耳元で鳴り響くアラーム音に、眠りについていた意識がゆっくりと覚醒していく。布団に潜ったまま手探りで音の発生源を探し、手の甲に当たったそれをすぐさま止める。再び静寂に包まれた自室。その中で、俺は枕に顔を埋めて、しばらくジッと動かずにボーっとする。
今日は日曜日だが、午後からバイトがある。もし遅刻しようものなら、千鶴さんによるお仕置きが俺を襲うだろう。なので二度寝したい気分どうにか抑え込んで、布団を剥いで起き上がる。
カーテンを開けて差し込む日差しを浴びてある程度目を覚ましてから、部屋を出てリビングへ向かう。
「んっ、おはよーお兄ちゃん」
リビングにはいつも通り友香の姿が。彼女はソファーに座り、テレビを観ながら軽い挨拶を口にして、直後に手元に置いてあったラッピングされた箱のような物を俺に向かって差し出した。
「これ。忘れない内に渡しとく。既製品だけどいいでしょ?」
「……なんだこれ?」
「なんだって、バレンタインのチョコだよ。可愛い妹からチョコ貰っといてその反応は流石に無いんじゃないの?」
「ああ……そうか。ありがとうな。……そっか、もうバレンタインか」
ここのところ色々あってすっかり忘れていたが、友香の言う通り今日は2月14日――最早日本の定番イベントと言っても過言では無い、バレンタインデーだ。そして俺にとっては、こないだの天城とのデートから、丁度一週間経った日でもある。
時が流れるのは早いものだなと、友香から受け取ったチョコを眺めながら、この一ヶ月弱も合間にあった、彼女達とのデートを思い返す。
あのデートで、彼女達がどんな人なのかを改めて理解も出来た。そして俺が彼女達に対して抱く気持ちというものが見えた気がする。
俺は彼女達に対して何をしてあげたいのか、彼女達とどんな事をしている時が俺にとって幸福なのか、彼女達のどんなところが好きなのか――そして、その数ある幸せの中で俺にとって何が一番の幸せかという事が、あのデートを経験してようやく実感出来た気がする。
だから、あとは俺が答えを出すだけ。自分の気持ちを彼女達に告げて、全てに決着を付けるだけ。なのに、そのあと一歩がどうしても踏み出せなかった。
正直に言うと、彼女達の中の誰を選んだとしても、俺は幸せな未来を歩めると思う。彼女達それぞれに、幸せと思える事、してあげたい事、好きだと思うところがあるから。ぶっちゃけると、まだ少し悩んでいるところもある。
でも、それじゃあ駄目なんだ。俺は選ばなくてはならない。目の前に見える幸せの中で俺が手を伸ばし掴めるのは……いや、掴んでいいのはただ一つのみ。数ある幸せの中から、俺は一番を選ばなくてはならないんだ。他の四人を裏切って。
この問題についてずっと考えてきたけど、結局最後までこの問題にぶち当たる訳か……分かってはいたけど、改めて選択の時が来ると、これほどまでに辛いとはな。
改めて自身の優柔不断さに我ながら呆れていると、不意に友香が話し掛けてくる。
「なーに難しい顔してるの? あれ? きっと出雲達からもチョコ貰うだろうし、大変だろうなー、とか考えてたの?」
「え? ああ、まあ……それもあるかな」
バレンタインは好きな人にチョコを送って思いを伝える、というのが主なコンセプトだ。ならば当然、今日は休日だから明日になるかもしれないが、彼女達も俺に対してチョコを用意してるに違いないだろう。
きっと彼女達は、俺に対する愛情を込めてそのチョコを用意するのだろう。もちろん素直に嬉しい。けど……結局俺がそれに応えられるのは、一人だけなのだから。他の四人の思いを無駄にしてしまうのは――
「――申し訳無い……って?」
俺の思考を感じ取ったのか、友香がそう口にする。
「全く、お兄ちゃんは相も変わらず糞真面目だね。そんなの、向こうだって承知の上だよ。それでも彼女達は、きっと思いを告げるのを止めない。だってお兄ちゃんが好きだから。無駄になるその瞬間……お兄ちゃんに答えを告げられるまではその気持ちは捨てない。そんなの分かってるでしょ?」
「それは……」
