「――という訳で、こちらが私の兄よ」
「どうもどうも、雪美の兄の朝倉
「は、はぁ……」
午後七時頃――海から別荘へと戻った俺達は一休みした後に、別荘内の大広間にある三十人は座って並べるであろう巨大なテーブルを全員で囲んで夕食をご馳走になった。
そこには当初メンバーとは別に、偶然海岸で遭遇した男性――朝倉先輩の実の兄である雹真さんも夕食の席に加わった。今はそんな彼の事を説明してもらっているところだ。
「しかしお兄様、こちらに来ていたのね」
「いやぁ、少し暇が取れたのでね。新しい出会いを求めて今日の午後に島へ降り立ったのさ」
「また懲りずにナンパですか。いい加減そんな趣味止めたらどうですか?」
「いやいや、こればかりは止められないね! 可憐な女性との出会いは我が人生の生き甲斐だからね」
「そうですか……それで、結果は?」
「ハハハッ、結果にはこだわらない主義だと知っているだろう?」
「そうですね、聞いた私が馬鹿でしたね」
「…………」
正面の席で繰り広げられる二人の会話を、俺達はボケッとしながら端から見ていた。陽気に喋る雹真さんの言葉を淡々とあしらう朝倉先輩、全然性格が違うというか……本当に兄妹かこの二人。
「相変わらず我が妹は冷たいねぇ……っと、すまないね、二人だけで盛り上がってしまって」
「いや、別にいいんですけど……朝倉先輩、お兄さんが居たんですね」
「あら、友希君には伝えていたはずだけれど?」
「え、そうでしたっけ?」
「ええ。あれは初デートの時だったわね。朝倉グループの事を打ち明けた時、兄が会社を継ぐ――みたいな事を話したと思うけど」
「そ、そうでしたっけ?」
イカン、覚えとらんな……もう三ヶ月も前の事だしな……ん、という事は、この人が朝倉グループの跡取りって事か?
「あのぉ……雹真さんって、朝倉グループの?」
「ん? ああ、まだ完全に継いではいないよ。父はまだまだ現役だし、僕がグループを継ぐのは当分先だろうね」
「そういえば……お父様は今なにを?」
「元気良く仕事じゃ無いか? 我が最愛の娘に会えないとは――とか言ってたよ」
「お父様ったら……お変わりないようね」
小さく溜め息を漏らしながらも、先輩は少し嬉しそうにクスリと笑った。
仲の良い家族なんだな……先輩の家族関係とかあんまり知らなかったし、こういう事を知れるのは少し嬉しいな。
先輩と数回会話を交えると、雹真さんは今回の夕食であるいかにも高級感溢れるステーキをナイフで器用に切り、口へ運ぶ。それを飲み込むと顔を左右に小さく動かしながら俺達を見回す。
「しかし……まさか雪美にこんなに友人が出来ているとは……兄として嬉しい限りだ」
「お兄様、友希君とその友人、友香ちゃんはともかく他は恋敵です。決して仲むつまじくしてはいません」
と、先輩は俺達男性陣とは反対側の席に居る女性陣を睨む。それに天城、海子、出雲ちゃんが対抗するように睨み返す。陽菜は気付かずステーキを味わっている。
このまま一波乱あるかと不安に思ったその時、いきなり雹真さんが隣に座る朝倉先輩の背中をポンポン叩く。
「気持ちは分かるが、そう血気盛んになるものでは無いぞ。恋敵とは敵にあって敵にあらず。一人の男性を巡るライバルとして、仲良く競い合うものだぞ?」
「……私はお兄様のように楽観的にはなれません。それと、子供扱いしないで下さい」
背中に手を回し、雹真さんの手を払う。雹真さんはそれに手を引っ込め、ヤレヤレといった感じに肩をすくめる。
先輩はそれ以上は何も言わずに食事を進め、女性陣も何事もなかったかのように食事に手をつける。カチャカチャという音だけが、だだっ広い部屋に響く。
数秒後、その空気を変えようと思ったのか、雹真さんはナイフとフォークを置いて、俺へと目を向ける。
「しかし……君が妹から聞いていた友希君だったとは……プールで出会った時は想像もしなかったな」
