「それじゃあ、行ってきまーす」
「はーい、いってらっしゃーい」
リビングから返ってきた母さんの言葉が耳を通り抜けるとほぼ同時に玄関の扉を開き、朝日が燦々と降り注ぐ外へと歩み出す。
後ろからは真っ白な乱場学園の夏の制服に身を包んだ友香と陽菜が続けて家から出て来る。友香は大口を開いてあくびを、陽菜は鞄を持った両手を真上に上げ、大きく体を伸ばす。
「んー……今日もいい天気だねー!」
「むしろよすぎる気がしますけどね……スッゴイ暑い……」
そう力無く呟くと友香は肩を落とし、ぐったりとうなだれる。その言葉を聞いた陽菜も次第に暑さを感じ始めたのか、同じようにぐったりとうなだれる。
確かに、今日は――というか昨日の夜からかなり暑い。もう九月の半ばだというのにまるで真夏のような暑さだ。ウザったいぐらい輝く日光の日を浴び続けているアスファルトは恐らく鉄板ぐらい熱が溜まっているだろう。視界の先も気温のせいか歪んでるようにも見えるし、夏に活動を終えたであろう蝉がいつミンミン鳴き出しても不思議と思わない。
とはいえ、愚痴をいくらこぼしてもお天道様は引っ込まないし暑さも無くならない。俺達が出来る事はいち早く学校へと登校し、恐らく教師陣達が耐えきれずガンガンに効かせている冷房の冷風を浴びる事だけだ。
という訳で、俺達三人は直射日光という敵から逃げるように歩き出す。
陽菜が学校に通い始めてからは基本的にこの三人で登校するようになった(もちろん、天城達の許可は取ってある)。そしていつもは陽菜が家から学校の下駄箱までペチャクチャとうっと惜しいぐらい喋るのだが、流石にこの炎天下の中で話す元気は無いようで、「暑いよー……溶けるよー……」とブツブツ呟くだけだった。
元気ハツラツの塊である陽菜がこんななら当然、俺と友香も喋る気力が湧き上がるはずも無く、無言で通学路を出来るだけ日陰に隠れながら歩き続けた。
しかし歩く事五分、昨日引っ越し作業を手伝ったばかりの天城家の近くへ辿り着くと、俺はピタリと足を止める。それに反応して、後ろの二人も足を止める。
足を止めた理由は簡単だ。例の天城家の前に、ある人物がポツンと立っていたからだ。
日差しに照らされ、艶やかに煌めく黒髪に、それを強調させる純白の制服を着こなす女性――間違えなく、天城だ。
どうしてあんなところ――いや、自宅の前なのだから居るのは当然だろうが。何故学校へ向かわず、ポツンとサウナのように蒸し暑い場所に突っ立ているのか不思議に思ったが、一応歩み寄って声を掛ける事に。
「天城!」
「あ、おはよう世名君に友香ちゃん。……それから、桜井さんも」
俺と友香へ優しい視線を送った後、少しムッとした感じに目つきをキツくして、陽菜にも視線を送る。一緒に登校している事を知っているとはいえ、気に食わないのは変わらないようだ。
とりあえず朝からドンパチが起きるのは勘弁したいので、早めに話を進める。
「天城、どうしてこんなとこに突っ立てるんだ? 暑いだろ?」
「うん、まあね……でも、世名君を待ってたから……」
「俺?」
「その……ここで待ってれば世名君が来るかなって。そしたら……一緒に学校行けると思ってさ……」
そう話しながら、天城は後ろ髪をいじり、目線を逸らす。
なるほど……俺と一緒に登校したいからここで俺が来るのを待っていたと。
「べ、別にいいよね?」
「もちろん構わないけど……だからってこんな炎天下の中で待ってたって……熱中症にでもなったら大変だろ?」
「私、暑さには強い方だから平気だよ! それに……世名君と一緒に学校行きたかったからさ」
