上の階から、女性の泣き声が聞こえてくる。声の大きさは微々たるものだが、この声の主は間違えなく出雲ちゃんだ。そして彼女が泣いている理由は、きっと先の事が原因。つまり彼女を泣かせてしまったのは、俺という事になる。
分かってはいた。この答えを彼女達に伝えれば、こうなってしまう事などとうに理解していた。しかし、実際にこうして彼女が悲しんでいる事が、大声を上げて涙を流している事が伝わって来ると、想像していたよりも何倍も心が痛む。
出来る事なら今すぐにでも悲しんでいる彼女を慰めてやりたい。でも、俺にはその権利は無いし、してはいけない。だから今の俺には彼女の悲しむ姿に背を向けて、前に進むしかない。他の二人にも、同じ思いを味合わせるとしても。
しばらくすると、落ち着きを取り戻したのか、出雲ちゃんの泣き声が止む。それをきっかけに、俺は教室にある時計に目をやる。
「……遅いな」
あれからそれなりに時間は経ったはずなのに、本来ここに呼び出したはずの彼女はまだこの教室に姿を見せない。
何かあったのか、それともここに来ることを躊躇っているのか……どちらにしても、このまま彼女が来ないのならばここに居ても時間の無駄になってしまう。まだ他にも待たせている相手が居るのだから。
ここには改めて顔を見せるとして、移動しようかと思ったその時だった。不意に教室の扉が開いた。
「……待たせてしまったな」
そう、覇気の薄い声を上げながら、ポニーテールの少女――待ち人である海子は教室の中に入って来る。いつもは凛々しく強気な面持ちの彼女だが、今はどこか不安気な表情で、立ち姿もどこか弱々しい。
「悪いな、ここにはお前が来る前に来てはいたんだが、少し席を外していた」
「そっか。……大丈夫か?」
俺が聞いてもいいものかと迷ったが、思い切って問い掛けてみる。すると海子は震えを抑えるかのように自分の左腕を掴み、薄ら笑いを浮かべる。
「正直、大丈夫じゃないかもしれないな……さっき、大宮の声が聞こえてきた。……つまり、そういう事なんだろう?」
「……ああ」
「そうか……ついに、来たんだな」
海子は深く俯き、左腕を掴んでいる手にギュッと力を込めた。
「ずっと待っていたはずなのに、覚悟していたはずなのに……実際にこの時が来ると、こんなにも怖くてたまらないとはな……ここを離れたのも、正直答えを聞くのが怖かったんだ。期待と不安が入り混じって、心がどうにかなってしまいそうだよ。全く、情けなくて仕方が無い」
「海子……それは――」
それは俺も同じだよ――そう言い掛けた口を無理やり閉じるように、俺は唇を噛んだ。
同じなんかじゃない。俺は答えを知っている。だからどんな結末になるのかも、大体分かっている。でも、彼女は何も知らないんだ。俺の答えも、それでどんな結末になるのかも、自分がどんな思いをするのかも。そんな恐怖と、彼女は向き合っているんだ。俺が抱く恐怖なんかと、比べてはいけない。
「……すまない、こんな事を言ってしまっては、お前を困らせてしまうだけだな。……もう、決まっているのだろう?」
「……だから、ここに来た」
「ああ、そうだな……」
と、海子はどこか物悲しそうな笑みを作りながら、辺りを見渡す。
「思えばここから始まったんだな、私の恋を実らせる為の努力が。ここでお前にずっと秘めていた思いを伝えて、そこからお前に好きになってもらう為に、色々な努力をしてきた。恥ずかしくても自分なりに勇気を出して、精一杯頑張った。我ながらよくやれたよ」
今までの事を思い出したのか、海子はクスリと笑う。
「あれ以降、本当に色々な事があった。お前は、覚えているか?」
「ああ……もちろん覚えてるさ。海子が笑っていたり、楽しんでいたり、怯えてたり、恥ずかしがってたり……色んな海子の顔、しっかり覚えてる」
「い、いくつかは忘れてくれて構わん! ……でも、そうだな。お前と一緒に居ると、私は色んな一面を表に出せた気がする。時にはみっともなかったり、恥ずかしいものも見せたかもしれない。でも、全部良い思い出だよ。初めてだらけで苦労しながらも、努力を続けた毎日は」
「……そっか」
「……でも、もう答えを聞くだけなんだな。もう、どう足掻いても結果は変わらないんだな」
その海子の自分に言い聞かせるようにも、問い掛けにも聞こえる言葉に、俺は無言で頷いた。すると海子は大きく息を吸い込み、突然力強く自分の頬を叩く。
「……駄目だな、こんな弱気な事ばかり言っては。後ろ向きになるのは終わりだ。頼む友希、私に聞かせてくれ、お前の決めた答えを。私は、それに向き合う」