「それはこっちのセリフですよ。見た目も全然違うし……というか、どうしてプールなんかに?」
「ハハハッ、出会いを求める為なら私はどこにでも行くよ。まさか雪美まで来ているとは思わなかったがね。ああ、ちなみに髪については染めただけだよ。金髪の方が女子受けがよさそうなんでね」
それは関係無いんじゃ……というかプールの件もちゃんとした答えになってないし……まあ、もういいか。
「しかし……あの雪美が君のような男に惚れるとはねぇ……」
そう呟くと、雹真さんの表情があっけらかんとした感じから神妙な雰囲気に変わる。両肘をテーブルにつけ、絡めた手の上に顎を乗せる。
「雪美、彼のどこに惚れ込んだんだい?」
「…………お兄様にお伝えする理由はございません」
「冷たいなぁ。一応僕の義弟になるかもしれない相手だぞ? まあ、深くは聞かないでおくさ。その代わりに――」
雹真さんは動かずに、目だけを俺に向ける。
「友希君……君は妹の事を、どう思っているのかな?」
「え……」
雹真さんの口からその言葉が吐かれると、反対側の女性陣の顔が強張る。朝倉先輩もピクリと眉を動かすと、雹真さんに食い掛かるように声を出す。
「お兄様……!」
「いいではないか。兄として、妹の将来の旦那となり得る男の気持ちぐらい知っておきたいものだ。して友希君、その答えは?」
「えっと……」
真っ直ぐ向けられる雹真さんの眼差しに、思わず視線を逸らす。冗談って感じでは無さそうだ。なら、俺はこれにどう答えればいい?
「…………」
なるべく気付かれぬように俯きながら、目を動かして先輩の様子を窺う。先輩は一見いつも通りのクールな顔をしていたが、その瞳にどこか不安のような色を感じられた。そしてそれは、続けて確認した他の女性陣も同じだった。
どうする? 一体どう答えるのが正解だ? 誰も傷付けずに、終わる方法はなんだ?
「……俺は――」
「いや、すまない」
俺が言葉を言いかけた瞬間、雹真さんが右手をサッと差し出し、俺の言葉を制止する。
「これは僕が問い質すべきものでは無いな。失礼した」
「あ、いや……」
「それにしても、君は大分愛されてるようだね。彼女達の放つ空気に、いい年してチビってしまうかと思ったよ」
含みのある口調で喋りながら、チラリと視線を女性陣達に向ける。それに彼女達はピクリと肩を震わせ、視線をバラバラに背ける。
何というか……色々試された感じがするなぁ……恋の伝道師を名乗るだけあって侮れない人だな、雹真さん。
そんな雹真さんは再び明るい陽気な笑顔を見せると、頭を掻く。
「いやいや、空気を悪くしてすまないね。さあ、気を取り直して食事にしようではないか。雪美も、そんなに機嫌を悪くするな」
「……分かっています」
朝倉先輩は顔を背け、グラスに注がれたワイン風の高級ぶどうジュースを口に運ぶ。
少し不機嫌だな……やっぱり俺がすぐ質問に答えなかったからかな……? 少し申し訳ないな……
「…………」
でももし、あの時雹真さんが止めなかったら――俺はどう答えたのだろうか? その答えは、俺にも分からなかった。
◆◆◆
夕食を終えた後、俺達は男女に別れ、それぞれ大浴場にて今日の疲れを取る事にした。
この別荘の風呂は大浴場の名に相応しく恐ろしく広い。街角の銭湯なんかより遥かに大きい浴槽、何十個も並ぶシャワー、全面真っ白なタイル、そしてよくホテルとかで見る壁に埋め込まれているライオンらしい像の口から水が出るあれ――など、まさにお金持ちの家といった感じだ。俺達庶民は当然こんな場所に耐性は無いので、初日である昨日は大いに動揺した。というか今日も少し落ち着かない。
しかし、雹真さんはこの別荘の持ち主。この場所には慣れっこのようで――
「はぁ……久々だが、ここの風呂は良いものだなぁ……」
