モテ期と修羅場は同時にやって来るものである   作:藤龍

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クラウド・シークレット③

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の両親は昔から、仕事を第一に考える人達だった。

 父は一流企業のサラリーマン。母は業界内では有名なファッションデザイナー。両親は多忙な毎日を過ごし、一年間ほぼ休み無しで働きっぱなしだった。

 そんな両親はほとんど家に帰ってくる事は無く、幼い頃の私は家で一人で遊ぶ事が多かった。

 両親は決して私の事を省みないなど、酷い人達では無かった。ちゃんと休みが取れた日は私と楽しく遊んでくれたし、とても優しく、どちらかと言えば私を溺愛してくれていた。

 けど、そんな日は一月に一度あるか無いか。五つ上の姉も遊んでくれる事はあるが、姉の小学校の友達と一緒に遊ぶ事が多かったから、年の離れた私は輪に溶け込む事が出来なかった。

 

 何が言いたいかというと――私は寂しかった。不幸な訳では無い。むしろ幸福だろう。家族は優しくて、私を愛してくれてるのだから。けど、その幸福を僅かな時しか感じられないのが寂しかった。

 常に私の側に居てくれる遊び相手という存在が居なかったのが、幼い私にとっては辛い事だった。

 

 

 そんな寂しさを感じ始めた頃――幼稚園を卒園して、友人と会えなくて退屈だった三月の休日のとある日、珍しく休みを取れた母親と二人で遊んでいる時に、ふと家のチャイムが鳴った。当然母は私との遊びを中断して、来客を出迎えに行った。私は母と離れたく無い一心で、 母について行った。そして、私はあの人と出会った。

 母が開いた扉の前には、高校生ぐらいの青年が居た。黒髪でこれといった特徴の無い男性。彼はこの春から近所のアパートで一人暮らしをする事になったらしく、その挨拶に来たらしい。当時の私は、その事を半分ぐらいしか理解していなかったが。

 そんな彼と母が話しているのを、私は母の足にピッタリとくっ付きながら聞いていた。すると、男性がこちらに気付いたようで、ニッコリと笑いながらしゃがんで、私に話し掛けてきた。

 

「君……お名前は?」

「えっ……? ……い、出雲……」

「へぇ……可愛い名前だね。お兄さん、これから近所に住む事になるんだ。よろしくね」

「う、うん……」

「あなた、子供の相手に慣れてるのね?」

「いえ、同い年ぐらいの従姉妹が居るんで……それに学校の先生目指してたりするんで、こういうのに慣れておかないと……」

「そうなの。……もしよかったら、時々出雲の相手をしてあげられないかしら? 私達仕事が忙しくて、なかなか構ってあげられなくてね」

「僕でよければ、いくらでもお相手しますよ。君もいいかな?」

「う、うん……」

「そっか。じゃあ、これからよろしくね、出雲ちゃん」

 

 笑顔で向けられた手を、私は少し怯えながら――同時に、少し嬉しく思いながら取った。

 これが私と彼、氷室裕貴さんとの出会いだ。

 

 

 

 それから裕貴さんは、暇がある日は私の遊び相手になってくれた。その頻度は両親よりずっと多く、週に四、五回はあった。おままごとにお絵描き、お人形遊び――高校生男子にとってはなんの面白みも無い遊びに、彼は何一つ不満を言わずに、楽しそうに付き合ってくれていた。雨の日も、風の日も、私の家に来て、わがままに笑顔で付き合ってくれた。

 私はそれが、とても嬉しかった。ほぼ毎日私と一緒に楽しんでくれる、遊び相手が出来たから。いつからか、私は自分から裕貴さんの家に遊びに行くようにもなっていた。そして彼は、それも笑顔で受け入れてくれた。

 

 

「裕貴さーん!」

「お、こんにちは出雲ちゃん。今日も遊びに来たのかい?」

「今日はちがうよ! 今日はべんきょー教わりに来たの!」

「勉強を? 偉いじゃないか」

「教えてくれる?」

「もちろん。教師を目指してるんだから、こちらからお願いしたいぐらいだよ。じゃあ、早速始めようか。お兄ちゃんは厳しいぞー?」

「うん!」

 