「だからさ、お兄ちゃんは最後の最後まであの人たちの気持ちを受け取って、思いっきり悩んで、答えを決めればいいよ。それが、お兄ちゃん達が目指してるゴールでしょ?」
「……ああ、そうだな。ありがとうな、友香」
「……どーいたしまして」
素っ気無く言いながら、友香はテレビの方へ視線を逸らす。
そうだ、あとは決めるだけなんだ。最後も思い切り悩めばいいさ。最後の一歩を後悔しない為に。踏み出せばもう、戻れないのだから。
「……決意を固めるのもいーけど、早くしないとバイトに遅れるよー」
「ゲッ、そうだった……!」
彼女達との事も大事だが、その前に今日のバイトだ。母さんも居ないので、慌てて冷凍食品などを用意して昼食をささっと済ませて、家を飛び出して太刀凪書店へと向かった。
◆◆◆
「あっ……せ、世名君、お疲れ様!」
午後五時過ぎ――太刀凪書店での仕事が一通り終わり、帰り支度を済ませて店を出ようとした時、丁度同じタイミングで出て来た天城が声を掛けてくる。ほんの微かに上ずって、どこか緊張したような彼女の様子を少し不思議に思いながらも、俺は軽く返事をする。
「ああ、お疲れ様。今から帰りか?」
「う、うん! 世名君は、このまま家に?」
「ん? まあ、そのつもりだよ。疲れたし、帰ってゆっくり休むかな」
「そ、そっか……」
天城は両手を背中に回しながらモジモジと体を動かし、視線を斜め下に落とす。そしてしばらくすると、何か覚悟を決めたようにグッと表情に力を込めて、大きく口を開く。
「せ、世名君! ちょっとだけ、時間貰っていいかな……?」
「えっ……別にいいけど……」
「あ、ありがとう。えっと……ちょっと待っててね」
左手を胸に当てながら、すーはー、っと大きく深呼吸を繰り返す。数回ほどしたところで、天城は再び表情を引き締める。そのまま背後に回した右手と左手を素早く前に出しながら、真っ赤な顔を隠すように深く頭を下げた。
「こ、これ! ば、バレンタインのチョコレート! 受け取って下さい!」
と、若干震えた声と共に天城が差し出したのは、可愛らしいピンクのリボンでラッピングされた箱だった。
そうだ……仕事の疲れで頭からすっぽり抜けていたけど、バレンタインだったな。天城は今日俺とシフトが同じだって分かってたんだから、当然バレンタイン当日にチョコを渡すために持参してくるよな。
今までバレンタインにチョコを貰うという事は無くは無かったが、こうして一対一で、しかもいわゆる本命チョコと分かり切った物を貰うのは初めての経験だ。なのでどう反応したらいいか一瞬悩んだが、このままの状態で天城を放置する訳にもいかないので、とりあえず彼女の持つチョコを受けとる。
「ありがとうな、天城。なんというか……嬉しいよ、うん」
「ど、どういたしまして! お、美味しく出来てるかどうかは分からないけど、食べてね!」
「もちろん。って、これって天城の手作りなのか?」
「う、うん! チョコを手作りするのは初めてだったけど、好きな人にあげるなら、やっぱり手作りがいいかなって……頑張ったの」
人差し指をツンツンさせながら、照れ臭そうに言う。
「そっか……大切に頂くよ」
「そうしてもらえると、嬉しいな。……はぁぁぁぁぁ……」
ふと、天城は脱力したように背中を折り曲げ、深く深く息を吐きだす。
「ど、どうかしたか……?」
「あ、あはは……なんだか糸が切れたというか、安心したというか……私、バレンタインに男の子にチョコを渡すなんて、初めての経験だったから」
「そうなのか?」
「うん。今まではそんな事考えた事も無かったし、する気も無かったし。でも、今回は一生懸命頑張って、こうして世名君にチョコを渡すことも出来た。フフッ……男の子に、好きな人にチョコを渡すのって、こんなにも緊張するものなんだね。でもなんだろう……ただチョコを渡すってだけなのに、凄く嬉しいや」
口元に手を添えながら、天城はクスリと嬉しそうに微笑む。
「今までの事も、全部そう。二人でお出掛けする事も、同じ場所で働く事も、一緒にお料理を作る事も、手を繋いだり、お話する事も……全部なんて事無い事なのに、凄く嬉しくて、楽しい。好きな人とする事って……こんなにも特別になるんだね」