堂々と体を伸ばしながら、しっかりと肩まで――というか首元まで湯船に浸かっていた。俺達はその近くでお金持ちオーラを感じながら縮こまって湯船に浸かている。これが庶民と富豪の差か……
「いやー、こうして大勢で風呂に入るのは何年ぶりだろうなぁ……男同士仲良く裸の付き合いと行こうぜ、少年達!」
「あ、はい……」
「ハハハッ、そう畏まるな。……それにしても」
雹真さんはジッとこちらを――というか、俺の隣に居る翼を舐め回すように見つめる。
「……君本当に男だったんだねぇ」
と、どこか若干寂しそうに呟く。まあ、初見はそう思うよな。服着てたらパッと見女子だし。俺も中一の時初めて会った時、男の制服着てたのに疑ったもん。
「……中一の時の修学旅行は大変だったよなぁ」
「ああ……軽い騒ぎになったよな」
「今でも軽い騒ぎ起こるしな」
「あんまりほじくり返さないでくれるかなぁ……割と忘れたい出来事だから」
「ハハハッ、青春してるねぇ! 僕もそんな学生時代を送りたかったものだよ。君達の年頃の頃は、色々大変だったから」
色々――というのが気になったが、雹真さんのどこか遠い場所を見る目を見てそっと言葉を飲み込んだ。
「まあ、こうして和気あいあいな時間を過ごせる今があるから、文句は無いんだがな。後は女子達がお風呂でキャッキャしている声が聞こえてくれば、最高なんだがなぁ……」
「そう! それっすよ!」
突然、孝司が勢いよく立ち上がって雹真さんを指差す。
「どうしてここの別荘女湯と男湯が絶望的に離れてんですか! 設計した人おかしいでしょ!」
「何だその言い分――」
「分かってくれるかい!?」
孝司のくだらない言葉を聞いた雹真さんが、何故か目を輝かせて同じように勢いよく立ち上がる。
「いや最初はね! この別荘の風呂場は混浴という事にしていたんだよ! しかしそれは却下され、仕方無く隣合わせにしたんだが、それも却下されて今の形になってしまったんだよ……」
「なん……ですって……!? 誰がそんな横暴を!」
「ウチの母親、メイド長、そして雪美さ……ウチの女性陣はそういうのに厳しくてねぇ……父と共に最後まで口論したんだが……押し負けてしまってね」
何やってんだこの人……というか父親もそっちサイドの人間ですか。朝倉家の男ろくな奴居ないな。
「僕はこの思想が間違っていたのかと思っていたよ……しかし、まさか同志に出会えるとは! 僕は君のような真の男が居た事を……嬉しく思うよ!」
「当然です! 女湯は……俺達男の夢の秘境ですから!」
「孝司君……!」
「雹真さん……!」
「……なにこれ?」
「素っ裸の高校生と成人男性が目をキラキラと輝かせながら互いの手を握り締めている――の図」
「いや、説明しなくていいから」
雹真さん……さっきは凄い人と思ったが、孝司と同じ思考か……案外そうでも無いかもしれないな。
「孝司君、今日は思う存分語り合おう!」
「オッス!」
「……どうする?」
「ほっとけ」
「そ、そうだね……」
俺達はヒートアップする二人を残し、そっと湯船から抜け出した。それから彼らがどれだけの時間、どんな内容を語り合ったかは……誰にも分からない。
◆◆◆
「ふぅ……」
風呂から上がって約二時間。これといってする事も無いので、俺は裕吾、翼と別れて一人別荘内をうろついていた。
今は大体午後の十時過ぎ――寝るのが多分十一時ぐらいだから、後一時間ぐらいか。男子部屋なら一足先に寝てしまっても構わないんだが、今日は違う。朝のバレー勝負、そしてその後朝倉先輩と出雲ちゃんで行われたジャンケンの結果、今日は先輩と同じ部屋で寝る事になってる。先輩は寝る時になったら連絡すると言っていたので、それまでは時間を潰さないと。
「しかし、一緒に寝るか……」
改めて考えるとかなり凄い事だ。海子とは緊急の事態だったし、陽菜は幼なじみって事で少しは慣れてたとこもある。
だが、今回はしっかりと約束した上でだ。正直尋常じゃ無い程緊張してる。天城には何も無いとは言ったが、緊張するものは緊張してしまう。
