月を跨ぎ、二月最初の日曜日。先月から続けていた俺と彼女達とのデートも、ついに最後の一人を残すのみとなった。
最後の相手は天城。今日の彼女とのデートを終えれば、俺の自分の気持ちを確かめる事を目的としたデートも終わりを迎える。
今回の天城とのデートでどんな気持ちを抱くのか、そしてその先で俺がどんな結論を出すのかは、今の俺には分からない。でも、それを考えるのは全てが終わった後だ。今日は難しい事は考えずに、ただ純粋に天城との一日を楽しむだけだ。
「その為にも……早いとこ準備を済ませておくか」
呟きながら、いつものように準備を開始する。
今日のデートは今までとは少し違うところがいくつかある。まず一つ、他の四人とは午前中の内に待ち合わせていたが、今回は午後に待ち合わせとなっている事。
そしてもう一つが、待ち合わせ場所が俺の家という事。天城からは「当日は私が世名君のお家に直接行くから待ってて」と前もって言われている。俺の家と天城の家は歩いてすぐの場所にあるのだから、駅で待ち合わせするよりそっちの方が楽だろう。
そんな今までとは少し趣が異なるところがある今回のデートだが、やはりいつも通りに内容は伝えられていない。事前に天城から何か用意しとくべき物が無いか軽く聞いてみたが、返ってきたのは、「別に何も無いよ。むしろ何も準備しなくていいぐらいかな」という返答のみ。なので内容は全くもって見当が付かない。
が、一つだけ引っ掛かる事がある。それは事前に質問した時に天城が言った、むしろ何も準備しなくていいぐらいかな、という一言。その言葉を口にした時、天城はどことなく小っ恥ずかしそうな顔をしていたし、何故そんな事を言った事が少し気になった。
どういう意図であんな事を言ったのか、一応準備はちゃんとしながらなんとなく推理してみる。
何も準備しなくていいぐらい……つまり、あんまり遠出はしないって事か? それとも……どこにも出掛けずに、室内で過ごすとか? もしかして……家デートとか?
その考えが浮かんだ瞬間、俺はざっと自分の部屋を見回してみる。ここ最近はまともに掃除もしてなかったので、室内は大分散らかっていた。
「……一応片付けとくか」
最低限の荷物の用意と着替えを済ませてから、俺は意味があるかも分からない部屋の片付けを開始した。
片付けが粗方済んだ頃には、時刻は既に正午過ぎ。数時間後には天城が迎えに来るはずなので、その前に俺はちゃちゃっと昼食を終わらせて、彼女が迎えに来るのを待った。
それからしばらくすると、俺以外誰も居ないせいで静まり返った家に軽快なチャイムの音が鳴り響く。
天城が来たのだろうと、俺は荷物を手にして、部屋を出て玄関に向かう。靴を履いて扉を開けると、目の前には思った通り緊張した面持ちで立ち尽くす天城の姿があった。
「お、お待たせ世名君! えっと、おはよう……じゃなくて、こんにちは!」
「おう、こんにちは。……なんか、やけに緊張してるな」
「あはは……何回経験しても、やっぱり世名君とのデートだって考えると緊張しちゃってさ……」
「そっか……天城らしいな」
いつも緊張してて、とっても照れ屋で恥ずかしがり屋。それが天城優香という女の子だ。ちょっと失礼な物言いかもしれないが、むしろ緊張してない方がおかしいぐらいだ。でもまあ、そこが彼女の愛らしさの一つだろう。
「そ、それじゃあ行こっか。今日はよろしくね」
「ああ。……ところでいきなりで悪いんだが、今日の予定とか教えてくれるか? どこに行くかとかさ」
「え? あ、そうだったね。うんっと……今日のデートの行き先は……強いて言うなら、スーパーかな?」
「す、スーパー?」
予想だにしていなかった行き先に、思わず驚きの声がこぼれる。
