則すら届かない先には、果たして何もないのか。不感こそシナプスの空隙だとしたら、何時まで不通なのだろう。大いなるものに、理知がある理由は。それに観測される可能性をもし感じてしまったとしたら。予知すら出来ない五感の断崖の先にこそ、未開の昏さがあった。
まあ、そんな不明の闇すら司れるルーミアが、封印を施されて何も出来ないように集中乱され稚気を溢れさせているのは当然なのかもしれない。
「ねえ、余計なお節介をしてもいい?」
「くぁ。いいよ。なあに?」
「ダイエットは身体に良くないよー」
「……知ってる」
そして、私までも少しだけ知ってしまったルーミアは言い、哀れみの視線を向けた。鬆だらけの私を知って、思いやりながら。
一期一会を、餌の恩を大事にしようとしている少女の優しさ。それが、私には辛い。
「なら、止めないと。理由がトラウマか意地かまでは判らなかったけれど、それでもそのまま何も食べないでいると――死んじゃうよ?」
「でも……」
「でも、も何もないよー。私は水仙庵に亡くなって欲しくないな。美味しいし」
「……最後の一言は余計だね」
確かにルーミアの言う通り、私の断食はきっと死に直結しているのだろう。
私は生まれてから今まで呑んでも、一口たりとて物を口にしていない。人に焦がれて寄せた身体。そのままだと衰弱していくのは当然なのに。
別段、死にたい訳ではない。ただ、私には何も食べたくない理由があった。
真摯に黙って私の言葉の続きを待つルーミアに、それを答える。
「私は余計なものを容れて、これ以上彼を忘れたくないの」
それは私の本音。自分勝手で汚れたその音色に、ルーミアは眉をひそめた。
――――――――――――――――――――――――――――――――
私だって判っている。一目惚れして、相手を食べるのは間違っていた。相手の全てを奪いたいという思いは恋と違うというのに。
でも、私は怖かったのだ。今まで何人たりとて見上げることすら出来なかった生まれる前のカミサマな私を、そういう能力があるとはいえ見つけた男の子が。
だから、それにときめきと畏れを覚えて、それをなかったことにしたくて耐えきれずに飛びかかった。
そうして、私は最初にして最大に想った相手を失ってしまったのだ。失意と共に、水仙庵は生まれたのだった。
そんな事実が嫌で認められない子供な私は、舌に味が残っている間はと、反芻を続けていたのである。
だが、そんな馬鹿を、ルーミアは嫌った。
「それじゃあ、彼が報われないよ?」
それはあまりに正しく、鋭い指摘。思わず、私の頭は垂れようとする。
でも、いやいやをして、私は睨むようにルーミアを見つめた。
「でも、でも。私は、好きだったの! 知らない彼が、千年も孤独だった私を見つけてくれた、そのことだけで私は全てを預けられて、全部あげるべきだったのに……私は奪って、それっきり!」
思わず地団駄を踏む。そうして、一歩ルーミアに近寄って私は血溜まりに足を入れた。粘土質の土の上の粘度の高い液が、ぬちゃりと音を立てる。
そして、私は自分を嫌う。ただの死骸の香りがどうしてこうも、芳しく思えるのか。それは、腹が空きすぎているからだ。空腹は限界。音すらならずに引っ付いて乾いている。だが、彼のための美しさを願った顔だけは痩けずに保たれたままだ。
愛されたかった私は、許されない所業をして、嫌われ者になった。それはあまりに滑稽で笑んでいたけれど、もう飽きたし、自虐があまりに下らないことであるなんて、判っている。
もう、カミサマに戻れずに、それでいいのだ。神奈子の思惑どおりにただ我が子――ゆっくり――を愛するものになって、それで良いのかもしれない。
でも、自信もなく、何にもなったことのない私は、ここまで来ても自棄になるのを止められなかった。
「こんな私は嫌いなの! もう嘲笑って、誤魔化せない。死にたくないけれど、でも消えてなくなりたいよお!」
私の本心は、悲鳴となって顕れる。
この世は素晴らしい。好きなものも沢山出来た。ゆっくりと、この場に居たいと思わないでもない。
だが、生きて、何になる。彼は、もう居ないのに。私は生まれることが、間違っていた。
「せめて望まれて生まれたかった……くぁ!」
「バカ」
そう思い、どうしようもなくゆっくり出来ない私の頬は、そんな言葉と共にぱちんと張られる。
「全く。妖怪が生まれるのなんて、間違っているものよ。それに、間違いながら生きて、何が悪いの? ……ふふ」
叩くために寄ったルーミアは、私の目の中の感情の混乱、昏い混沌を見つめてその闇を笑う。なにかにヒビが入るような音がして、彼女の頭を飾る赤が僅かに欠けた。
私は頬を押さえながら、威圧感を増していく、少女の姿をぼうと見つめる。
黄昏の前にやってきた宵闇は、封印から瞳を覗かせ、そうして言う。
「罪悪滔天、それでも有るの。無為にも私は奪う。だって私は食べる側だもの――貴女も、一緒でしょう?」
「私、は……」
「悲劇の少女のつもりの貴女の不幸なんて、知ったことではないけれど。でも、こんなのはつまらない。面白くないよ。食わず嫌いは頂けないし」
世界動かす光を食むものの隣にある、そんな妖怪は私から得た力で思考に自由を得て、私に語る。暗に、バケモノが人のフリして死んでしまうなんて、笑う価値もないお話だと。
まるでカミサマがするように、彼女は手を広げた。
「ねえ、この世は美味しいよ?」
そう、きっとルーミア――食べるもの――は、全てを愛している。
そして私――食べないもの――は、全てが愛おしいと知ることを恐れて、手の平を向けた。そこに、過度な力を籠めて。だが多分、私は震えていた。知りすぎて鎖された先から睥睨してくる、赤い目に対する畏れに囚われて。
「弾幕ごっこ? ふふ。仕方ないなあ」
ルーミアは私の駄々を空けた両手の中に受け容れ、そうして辺りは闇に包まれた。
――――――――――――――――――――――――――――――――
宵闇の妖怪。