天城はそう口にして、照れ臭そうに薄笑いを浮かべる。ほんのり染まった頬を日光が明るく照らしている影響か、何だか天城のただでさえ整った顔がいつもより三割増しぐらい美人に映り、思わず心臓が跳ね上がる。朝一と暑さで朦朧としてるせいか、いつもよりドキッとした……
そんな風にどぎまぎしていると、いつの間にか真横に立っていた友香が俺の右足を力強く踏みつける。
「って……!?」
「シャキッとしろ馬鹿兄貴」
「わ、分かってるよ……」
ちょっとボケッとしてた俺も悪いけど、踏むの強すぎだろ……軽い虫ぐらい殺せそうな威力あったぞ。暑さでイライラしてるなこの子。
「えっと……まあ、立ち話もなんだし、学校行くか」
「うん。それからさ……明日からも、一緒に行っていい?」
「え? まあ……構わないけど」
「ありがとう……! それじゃあ、行こっか!」
パァッと明るく、満面の笑みを浮かべ、天城は暑さにやられた様子を少しも見せずに元気よく歩き出す。それに俺達も慌てて続く。
一緒に登校出来るだけでこんなに喜ぶとは……まあ、これぐらいなら付き合ってやるか。……なんか忘れてる気がするけど、まあいいか。
それから俺達四人は通学路を歩き続け、程無くして学校へ到着。二年の教室がある二階まで上がると、友香は三階にある一年の教室へ、陽菜と天城はC組、俺はA組へとそれぞれ向かった。
◆◆◆
昼休み――昼食をいつもの男性陣四人と共に手早く済ませた俺は、残りの時間をどう過ごそうか考えながら学校内をうろついていた。
今日は誰も昼に誘おうとして来なかったし、多分用事でもあるのだろう。だとすれば、今日の俺の昼休みは自由という事だ。この二学期が始まってからは昼休みはほとんど彼女達と過ごしていたし、今日はゆっくり羽を伸ばそう。とはいえ、何かする事がある訳でも無い。
そのまま目的も無くさまよい続け、なんとなく一階へと降りる。その時、見覚えのある銀髪の女性の後ろ姿が廊下の先に居るのが目に入った。この学園で銀髪といえば朝倉先輩しか居ないだろう。折角だから声を掛けようかと思ったが、少し違和感を覚えて足を止める。
先輩はいつもなら背筋をシャンとして、まるでモデル歩きのように美しく歩いているはずだが、今は若干姿勢が崩れていて、何だか足取りも重い。
もしかして……熱にやられたか? この暑さだし、それは有り得る。朝倉先輩は暑いのは得意では無いそうだし。
ともかく、あの様子の先輩を放っておくのはいたたまらない。俺は少し駆け足で彼女の元へ向かう。
「朝倉先輩!」
「あら? 友希君……奇遇ね、こんにちは」
背後から声を掛けると、朝倉先輩はゆっくりと振り返る。その様子に、俺はまたまた違和感を覚えた。
いつもの先輩なら俺に出会った瞬間「あら友希君。偶然出会うなんて、嬉しいわ。これも何かの運命かもね」的な事を口にして俺を軽くおちょくりそうだが、今はそんな事をする気配も無い。それに、何だか眠そうというか……体調が優れて無さそうだ。
「あの……どうかしたんですか? 何だか具合悪そうですけど……」
「ええ、ちょっと暑さにやられてね。それに……少し寝不足で」
「寝不足? 何かあったんですか?」
「……いえ、何でも無いわ」
俺の問い掛けに先輩は一瞬口ごもり、口元を押さえながら視線を逸らす。
やっぱり、何かあったのか? 悩み事かなんかか? でも、先輩がそんなの抱え込む感じは無いが……でも、何かあったのは間違えないだろう。ならば、協力しない訳にはいかない。
「先輩、俺でよければ相談に乗りますよ?」
「友希君……気持ちは嬉しいけれど、大丈夫よ。これは私の問題だから」
「そんな……放っておけないですよ! それとも……何か言えない理由が?」
「……こんな事を聞かれたら、友希君は私に失望してしまうわ」
切なそうに目を細め、視線を斜め下に落とす。そ、そんな深刻な事なのか……?