 

 

 

 

 

「裕貴さん! 私テストで満点とったよ!」

「本当かい!? 凄いじゃないか出雲ちゃん!」

「えへへ……裕貴さんが教えてくれたとこが出たんだよ! だから私しっかり答えられた!」

「そっかそっか。ちゃんと覚えてたんだな。勉強の時に居眠りしてたから、ちょっと心配だったけどね」

「私、やればできる子だもん!」

「ハハッ、確かにそうだね。この調子で別の勉強もするかい?」

「うっ……今日はつかれたから遊ぶ!」

「ハハハッ……勉強嫌いは変わらないか……」

 

 

 毎日が楽しくて、私は本当にいつも笑っていた。

 そんな裕貴さんや姉との楽しい毎日が続き、約一年。寂しさなんてすっかり忘れた頃に――私の環境に再び変化が訪れた。裕貴さんに続き、また我が家の近所に引っ越してきた人物が現れたのだ。その人物も裕貴さんと同じように、高校生になったのをキッカケに一人暮らしを始めた女子高生。彼女も同じように、母が偶然休みの日に我が家に挨拶をしにきた。私はそれを、あの時と同じように母の腰にピッタリとくっ付き、聞いていた。そしてその女性が私に気付くと、冷ややかな視線でこちらを見下ろしながら、表情を変えずに口を開いた。

 

「……お子さんですか?」

「ええ、出雲っていうの。今年で小学生二年生なの。よかったら仲良くしてあげてね?」

「……すみません、私……子供は少し苦手なので」

「そ、そう……」

「……まあ、出来る限り頑張ってみます。これからよろしくお願いします」

 

 これが私と彼女、神宮寺霧華との出会いだった。そして彼女が私の環境を大きく変える事を――当時の私はまだ知らなかった。

 

 

 霧華さんは裕貴さんと違い、とても付き合いの悪い人だった。私は正直に言って彼女はどこか苦手なタイプだったが、ご近所さんである以上、ある程度の付き合いは続いた。けど――

 

 

「……どうして霧華さんが私のべんきょーの手伝いするんですか?」

「あなたのお母さんに頼まれたのよ。私だって子供のお世話なんて、本当はしたくないの。さあ、さっさと終わらせるわよ」

「本当は裕貴さんがいいのに……じゃあ、これってどうするんですか?」

「……それぐらいは教科書を見れば分かるわよ。そんなに何でも他人に頼らず、自分でなんとかしてみなさい」

「…………」

 

 

「……なんか霧華さん臭い」

「香水よ。子供のあなたにはこの良さが分からないだろうけど」

「……霧華さんだって一応まだ子供じゃん」

「あなたに比べれば十分私は大人よ。まあ、子供は子供らしく黄色い帽子とランドセルでオシャレしときなさい」

「……何それ」

 

 

「……霧華さんっておっぱいちっちゃいよね」

「いきなり失礼ね」

「だって年下のお姉ちゃんの方がおっきくて柔らかいし。……子供っぽいね」

「何を勝ち誇った顔をしてるのかしら。それに、胸の大きさだけで女性を判断するものでは無いわ。それが分からないなら、やっぱり子供ね」

「でもどうせならおっきい方がいいじゃん」

「……だからあなたは子供なのよ。あなたも私ぐらいの年になれば分かるわよ、貧乳の良さと……苦悩がね」

「そんなの分かんなくていいもん! 私将来お姉ちゃんやお母さんみたいにバインバインになるもん!」

「……それは楽しみね。成長が完全に途絶……いや、始まりすらしなくてあなたが絶望するのが」

「しないもん!」

 

 

 