「スーパーって、あのスーパーだよな? 買い物したりする、あの」
「うん、そのスーパーだよ」
「そうか……なんというかその、デートっぽさが全然無いな」
「あはは、そうかもね。でも、実はスーパーに行くのは準備というか……本当にしたい事は違うんだ」
「本当にしたい事? 他にも行く場所があるのか?」
「えっとね、そのね……私、世名君とお料理したいの!」
グッと握った拳を胸元に押し当てながら、天城は力一杯にそう叫ぶ。
「私、今日のデートどんなのにしようかって、色々と考えてね、それでこれいいなって思い付いた事があったの」
「それが、料理って事……?」
「うん。世名君と一緒にお買い物して、それで一緒にキッチンに立ってお料理して、そのお料理を二人で食べる……そういうの、なんかさ……夫婦みたいな感じでいいなぁって……思って」
照れ臭そうに指をツンツンさせながら、天城はほくそ笑みながら己の考えを口にする。
「なるほど……じゃ、待ち合わせを午後にしたのも?」
「お夕飯の時間に合わせる為に。これが私が考えた今日のデートなんだけど……どうかな?」
「……うん、面白そうなんじゃないか? 俺は大賛成だよ」
「本当? よかった……じゃあ、今からスーパーに食材を買いに行って、その後に私の家で一緒にお料理って事で!」
「あ、天城の家で作るんだな」
「うん。あ、お母さんと香澄には事情を話してあるから、出掛けてもらってるよ。だから二人でゆっくり出来るから、心配しないでいいよ」
ニッコリと満面の笑みで言った後、天城は自分の発言が違った意味でも受け取れる事に気が付いたのか、赤面しながらブンブンと両手を振るう。
「ち、違うよ!? 今のはそういう意味で言った訳じゃなくて……もちろん二人っきりなのは嬉しいし、そういう雰囲気になるのは嫌じゃないけど、その、つまり……」
「お、落ち着いて天城! 俺まだ何も言って無いから!」
自分で墓穴を掘って、慌てふためく……これもお馴染みの光景になってきたな。本当、天城は良い意味で全然変わってないな。
「……落ち着いたか?」
「う、うん……ごめん、勝手に一人で慌てて」
「ははっ、もう慣れたよ。さあ、立ち話もなんだし、早く行こうか。美味しい料理を作る為には、いい材料を確保しないと」
「世名君……そうだね。早くしないと、いい食材が売り切れちゃうもんね」
言いながら、天城は俺の右手に優しく触れる。不意な接触に、思わず表情が強張る。
「あ、ごめん! つい、自然と……」
「い、いや構わないよ。ちょっとビックリしただけだから」
「そ、そう? ……じゃあ、しばらくはこのままで」
嬉しそうに口角を緩めながら、天城は俺の手をギュッと握る。
「今日はよろしく、世名君。美味しいお料理、一緒に作ろうね」
「……ああ」
頷きながら、俺と天城は家を後にして、食材を求めてスーパーへと向かった。
◆◆◆
自宅から歩く事数十分、俺と天城は最寄りのスーパーに到着。買い物カゴとカートを手に早速店内の散策を開始した。
途中、入口近くの野菜売り場に差し掛かった辺りで肝心な事を聞き忘れていたのに気が付き、俺は隣を歩く天城に問い掛けた。
「そういえば、作るメニューとかは前もって決めてるのか?」
「あ、ごめん。まだ伝えて無かったね。今日はね、シチューを作ろうと思ってるんだ」
「おお、シチューか。となると買うものは……人参、ジャガイモ、玉ねぎに、鶏肉って感じか」
「うん。あと、他にも何品か軽く作ろうかなって考えてるけど……それは見て回りながら考えようかなって」
「了解。そうか、シチューか……天城が作るんなら美味いのは間違えないし、楽しみだな」
「フフッ、期待に応えられるように頑張るよ。あ、世名君も一緒に作るんだからね? 今日は一緒に作るっていうのが目的なんだから」