「天城……」
「私、やっぱり世名君に会えてよかった。好きになれてよかった。何回も同じ事言ってるかもしれないけど、私にとってそれだけ嬉しくて、素晴らしい事なんだよ。だから……改めてありがとうね、世名君。色んな初めてを、特別を、楽しいを味合わせてくれて。お陰で私……とっても幸せだよ」
後ろで手を組み、微かに体を右に傾けながら、天城はニッコリと曇りの無い笑顔を浮かべる。
「……あの――」
「って、ごめんね! また変な事言っちゃって! あー、駄目だな私……気持ちが昂っちゃうと、勝手に口が動いちゃう……」
「いや、それは全然構わないけど……」
「えっと……あ、私そういえばお母さんにお買い物頼まれてるんだった! チョコも渡せたし、そろそろ行くね! バイバイ世名君! また明日!」
照れが限界に達したのか、天城は早々と手を振って、そそくさと俺の前から姿を消した。
「あっ……行っちゃったか……」
天城が去った方を暫し見据えてから、俺は天城から受け取ったチョコに視線を落とす。
「……家でゆっくり食うか」
何かを思考しかけたが、それを俺は自主的に打ち切り、チョコを鞄にしまって俺も店を後にして、家路へ向かった。
◆◆◆
「ん? あれは……」
家へ向かって帰路を歩いていた途中。家まで残り数百メートル数といったところで、俺はある人物を見掛けて足を止めた。
その人物は誰も居ない住宅街の通路の真ん中で、何やら落ち着かない様子で何度も何度も同じところを往復していた。時折足を止め、道の先を覗き込むように見据え、先に進もうとしたと思いきや反転して再び往復行動を繰り返す。そんな事を俺が発見してからの約一分足らずで何回も行っていた。
一体何をしているのだろうと不審に思ったが、その人物が手に持っている物を見て大体の事を察する事が出来た俺は未だウロウロする彼女――海子へ近寄り、声を掛けた。
「何してんだよ、こんなとこでさ」
「うひゃあ!? とと、友希……!? どうしてお前が!? お前の家はあっち……」
ビックリしながら、海子は先ほどから何度も見ていた方角、俺の家の方を指差す。
「俺はバイト帰りだよ」
「ば、バイト……? そ、そうか……そうだった……その事を全く考えて無かった……」
「……で、何をしてるんだ?」
答えは粗方予想は出来ているが、あえてそう問い掛ける。
「へ!? わ、私か!? わ、私は、その……きゅ、休日だし、少し散歩に……」
「……同じところを何度もグルグル回るなんて、随分変わった散歩だな」
「うっ……み、見ていたのか……その、これはだな……」
どぎまぎと視線を泳がせる海子。
流石にこれ以上はかわいそうだなと、こちらから話を進ませようとした直前。
「ううっ……ああっ! まどろっこしいのは無しだ!」
突然、何かが吹っ切れたように大声を上げ、海子はそっぽを向きながら右手に持つそれを、ぶっきらぼうに突き出した。
「きょ、今日はこれをお前に渡しに来たんだ! その……だ、黙って受け取れ!」
「……お、おう……ありがとう……」
勢いに思わず呆気に取られたが、海子の手から小さな袋を受け取る。
「……そ、それがなんだか分かってるだろうな?」
「え? バレンタインのチョコ……だよな?」
「わ、分かってるなら、いい……」
「お、おう……」
俺と海子の間に、シンっと静まり返った気まずい空気が。互いにしばらく沈黙を貫いたが、海子が顔を逸らしながら口を開く。
「わ、悪いな……こんな空気にしてしまって……」
「いいよ別に。なんというか……もう慣れたよ」
「うっ……そうか……はぁ、私は相変わらずだな……折角、ようやくお前にチョコを渡す事が出来たのにな……」
「……? どういう意味だ?」
「それは……引いたりしないか?」
海子の確認に疑問を抱きながら、俺は首を縦に振る。
「……私がずっと前からお前に話し掛けようとしてたというのは、もう知ってるだろう? それでだな……早い話、お前を見つけてから毎年、私はチョコを作ってお前に渡そうとしてたんだ。それをキッカケに、と思ってな」
「そうだったのか? 全然知らなかった……」