「……ああ」
俺も彼女のように向き合う為、恐れを抑え込めて答えを、自分の思いを口にした。彼女の努力を無駄にしてしまう、残酷な答えを。
「俺さ、ちょっとだけ海子に憧れてるところがあるんだ。どんな事にも真剣で、諦めないで努力を続けるお前の姿がさ。そんなお前を見てると、俺も頑張んなきゃって思うんだ。だからそんな姿をもっと見ていたい、そして出来る事なら力になって、支えになってやりたいとも思った。海子は強いけど、色々と弱い一面もあるって事を、この一年間で見てきたからさ」
「友希……」
海子はどことなく嬉しそうに呟く。しかし俺が告げるのは、支えるとは正反対の、彼女を突き落とす答え。
もしかしたら彼女はその言葉に挫けてしまうかもしれない。それでも、伝えなくてはいけない。彼女がまた立ち上がる為に。
「……だけど、俺が一番側で支えたい人が、俺には居る。だから……ごめん」
「…………そう、か。私は、お前の一番には、なれなかったんだな……」
その細々とした呟きに、俺は何も返せなかった。
「……その、お前の一番は、誰だったんだ?」
「……陽菜だ。俺は、あいつを支えていたい」
「陽菜、か……過ごした時間の長さには、敵わなかったか……」
だんだんと小さくなる声に、俺は彼女に何か声を掛けようと顔を上げる。が、それを制止するかのように、海子が右手を前に突き出す。
「言葉は不要だ。お前は自分でしっかり答えを見出しただけだ。自分の願いが叶わなかったのは、私の努力不足だ。だから、お前も、もちろん陽菜も、誰も悪くなんか無い。だから何も言わないで、お前は胸を張ってくれ。それが、私の願いだ」
「海子……」
「心配するな。私は大丈夫だ。強く生きると、決めたからな」
そう言う海子の瞳は微かに揺れ動いていた。今にも涙が零れそうなほどに。
「……ほら、まだ終わっていないんだろう? 早く行くといい。全て、終わらせる為にな」
「…………」
「早く行け! ……頼むから、行ってくれ」
涙ぐんだ海子の声に、俺は無言でその場を立ち去る以外の選択肢は無かった。彼女は見られたく無いんだ。自分の、涙を流す姿を。
だから俺は海子の顔から目を背け、黙って教室の外に向かった。
「――友希!」
が、廊下に出ると同時に、海子が大きな声で俺を呼ぶ。振り返ると、背を向けたまま海子が言葉を続ける。
「私は……私は弱くて、全てから逃げてしまうような人間だった。でも、お前と出会って、変わろうと思えた。変わろうと頑張った。今の私があるのは、間違いなくお前のお陰だ。だから、これだけは言わせてくれ。……ありがとう、友希」
「…………」
海子の言葉に、俺は何も返さずに……いや、返すことが出来ずに、そのまま教室を後にした。彼女が見せたくない姿を見ない為に、彼女が再び、立ち上がる事を信じて。
◆◆◆
友希が教室から立ち去ってから、どれぐらいの時間が経っただろう。まだ一分も経っていないかもしれない。もしかしたら、もう一時間も経っているかもしれない。そんな感覚さえ分からなくなるほどに、私の頭は真っ白に染まっていた。
何も考える事も出来ずに、ただそこに呆然と立ち尽くすだけ。自分がどんな状況なのか、周囲がどんな状況なのかも理解出来ない。ただ一つ理解出来た事は、私は先刻、友希に振られたという事実のみだった。
認めたくない、信じたくない、夢であってほしい。そう強く願っても、さっき友希に告げられた言葉は、逃げるなと言わんばかりに脳裏にへばり付き、何回も何回も繰り返し私に真実を伝え続けた。
私の恋は叶わなかった、と。
「……ハハッ……あれだけ頑張ったのに、こんなにもあっさりと散ってしまうとはな……」
ずっと願い続けた、憧れ続けた友希と一緒に歩む未来。そこを目指して、私はここまで全力で走り続けてきた。
友希に好意を向けてもらう為に、恥ずかしくても、照れ臭くても、慣れないアピールを必死にやってきたつもりだ。他のみんなに負けないように懸命に自分を磨き続けてきたつもりだ。そして他の誰よりも、彼を愛してきたつもりだ。
でも、私は負けてしまった。今までの全ては願いを叶えるには至らず、友希と未来を歩む権利を手にしたのは、陽菜というのが現実だ。
さっき友希に言った通り、このような結果になったのは、誰が悪い訳では無い。ただ単に、私の努力が足りなかったから、ただ単に陽菜が彼の愛情を勝ち取っただけ。正々堂々と競い合い、勝利しただけなのだから。