 こんな風に、彼女は私を小馬鹿にしたり、必要以上に子供扱いしたりと、とにかく私をイラつかせる事を多々してきた。それが私の彼女への好印象を全て削ぎ落としていった。

 常に無表情。冷静沈着で達観したような大人びた雰囲気――私はそんな彼女を、元々年上は裕貴さん以外苦手だった事もあり、酷く毛嫌いした。

 

 そんな彼女との付き合いで溜まったイライラを、私は放課後に裕貴さんの元へ遊びに行き、よく愚痴をぶつける事で発散していた。

 

「――それでね! 霧華さん酷いんだよ! あんな冷たいやつ人間じゃないよ!」

「ハハハッ……出雲ちゃんは彼女と馬が合わないみたいだね。でも、彼女も君をそこまで毛嫌いしている訳じゃないよ? 彼女、感情が顔に出ないから誤解されやすいし、子供とどう付き合えばいいか分からないって、僕のとこに相談しに来た事もあるしさ」

「それでもあれは酷いよ! 今度はこっちが無視してやるんだから!」

「そうしたら、彼女凹んじゃうかもよ? ああ見えてメンタル弱いから、家で一人しょぼくれてるかも」

「……裕貴さん、霧華さんの事庇ってばっかり。というか、仲良いの? 何だか霧華さんの事よく知ってるし」

「えっ……まあ、同じアパートだしね。学校も同じで一緒に登校する時もあるし、それに……ちょっとね」

「ふーん……」

 

 その時に裕貴さんの顔が少し赤くなったのに気が付き、私はそれを不思議に思った。でもその理由には、幼い私は気付けなかった。

 

「……あ、そろそろ時間だよ。もう帰りな」

「えー、もっと遊びたい!」

「駄目だよ。遅くなったら出雲ちゃんを心配して、飛鳥ちゃんがウチに突撃してくるかもだろ? ちゃんと家に帰りなよ」

「……分かった。明日も遊びに来るね! 土曜日だから、いっぱい遊べるね!」

「あっ、ごめん……明日はちょっと用事があるんだ……日曜日も」

「そ、そうなんだ……じゃあ、また月曜日だね! バイバイ!」

 

 この時、私は気付いてなかった。もう、変化が起こっている事に。

 

 

 

 霧華さんがやって来て一年ほど経った頃からだろうか、裕貴さんと遊ぶ頻度が減り始めた。私が彼の家に遊びに行っても、留守で家を空けている事が多くなった。私の家にやって来る事も、次第に無くなっていった。

 一週間ほぼ毎日遊んでいたのに、それが一週間に三回。一週間に二回。一週間に一回。半月に一回。一月に一回。そして半年経つ頃には――とうとう、私と裕貴さんが遊ぶ事はほとんど無くなった。

 当時の私は、それに激しく動揺した。どうして裕貴さんは私に会ってくれない? 何故家に居ない? 私の事が嫌いになったのか? 私に構う事にウンザリしたのか? 理由も分からず、ただただ困惑した。そして忘れていたあの感情――寂しいという感情を、私は思い出した。

 

 姉も以前より遊んでくれるようになった。学校でも沢山友達が出来た。けれど、一番の遊び相手だった、当時の私にとっては一番大切だった存在とも言える裕貴さんが私の側に居ない事が、とても悲しかった、寂しかった。

 一体何が原因なのか、私は必死に考えた。何か悪い事をしてしまったのだろうか? もしそうなら、謝りたい。正したい。そんな嫌われるような事二度としないから許してほしい――そう心から願った。

 

 そして年が明けた頃、私はその原因を知る事になった。けど、原因は私に関係の無い事だった。何故彼が私に会わなくなったのか。それは単純な理由だった。

 

 

 そう、裕貴さんは霧華さんと恋人になっていたのだ。彼女とデートをしたり、共に時間を過ごしているから、私と遊ぶ機会が減った――ただ、それだけだった。

 いつから付き合い始めたのか、どちらが先に好きになったのか、どんな事が理由だったのか、二人はどんな事をしてきたのか、私には何も分からなかった。ただ一つ、二人が付き合っているという事実だけを告げられた。それで、何故彼が私と遊んでくれなくなったのかがようやく理解出来た。

