とある日の放課後――空が雲に覆われ、微かな光が照らす薄暗い道を、俺は一人で歩いていた。
今日もいつもと同じく学校の授業を終わらせて家に帰った俺を待っていたのは、可愛い妹の可愛くないわがままなお願いだった。
お願いの内容は、最近出来たスイーツ専門店の限定シュークリームを買ってきてくれ、というものだった。別に買い物を頼まれるのは一向に構わない。しっかり金は自分が出すし、お礼もちゃんと言うから。
しかし、その店はどうやら家から歩いて三十分以上も掛かる場所にあるらしい。そんな結構時間が掛かりそうな場所に、学校帰りで疲れた兄を近くのコンビニ感覚で行かせるのはどうなのだろうかと、少し思ってしまう。
自転車で行けばすぐかもしれないが、タイミングが悪い事に俺の自転車は現在、タイヤがパンクしていて使えないのだ。わざわざタクシーやバスを使うのは勿体無いし、俺には徒歩以外の選択肢が無かった。
正直学校帰りで疲れてるし、バイトも休みだからゆっくりしたい気持ちが強い。だが、ここで友香のお願いを断れば、間違え無く彼女の機嫌は悪くなる。
結局、俺は昼寝の時間を削り、彼女の求める限定シュークリームを買いに、徒歩で目的の店に向かった――という訳だ。例の限定シュークリームは無事買えたので、今はその帰り道だ。
現在地は俺の家がある場所とは別の住宅街。うっすらと寒くて、曇っていて今にも雨が降り出しそうなせいか、辺りにはほとんど人が居ない。
そんな静寂に近い住宅街を歩きながら、俺は右手にぶら下げた袋を顔の前まで持ち上げ、ジッと眺める。中身はもちろん、例の限定シュークリームだ。
「一体、普通のシュークリームと何が違うのかねぇ……」
限定、とは言っているが、正直普通のシュークリームと何が違うのか分からない。これならコンビニに売っている普通のシュークリームでいいのでは、とも思う。
しかし、シュークリーム好きにとっては多分何かが違うのだろう。友香は甘いものに関してのこだわりは呆れるほど強い。もしこの限定シュークリームの代わりにコンビニのシュークリームを買ったら、一発でバレるだろう。
友香の奴、このシュークリームを食べるの楽しみにしてたみたいだし、早く届けてやるか。
早く家へ帰ろうと歩く速度を上げたその時、後ろの方から俺とは別の足音が聞こえてきた。音の感じから、恐らくその人物は走っている。
ランニングでもしているのかな、そう思いながらもあまり気にせず、こちらも歩みを進めていると、不意にその足音が止まり――
「と、友希か?」
代わりに、驚いたような女性の声が聞こえてきた。
この声、もしかして……
声を聞いて、なんとなく背後の人物の正体に気付きながら、俺は後ろを向く。そこには俺の予想通りの人物、海子の姿があった。
「お前、どうしてここに?」
「それはこっちのセリフだ。お前こそ、どうしてこんなところに居る?」
「俺は友香に頼まれて、ここの近くのスイーツ店に。それで――」
お前はどうして居るんだ――と問い掛けようとした寸前に、この住宅街に海子の家がある事を思い出しその質問を飲み込んだ。家が近くにあるんだから、別に彼女が居ても不思議では無いのかと自己完結したからだ。
だが、彼女の身なりを見て、今度は別の疑問が浮かび上がった。海子は学校から帰ってすぐに買い物に出て制服のままの俺とは違い、動きやすそうな青いジャージを着ている。その格好はまさに、俺が少し前に思ったランニングに相応しい服装だ。
確か海子は時々運動をしていると言っていたし、今もその運動中なのだろうか。その疑問を彼女自身に問い掛けようとした直前、海子や俺のとも違う、別の声がそれを遮った。
「ま、待ってくださーい……!」
海子の後ろから聞こえた、疲労しきったなんとも弱々しい叫び声。それに俺と海子が同時に顔を向ける。
すると、クタクタに疲れきっているのが分かり、見ているだけで苦しくなってくる走り方でこちらへ迫る、赤いジャージに黒キャップの女性の姿が見えた。
「あれ? もしかして、夏紀か?」
その女性が、以前出会ったハル先生や冬花さんの妹である叶夏紀だという事に気が付き、俺は小さく声を上げる。直後、彼女の方も俺の事に気が付いたのか、海子の前で立ち止まり、膝に手を突いて肩で息をしながら口を開く。
「せ、世名さん? ど、どうしてここに……」
「お前こそ、どうしたんだ? すげぇ疲れてるみたいだけど」
「わ、私は海子し……ゲホッ、ゲホッ! オエッ……」