「……大丈夫です! 失望なんてしませんよ。だから――!」
「……フフッ、そこまで言われちゃね……分かったわ。頼らせてもらうわ」
クスリと笑いをこぼし、朝倉先輩はクルリと振り返り歩み出す。
「人前じゃ話し難いから、場所を移しましょう。ついて来て」
「……はい」
朝倉先輩の深刻な雰囲気に、一体どれだけ大きな案件なんだと緊張し、思わず唾を飲み込む。もしかして、朝倉グループ関連だったりするのか? だとしたら、俺には到底解決出来ないぞ。
とはいえ、もう乗り掛かった船。覚悟を決めるしかない。
そのまま黙って歩く朝倉先輩について行き、同じく一階にある生徒会室の前に辿り着く。
先輩は中に誰も居ない事を確認してから扉を開いて中に。俺もそれに続いて、足を踏み入れる。
室内の電気は消えていたが、窓から差し込む太陽の光だけでも十分に部屋の全貌が見渡せるほど明るかった。部屋の中央には教室の机と同じぐらいのサイズのデスクが四つ並んでいて、その少し離れた奥には他の机より大きめのデスクが一つ。会長である朝倉先輩の席だ。
朝倉先輩は部屋の電気を点けずに、そのまま真っ直ぐ自分の席に向かって歩み、椅子に腰を下ろさずにそのまま真後ろの窓に右手を当てて、哀愁を帯びた様子で外を眺める。しかしその直後、何かを警戒するように自分の周りをキョロキョロと見回す。
「……先輩?」
「いいえ、何でも無いわ。それより、立ってないで座って。……出来れば私の近くに」
「は、はぁ……」
先輩の様子がおかしい事に疑問を抱きながら、とりあえず彼女の席に一番近い席に座る。
「それで……何か悩みがあるんですか?」
「…………」
俺の問いに、先輩は目を伏せて沈黙する。しかし数秒後、ふぅと深く息を吐き、顔を上げる。
「……実は数日前、家で私の世話を担当していたメイドが所用で家を離れて、実家の方へ行ってね」
「実家……それって、いわゆる先輩の両親の?」
「ええ。何でも人手が足りないみたいでね。私は一人でも問題無いから、向かうように命じたの」
「それじゃあ……今先輩は家に一人なんですか?」
「その通りよ。まあ、私は一人でも家事全般をこなせるから大した問題は無かったのだけれど……」
そこで突然言葉を切り、先輩は両腕で自分の体を抱える。その体は小刻みに震えていて、何か恐ろしい出来事を思い出したように表情が強張っていた。
こんな先輩……初めて見たぞ。一体何があったんだ……ますます事の大きさが予想出来なくなり、不安からか、それとも暑さからか、額から汗が流れ出す。
「……一人でも、何も問題が無いと思っていた……けれど、予想外の事が起きた……」
「な、何が……?」
「……奴が出たのよ」
「奴……? もしかして、グループ崩壊を狙うテロリスト……的なのですか!?」
「いいえ、それよりもっと恐ろしいものよ……」
テロリストより恐ろしいって……だとしたら一高校生の俺にはどうしようも無いぞ!?
「……そ、その……それってどんなやつなんですか?」
「……正直、この名を口にするのも恐ろしいわ……」
「そ、そんなですか……じ、じゃあそいつの特徴は?」
正直聞いても無意味かもしれないが、少しはヒントになるかもしれない。
先輩はその質問に答えづらそうに口を歪ませるが、覚悟を決めたように口をゆっくりと開き始める。
「……そいつは、黒くて……」
「はい……」
「想像を絶するほど素早く……」
「そ、そんなに速いんですか……?」
「そして……壁から天井まで、あらゆるところを這いずり……」
「ク、クライミングってやつですか……?」
「時には予想外のタイミングで辺りを飛び交い……」
「飛ぶんですか!?」
何だよそれ……どんなトンデモ超人だよ! 黒くて、速くて、壁を這いずって、空を飛ぶ? そんなの――あれ?