「はぁ……大丈夫かなぁ?」
「――おや、何か悩み事かい?」
この後の事に言い知れぬ不安を感じ、同じ場所をグルグルと回っていると、突然誰かに声を掛けられビクッと全身を震わせて立ち止まる。後ろを振り返ると、風呂に入る前まで着ていたものとは別の、青いアロハシャツを着こなす雹真さんが立っていた。
「あ、雹真さん……」
「こんな所で一人とは……どうしたのかな?」
「いや、ちょっと時間を潰してたというか……」
「そうかい。……友希君、時間があるのなら……少し付き合ってくれるかい?」
「え……別に構いませんけど……何ですか?」
「なぁに。少し話に付き合ってほしいだけさ。妹が惚れた相手を知りたいのが、兄というものだろう?」
「まあ……そういう事なら」
「ありがとう。立ち話もなんだし、場所を移そうか」
クルリと向きを変え、長い廊下を歩き始める。俺はそれに何も言わずについて行く。
歩くこと数分――辿り着いたのは別荘のエントランス。そこの端の方にポツリとある豪華なソファーに、雹真さんは腰掛ける。俺もその正面の席に腰を下ろす。
「さてと……何から話そうかな……」
顎に手を当てて、頭を捻るように低く唸る。しばらくすると顎から手を離し、俺の目を見つめる。
「そうだな……まずは雪美と君がこれまでどんな事をしてきたか……話してくれるかな? 君達がどんな青春を経験したのか、是非知りたいものだ」
「ま、まあ構いませんけど……」
それから俺は言われた通り、この三ヶ月間で俺が朝倉先輩と一緒にした事を出来る限り話した。
初デートでゲーセンへ行った事、遊園地でみんなと遊んだ事、夏休み前に学校のプール掃除をした事、生徒会メンバーの誕生日プレゼントを一緒に選んだ事――その時の彼女の反応だったり、ちょっとしたトラブルなどを思い出しながら、一つ一つ話していった。それを雹真さんは時々相づちを打ちながら、静かに聞き続けた。
そして最後に、今日起こったビーチバレーの事を話したところで、俺は話を終わりにした。
「なるほど……そんな事をしてきたんだね。雪美とは最近会ってなかったから、どんな事をしてきたか知れてよかったよ。そうか……雪美がそんな事を……」
どこか嬉しそうにうっすらと微笑みながら、腰を曲げて前屈みになる。
その反応に少し不思議に思っていると、雹真さんが急に口を開く。
「彼女……雪美は大分変わったよ。それはきっと君の……いや、君達のお陰だね」
「変わった……?」
「ああ。……君は、雪美の才能の事を知っているかい?」
「才能……あの、何でも出来てしまうってやつですか?」
雹真さんがコクリと頷く。
「その才能のせいで、雪美はどこか人生というものに飽きていたんだろうね。毎日がつまらなそうで、正直いつか自ら命を絶ってしまうのではと、ヒヤヒヤしていたよ」
「命を絶つって……そんなにですか?」
「ああ。何も楽しくない……そんな感じだったよ。彼女の瞳には生気というものを感じられなかった。兄として、家族として、それを見るのは辛かったよ」
話しながらその時の事を思い出したのか、辛そうに眉間にシワを寄せる。
先輩は才能の事を割とあっさり話していたけど、そんなに凄かったのか……俺が先輩と会った時は、もう今と変わらない感じだったしな……
「……でも、今は違う。今の雪美の目は、とても楽しそうだ。あんなに表情豊かになるまでにね」
「表情豊かって……そうですか?」
「昔に比べたらかなりの変化さ。昔の彼女は、笑ったりしなかった。でも、君の話を聞く限り、雪美は相当笑うようになったみたいだしね」
笑うように、か……確かに、基本はクールな感じだけど、楽しい時は笑ったりするし、照れたりもする。俺からすれば、彼女はかなり表情豊かな人間だと思う。けど、過去はそうじゃなかった……先輩の過去って、どんなだったんだ?