何かを言い掛けた夏紀だが、突然今に吐くんじゃないかと心配になるほど、苦しそうに咳き込む。どうやら相当疲れているようだ。
「とりあえず、落ち着いてからでいいから」
「は、はい……ありがとうございます……」
俺と海子が見守る中、夏紀は胸に手を当てながら深呼吸を数回繰り返し、最後に長く息を吐いてから、背筋を伸ばす。
「ふぅ……ようやく落ち着きました」
「それは何より。で、一体どうしたんだ?」
「は、はい! その、ちょっと海子師匠に稽古を付けてもらってたんです」
「稽古?」
そういえば、夏紀は千鶴さんに認めてもらう為に力を付けたいんだっけ。それで格闘技の経験がある海子が、暇な時に稽古を付けてやるとか言ってたな。今はその稽古中って訳か。
「でも、なんだか稽古って感じはしないな」
「今日は体力作りのランニングだ。夏紀は強くなる以前に、基礎体力が少ないみたいだからな」
チラリと、海子が夏紀へ視線を向ける。確かに、あの疲れようは尋常じゃ無かったな。あんなんじゃ千鶴さんに認めてもらうなんて、夢のまた夢だ。
「ううっ、そんな目で見ないで下さぁい……それに、私の体力が低すぎるんじゃ無くて、海子師匠の体力が多すぎるんです。今も一時間は走りっぱなしなのに、全然息が乱れて無いし……」
「そ、そうなのか? 凄いな海子」
「べ、別に大した事では無い。大体夏紀、お前は走り出してから十分もせずに音を上げていたではないか。お前の体力は普通に低いぞ」
「はい……頑張りますぅ……」
と、半分涙目になりながらしょんぼりと俯く。
相変わらずヤンキーモードじゃないと気が弱いな、夏紀は。こんなんで本当に強くなれるのか、心配だな。
「さて、そろそろ再開するぞ」
「えぇ、もうですか!? もう少し休んでいきませんか? ほら、折角世名さんと会えたんですし、海子師匠もうちょっとお話ししたいですよね?」
「そ、それは……」
言葉を詰まらせ、海子はチラリとこちらを見る。が、すぐに夏紀の方へ視線を戻す。
「って、単にお前が休みたいだけだろう!」
「そ、そんな事無いですよぉ! 私はその、海子師匠と世名さんの仲がちょっとでも深まる為に協力をしようと……」
「その気遣いは嬉しいが、今は自分の事に集中しろ! 私だって、本当は……」
そこで口を閉じ、再びこちらをチラリと見る。ほんのりと頬を染め、少し残念そうに目元を垂らすと、海子は素早く首を回し、夏紀に視線を固定させる。
「ともかく! 協力する以上、私は真剣にやるつもりだ! お前も強くなりたいなら、気合いを入れろ!」
「ふえぇ……海子師匠、厳しいです……」
「ハハッ……ほどほどにしとけよー」
海子、こういう事には案外スパルタなんだな。委員長として働く時も真面目だし、普段はこういう奴なんだろうな。俺の前では照れてばっかだから、そっちの印象の方が濃いが。
彼女達はこの後もランニングを続けるみたいだし、邪魔しないようにここでおさらばしようと、海子達に声を掛けようとしたその時――
「マルー! どこにいっちゃったのー! マルー!」
俺の後ろから、必死に何かを叫ぶ声が聞こえ、俺達はほぼ同時に声の方へ顔を向けた。
「マルー! マールー!」
そこには、辺りをキョロキョロと見回しながら、同じ言葉を何度も繰り返す叫ぶ六、七歳ぐらいの女の子が居た。その女の子の声は若干涙声で、歩く姿もどこか不安そうだった。
「もう夕方なのに、女の子一人でどうしたんでしょうね?」
「さあ? 何か探してるみたいだけど……」
「…………」
何をしているのか考えながら女の子を見ていると、突然海子が女の子に向かって歩き出す。いきなりの行動に少し驚きながら、俺と夏紀も急いで後を追う。
「君、こんなところでどうしたんだ?」
海子は女の子に近寄ると、しゃがんで目線を合わせながら、優しい声色で話し掛ける。女の子はちょっと驚いたように口をぽかんと開くが、海子は女の子を安心させるように頭を撫でる。
「大丈夫、お姉ちゃんは怪しい人じゃ無いから。何があったか、話してくれるかい?」
さっきまでの夏紀を説教するような口調とは正反対の、母性溢れる声に安心したのか、女の子は涙ぐむ目をゴシゴシ擦り、ゆっくり口を開く。
「あ、あのね……マルがね、どっかにいっちゃったの」
「そのマルっていうのは、君のペット?」
「マルはね、ねこさんなの。まっくろなの」
「黒猫さんですか! 可愛いですよねー、あの怪しげな感じがなんとも言えなくて……」