「だろうな。結局勇気が出なくて、毎回私の胃袋の中に消えていたのだから」
当時を思い出したのか、乾いた笑い声が海子の口からこぼれる。
「毎年毎年……前に踏み出そうとして、やっぱりその場で足踏みしての繰り返し……本当に、私は臆病者の弱虫なんだなと、自分で自分が嫌になってたよ」
「海子……」
「でも……去年勇気を出して、ああして思いを伝える事が出来た。そうしたら、毎日がとても輝いた。お前と言葉を交わせるのが、お前が私を見てくれるのが、たまらなく嬉しかった。勇気を出してよかったなって、心の底から思う」
グッと胸に手を押し当て、クシャっとした笑みを浮かべる。
「なあ、友希。お前は私からチョコを貰って……嬉しいか?」
「えっ……それはまあ……嬉しい、けど……」
「そうか……なら、勇気を出して渡してよかった。お前が喜んでくれたのなら、な。……さて、用も済んだし、私はそろそろ戻るとする」
言いながら俺の横を通り過ぎる。
「も、もうか?」
「ああ。まだまだ話したい事も沢山あるが、あまり長く引き止めておく訳にもいかない。それに今は、私がお前を独り占めする訳にもいかないからな」
「あっ……」
「そんな顔をするな。あくまで今は、だ。その内……それこそ来年のバレンタインには、お前を独り占めしてみせるさ」
「…………」
その言葉に俺はどう返していいか分からず、黙って目を逸らした。海子も俺の心情を察してか、それ以上は何も言わず、手を振ってその場を立ち去った。
俺も彼女の姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くし、少し経ってから家に向かった。
それから程無く、自宅に到着。家には友香が居るはずなので、そのまま扉を開けて家の中に入る。靴を脱ぎ、自室に直行しようとした寸前、玄関に友香の物とは違う女性ものの靴があるのに気が付き、階段に向けていた足を止める。
その靴には見覚えがあったので、誰の物かはすぐに理解する事が出来た。それがここにあるという事は、この靴の持ち主が今我が家に来ているという事になる。そして恐らく、その人物の目的は俺にある。ならばあまり待たせず、早く会いに行った方が良いだろう。
そんな事を約五秒ほど思考した俺は、行き先を自室からリビングへと変更して、真っ直ぐ足を進めた。
「――あ、先輩お帰りなさい! 待ってましたよー!」
リビングの扉を開けてすぐに、明るく元気な声が俺を出迎えたのは予想した通り、出雲ちゃんだった。彼女は友香と横並びで座っていたソファーから飛び出すように立ち上がり、俺の方へ駆け足で近寄って来る。
「お仕事お疲れ様です! ささっ、とりあえず座って下さい!」
「出雲、ここあんたの家じゃないでしょうが」
「細かい事はいーじゃん! ほら、先輩早く!」
と、出雲ちゃんは俺の手を掴み、ソファーのところまで引っ張る。彼女に促されるまま俺はソファーに腰を下ろし、出雲ちゃんも隣に座って、ピッタリと密着してくる。
「はぁ……出雲は相変わらず行動力があるというか……少しは自重しなよ」
「これが私のやり方だし! 自重なんてしないよ!」
「それは結構。じゃ、私は部屋に行ってるから、後はご自由に」
ブラブラと力無く右手を振りながら、友香はソファーから離れる。
「お、おい、どこ行くんだよ」
「部屋って言ったじゃん」
「じゃなくて、出雲ちゃん置いて一人で……」
「今日の私はあくまで繋ぎ。出雲の目的がお兄ちゃんだって事ぐらい、分かってるでしょ? だから、第三者は席を外すの。じゃ、ごゆっくりー」
再度適当に手を振って、友香はリビングを立ち去る。
「気を使わせちゃったみたいですね。……という訳で! 早速本題に移らせてもらいますね! 先輩、何かは分かってますよね?」
「まあ……大体は」
「なら話は早いです! はい、先輩!」
ソファーの上に置いてあった鞄から透明の包みを取り出して、それを手の平に乗せて差し出す。中身はもちろん、チョコレートだ。
「バレンタインのチョコです! とーぜん、愛情たっぷりの手作りですよ! 受け取って下さい!」
「ああ、ありがとう出雲ちゃん。…………」