その時、俺の中で何かが引っかかった。なんか知ってるな――と。正直、オチが見えてきた気もする。だが、もしかしたら違うかもしれない。ここまで深刻な顔をしているんだし、そんなはずは無い。そう信じて、俺は朝倉先輩の言葉を待つ。そして、次の言葉が出された。
「そして何より……あの気持ちが悪い触角……!」
「…………」
触角――その単語を聞いた瞬間、俺の予想が正しい事が証明された。同時に、俺は内心溜め息を吐いた。そして俺の中で出た答えをぶつけようと、口を開く。
「あのぉ……それってもしかしてゴキブ――」
「その名前は言わないで!」
と、朝倉先輩は今までに聞いた事の無いような叫び声を上げながら、言葉を制止するように右手をこちらに突き出す。
そのあまりにも決死な絶叫に度肝を抜かれていると、先輩は腕をそっと下ろし、自分の体を再度抱える。
「その名前を聞くと……悪寒が走るわ」
「……はい」
「……ともかく、私の悩みはそういう事よ」
「つまりゴキ……そのぉ、イニシャルGが家に出た……って事ですよね?」
その言葉に、先輩は小さく首を縦に振った。
――しょーもなっ! と、俺は心の内で叫んだ。まさかあんなに深刻な雰囲気を醸し出していたのにも関わらず、悩みはまさかの一般の主婦が抱きそうな些細な悩みだったとは……心配して損した……いや、でも先輩にとっては一大事なんだろうな、うん。
「その……先輩はゴ……Gが苦手で?」
「恥ずかしながらね……虫の類は全般駄目よ。もしも夢が三つ叶うとするなら、友希君との結婚に続いて虫の根絶とお願いしたいぐらいよ」
「それほどですか……」
恐らく現在先輩の一番の夢である俺との結婚と並べるレベルなのだから、相当だろう。……あと一つの願いは何を願うんだろうか――そんな自分でもくだらないと思う考えを早急に捨て、話を進める。
「それで……家に出たんですか?」
「ええ……以前までメイドに駆除をお願いしていたのだけれど、言った通り今は留守でね……昨日もいつ出て来るか心配で、夜も寝れなかったわ……」
「それが寝不足の原因ですか……」
「はぁ……やつらの活動時期は夏だけだと思い込んでいたわ……まさかこの時期にあんな活発に現れるとは……」
「まあ、昨日の夜から暑かったですからね。それにあいつら割と年中無休で出て来るし」
「全く……あんなメリットの無い害虫が何故存在するのかしら……今度お父様に頼んで国に害虫の殲滅計画を打診するよう頼んでみようかしら……」
なんか恐ろしい事言い始めた……事が壮大過ぎるだろう。でもあんなやつらでも何かの役にはたってるんだよ……多分。
それより、まさかあの完璧超人と言える朝倉先輩がまさか虫嫌いだったとは……あんなに怯えてるし、本当に嫌いなんだろうが……何だか意外だな。
そんな事を考えていると、突然朝倉先輩がこちらへ目を向けて、物悲しそうに口を開く。
「……情け無いでしょう?」
「先輩……?」
「たかが虫ごときでこんなに動揺して、自分でも情け無いわ……こんな事を知って、失望したわよね……」
「……そんな事無いですよ」
「え?」
「確かにちょっと意外だなって思ったけど……こんなんで失望なんてしませんよ。むしろ、何だか好印象ですよ。先輩にも怖いものがあるんだなーって。それに虫が怖いって、女の子らしくていいじゃないですか」
その言葉を聞くと先輩はキョトンとした様子でこちらを暫し見つめ、口元に手を添えて急に笑い出す。
「そうね……友希君はこんなんで人に失望したりする人じゃ無かったわね……よかった、安心したわ。この事を身内以外に告げた事が無かったから……」
「先輩は気にし過ぎですよ。それで? 一体どうするんですか?」
「そ、そうね……友希君には申し訳無いけど、少しお願いしてもいいかしら?」
「俺でよければ何なりと」
「ありがとう。それじゃあ……今日、私の家に来てくれないかしら? それで……あれを見つけて駆除してほしいのだけれど……」
「分かりました」
二つ返事を返すと、先輩は安心したようにホッと息を吐き、「助かるわ」と口にする。
こうして、俺は先輩から彼女を脅かす害虫の駆除を依頼されたのだった。