「……雹真さん、少しいいですか?」
「ん? 何だい?」
「朝倉先輩の昔の事……もっと詳しく教えてくれませんか?」
「……それはどうしてかな?」
「その……俺は誰と付き合うかを決めてる最中です。その為には、朝倉先輩のその過去を知る必要がある……気がするんです」
俺は彼女達の事を知ると決めた。なら、彼女の過去も知らなきゃ駄目だ。他の四人と違って、先輩とは告白されるまで接点が一切無かった。今思うと俺は、朝倉雪美という人間を全然知らない。なら、これを機に俺は彼女の事を知りたい――そう思って、俺は問い掛けた。
雹真さんはその俺の言葉にしばらく沈黙すると、ニヤリと口角を上げる。
「なるほど……その心意気や良し。それは正しい事だと思うよ」
「じゃあ……」
「ただ――それは僕からは言えない。いや、言うべきでは無い」
そう口にすると雹真さんはゆっくり立ち上がり、コツリと靴を鳴らしながら席を離れ、辺りを歩きだす。
「それは君自身の言葉で、彼女自身から聞くべきだ」
「それって……?」
「僕とて、雪美の事を全ては理解していない。なら、それは彼女に直接聞くべきだ。雪美の全てを知りたいならね」
「先輩に直接……」
確かに、それはそうかもしれない。けど、それは先輩に過去の出来事を思い出させる事になる。それは先輩にとって嫌な事では無いか? それを聞く事で、彼女を傷付けてしまうのでは――そう思うと、俺はそれを聞く決断が出来なかった。
するとその俺の考えを察したのか、雹真さんは隣に立ち、俺の肩に手を乗せながら口を開く。
「恋の伝道師として、君に一つアドバイスだ。友希君、恋に遠慮は無用だ」
「え……」
「確かに余計な一言で相手を傷付けてしまうかもしれない。しかしその一言を言わなければ、何も知れない事もある。その一言を伝える事で、何か知れるかもしれない、発展するかもしれない。だから、気になる事は口に出すべきだ」
「雹真さん……」
「もし傷付けたり怒らせたりしたら、謝ればいいさ。僕もナンパの度に余計な事を言って、幾度と無く頭を下げたものだ。ハハハッ!」
そう高笑いする雹真さんを見たら、何だか自然と笑いが込み上がり、思わず吹き出してしまう。それを見た雹真さんは小さく笑みを浮かべ、俺から手を離す。
「安心しろ、雪美は君が思ってる以上に強い。その程度の事を聞いて落ち込む女では無いさ。だから聞いてこい。彼女を知りたいのならな」
「……はい」
雹真さんの言う通りだ。相手を気遣いすぎてたら、いつまで経っても彼女達を理解する事なんて出来ない。なら、臆せず聞くんだ、先輩の過去を。
「……ありがとうございます雹真さん。お陰で前に進めた気がします」
「構わないさ。僕としても君のような人が雪美の恋人になってくれれば嬉しい。彼女を変えた君が……ね」
そう言うと雹真さんはクルリと体の向きを変え、廊下へ続く扉へと歩き始める。
「さて、貴重な時間をありがとうね。僕はそろそろ失礼するよ。明日は早朝から島を出るのでね」
「え、もう帰るんですか?」
「ああ、こう見えて多忙だからね。妹によろしく伝えといてくれ。それでは、素敵な夜を」
手をブラブラと頭の上で揺らしながら、雹真さんはエントランスから立ち去っていった。
それを見送った後、俺はしばらくエントランスに残り、どうやって彼女の過去を聞くか考えていた。その最中、ポケットに入れたスマホが鳴りだす。画面を確認すると、朝倉先輩からメールが送られていた。内容は用事が済んだのでいつでも来てくれ――というものだった。
「……行くか」
スマホをポケットにねじ込み、朝倉先輩の部屋に向かった。
数分程歩くと、昨日部屋の場所を教えてもらった分かれ道に辿り着く。昨日俺が寝たのは右の男性陣の部屋なのだが、今日は違う。俺は曲がらずに、そのまま真っ直ぐに奥の部屋へ向かった。
一分程歩くと、他の部屋より若干扉が大きい部屋――朝倉先輩の部屋に到着する
この中で朝倉先輩が待ってるはずだ。それを考えると少し緊張して、鼓動が若干高鳴る。それを落ち着ける為に深く息を吸い、気持ちを整える。
「……よし」
覚悟を決め、扉へ手を掛ける。そのままゆっくりと扉を開いて、部屋の中に足を踏み入れる。部屋は男性陣の部屋とあまり大差は無かったが、ベッドは中央に大きいのが一つだけ。そして何故か天井の電気を点けておらず、明かりはベッドの近くの小さなライトだけで、少し薄暗かった。