「ん? どうかしましたか、先輩」
「いや、去年までも出雲ちゃんからはチョコを貰ってはいたけど、こうして一対一で渡されるのは初めてだなーって」
「確かに……言われてみればそうですね。去年までは、愛莉と悠奈、それに友香と一緒にでしたからね」
去年のバレンタインまでは、俺と出雲ちゃんは妹の友達、友達の兄という関係性だった。だからチョコを貰っても、義理チョコ程度の認識だった。けど、実際はきっと違ったのだろう。だって出雲ちゃんはその時から――
「でも、私は去年もちゃんと、本命チョコのつもりでしたよ! 恥ずかしかったから、気持ちを伝えるとかは出来ませんでしたけど……でも、しっかり愛情込めて作ってましたよ!」
「……ああ、それは分かってる。でもまさか……出雲ちゃんからいわゆる本命チョコを貰う……いや、貰ってたなんて、思いもしてなかったな」
「……正直に言うと、私もそう思ってました。少なくとも学校に通ってる間は、去年みたいに愛莉達と一緒に先輩にチョコを渡し続けるんだろうなって。ちょっと前までは告白なんて、遠い未来の話だと思ってた。あの時は、友達の兄と妹の友達って関係性でも十分に幸せだったから」
そこで言葉を切り、出雲ちゃんは微笑みながら俺の肩に自分の頭を乗せる。
「でも……今こうして先輩に真正面から自分の気持ちを隠さずに伝えられるのが、すっごく嬉しい。理想とは大分違う形にはなってるけど、先輩に自分の思いを打ち明けてよかったです。だってこうして先輩を大好きって先輩に言えるのが、たまらなく幸せですから」
「…………」
「私、これからも先輩に大好きって伝えたい。ずっと隣で、誰よりも近くで。だからその為に……私、頑張っちゃいますからね!」
「出雲ちゃん……」
「……さて! 友香をあんまり引き籠もらせるのも悪いし、私はそろそろ帰りますね!」
一瞬寂し気な顔を見せながらも、出雲ちゃんは明るく言いながらソファーから立ち上がる。
「えっ、もう帰るのか?」
「本当なら、もうちょっと先輩とお話したいですよ! でも……あんまり長く居座ってると、会いたくない人と出会うかもしれませんしね」
「それって……?」
「今日はもう目的を果たしましたし、沢山お喋りするのはまた明日です! 先輩! 私のチョコ、残しちゃ駄目ですからね!」
「……ああ、美味しく頂くよ」
「はい!」
満足気な笑顔を見せ、出雲ちゃんは玄関に向かって歩き出す。俺も彼女を見送る為に席を立ち、玄関に向かう。
「それじゃあ先輩、また明日です!」
「ああ、また明日」
最後にその言葉を交わし、出雲ちゃんは外に出た。見送ってから数秒経ってから、俺は改めてリビングに戻り、放置しっぱなしの荷物を回収してから自室へ向かう。
荷物の中から天城、海子から貰ったチョコを取り出し、先ほど出雲ちゃんに貰ったチョコと一緒に机の上に並べる。
そのチョコを暫し眺めてから、着替えようと上着を脱ぎ捨てたその瞬間、家のインターホンが鳴り響く。
「誰だろ……」
着替えを中断して、部屋から玄関に移動。「はーい」と適当に言いながら扉を開くと、目の前に高級感のある黒づくめの袋を提げた一人の女性が姿を現した。
「こんにちは友希君。いや、時間帯的には、もうこんばんはの方がいいのかしら?」
「あ、朝倉先輩……!? こんな時間に……」
どうしたんですか――そう言い掛けたが、すぐに来訪の目的を察した俺は言葉がこぼれる寸前で口を閉じ、直後に先輩がその回答を口にした。
「悪いわね、こんな時間に。実はこれをあなたに渡しに来たの」
言って、先輩は手に提げた袋を前に出す。
「聞いた話によると、今日は愛する人にチョコレートを贈る日なんでしょう? だから、私も愛しの友希君にチョコレートを渡しに来たの。受け取ってくれるかしら?」
「は、はい、それはもちろん。……これ、手作りですか?」
「手作りの方がいいと聞いたから、一応私も自分で作ったけれど……そうじゃない方が良かったかしら?」
「いえ、そんな事無いですよ! ただ、あんまり高級な物だと、受け取るのが恐れ多いというか……」