「分かってるよ」
と言っても、シチューを作った事無いんだよな。まあそんな難しい事では無いだろうし、天城も居るから大丈夫か。足を引っ張らないようにしないとな。
「しかし……天城と一緒にこうして買い物して、料理を作る事になるなんて、思いもしなかったな。前に一緒に買い物はした事あるけど」
「そうだね。本当、夢みたいだよ……私、凄く幸せだよ。本当に夫婦になった気分……将来は、こういう時間を毎日過ごせるといいな」
天城は幸せを嚙み締めるように胸元に両手を押し当てる。その様子を見て、つい口角が緩む。
「……? どうかした?」
「ああ、いや……天城ってさ、結構乙女だなぁ、って思ってさ」
「……それ、ちょっと小馬鹿にしてる?」
少し照れた風に、天城はぷっくりと頬を小さく膨らませる。
「そんな事無いよ。乙女なのは全然良い事だよ。むしろそこが天城の良いところというか、可愛いところだと思うよ」
「えっ!? か、可愛いって、えっと、その……」
急激に顔を赤くしながら、天城はあわあわと忙しなく目、口、両手を動かす。
「あ、悪い、変な事言っちゃって……」
「い、いいの! その、可愛いって言われる事自体は、凄く、嬉しいし……」
だんだんと声をか細くしながら、天城は顔をゆっくりと背ける。
もう幾度となく経験した気まずい空気が、今年も天城と俺の間に流れる。早急にその空気を断ち切る為に、俺はカートを押しながら、わざとらしく口を開く。
「さて! 早いところ買い物済ませちゃおうぜ!」
「あ、うん! そうだね! じゃあまずはお野菜から……だね!」
言いながら、天城は食材を取りに向かい、俺もそれに続いた。
それからゆっくりと時間を掛けて、俺と天城はスーパー全体を満遍無く見て回り、必要以上の食材を購入して、スーパーを後にした。
「思ったよりもいっぱい買っちゃったね」
「だな。袋もパンパンだよ」
その帰り道。そんな会話を交えながら、俺は右手にぶら下げたビニール袋を見下ろす。シチューの材料以外にも飲み物やお菓子、追加メニューの為の材料などかなり買い込んだので、今にも袋が破けてしまいそうだ。
「ごめんね、荷物持ってもらっちゃって。重いよね?」
「これぐらい平気だよ」
とは言ったが、かなりの重量があるので、正直少しシンドイ。とはいえ、こんな重い物を天城に持たせるなんて事は出来ない。ここは男の意地を見せる時だ。
とりあえず限界に近付いている右腕を休ませる為、荷物を左手に持ち返る。
すると、それとほぼ同時に、隣を歩く天城がそれを手助けするように、右手を荷物へ伸ばした。
「うわっ、本当に重いね……でも、これなら少しは楽になるよね?」
「天城……いいよ、俺一人で大丈夫だから……」
「遠慮しないでいいんだよ。それに、私がこうしたいの。今日は一緒に、だもん。駄目かな?」
「……そうだな。そういう事なら、お願いしようかな」
「うん、任せて! 大丈夫、私だってバイトで鍛えてるから!」
そう言って、天城は右手に力を込める。彼女の助力のお陰で、腕に掛かる負担が若干軽くなる。
そのまま俺達は二人で一緒に荷物を運びながら、天城の家を目指して、他愛無い会話を交わしながら歩いた。
そしてそうこうしている内に、天城の家に到着。玄関に入ってすぐに重たい荷物を下ろし、二人揃って疲れ切った腕をブラブラ揺らす。
「疲れたぁ……天城の手助けが無かったら、もっとクタクタになってただろうな……ありがとな」
「それはこっちのセリフだよ、ありがとう世名君。それからごめんね、こんなに大荷物になっちゃって」
「いいって事よ。その分、豪華な食事になりそうだしさ」
「うん、世名君に満足してもらえるように、腕に縒りを掛けて作るよ!」