 赤の他人より恋人である彼女との時間を優先するなんて事は、当たり前の事だろう。彼だって、一人の人間なのだから。彼は何も悪く無い。一人の男性として、一人の女性に恋をしただけなのだから。私に構う暇など無くなるのは、当然の事なのだから。

 けど、幼い頃の私はそれを理解出来ても、受け入れる事が出来なかった。私といくらでも遊んでくれると言ったのに、何で構ってくれ無い? そいつなんか放っておいて、私と遊んでほしいと願った。

 今思うと、とても身勝手な事を考えだと思う。けど、寂しかったんだ。好きだったとか、そんなんじゃ無い。ただ単純な、遊び相手が奪われたという、子供らしい悲しさだ。

 

 そしてその感情の矛先やがて形を変えてある人物へ向けられた。彼の恋人、霧華さんに。彼女が私から裕貴さんを――大切な遊び相手を奪ったんだと。

 だから私はとある日に彼女の家に乗り込み、全てを彼女にぶちまけた。彼を返してほしいと、また彼と遊ばせてほしいと。けど、彼女は相変わらずの冷めた口調で、言葉を返した。

 

「別に、私が彼にあなたと遊んじゃ駄目だって言ってる訳じゃないわよ」

「でも、あなたと一緒に居るから、裕貴さんは私と遊んでくれなくなった! だから返してよ! 裕貴さんと別れてよ!」

「……それはごめんなさい。でも、私は彼を愛してる。彼も私を愛してくれている。……そんな子供のわがままで、別れる訳にはいかないの」

「……子供子供って……子供扱いしないで下さいよ!」

 

 そう叫んで、私は彼女の家を飛び出した。それ以降、私は彼女、そして裕貴さんと会う事を拒んだ。全てを忘れたい一心で、自分から繋がりを完全に断ち切ろうとした。

 

 

 そして私が四年生になった春――高校を卒業した裕貴さんは、都心の大学に通う為、この町を出る事になった。彼に付き添う事を決め、高校を中退した霧華さんと共に。

 引っ越し当日、裕貴さんは我が家にも別れの挨拶に来たようだが、私は風邪と偽り会う事はしなかった。なんとなく気まずくて、このまま別れてしまった方が、忘れられる気がしたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 裕貴さん達が町を去ってから、私は気持ちを切り替えて変わらずに日々を過ごしていく事を決めた。もう遊び相手が居ないからといって寂しくなる年でも無いし、友人達や家族との楽しい時間を、全力で楽しんでいった。

 そんな生活を続けている間も、決してあの寂しさを完全に忘れた訳では無い。が、気にする事も無く、時間が流れていった。

 

 今思うと、この頃から姉が私の事を今まで以上に深く溺愛するようになった。きっと、裕貴さんの事で落ち込んでいた私を元気付けようと、支えてあげようとしてくれたのだろう。

 学校の友達との時間を削って、私と一緒に遊んでくれて、毎日のように私と一緒に居てくれた。それは落ち込んでいた私にとってはとっても嬉しくて、有り難い事だった。……まあ、今となっては過剰になりすぎて若干うっと惜しくなってきたのだが、それでも彼女は優しくて美人な自慢の姉だ。

 

 そんな姉や、両親の支えのお陰で、裕貴さんが去った後も明るく過ごす事が出来た。

 そして小学校を卒業し、中学生になった。市内の乱場学園の中等部に通う事になった私は、心機一転の意味を込めて、髪をツインテールからショートカットに変え、黒から金に染めた。母と姉は嫉妬するほどのモデル体型にも関わらず、自分は小学校を卒業しても身体は恐ろしいほど成長しなかったので、少しでも大人になりたいというちょっとした背伸びだ。

 そのイメチェンに両親は「とうとう反抗期か!?」と驚き、姉は「私も金髪に染めようかしら」と言い出して軽い騒ぎになったのは、いい思い出だ。

 