「あら、そんな事気にする必要無いわ。友希君が望むのなら、最高級のチョコレートを手配してもいいのよ? なんてね」
先輩の冗談に思えない冗談に、つい乾いた笑い声がこぼれる。
「あ、立ち話もなんですし、よければ上がっていきますか?」
「気持ちは嬉しいけど、遠慮しておくわ。実はこの後、少し家の事で用事があるの」
「そうなんですか? それなのにわざわざ……」
「当然よ。友希君に愛を伝える為なら、いくらでも時間を作るわ。でも……」
顎に手を当て、先輩は難しそうな顔をする。
「……ねえ、友希君。これでいいのかしら?」
「え? 何がですか……?」
「正直、私はこのバレンタインという催事をよく理解してないのよ。愛する人にチョコレートを渡す日、というのは理解したけれど……ハッキリ言って、意味不明ね」
「と、いうと……?」
「そもそもどうしてチョコレートを贈るのかが分からないし、その行為になんの意味があるのかも理解出来ないわ。愛情とチョコレートが直結するのもよく分からない。一体誰が何を思ってこんな事を考えたのかしらね?」
「それは……俺にも、よくは」
改めて言われると、確かに謎だよな……いつの間にか定着したというか、それが当たり前みたいになってるのが現状だからな。バレンタインもそうだが、色々と謎行事が多いよな、日本って。
「……でもまあ、悪くは無かったかもね」
「え?」
「未だに意味はよく分からないけど、それでも存外楽しかったわ。友希君へチョコレートを作る際、友希君に美味しく食べてもらおうと頑張ったり、喜んでくれる友希君を想像したり、愛情を込めて何かを創作するというのは、なかなかに有意義なものだったわ」
「そ、そうですか……?」
「ええ。思い返してみれば、良い経験と言えるわ。これも友希君のお陰ね。あなたを好きで無かったら、私が誰かの為にチョコレートを作ろうだなんて思ったりしなかったもの」
クスリと笑いながら、先輩は髪の毛をいじる。
「本当、友希君と出会ってから、私は色々な事に挑戦してきた。こうしてチョコレートを作ったのもそうだけど、他にもデートしたり、抱き締めたり、頬にキスしたり。きっとあなた無しじゃ、私はそんな欲求を抱かなかった。だから私は嬉しいの。色んなしてみたいを、覚える事が出来て。そしてきっと、これからもそう」
「これから……?」
「ええ。もし私が友希君と付き合ったとしたら、色んな欲求を抱くはず……いいえ、もう抱いてる。一緒に暮らしたい、お風呂に入りたい、結婚したい、子供を作りたい……とかね」
下唇に指を当てながら、いたずらな笑みを見せつけてくる。それに俺はそっと目を逸らす。
「フフッ……だから、その欲求を叶える為、そしてもっと色んなしてみたいを見つける為に……私はその権利を手にしてみせるわ」
「…………」
「……今のはただの決意表明。気に病む必要は無いわ。友希君はただ……自分を偽らずにいてくれればいいわ」
「……はい」
「それでいいわ。じゃあ、私はそろそろ行かないと。またね」
「あ、えっと……また!」
慌てて別れの挨拶を言うと、先輩は微笑みながら手を振って、そのまま俺の前から姿を消した。
先輩が立ち去った事を確認してから扉を閉め、俺は彼女から貰ったチョコを片手に、再び自室に戻った。机の上にある他のみんなから貰ったチョコの中に、先輩から受け取ったチョコを加え、ボーっとそれを眺める。
一日にこんなにチョコを、しかも本命のを貰うなんて、初めての経験だな。全部食べ切れるかちょっと心配だ。でも、これで終わりじゃ無いんだよな。まだこの中に、新たなチョコが加わるかもしれないんだ。
「……そういえば、今日あいつの顔見てないな」
玄関に靴が無かったし、きっと出掛けているのだろうが、一体どこに行っているのだろうか――ふとそんな事を考えていると、下の階から「ただいまー!」と大きな声が自室まで響いて来た。
少しの間を開け、今度はバタバタと慌ただしい足音が家に響き渡る。恐らく階段を駆け上がっている音。そしてその音はだんだんと近付き、収まった直後に部屋の扉がコンコンと少し強めにノックされる。
「友くーん! 居るー!?」
「……どうぞ」