◆◆◆
放課後――俺は学校から先輩と共に、以前も訪れた彼女の自宅へと向かった。
家の前に到着すると先輩は鞄から鍵を取り出し、錠を開ける。が、扉に手を掛けたまま何故か静止する。
「……先輩?」
「いえ……もし開けた瞬間に眼前に飛び出してきた時の対処法を考えているだけよ……」
警戒し過ぎだろ……やつもそこまでアグレッシブじゃ無いと思うぞ。
とりあえずこのままだといつまで経っても中に入れず、未だに燦々と照りつける太陽の下に居る事になってしまうので、俺が先行して入る事に。
「お邪魔しまーす……」
ゆっくりと扉を開き、玄関へ足を踏み入れる。以前ならメイドさんがご丁寧に出迎えに来たのだが、朝倉先輩の言った通り出迎えも無く、家の中はシーンと静まり返っている。
「……居ないかしら?」
「だ、大丈夫ですよ……」
「そう……ならよかったわ」
未だかつて無いほど安堵した様子を見せる先輩に、思わず少し困惑する。そしてよく見るといつの間にか俺の服の裾を摘んでいる。まるで母親を離さないようにしっかりくっついてる子供のようだ。
それに、表情もいつもはキリッとしていてクールなのに、今は怯えきっている。瞳はウルウルと小刻みに揺れ動き、口元は不安そうに歪んでいる。そんな今まで見たこと無い先輩のか弱い雰囲気に何だか緊張してしまい、鼓動が早まる。
「ど、どうしたのかしら? もしかして居たのかしら?」
「え? あ、いえ違います!」
くっ……調子が狂うな……いつもなら「あら友希君、もしかして緊張しているのかしら?」とか言って胸を押し付けたりしてくるだろうに……恐怖のせいか、今の先輩にそんな事をする余裕は無いそうだ。
先輩の新たな一面に彼女とは別の意味でドキドキしながら、靴を脱いで家内に突入する。先輩もそれに恐る恐るついて来る。
ひとまず例のあれが出たのは一階のリビングという事なので、遭遇率が少ない二階の朝倉先輩の部屋へ向かう。そそくさと階段を駆け上がり、先輩の部屋へ入り込む。
「ふぅー……」
部屋へ入ると先輩は今まで息を殺していたのか、大きく息を吐く。そのまま鞄をそっと地面に置き、扉の前に座り込む。
相当参ってるな……それほど怖いんだな。こりゃ先輩の為にも何とかしてやらないと。……とはいえ、どうしたものか……あれを見つけ出して仕留めるなんて骨が折れるぞ。
「……あの、部屋全体に撒くタイプの薬とかは……?」
「……残念ながら、今はストックが無いの。夏に週に一回ペースで使用していたから……」
「それはまあ……逆によく出ましたね」
「本当よ……やつらは無限に湧き出るのかしら……お願い友希君。どうにかして駆除して。でないと……今日も寝れそうに無いわ」
「まあ善処しますけど……正直やれるか分かりませんよ? 都合よく出て来るか分かりませんし……」
「そうよね……なら、もし無理だったら……今日ここに泊まってもらえるかしら?」
「え……? ど、どうしてそうなるんですか!?」
「友希君が側に居れば安心して寝れると思うから……駄目かしら?」
そう言いながら、朝倉先輩は上目遣いでこちらを覗き込む。そのか弱い乙女の眼差しに、思わず言葉が詰まる。
何だよこれ……全然今までとキャラが違うんですけど! 凄いドキドキするんですけど! こんなの断れないよ!
「……分かりました。でも! ちゃんと仕留めたら帰りますよ!」
「ええ、構わないわ。お願いね……!」
「は、はい……」
てっきり「仕留めても居ていいのよ?」とか言われるかと思ったらそんな事無かった……恐怖でそこまで思考が回ってないのか。
「そ、それじゃあ俺はリビング行くんで、先輩はここで」
「え、ええ……気を付けて」
気を付けて……一体何を気を付けろというのか――そんな野暮な疑問を飲み込み、先輩を部屋に残して一階のリビングへ。
俺も例のあれが得意な訳でも無いが、家であいつが出た時には俺が家族の代表で退治しているので、多分仕留めるのは大丈夫だ。だが、問題はどう見つけるかだ。ウチではあくまで出て来たら仕留めるなので、探し出す事はしない。他人の家でやつを誘き出して仕留める――相当難易度は高そうだ。