 そんな騒ぎを経て、私の中学生活が始まった。そして私は、再び人生を変える大きな出会いをしたのだった。

 キッカケは些細な事だ。中学での授業で、理科室へ移動する際、うっかり他人とぶつかり落としてしまった教科書を拾っていた最中、彼女はそれを手伝ってくれた。

 

「はい、これ」

「ど、どうもありがとう……」

「いいよ別に。それより急がないと授業に遅れるよ。えっと……何さんだっけ?」

「お、大宮出雲……」

「大宮さんか。私は世名友香、適当によろしく」

 

 これが、私と友香の出会い――そして、私の恋路の始まりだった。

 

 

 それをキッカケに私と友香は休み時間などで話すようになり、すっかり意気投合して、仲良くなるのにさほど時間は掛からなかった。元々友香の友人であった愛莉や悠奈ともすぐに仲良くなり、私の友人関係は早くも完成したのだった。

 そして中学生活にも慣れ始めた六月後半頃――私に最大の転機が訪れた。

 

 始まりはとある日の昼休み。私はある事に悩んで、机に突っ伏していた。周りには、いつもの三人。

 

「出雲さん、どうしたんですか? 酷くうなされてますけど……」

「うぅ……だってぇ、来週中間テストじゃん……」

「出雲って、勉強苦手なの?」

「小学校の時はもっぱらコロコロ鉛筆に頼ってた」

「そりゃヤバイね」

「はぁ……いいよね、三人は勉強出来るから……私にもその脳を分けてほしいよ」

「脳を分ける事は出来ないけど……よかったら、ちょっと勉強教えてあげようか?」

「え、本当!?」

「うん。どうせならみんなで勉強会でもしない? ウチなら大丈夫だから」

 

 友香のその恵みに、私は躊躇無くしがみ付いた。切羽詰まった私に選択肢など無かったのだから。

 

「みんなで勉強会ですか……そういうの素敵ですね!」

「あ、でも愛莉大丈夫?」

「何がですか?」

「いや……私一つ上の兄が居るからさ。愛莉、男の人大丈夫かなって。会った事無いでしょ?」

「あー、愛莉男の人苦手だもんね。というか友香お兄さん居たんだ?」

「うん。まあ、悪い人じゃないから」

「私はあった事あるけど……とりあえず、いきなり襲い掛かったりする人種じゃ無いから平気」

「そ、それなら……友香さんのお兄さんですし、多分大丈夫です……! 元々男性に慣れる為に女子校を避けてここに来たんですから、臆する訳にはいきません……!」

「そっか。じゃあ、放課後に私の家で」

「了解」

 

 

 

 その日の放課後、私達は友香の家を訪れた。彼女の部屋に集まって、お菓子を広げながらテスト勉強を進めた。

 

「お兄ちゃんまだ帰ってきてないみたいだね」

「ちょっと安心しました……って、それじゃ駄目ですよね! いきなり出会しても気圧されないぐらいの気持ちでいないと……!」

「それはいいけど、今は勉強に集中しよう、愛莉」

「そうだよ! ……という事で、ここ教えてくれない?」

「早速だね……どれどれ……」

 

 特に勉強が得意な友香を中心に色々教えてもらいながら、テストの勉強の内容を頭に叩き込んでいった。その時間はとても幸せだった。同年代とのたわいも無い時間が、何だかとても嬉しかった。

 こんな変哲も無いな時間がいつまでも続けばいいな――そう思っていた時、ついにその瞬間がやって来た。

 

 

「――おーい、友香居るかー? 昨日貸してた参考書、返してくんねーか?」

「ん、噂の人が来たね。分かったー! 入っていいよー!」

「お邪魔――うおっ……! 何だか勢揃いだな……そういや玄関に靴いっぱいあったな……友達か?」

「うん。はいこれ、参考書ありがと」

「おう。新しい友達が増えて何よりだ。俺は友香の兄の世名友希だ。一応よろしくな」

「知ってる。久しぶり世名先輩」

「は、は、初めまして……! な、な、中村! 愛莉……です!」

「愛莉緊張し過ぎ。あ、大宮出雲です」

「おう、みんな妹をよろしくな。じゃあ、俺はこれで」

 