その話を聞くと、猫好きである夏紀のテンションが一気に上がったようで、両手を合わせニヤニヤしながら一人でペチャクチャと話し出す。
女の子の様子から見て、そんなお気楽にしてる状況じゃ無いのは分かるだろうに、こいつは……
「それで、そのマルがどうしたんだい?」
「うん……マルね、おそとににげちゃったの」
「お外に? でも、猫さんはお外を自由に散歩するものじゃ?」
「そうだけど……マル、さいきんほかのねこさんとケンカしてるみたいなの……いっつも、ケガしてかえってくる。だから、さいきんはおそとにいかせないようにしてたの……だけど」
「お外に逃げちゃった……という事かな?」
海子の言葉に、女の子はコクリと頷く。
なるほどね……まあ猫側としては外に出られなくてストレスも溜まってるだろうし、仕方無いかもな。でも、飼い主からしたらそれは心配か。
「そっか……それは心配だね」
「うん……もし、もしマルがまたケンカしちゃって、いっぱいケガしちゃったらどうしようって……」
恐らく彼女にとっては大切な家族であろうマルへの心配が抑えきれなくなったのか、女の子はとうとうポロポロと涙を流し始める。海子は女の子を慰めるように頭を撫でてやる。
「困ったな……どうしたものか」
「あ、あの! 私達で探しましょうよ、マルちゃん!」
「夏紀?」
「だって喧嘩しちゃったら大変ですし、もうすぐ雨降りそうですし、夜になっちゃいますし、私達でその子の為にマルちゃんを探しましょう!」
夏紀は必死に大声で叫び、力強く拳をグッと握る。
「……あ! べ、別にランニングサボりたいとかそういんじゃ無いですから! 純粋に、マルちゃんとその子の為にですから!」
「別に何も言っていないだろう。だが、そうだな……私も、このまま見過ごすのは嫌だな」
「そ、それじゃあ……!」
「ああ。君、名前は?」
「あ、あいな」
女の子が名乗ると、海子は優しい笑みを浮かべる。
「あいなちゃん、君の大切な家族、お姉ちゃん達も一緒に探そう」
「い、いいの?」
「はい! 一緒にマルちゃん、探しましょう!」
「おねえちゃんたち……ありがとう! あ、マルはおとこのこだよ」
「あ、そうだったんですね。じゃあ、マルくんですね!」
「よし、天気も怪しい。急いで探そう」
海子の言葉に、夏紀は「はい!」と元気良く返事をする。
見知らぬ女の子の為にペット探しか……海子の奴、本当にお人好しだな。そこが、彼女の魅力なんだろうけど。さて、ここで俺が知らん顔して帰るって訳にはいかないよな。
「俺も手伝うよ、猫探し」
「友希……別に、お前まで付き合う必要は無いんだぞ?」
「人手は多い方がいいだろ? それに、お前も言ってたけど、このまま見過ごすのは嫌だしな」
「……フッ、そうだな。では有り難く、協力を願おうか」
「おう。さて、それじゃあ俺もそのマルちゃん探しを手伝いますかね!」
「だから、マルはおとこのこだよ!」
「と、そうだったな」
女の子の鋭いツッコミに、俺は笑って返した。どうやら彼女も元気を取り戻したようだ。この子の為にも、早く猫を見つけてあげないとな。
「よし、マルちゃ……くんの捜索開始だ!」
「おー!」
こうして、俺達は猫のマル探しを開始した。あいなちゃんの話によれば、マルが逃げてからまだ一時間も経っていないらしい。ならば猫も近くに居るはずだと、俺達はあいなちゃんの家の近辺を中心にマルを探し続けた。
しかし、猫を探すという行為は思った以上に難易度が高く、捜索開始から三十分が経過しても、猫の子一匹見つからずにいた。
しかし、天気は俺達に時間をくれない。雲行きはだんだんと怪しくなり、あと三十分もすれば雨が降り始めそうだ。俺達はともかく、まだ小さいあいなちゃんに雨が降った状態で猫探しをさせる訳にはいかない。それに、マルの方も雨が降っては思うように動けないだろう。
彼女を安心させる為に、絶対に見つけ出してやると、気合いを込めながら俺達はマルの名前を叫びながら、辺りを走り回った。
「マルー!」
「マルくーん! どーこでーすかー!」
しかし、いくら探し回ってもマルは見つからず、俺達は一旦、以前夏休みに海子とラジオ体操をしに来た事のある公園に集まった。
「参ったな……どこにも居ないぞ。ここら辺は大体見て回ったはずだが」
海子の言う通り、この三十分間であいなちゃんの家の周囲は、大体手分けして見回った。だとしたら、マルはここら辺以外の場所に居るのだろうか?