返事すると、間髪入れずに扉が開かれ、たった数十秒前に帰宅した陽菜が扉の陰から覗き込むように顔を見せた。
「ただいまー! 友くん、お仕事お疲れ様ー!」
「おう。……で、なんの用だ?」
「えへへ……そんな事言って、分かってるくせにー」
ニヤニヤとしながら陽菜は部屋の中に足を踏み入れ、椅子に座る俺に近寄って来る。
「今日はバレンタインだよ! そんな日に女の子がする事と言えば決まってるよ! という事で……はい! バレンタインのチョコレート! 私から友くんへ!」
陽菜はそう言いながら、大袈裟な動きで背後に回した腕を前に出す。その手には透明な袋で綺麗にラッピングされた小さくてボール型やハート形など、様々な形をしたチョコ。
「……これ、お前の手作りか?」
「うん! 実は今日は杏子ちゃんの家のキッチンを借りてこれを作ってたんだ! ちょっと苦戦したけど、上手く出来たはずだよ!」
「そうだったのか……まさか、お前から手作りのチョコを貰う事になるとはな」
「えへへ、私も。なんだか夢みたいだよ。という訳で私の努力の結晶、受け取って!」
「ああ。ありがとう、陽菜」
彼女の手からチョコを受け取り、それを机の上に置く。
「あ、それってもしかしてみんなから貰ったチョコ?」
「え? あ、ああ」
「そっかぁ……私が一番最後になっちゃったかぁ……ちょっと残念。でもまあ、こうしてしっかり渡せたし、いいか! ……でも、本当によかった」
口元で両手を合わせながら、嬉しそうに微笑む。
「何がだ?」
「ほら、私去年まで京都に居たでしょ? だからその間、ずっと友くんにチョコをあげれなかったから。今年はちゃんと渡せてよかったなーって。しかも手作りだよ! なんか嬉しくってさ!」
「そうか……言われてみれば、引っ越す前は毎年お前からチョコ貰ってたな。駄菓子屋とかでも買える、小っちゃくて安い物だったけど」
「うん。私にとってはそれが当たり前の事で、毎年の楽しみでもあった。だから……それが出来なくなったのが、悲しかったなぁ」
当時の気持ちを思い出したのか、陽菜は少ししょんぼりとした顔を浮かべる。しかし、すぐさま口角を上げて、明るい表情を作る。
「でも、こうしてまた出来た! それだけじゃない、私は色んな当たり前を取り戻せた。朝におはようって挨拶する事、一緒に学校に行く事、友達も交えてワイワイお昼を食べる事。それに休日は一緒に遊んだり、誕生日は一緒に祝ったり……そんな引っ越す前はいつも経験してた当たり前を、私は取り戻せた。それがすっごく嬉しいんだ!」
「陽菜……」
「だからこれからもこの当たり前を、ずっとずっと当たり前のまま生きて行きたい。そして新しい当たり前を見つけたりして、もっともっと友くんとの毎日を幸せにしたい。こっちに帰って来てから、そんな風に思うんだ」
「……当たり前、か」
陽菜の言葉に、ふと過去の事に思いを馳せる。が、不意に陽菜がパンと手を叩いた音で、意識が現実に引き戻される。
「さて! しっかりと友くんにチョコを渡せた事だし、そろそろ失礼するね! 友香ちゃんにもチョコ渡さないとだし!」
「えっ、友香の分も作ってあるのか?」
「うん! 本命は友くんだけど、折角だから色んな人に私の渾身の一品を食べてほしいからさ! 明日には優香ちゃん達にも渡す予定!」
「そっか……お前らしいな」
「えへへ。じゃあ、お邪魔しました! あ、チョコ食べるんなら後にするんだよ? あんまり食べ過ぎると、お夕飯食べれなくなっちゃうからね!」
と、母親みたいな言葉を言い残し、陽菜は部屋を後にした。
「言われなくても分かってるって……」
と、息子っぽいことを口ずさみながら、俺は陽菜のも加わり、計五個になったチョコを改めて眺める。
みんな手作りで、俺の為に用意した愛情がたんまり籠ったチョコ。きっとみんなこのチョコを作る為に、様々な努力をしただろう。俺だけの為に、自分の愛情を届ける為に……そして、叶える為に。
今日だって彼女達の抱える気持ちを沢山聞いた。どれも真剣で、絶対に叶えたいという強い思いを感じた。今日だけじゃなく、今までもずっと、ずっと。……俺は一体、誰の気持ちに応えたい?