「待ってたわ、友希君」
そのベッドには、白い薄手のワンピースタイプのパジャマを着た朝倉先輩が座っていた。髪を掻き上げる仕草についドキッとしてしまい、咄嗟に目を逸らす。
「フフッ、そんなに緊張しなくていいのよ。別に何もしないから。まあ、友希君が何かしたいなら、喜んでお受けするけど」
「冗談はよして下さい……」
「あら、冗談のつもりは無いわよ?」
先輩は楽しそうにクスクスと笑う。全く……からかうのが好きだなこの人。心臓に悪い……
とりあえずこのまま立っているのもあれなので、ゆっくりと歩き始めて彼女の隣に腰を下ろす。緊張のし過ぎで全身がガチガチで、恐らく表情も固まってるに違いない。どうにかしてその緊張を消し去ろうとしていると、先輩がそっと俺の手を握り、微笑む。
「手汗、凄いわよ? そんなに緊張してるのね」
「それは……まあ、当然でしょう……」
「そう。でも、緊張してくれてるって事は、私を女性として意識してくれてるって事よね?」
その問いに、俺は言葉を返さずに――というか返せずに口を噤み、視線を少しだけ先輩へ向ける。
先輩の服はかなり薄く、胸元が若干透けてる。そしてそこからチラリと見える無防備な谷間。こんなの緊張しない方が無茶だ。ただでさえ美人で緊張するのに……
「図星かしら?」
「……ご想像にお任せします」
「じゃあ、そういう事だと考えとくわ。でももし本当にそうなら……嬉しい事ね」
小さく呟くと、少し頬を染める。……時々こういう可愛らしさを見せるのもまたズルい。
部屋に入ってものの数分で緊張の度合いがマックスだ。この後同じベッドで寝る事なんて出来るのだろうか――そう心配になりながらも、俺は別の事も考えていた。
そう、朝倉先輩から過去の事をいつ、どのように聞くかだ。明日以降というのもありだが、出来るなら今日中に聞いておきたい。そうじゃないと、心にモヤモヤした感覚が残って、この後の三日間を楽しめない。たがらこそ、今日の内にスッキリさせておきたい。
「……あの――」
「ねぇ友希君」
意を決し切り出そうとした瞬間、先輩がおもむろに口を開く。
「あ、ごめんなさい。先にどうぞ」
「あ、いいんです別に。先輩の方からどうぞ!」
「そう? なら遠慮無く」
出鼻を挫かれてしまった……タイミングを見計らうんだったな。でも先輩、いきなり何だろう?
彼女が何を話すのか、それが気になりつつ耳を向ける。先輩はコホンと咳払いをして気を取り直すと、背筋をピンと伸ばし、俺を見据える。
「私ね……数年前まではこんな幸福が訪れるとは思わなかったわ」
「それって……?」
「数年前まで、毎日がつまらなかった。けれど、今は毎日が楽しい。友希君との未来を考える事、友希君と一緒にした事、友希君とこうして居る事が――とても幸せなの。だから……」
不意に、先輩はピタッと口の動きを止め、そっと視線を逸らす。
「いきなり何を話してるのかしら、私……ごめんなさい、今のは忘れて。少し気持ちが高揚し過ぎたみたい」
「先輩……」
今の言葉……きっと、先輩は過去の事を思い返したんだろう。何を思ってそれを口にしたかは分からない。けどその先の言葉は、多分俺が求めているものだ。
「……先輩、続けて下さい」
「え……?」
「その……雹真さんから少し聞きました。先輩の……昔の事」
「そう……お兄様、余計な事を言ってくれるわね」
「でも、全部は聞いてません。後は先輩に直接聞けって……」
先輩の手を握り返し、真っ直ぐ彼女の目を見つめる。先輩それに少しビックリしたような反応を見せながら、見つめ返す。
「俺、先輩の過去を知りたいです。しっかりと答えを出す為に、全部を知らなきゃいけないんです。だから……!」
「……本当に、友希君は大真面目な人ね」
クスリと笑みを見せると、真剣な眼差しを俺に向ける。
「少し長くなるけど、聞いてくれるかしら?」
「……そのつもりです」
「ありがとう。それじゃあ、全て話すわ。私があなたと出会うまで、どんな思いで生きてきたか。そしてあなたと出会って――好きになって、どう変わったかを」
少しシリアスムードな展開。会長さんが語る過去とは? 次回へ続く。