 友香から参考書を受け取り、彼は部屋を出た。これが、友希先輩と私の出会い。けど、最初は彼に何も感じる事は無かった。 あくまで初対面の、友人のお兄さん程度にしか感じなかった。

 だけど私はその日の内に、彼に新たな感情を抱く。決して恋心では無いが、それに繋がる思いを。

 

 テスト勉強を進める中、私は少し尿意を催して一階のトイレを借りる事に。トイレを済ませて二階へ戻る為に階段を上ろうとしたその時、同時に上から降りてきた友希先輩と再会した。

 

「あ、どうも……」

「おう。えっと確か……大宮出雲さんだっけ?」

「はい。あ、さん付けなんてなくていいですよ。そっちが先輩なんですから」

「そっか? じゃあそうするよ。……なあ、友香とは仲良くしてくれてるか?」

「え? まあ……仲良くしてる……と思います。友香、いい子ですから」

「そうなのか……家ではグータラしてて、だらしないから、兄として色々心配なんだよな……」

「そうなんですか……優しいんですね」

「友香には世話焼きすぎだって、よく言われるけどな」

 

 そのまま私と友希先輩は軽く会話を交え、五分近く話し続けた。年上嫌いの私でも、彼との会話は不思議と楽しめた。何故か彼には心を許せた。それが何故かは、その時は分からなかった。けど、答えはすぐ出た。

 

「――って、悪いな長く話しちゃって。テスト勉強に戻りたいよな」

「いえ、こっちも何だか楽しめました。ありがとうございます」

「ならよかった。まあ、ともかく……あんな妹だけど、これからも仲良くしてやってくれよ――出雲ちゃん」

「えっ……」

 

 友希先輩の口から出た出雲ちゃんという言葉を聞いた、そして彼が見せた優しい笑顔を見た瞬間、私の頭の片隅から、ある人物の記憶が引っ張り出された。

 私が唯一と言っていい心を許した年上の男性――裕貴さんの記憶が。

 

「……どうしたの?」

「……あっ、い、いや! 何でも無いです……!」

「そう? ……ってそうか……いきなり下で呼ばれるのは嫌だよな?」

「え?」

「悪いな、妹の友達ってつい最近まで小学生だったからさ……中学生はそこらへんデリケートだよな」

「そ、そんな事無いです……! むしろ……」

「むしろ?」

「その……出雲ちゃん、で……いいです。是非、そう呼んで下さい……!」

「そ、そう……? なら、そうするけど……」

 

 どうしてこんな事を口走ったのだろうか。ただ、単純に嬉しかったのだ。出雲ちゃんと呼ばれた事が。昔裕貴さんにもそう呼ばれた事を思い出して。そう、この人は……友希先輩は彼に似ている。雰囲気というか、裕貴さんと同じ感じがする。優しくて、温かい雰囲気を感じた。

 

 その雰囲気に、私はすぐに惹かれた。昔私の寂しさを消し去ってくれた、温かい雰囲気に。

 そして、その気持ちは、やがて変わる事になる。幼い頃の私は、そんな感情に芽生える事は無かった。裕貴さんの事も、結局は遊んでくれる優しいお兄さん止まりだったのは紛れもな無い事実だ。

 けれど、今は違う。中学生という年頃の女子になった私には、当然芽生える感情がある。そう、私の彼に興味を惹かれた感情は、大きな感情へと変わる。

 

 恋心という――何よりも強い感情に。私にその感情がこの日からもう少し先に芽生える事を、まだこの日の私は気付いていない。

 

 

 

 

 

 

 

 




 出雲の過去にあった彼女にとって辛い出来事、そして友希との出会いまで。
 次回も過去編が続きます。もうしばらくお付き合い下さい。










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