だが、あんな怯えきった先輩の頼みを叶えない訳にはいかない。ここはどうにかして、必ず仕留める。
対イニシャルGの武器として選んだ、鞄に偶然入れてあった未使用のノートを丸めた状態で握り締め、俺はいざ
「さてと……どうしたもんか……」
まずは誘き出さなければ始まらない。とりあえず音で誘き出そうと、リビングをゆっくり歩き回りながら、壁や床をノートで叩く。しかし、まるで変化無し。
この程度じゃ出ないか……出たのは昨日の事だし、もしかしたらもう別の場所に移動したのかも。キッチンとか。
リビングをグルリと回り終え、窓際で全体を見回してみる。しかし、それらしい影は見当たらない。
「やっぱり移動したか? それとも粘って待ってみるか? ……はぁ」
ノートで自分の頭をポンと叩く。やはり厳しいもんかな……そう早くも心が諦めムードに傾いたその時――
「――きゃあああああああああ!」
突然、上の階から朝倉先輩の悲鳴がこだました。それに俺はその悲鳴の理由を考える事もせずに走り出し、慌てて先輩の部屋へ走る。
「先輩!」
部屋の扉を乱暴に開き、室内に目を走らせる。先輩は部屋の奥にあるベッドの上にへたり込み、恐怖に満たされた顔で部屋の床を見ていた。
その様子からこの部屋にやつが出たという事をすぐに察した俺は、慌てて同じように床へ視線を巡らせる。
そして――その床を高速で駆け抜ける、漆黒の体をしたやつを視界に捉えた。
やっぱり……いつの間にか上に移動してたんだ! 俺は右手に握るノートに力を込め、やつ目掛けて振り下ろす。
が、想像するだけで寒気がするあの特徴的な動きでそれを軽々と回避して、やつはそのまま壁を這い上がる。俺はそれを慌てて目で追いかける。しかし――
「友希君危ない!」
「へ――」
朝倉先輩の警告が耳に届いた瞬間――やつが背中の羽を不気味に羽ばたかせ、俺の顔面目掛け襲い掛かって来たのだ。
やられる――! そう危機を感じ取った俺は、思わず目を閉じて防御態勢を取るように腕を交差させた。
――だが、いつまで経ってもやつが激突した感触が体に走らなかった。一体どうしたのだろうと恐る恐る目を開く。すると、俺の目には黒光りするやつだけで無く、それをガッシリと掴み取る人の手が映った。
「まあまあ……随分とお元気ですね」
不意に、俺の背後から優しく、脳がとろけそうな甘い口調の声が聞こえ、慌てて後ろを振り返る。そこには、ニッコリと笑顔を浮かべた、黒髪セミロングのメイド服の女性が立っていた。
だ、誰だ? メイド服って事は……ここの使用人さん? でも居ないんじゃ……というかこの人素手で掴んでるよ!? 数々の疑問が湧き上がり混乱する。
女性はそんな俺を気にしないといった風に、やつを掴んだまま窓際まで歩き、そのまま外へやつを放り投げる。
「…………」
その様子に俺、そして朝倉先輩も唖然と彼女を見つめる。
その女性は窓をピシャリと閉め、ポケットからウエットティッシュを取り出し、手を軽く拭く。使い終わったティッシュを近くのゴミ箱へ捨てると、こちらへ目を向けて再びニッコリと笑った。
「お久しぶりです、お嬢様。それに世名様、お怪我はありませんでしたか?」
「え……? あ、はい! 全然、全く……!」
「それは何よりです。お嬢様も、ご無事でしたか?」
「え、ええ……それより、どうしてあなたがここに居るのかしら?」
やっぱり……朝倉先輩の知り合いだよな。でも、先輩も彼女がここに居る事に驚いてるみたいだ。それに、前にこの家に来た時はこんな人居なかったぞ……?
謎の女性に疑問を抱いている間も、先輩と彼女の話は続く。彼女は白と黒のメジャーなメイド服の、程良く膨らんだ胸元に手を当て、優しく口を開く。
「お嬢様が何やらお困りだとお聞きしたので、参上した次第です」
「そ、そうなの……でもおかしいわね、この事は私の担当の者にも伝えていないのに……」
「
「そ、それもそうね……」
いやおかしいだろ。なんで誰にも告げてない事知れんだよ。というか、何だかあの朝倉先輩が気圧されてるというか……押されてる雰囲気があるな。何者だこの人?