可愛らしい笑顔を浮かべながら、天城は力こぶを作るように右腕を曲げる。
楽しそうにしてるなぁ……天城は本当、感情豊かだな。彼女がどんな気持ちでいるのかが伝わって来る――そんな事を思いながら、俺は床に下したビニール袋を再度持ち上げる。
「さて、生肉とかもあるし、冷蔵庫にしまわないとな」
「あ、そうだね。じゃあ……」
天城もビニール袋に手を伸ばすが、俺はそれを遠慮するように口を開く。
「ああ、いいよ俺一人で。天城は先に行って、冷蔵庫の中身整理しといてよ」
「えっ? ……うん、分かった。ありがとう世名君」
お礼を言いながら、天城は早足でキッチン方面へ向かう。俺もビニール袋を持ち直し、数十秒遅れてからゆっくりとその後を追う。
キッチンに辿り着いた後は、天城と一緒に協力して冷蔵庫に買った物を詰め込み、全てしまい終えた後はリビングで軽く休憩を取る事にした。
「はい、コーヒーでよかった?」
「ああ、ありがとう。ふぅ……やっと落ち着けるな」
「だね。まだ時間はあるし、もうちょっとゆっくり出来そうだね」
「ところで、シチュー以外のメニューはどんな物を作るんだ? あんなに沢山買ったんだし、色々作るのか?」
シチューの材料以外にも天城はいくつか食材を買っていたが、俺には何を作るのか全くもって見当が付かなかった。
俺のそんな質問に、天城はコーヒーを一口飲んで、人差し指を唇に当てながら答える。
「うーん……確かに最初は色々作ろうと思って材料いっぱい買ったけど、実際に作るのは数品かな。よくよく考えたら、作り過ぎても残しちゃうからさ」
「あ、そうなのか」
「あはは……世名君の為にって、つい張り切っちゃったかな。でも、絶対美味しい料理にしてみせるから!」
「楽しみにしてる。俺も頑張って手伝うよ」
「うん。その為に、ゆっくり休んで疲れを取らないと――」
天城はそう言いながらコーヒーを口元に運ぶが、ふと動きが止まる。
どうしたのだろうと、俺は天城が視線を向ける方向を見る。視界に映ったのはガラスの窓。さらにその先に広がっていた、いつの間にか暗くなり、無数の雨に包まれた外の景色だった。
「いつの間に……驚いたな、さっきまで晴れてたのに。しかもかなり強いぞ」
「うん。天気予報でも今日は雨だって言ってなかったよね。……って、いけない!」
突然、天城は慌てて席を立ち、庭の方へ小走りで向かう。
「ど、どうした?」
「お母さん、外に洗濯物干してたから……! ごめん世名君、放り投げるから受け取って!」
「お、おう分かった!」
急な天城のお願いに俺も慌てて席を立つ。その間に天城はすでに雨が降りしきる外へ飛び出し、すぐ近くの干してある洗濯物を慌ただしく回収する。
「お願い!」
ある程度の数を確保すると、天城はそれを纏めてポイっと室内に向かって投げる。俺はそれを全身を使ってキャッチする。
それを数回ほど繰り返し、洗濯物を全て回収し終えると、天城は駆け足で室内へ上がる。一分程度しか外に出ていなかったのに彼女は滝に打たれたように全身ビショビショで、大分くたびれていた。
「だ、大丈夫か天城?」
「う、うん……まさかこんな大雨になるなんて……服ビショビショだよ」
と、天城は肌にベッタリと張り付いた服の袖口を摘まむ。幸いと言うべきか、今の天城の服は黒色。濡れて透けてしまうという事態はどうにか避けられたが、それでも全身がビショ濡れな状態なのは少々目のやり場に困ってしまう。
「あ、俺タオルとか持って来るよ! ……って、どこにあるんだ?」
「えっと、浴室の方に纏めてあるはず……」
「分かった!」
天城が風邪を引いてしまわないように、急いでタオルを取りに向かう。運良くすぐにタオルを発見する事が出来たので、速攻で彼女の下に戻り、タオルを渡す。
