「あ、雨降ってきちゃったね」
「ゆ!」
饅頭をよく味わった後に、お茶を飲み干してから私は顔を上げていた。
すると、私は締め切らずに空いていた隙間から、庭に注いでいる細かい雨粒を認めることが出来る。
ゆっくりとし過ぎていたせいか、私の気がつかない間に霧雨が降りていたのだ。
一瞬腰を上げかけたけれど、この程度で雨戸を閉めることはまるでないと思い直して、私はまた腰を落ち着ける。
しかし、これでゆっくり霊夢一匹で博麗神社に帰すわけにはいかなくなっていた。
どこまでこの子がウィルス耐性を持っているかは分からないけれど、体を雨に濡らして風邪をひきでもしたらことだから。
「霊夢さんには後で連絡しておくから、今日は私のお家でゆっくりしていきなさい」
「ゆっくりしていってね!」
「あはは、貴女がね」
何が楽しいのか笑顔のまま、ゆっくり霊夢は一度ぷるりと跳ねて、ペタンと落ちた。
視線が向かっている先を見るに、それは雨粒を真似ていたのか、または首肯の代わりであったりしたのだろうか。
体全体で感情や意思を表すのは大変だ。そもそも、この子自身が素直にゆっくり出来ない性質なのかもしれない。
ふと瞳の向いた庭先は既に大分朧であり、細かく滴った水は、尾を引いて地に落ちていく。
数えるのが少し面倒くさくなるくらいに降り注ぐ雨は、濡らした木や地面を暗くさせる。
遥か遠くを望めばしんしんと、白く木々を隠していた。
「ゆっ、ゆ!」
「ああ、縁側なんかに出ていたから、また随分と湿気っちゃったね。ほら、拭いてあげるからこっちに来なさい」
「ゆー、ゆっ!」
「あっ」
ゆっくりと意識を外に向けていたので、私はゆっくり霊夢が縁側で顔を上げて雨を食んでいたことに気付いていなかった。
呼べば彼女は跳ねて来る。そして、湿気が嫌になったのか犬のように体を震わした。
そんな濡れ饅頭が飛ばしたしぶきは座敷に散って、その場を水浸しにしていく。
居間の一部は中々酷い様になった。
「うわー……二次災害発生、か。まったく、次にやったら怒るからね」
「ゆっくりぬぐっていってね!」
「こら、調子に乗らないの」
「ゆ゛~」
私はまずそんな非道を行ったゆっくり霊夢を手ぬぐいで痛いぐらいに拭いてやり、そうしてから特に濡れてしまった座布団を片付けておく。
すると、来客用のものが足りなくなってしまうので、奥にとりに行く手間が増えてしまった。
少し涙目になっているゆっくりを放置して、私は障子を開けて積み重なった中から一つ、座布団を持って居間へと戻る。
「ふぅ……ちょっと邪魔するぜ。おっ! なんだゆっくり、お前も居たのか」
「ゆっくりしていってね!」
そうしている間にお邪魔して来たのは、霧雨の魔法使い。変なものが好きな彼女は雨に濡れた帽子を外すことすら忘れ、出迎えたゆっくり霊夢の頭を撫でていた。
ぽたりぽたりと、魔理沙の魔女帽子からゆっくり霊夢に雫が滴り、幾つか跳ねる。しかし、濡れ饅頭はそれすらもぷるりと楽しんでいる様子だった。
「あ、魔理沙。珍しい時に来たね。何しに来たの?」
「空を見れば分かるだろ。雨宿りだよ、雨宿り。邪魔だったか?」
「うん。でもまあ、別に構わないよ。代わりといっては何だけれど、埃を払うために後でその竹箒を貸りるつもりだから」
「はっ、現金な奴だ。生憎だが、私の愛馬は凶暴だぜ? お前に御せるもんかな」
「ゆっ、ゆっ」
「はいはい。お前のかーさんを虐めてるわけじゃないから、お前さんは下がってな……ってタオルくれるのか。気が利くな」
「あらナイスね、ゆっくり霊夢。それじゃ交換で、箒を借りるとするかな」
本当は奥に座敷箒くらい置いてあるけど、たまにはこんな酔狂も悪くない。畳の悲鳴も、嫌いじゃないから。
私は半ば生きている箒に、手を差し出して一言。
「お手」
「おいおい……しっぽを振るのが早すぎるだろ、相棒」
すると、自然と柄が差し出される。全くしつけの行き届いた、いい箒だ。手がないから拍手してくれないのが残念。
表で自ら水気をきっていたようで、握ってみるとそこそこ乾いた感触がある。これならば、この子をなるだけ早く本来の仕事に就かせられるだろう。
私の口は、ニンマリと弧を描いた。
「ったく見せつけやがって……お、あいつは私の本じゃないか。早く返してくれないと、私の一生が終わっちまうぜ?」
「ああ、そういえば丁度返本も出来るね。楽ちんだ」
いつの頃からか、私は魔法に傾倒するようになっていた。そういった、小手先の技術はとても楽しい。
実はお茶を飲んでいる間、私ははしたなくも鍵も何もない人にやさしい魔導書を、昨日に引き続いてカバーから順にじっくりと眺め読んでいたのだ。そして、とっくに再読済みである。
「その魔導書、とっても参考になったよ。でも、やっぱり一番上には来なかったかな」
「やれやれ、まだその順番は崩れてなかったのか。お前さんがそんなに私の弾幕ノートを気に入るなんて、思わなかったぜ」
「実際、一番参考になるからね。後で本にして纏めたら、ブームに乗っかってそこそこ売れそうじゃない?」
「お金で買えない価値がある。ってことであれもこれも非売品だ」
「残念残念」
「ゆぅ」
そう言って、黒い帽子の中にしまわれていく魔導書を、私とゆっくりは揃ってうらめしやーと見送る。