ますます彼女への疑問が高まる中、不意に彼女がこちらへ目を向ける。おっとりとした中に、なんとなく逆らえない力強さを感じさせる黒い瞳に見つめられ、思わず息を飲む。それを感じ取ったのか、女性は笑顔を浮かべていたずらな口調で喋り出す。
「そう緊張なさらないで下さい世名様。緊張なさるのは、レッツパーリィーの直前だけで十分ですよ」
「レッツパーリィー……?」
その単語が何故か引っかかり、俺は過去の記憶にその単語に覚えが無いか脳内で検索する。そして、ある記憶が引っ張り出された。
「あっ……! あなた、あの時別荘に居た……!」
「ピンポンでございます」
思い出した……あの別荘で怪我をした出雲ちゃんの手当てをして、レッツパーリィーとか言っておちょくったメイドさんだ! 今の今まで記憶から抜け落ちていたが、間違いない。
「……もしかして私は来ない方が宜しかったでしょうか? お二人のお楽しみを邪魔してしまったのなら、申し訳ございません」
「い、いやそんな事無いですから……えっと……」
「ああ、そういえば自己紹介がまだでしたね。これは失礼いたしました」
そう言うと彼女は地面スレスレまで長いスカートをチョンと両手で摘み、軽く頭を下げる。
「私、朝倉家にてメイド長を勤めさせてもらっている、
「め、メイド長!? ……し、失礼ですけど、おいくつで……?」
「トュエンティーフォーでございます」
「トゥ、トゥエンティー……24!?」
そ、そんな若くてメイド長とかやってんのか……? まあ、確かになんか只ならぬ空気を感じるが……かなり凄い人なのか? 朝倉先輩もこの人には適わないみたいな空気出してるし――
「……ん? 叶……?」
と、またまた彼女の言葉が引っかかり、脳内の記憶を探る。
「……あれ、叶って……」
「お察しの通りでございます。世名様の担任の教師である叶春菜は、私の姉でございます」
「あ……!? えっ、は、ハル先生の……妹さん!?」
衝撃の事実に思わず顎が外れてしまいそうなほど口をあんぐりと開く。
朝倉家のメイド長が……ハル先生の妹さん!? どういう事だよ……理解が追いつかねぇよ!
「まあ、細かいところはまたの機会にでもお話します。それよりも、今は気を落ち着かせる為にお茶に致しましょうか」
「えっ、ちょっ……! まだ混乱しててそれどころじゃ……」
「なら尚更でございます。丁度いいお茶を持って参りましたので、ゆっくり堪能して下さいませ」
そう言うと俺達に向けて丁寧に頭を下げ、冬花さんは部屋を後にした。
彼女が部屋を去った後、俺と朝倉先輩は呆然とその場に留まった。
「……先輩、あの人って……」
「……ごめんなさい、彼女に関しては私も扱いきれないというか……不思議なのよね」
「そ、そうですか……」
朝倉先輩がそこまで言うとは……相当凄いんだな、あの人。
しばらく呆気に取られていると、朝倉先輩が不意に溜め息をつき、ベッドから降りてこちらへ歩んでくる。
「何だか興を削がれてしまった気分ね……ごめんなさいね、こんな幕切れになってしまって」
「いえ、俺は別に。とりあえず、事が解決してよかったじゃないですか。結局、俺は何にも出来ませんでしたね」
「いいえ、そんな事は無いわ。わざわざ私の為に来てくれた事、感謝するわ。ありがとうね、友希君」
「別にいいですよ。それじゃあ、俺はお茶貰ったら帰りますよ」
「あら? 別に泊まっていってもいいのよ?」
と、先輩は俺の腕を抱き寄せながらいたずらな笑みを浮かべる。
すっかり元の調子に戻ったな……でも、こっちの方が先輩らしいな。……結局緊張はするのだけれど。
それから俺は先輩の誘いをそれとなく断り、リビングに向かって冬花さんの淹れた紅茶を頂いてから朝倉家を後にした。
結局、冬花さんの事は聞き損なってしまったが、またいつか機会があるだろうと、今日は忘れる事にした。
冒頭で優香メインと思いきや、雪美メイン回(まあタイトルで分かってたと思うけど)
ゴキ……黒い悪魔が苦手な雪美さん。キャラ崩壊してた感じがあるけど、これはこれでいいよね。
そしてサラッと凄い事をやってのけた新キャラ冬花さん。彼女についてはまた別の機会で触れる事になる……かも。
p.s 黒いやつが嫌いで、今回の話を不快に感じた方が居た場合は、誠に申し訳ございません。(ちなみに自分は執筆中に想像してゾワッとしました)