「これでいいか?」
「うん、ありがとう世名君」
受け取ったタオルで髪を拭きながら、天城は床に置かれた洗濯物を見つめる。
「洗濯、やり直しかなぁ……あとで運ばないと」
「あ、それなら俺がやっとこうか? 天城はしっかり体拭いて、休んでてよ」
「え、でも……」
「いいから。とりあえず、洗濯機に入れとけばいいか?」
「うん……じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな。……フフッ」
と、不意に天城は笑い声をこぼす。
「どうした?」
「なんかさ……こういうのも家族っぽいというかさ……ちょっと、嬉しくなっちゃって」
「そ、そうか……?」
「うん。こんなツイてない事でも幸せに感じちゃう……やっぱり、世名君と一緒なのは楽しいな」
ポツリと呟きながら、天城はとても幸せそうに微笑む。
「あっ……じゃ、じゃあ早速運んじゃうな!」
その幸福に満ちた笑みに照れ臭くなってしまい、俺は洗濯物を抱えて、その場から逃げ出すかのように立つ。が、洗濯物の束から一つだけ何かが床に落ちてしまう。
慌ててそれを拾い上げ、再び洗濯物の束に加えようとした瞬間――俺は思わず手を止めた。左手で掴んだ、ピンク色のブラジャーを見据えながら。
「どうかしたの? ……って!? キャアァァァァァァ!! 見ちゃ駄目ぇぇぇぇぇぇぇ!!」
甲高い悲鳴を上げながら、天城は俺の手からそのブラジャーを奪い取り、懐に隠す。
今の反応を見るに……まあ、そういう事なんだろう。
「ななな、なんでこんなところに……!? いつもは別に干してるのに……! ていうか、お母さん世名君が来るの知ってたはずなのに、なんでこんなもの干してるのぉ……!」
「……えっと、天城さん?」
声を掛けて良いものかちょっと悩んだ末、俺は背後から天城を呼ぶ。すると天城は俊敏な動きで俺の腕から洗濯物を全て奪い取り、俺から遠ざけるようにすぐさま背を向ける。
「あ、あの……」
「や、やっぱり私が運ぶよ! ま、まだその……しし、下着あるかもしれないし!」
「だ、大丈夫だよ、別に故意に見たりはしないからさ……」
「いいの! その……私、今からシャワー浴びてくるから、そのついで! だから世名君はここで待ってて!」
「……は、はい」
天城の何とも言えない迫力に、俺はただただ首を縦に振る事しか出来なかった。
「じゃ、じゃあ行くから……待っててね」
「う、うん……」
「……ねぇ、世名君」
「な、なんでございましょうか?」
「……覗いちゃ、駄目だからね?」
潤んだ瞳でこちらを見つめながら放たれた天城のか弱い乙女な言葉に、俺は無言で首を縦に振りまくった。
なんだこの照れ臭すぎる展開は……なんというか、下っ腹辺りがキュッとなる。天城の反応はいちいち男心を擽るっていうか……こそばゆい。
そんな落ち着かない気持ちを抱えながら、俺はリビングで天城のシャワーが終わるのを大人しく待った。時折耳に流れ込んでくるシャワーの音に劣情が湧かないようにコーヒーをひたすら飲みながら過ごす事、数十分。
「ふぅ……えっと、お待たせ、世名君」
天城がようやくリビングに戻って来る。Tシャツとショートパンツという部屋着と思われるラフな格好に着替えた彼女は、そのまま俺の正面に腰を下ろす。まだ微かに濡れている艶やかな黒髪に、
「ご、ごめんね、折角来てもらってるのに、待たせちゃって……それに、こんなラフな格好で……」
「い、いいって別に。風邪引いちゃったら大変だから」
「う、うん……あのさ、さっきの忘れてね?」
「え?」
「下着見た事! 絶対忘れてね! じゃないと……怒っちゃうから!」
と、既に若干怒った口調で言う。
「わ、分かってるよ……なんか、前も似たような事、何回かあったっけな」