しかし、何故だか魔理沙はゆっくり霊夢の方ばかりを慰めるようにゆっくりと撫で始めた。ニヤニヤと、頬をだらしなく落として。
「あのさぁ……その、もう一匹とか、無理なのか?」
「命は一つだけ。あの子の体も一つしかないから無理だよ」
「やっぱ無理かー!」
「がっかりしていってね!」
「こら」
「ゆぅっ……」
膝の上で、追い討ちをかけるゆっくり霊夢の頭を叩く。
すると、魔理沙と一緒になってしょんぼりと萎んでしまった。
しかし普通ならば、この様とこの性格では、ゆっくりを一目で気に入る人は居ない。
まあ、この奇行にさえ慣れてしまえば、これほど家事において役に立つ生き物も中々いないのだから、それなりに需要はあるみたいだけれど。
魔理沙も前にツチノコをペットとして飼っていたくらいなのだから、ゆっくり霊夢を欲しくなってしまうのも仕方がないのかもしれない。
それでも、譲るわけにも代理を立てるわけにもいかなかった。だから、魔理沙には諦めてもらうほかにはないのだ。
「はっ、お前さんも随分と変わったよな。いや、元々変わっていたのは確かだったがな」
「そう?」
「ああ。前はよく分からない奴だったが、大分丸くなって分かりやすくなったぜ。あれだな。これなら初心者にも易しい、ってもんだ」
そうなのだろうか。いや、よく考えずとも違いないか。
私は少しだけ元よりも大きくなった手のひらを睨んでから、ゆっくり霊夢を頭に乗せて楽しそうにしている魔理沙を眺めた。
そう、こんなに愉快な彼女達の中で、悲劇のヒロインを気取って荒れていたことは、忘れたくある大切な記憶の一つ。
変わらない思いなんてないけれど、やってきた道程だけは確かだ。振り返れば発火してしまうくらいに恥ずかしい過去ばかりであっても仕方ない。
でも、思い出に囚われて、今になって顔面温度が100度を越してしまうのもおかしいことだ。
赤い顔を隠すために、私はついつい話をそらす。
「えと……そういえば、その包みは何?」
「ああ、これは……まあ、雨宿りのついでに持ってきたヤツだな」
そんなおかしな日本語と一緒に、魔理沙は魔導書と入れ替わりに出てきた風呂敷包みを開く。
すると、色取り取りの中身が披露されて、彼女の頭の饅頭が大いに喜んだ。
「ゆゆっ!」
「ほら、よっと。わざわざ毒の強いものばかりを選んできてやったんだ。ありがたいと思うんだな」
「もう、それは貴女が要らないというだけでしょうに。まあ、ありがたく頂いておくけれどさあ」
私には大体変わらないように見えるけれど、この様々に見た目の変わったキノコ達は大概が猛毒なのだろう。私には毒だろうと美味しくいただけるから構わないのだろうけれど。
好奇心のままに採ってしまったけれども、魔法にも使えない、そんなキノコを魔理沙はこうして時々持ってくる。きっと、廃品利用のつもりなのだ。
そも、魔法の実験とやらで使った廃棄品を私が間違って口に入れてしまったことから、私と魔理沙の本格的な交流が始まったといっていい。
古道具屋の店主曰く、彼女は捨てられない質らしいのだが、お陰様で私は何機アップしてしまっているのだろうか。最近どうにも力が充実してきている気がしてならない。
もちろん、そんな危険なものをただの生首に食べさせるわけにはいけないのだけれども……
「むーしゃ♪ むーしゃ♪」
「あ……こら! ぺっ、しなさいぺっ!」
「おい! 出せっ、早く戻さないと死んじまうぞ!」
しかし、二人話している間隙を意図もせず縫って、ゆっくり霊夢が私の代わりにまた毒々しい色のキノコを美味しく頂いていた。
外の世界では必ずしもカラフルな警告色がそのまま危険性を示すものではないそうだけれど、この赤紫色のキノコは確か相当に強い毒性があったはずだ。
刺激的な味がして美味しいけれど、頭ひとつの身にはきっと重すぎるはず。私と魔理沙は急いでその身体を揺すり手を突っ込んで食道を刺激した。
「ゆっ、ゆぅ……ゲェー」
「吐いたか……はぁ、びっくりさせやがるぜ」
全く幸運なことに、ゆっくり霊夢は直ぐに食べた物を吐き出すことが出来た。
その大きな口から出てきたのは僅かばかりのキノコの欠片と、沢山の餡子。慌てていたために何も敷かれていない畳の上に、汚物は広がっていく。
これで、掃除の手間は随分と増してしまった。
「くぁ……そういえば私この子に、待てを覚えさせるの忘れてたなあ。もっとちゃんとしつけておけば良かった」
「そういう問題かよ……ああ、食べたもんが勿体無いな」
しかし幾ら手間が増えても、この間抜けな饅頭を見捨てる気には到底ならない。
やっぱり、手がかかる子のほうが可愛く思えてしまうものなのだろう。これが親心、だとしたらとても嬉しい。
「ゆっ、ゆー……ゆ゛ぅー」
「ぷっ。餡まみれで擦り寄ってくるなよ。全く……ま、かわいいもんだがな」
痘痕も笑窪。泣こうが笑おうが、好きなものは可愛いのだろう。
しかし、大いに顔パーツを崩して騒ぐゆっくりを可愛がれるような存在は、私と魔理沙以外にいるだろうか。
私と同じというのは、きっと良くないことだ。魔理沙は少し、趣味がよろしくないのかもしれない。
尤もそのおかげで、私は随分と助かっているのだけれど。
「よしよし。痛かった?」
「ゆぅー……」
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