いや、もしかしたら見落としたのかもしれない。人と違って相手は猫だ。俺達が入り込めない場所に居るかもしれないし、自由奔放に辺りを移動している可能性もある。ならばすれ違いってしまって、既に探した場所に居座ってるかもしれない。
これは、本当に参ったな……これじゃあキリが無いぞ。マルが俺達を待ってくれる訳も無いし、延々とすれ違うだけだ。
どうにかしてマルを見つけ、捕まえる方法は無いかと、頭を回す。他の二人も同じく案を考えているのか、難しい顔をしている。
「マル……みつからないの?」
すると、俺達の顔を見て状況が良く無い事を察したのか、あいなちゃんが震えた声を上げる。
「大丈夫、マルは必ず見つける。だから、安心して」
海子が慌てた様子であいなちゃんに目線を合わせ、優しく肩を叩く。
不安にさせちゃったみたいだな……年上の俺達がしっかりしないと。しかし、あいなちゃんには悪いがどうなってるか分からないな……ここら辺は車が通らないから事故って可能性は低いが、例の喧嘩のせいで衰弱してるって線も有り得なくは無い。だとしたら、あんまり時間を掛けると危ないかも――
と、そこまで思考を回してから、俺はそれを振り払うように頭を左右に振った。
駄目だ駄目だ、こんなネガティブな事を考えちゃ。あいなちゃんをさらに不安にさせるだけだ。マルは元気で、俺達が捕まえてあいなちゃんの家に帰る。これ以外に終わりは無い。
「考えても仕方無い。とにかく足で探そう」
「友希……ああ、そうだな。悩むより動くのが一番だ」
「はい! 絶対マルくんを見つけましょう!」
俺と海子と夏紀、互いの意志を確認しあうように三人で視線を交わし、揃って力強く頷く。同時に、ほんの少しだが水滴のようなものが、俺の額に当たった。
もう降り始めたか……本降りになるまで、時間はあまり残されて無いな。
他の二人もそれを察したのか、行動を開始する。海子はあいなちゃんにいざという時の為に持っていた折り畳み傘を渡してから、マルを探しに公園内を見回る。夏紀はすぅー、と大きく息を吸い込み、大声で叫んだ。
「マルー! いい加減に出て来いゴラァー!」
と、表情も声もさっきまでの気弱な夏紀とは違う、武零怒の二代目総長、叶夏紀としての叫び声が住宅街にこだます。確かに、さっきより声の通りはよくなったが……
「そんな脅すような声じゃマルも出て来ないだろ。ほら、あいなちゃんもちょっと怖がってるぞ」
「えぇ!? ごごご、ごめんねあいなちゃん! そ、そんなつもりは……」
一瞬で気弱な女子高校生、叶夏紀に戻った彼女は、慌ただしく手を動かしながらあいなちゃんに話し掛ける。幸いあいなちゃんはそれほど怖がっていなかったらしく、にっこりと(若干ぎこちない)笑顔を見せた。
それにホッと一安心する夏紀を、少し呆れながら眺めていると――
「――ニャア……」
風に乗って、猫の鳴き声のような音が耳を通り抜けた。その声を一瞬聞き流しかけたが、慌ててその声が聞こえた方へ首を回す。だが、猫らしき姿は見当たらない。
気のせいか? いや、他のみんなは聞こえて無いみたいだが、俺には確実に聞こえた。マルかどうかまだ分からないが、猫が近くに居る。
声の正体を確かめるべく、俺は声の聞こえた方へ足を進める。目の前にあるのは滑り台に砂場。それから、全長五メートルはありそうな木。
居るとしたら……この木か? 葉が多くてよく見えないから見落としていたのかもしれないし、今来たのかも。
俺は木の真下に立ち、真上を見上げる。しっかりと目を凝らし、枝と葉っぱが集まる暗がりの中を観察する。しかし、いくら見回しても猫のような姿を確認出来ない。
やはりあの鳴き声は気のせいだったのかと、諦め掛けた次の瞬間――ギラリと光る黄色い何かが、俺を睨み付けた。
「……居たぁ!」
それが暗がりに光る猫の眼だという事に、数秒ほど遅れて気付き俺は叫んだ。その一言に周りに居た海子達も俺の下に集まり、同じように顔を上げる。
「あのまんまるなおめめ……マルだぁ!」