「え? ああ……そうだね。そう考えると私、世名君に恥ずかしいとこ見られてばっかだなぁ……って、やっぱりその時の事覚えてるんだね……」
「あっ……いや、その……天城の為に忘れようとは考えたけど、忘れられなかったというか……」
失言だと理解した瞬間、俺の口はすぐさま言い訳の言葉を吐く。まだ考えは全く定まってないが、それでも俺の口は動きを止めない。
「だって……なんていうか、その出来事も、俺にとっては大切な思い出っていうか……」
「思い出? ……世名君のエッチ」
「違う違う! 別にそういう変な意味じゃなくて! なんて言うのかな、その……俺にとっては、一つ一つが大切な思い出なんだっていうか……その時に天城が見せた反応とか、それ以外の楽しんだり、喜んだり、悲しんだりしてた時の事……それは全部俺にとっては大切で、忘れちゃいけない事だと思うから、その……」
「……そっか。世名君は、それだけ私との思い出を大切にしてくれてるんだね。そんな事言われちゃ……怒れないね」
と、天城はどことなく嬉しそうにほくそ笑む。
「でも、それとこれは別! し、下着を見ちゃったって事は、恥ずかしいから忘れてほしいな……」
「ど、努力します……」
「うん、そうしてくれると有り難いな。……さて! 必要以上に休んじゃったし、そろそろお料理始めよっか! 今日の本題はそれなんだし!」
この話はここまでといった風に手を叩き、天城は立ち上がってキッチンの方へ向かう。俺もそれに続いてキッチンに向かう。
「えっと……世名君はこれ使って」
キッチンに着くと、天城は置いてあった青いエプロンを俺に渡す。
「わざわざ用意してくれたのか?」
「うん。それさ……私のと、お揃いなんだ」
と、俺に渡したのと同じデザインで、色違いのピンクのエプロンを手に取りながら言う。
「折角だから、さ。……嫌だった?」
「全然、そんな事無いよ。ありがとう」
「そっか……ならよかった。じゃあ早速これ着けて、お料理始めよっか」
頷き、俺は天城に貰ったエプロンを身に着ける。天城も手慣れた手付きでエプロンを身に着け、ヘアゴムで後ろ髪を一本に束ねる。
「おお……なんか、如何にもこれから料理しますって感じだな……カッコいいよ」
「そうかな……? なんか照れちゃうな……」
「ははっ。さて、まずはどうしますか、天城先生」
「え? ……では、まずは野菜を洗ってもらいましょうかね、世名君。……なんてね」
クスクスと笑う天城に釣られて、俺もつい笑い声がこぼれる。こうして、本日のメインの目的である、二人でのシチュー作りが始まった。
といっても、俺の主な仕事は下ごしらえなどの天城のサポートだ。工程のほとんどは天城が行う事になる。
滅多に料理をしない俺とは違い、天城の手際はそれはもう見事だった。包丁もまるで体の一部のように扱っているし、何もかもがテキパキしている。正直、俺なんか居なくても……むしろ居ない方が効率が良いかもしれない。
でも、今日天城が望んでいるのは俺と一緒に料理を作る事だ。だから俺も必死に彼女の力になれるように、一生懸命手を動かした。お陰で料理は順調に進み、問題無く完成へ向かって行った。
誰かと料理を作るなんて初めてだけど……案外楽しいもんだな。こういう風に共同作業っていうのも悪くないな。
「あ、世名君。今やってるの終わったら、そこの野菜切るのお願い出来るかな? 包丁は大丈夫……かな?」
「ん? ああ、野菜切る程度なら平気だよ」
「ごめん、思ったより作業が多くなっちゃって。何かあったら、遠慮無く言ってね?」
「分かった」
返事をしながら、天城に頼まれた野菜群を見下ろす。その中から人参を取り、まな板の上に置く。猫の手でしっかりと押さえて、ゆっくりと切り始める。