「…………」
一分近くそのチョコを眺め、俺は部屋の電気を消してからぐったりと背もたれに寄り掛かり、天井を仰ぎ見る。薄暗い空間の中、ボーっと一点を見据えてから、ゆっくりと瞼を閉じる。
これまでの事を思い返す。この一年間という長いようで短かった、とても大変で、慌ただしくて、悩み続けて……楽しかった、今までを。
――決して答えを放棄しては駄目よ。それは誰も不幸にならないけど、誰も幸せにはならない選択。だから、どんなに辛くても答えを出してね。
――確かに余計な一言で相手を傷付けてしまうかもしれない。しかしその一言を言わなければ、何も知れない事もある。
――真摯に向き合って下さい。あなたを好きでいる彼女……いや、彼女達に。僕みたいな人の事を考慮した上で出した結論なんて、彼女達は望んでいないはず。
――人に好意を向けられるのはとても貴重で、有り難くて、嬉しい事。だから……あなたの事を大好きでいてくれる優香達の事、大切にするのよ?
――愛するなら全力で愛して。それがあの子と付き合う際に、私が唯一望む事よ。
――いくらでも迷ってもいいから、しっかりとした答えを出してくれ。きっと、雪美もそれを望んでいる。
――もしも真にその者達を思うならば、決断なさい。それが、その者達を新しき道に進ませる、唯一の方法です。
――誰かが納得するより、自分が納得する理由。一緒に居たいと思う気持ちとか、愛情。そういうのが大切なんじゃないか?
――これはお前の恋愛なんだ。だから強情であれ、わがままであれ! ただ自分が幸せだと思う答えを、相手を、愛情を見つけてみろ!
出会ってきた様々な人達から言われた言葉の数々。そして。
――ありがとう世名君……私に、恋を経験させてくれて。大好き。
――友希、私は今ドキドキしてる……お前の側に居ることに、お前を独り占め出来ている事に……私は……凄く幸せだ。
――私、先輩に出会えてよかった。先輩を好きになれてよかった。お陰で、恋心っていうのを理解出来た。そのお陰で……昔の事に納得が出来た。そして、今こうして幸せを味わえてる。私……最っ高にハッピーです!
――友希君という最愛の人を手にしたら……きっととてつもない達成感を得られるから。そしてその先に、最高の幸福があると思うから。だから諦めない。私は、あなたの心を手に入れる。
――だから、私は好きだって言い続けるよ。友くんにもそう思ってもらう為に。……大好きだよ、友くん!
彼女達がこれまで沢山伝えて来た、自分達の気持ち。
楽しかった日常、苦労した修羅場の日々、これまで経験してきた全ての記憶を辿る。そしてその時々に感じた思いを、今、自分の抱える気持ちを、自分の中に浮かべる。
彼女達の愛情は、痛いほど伝わって来た。彼女達が何を思い、何を努力し、何を願っているのか。それを俺は全て理解しているつもりだ。でもその中から俺が掴み取れるのは――たった一人の、たった一つの思い。
そっと目を開き、ゆっくりと右手を伸ばす。彼女達の気持ちに、そして自分の中のある気持ちをしっかりと見定めながら、俺は何かを掴み取るように、拳を握った。
「俺は――」
◆◆◆
時は流れ、3月11日――今日は栄えある、乱場学園の卒業式。既に生徒達は体育館への移動を終えていたが、俺は一人、違う場所に居た。
場所は校舎内にある下駄箱前。そこの一郭、ある人物の下駄箱の中に、俺はある物を入れた。
「……これで全部だな」
「――ここに居たのか」
突然聞こえてきた声に、心臓を跳ね上がらせながら、俺は慌てて声の方へ顔を向ける。
「って、なんだ祐吾か……どうしたんだよ、こんなとこに来て」
「お前が見当たらないから探しに来たんだよ。……何してたんだ?」
「ああ……ちょっとな」
「……なるほどな」
そう、祐吾が呟く。どうやら俺が何をしていたか察したようだ。
「相変わらず勘の良い奴だな」
「まあな。……覚悟、決めたのか?」
「……正直まだ怖いよ。俺は今日……全てを、終わらせるんだから。でも……もう、逃げる訳にはいかない」
「そうか……まあ、ある意味俺も事の発端だしな。……出来る限りの助力はしてやるから、全部ぶちまけてこいよ」
「……ありがとう」
今日は乱場学園の卒業式。三年生達はこの学園を卒業して、新たな道へと踏み出す。そして今日俺も……いや、俺達も卒業するんだ。この長きに渡った恋物語を。
今日この日をもって、俺達の恋路は終わりを迎える。新たな道へと進み出す為に、俺は告白する。誰の思いを受け取り――裏切るのかを。
三ヶ月近くお待たせしてしまい、申し訳ございません。ついに物語はクライマックスです。どうか最後までお付き合い下さい。