でも……それでも――
「……すまない、陽菜。私は……お前の事が、嫌いになってしまいそうだ……」
私の愛する人と共にこの先を歩む彼女の事が、羨ましくて、妬ましくて堪らなかった。彼女さえ居なければと、嫌でもそんな考えが浮かんでしまう。彼女は悪くないと理解しても、感情は彼女に対して敵意を向けていた。
でも、いつまでもこの感情を抱いていてはいけない。私は陽菜の、そして友希の友人として、彼女達を祝福しなくてはならない。そして強く、前を向いて進み続けなければならない。それがきっと苦悩しながらも答えを出してくれた、友希の為だから。
「悲しんでなんか、いられない……強く、生き続けるんだ。私は強くなると、決めたのだから」
零れそうな涙を堪えるように天井を仰ぎ見て、グッと拳に力を込める。
「――別にいーんじゃねーの? 少しぐらい弱音吐いても」
その時、不意に廊下から楽観的な声が飛んでくる。振り返ると、そこには扉の縁に寄り掛かった太刀凪先輩と、薫の姿があった。
「なっ……!? どうして、二人がここに……!?」
「いやー、祐吾の野郎から連絡貰ってさ。万が一の時は私達で海子の事支えてやってくれって頼まれてさ」
「あ、言っちゃうんですねそれ……ま、そういう事だよ」
「新庄の奴が……気の回る奴だな……わざわざ、ありがとうございます。でも、私は大丈夫です。もう、前に進めます」
「……噓つけ」
と、太刀凪先輩が呆れたような口調で言う。
「あえて遠慮無しに言わせてもらうけど、お前はそんな簡単に立ち直れるような奴じゃない。今だって、泣きたくて仕方無いだろ? 不満や文句言いたくて仕方無いだろ? だったら溜め込んでないで、全部ぶちまけちまえよ」
「太刀凪先輩……で、でも、私は強くなるって、変わるって決めたんです! もう昔みたいな……泣き虫には、なりたくないんです! だから、私は……!」
「……あのな、別に泣くのを我慢するのが強いって訳じゃないだろうが」
堂々とした仁王立ちで私の前に位置取った先輩は、説教するような口調で、続けて言った。
「本当に強い奴ってのはな、泣きたい時に思いっきり泣いて、そんでもってもう一回立ち上がって前に進める奴の事を言うんだよ。泣きたいぐらい悲しいのに、不満をぶちまけたいのに我慢してる奴は強い奴じゃなくて、ただの強がりな奴だ」
「強がり……」
「燕先輩の言う通り。そのままじゃ海子、ただの強がりだよ。泣きたいなら、思いっきり泣いちゃえばいいじゃんよ。ほら、昔道場通ってた頃も、よく怪我して泣いてたじゃん。それでも頑張り続けたから、今の海子がある。違う?」
「それは……」
「だからさ、思いっきり泣いちゃいなよ。私と先輩は、海子の涙は見慣れてるから、気にすんなって」
そう優しい声色を掛けながら、薫は肩を組んでくる。太刀凪先輩も、反対側から同じように肩を組んでくる。
「そうだそうだ! 思いっきり泣け泣け! 不満ぶちまけろ! どーんっと、アタシらの胸で受け止めてやるよ。包容力抜群だぜ?」
「燕先輩、軽いなぁ……まあ、そういうこった。どうするかは、海子次第」
「…………ありがとう、二人とも……」
そうだ、今は……今ぐらいは、泣き虫な海子に戻っても……構わないよな。
二人の言葉に私を支えていた強がりは崩れ去り、堪えていた涙が、一気に頬を伝った。
「ぐぅっ……わあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! ずっと、ずっと好きだったのに、ずっとずっと思い続けてきたのにぃ! それなのに友希は私を好きになってくれなかった! 陽菜が好きだって、一番じゃないって……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!! 私だって、私だって……ずっと昔から友希の事が好きだったんだぞ! なのに急に出て来て幼なじみだとか言って、ずっと前から友希が好きだったとか……ズルいじゃないか馬鹿ぁ! ああああああああああああぁ!!」
「アッハッハ! いい叫びっぷりじゃん! そのまま全部ぶちまけちまえ!」
「うぐっ……あああああああああああああああぁぁぁあ!!」
きっと、今の私はとっても情けないだろう。周りも気にせず泣き喚いて、言いたい放題ぶちまけている。
でも、これでいいんだ。全てぶちまければ、きっとまた前を向ける。進み出せる。だから今は、全てをぶちまけよう。心に溜まった不満や悲しみを。また新しい私に、生まれ変わる為に。