正直包丁はあんまり得意では無いんだが、この程度なら問題無いだろう――そう、気楽に作業を進めていたのが仇となったのか。包丁の刃が人差し指の肉を切り、パックリと弧型の切り傷を作った。
「ッ……! やっちまったか……」
油断したな……調子に乗るもんじゃないな。
ひとまず手を引き、流れ出た血を拭き取る。流水で洗い流そうとした直前、別の作業をしていた天城が話し掛けてくる。
「世名君、何かあった?」
「ああ、ちょっと指切ってさ。まあ、軽い怪我だから平気――」
「ええっ!? だ、大丈夫!? どこ切ったの!?」
バッと、天城は大急ぎで俺の下に駆け寄り、俺の手を取る。
「大変……! 血が出てる! すぐに絆創膏持って来るね!」
天城はバタバタとさっきの洗濯物を取り込む時よりも慌ただしくキッチンを飛び出し、一分も経たずに、救急箱持参で戻って来る。
「えっと……まずは消毒するね! 染みるかもしれないけど、我慢してね!」
「い、いいよそこまでしなくても……絆創膏だけでも……」
「駄目だよ! ばい菌が入ったら大変でしょ!」
普段は出さないような迫力のある大声を出しながら、天城は傷口の手当てを真剣な顔付きで進める。
「……はい、これで終わりだよ。痛くなかった?」
「ああ……ありがとう、天城」
「そっか……よかった……」
本気で安堵したように、天城は胸に手を当ててホッと息を吐く。
「全く……大袈裟過ぎるよ、天城は。ただのかすり傷なんだから、そこまで心配しなくても……」
「かすり傷でも、世名君が怪我しちゃったのは間違え無いんだもん! 心配するに決まってるよ!」
「天城……」
「……ごめんね、私が野菜切るの任せなかったら、世名君が怪我する事無かったのに……」
微かに、天城の瞳に涙が浮かぶ。
「お、俺の不注意だし、天城は悪くないって! だから泣くなって! な?」
「う、うん……ごめん、こんな事されても迷惑だよね。でも、本当に心配で……」
ほろりと頬に流れた雫を、天城は指先で拭う。
俺の為に、涙まで流して……そうだ……俺は覚えてる。俺は知っている。天城の心は、とても純粋で素直なんだ。楽しい時は思い切り楽しんで、悲しい時は思い切り悲しむ。
今日だって、天城は色んな顔を見せてくれた。一緒に買い物をして楽しんでる顔、可愛いと言われて照れてる顔、下着を見られて恥ずかしがったり、怒ったりしてる顔、そして俺が怪我をして悲しんでる顔。
それはよく言えば感情豊か。悪く言えば不安定。彼女はそんな、言ってしまえば弱い人間なんだ。
「……天城」
彼女の名を呼びながら、俺はそっと、頬を伝う涙を拭ってやった。
「ありがとうな、俺の為に涙まで流してくれて。でも、出来れば大怪我じゃなくてよかったって、喜んでほしいな。天城が笑ってくれてた方が……俺は嬉しいから」
「世名君……うん、ごめんね。折角のデート、暗くしちゃ駄目だよね」
天城はニッコリと笑みを浮かべる。それに呼応したかのように外の雨が止み、次第に窓から光が差し込む。
彼女の心はとても不安定。でも、こうして言葉を掛けてやれば、彼女の心はまた晴れる。近くで支えてくれる存在が居れば、彼女の心は安らかなものになるだろう。そしてそれが出来るのは、きっと――
「……さあ、料理の続きしようぜ。もうすぐ夕飯時だしな」
「うん……! 最高のお料理にしようね!」
手を取り合い、俺と天城は料理を再開した。今度は怪我をしないように注意をしながら調理を進め、どうにか夕飯時に完成。シチューを中心とした俺と天城の共同で作り上げた料理は――言うまでも無く、最高の出来だった。
本日投稿した活動報告にてこの作品に関する重要な報告が書かれているので、良ければ目を通してくれると幸いです。