「わぁ、本当です! 真っ黒で全然気が付きませんでした……」
「黒猫は暗がりだと、本当に見えないからな……でも、これで一安心だな」
「だな。マルー! さっさと降りてこーい!」
探しに探したマルに、あいなちゃんの下へ戻るように声を掛ける。が、降りてくる気配は無く、こちらへ向けられていた光がふっと消える。どうやらそっぽを向いたようだ。
「降りてくる気は無さそうだな」
「案外生意気な奴だな……仕方無い」
目はもう慣れたし、マルには悪いが無理矢理捕まえるか。制服のブレザーを脱ぎ、ずっと持ち歩いていた限定シュークリームが入ったビニールを海子へ渡す。
「悪い、これ頼む。あと危ないから下がってて」
「何をするつもりだ?」
「登って捕まえる。このまま待ってたら、雨がさらに強くなる」
「だ、大丈夫か?」
「これぐらいの高さなら平気だよ。一応、俺も男の子だしな」
と、ちょっとカッコ付けた感じに言ってやると、海子は薄ら笑いを浮かべ、夏紀達と一緒に少し後ろへ下がった。
さてと、ちょっとは男らしいところを見せてやらないとな。相手もジッとしてるし、大丈夫だろう。
両手を軽くほぐし、足首を回して体の準備が万端なのを確信してから、俺は木を掴んだ。
「ニャアァァァア! シャー!」
途端、今まで置物のように大人しくしていたマルが、威嚇するように甲高い叫びを上げた。よくは見えないが、恐らく牙を立てている。恐らくこのまま向かえば、猫パンチからの噛み付きが待っているだろう。
俺、動物には嫌われる体質ではあるけどさ……ここまでですか。ちょっと近付こうとしただけで敵対認識されるって、流石に悲しいぞ。
「友希……言っては悪いが、ここはお前には任せられんな」
すると、後ろでこの状況を見ていた海子が、そっと俺の肩を叩いた。
「いや、やれるって。俺、男の子ですし」
「あの状態のマルをまともに運べる訳無いだろう。ひっかかれて落とすのがオチだ。それでマルやお前が怪我をしては、元も子もない。それに、雨もだんだんと強くなってきているし、あまり時間も掛けられん」
「……ごもっともでございます」
言い返す言葉が一切浮かばなかった俺は、大人しく木から離れ、海子に預けた物を返してもらい、海子と役目を変わった。
「世名さん、ドンマイですよ」
「パパもよくマルにひっかかれてるから、おにいちゃんだけじゃないよ!」
海子と入れ替わりに後ろへ下がると、夏紀とあいなちゃんがそれぞれ俺に声を掛ける。
年下に励まされる俺って……なんだか情け無いよ、友希君。
「さて……」
俺と変わった海子は、マル捕獲を早速実行へ移す。軽々とした動きで木を登り、あっという間にマルが居座る枝の近くまで登り詰める。
「うわぁ、海子師匠素敵です!」
「おねえちゃん、かっこいー!」
流石海子、運動神経抜群だな。マルも海子を警戒して無いのかさっきと違って大人しいし、これは楽勝だな。……さらに情け無い気持ちになるな。
「さあマル、こっちへおいで」
そっとマルに向かい右手を伸ばし、そのままマルの少し小柄な体を、まるで赤子を抱えるようにゆっくりと胸元に抱き寄せる。
海子は暫しマルの体を確認するように眺め、何事も無い事を確認したのか、ホッと息を吐く。
そしてマルを抱えて地面に降りようと海子が体を動かした、その時――左手で掴んでいた枝がバキッ! と音を立て、真っ二つに折れた。
「なっ……!?」
恐らく全体重を支えていた枝が折れた事により、海子は大きく体勢を崩す。そのまま頭から落ちる形で、海子の体が重力の流れに従い落下し始める。
「海子!」
それを見た瞬間、俺は海子の真下に向かい走っていた。どう受け止めるかなど、一切思い付いていなかった。ただ、彼女を助けなければ――その思いが、俺の足を動かした。
「間に合え――!」
全力で地面を蹴って滑り込むように飛び出し、落下する海子を受け止めるように、腕を広げた。
次の瞬間――落下した海子、そしてマルの体重が俺に襲い掛かり、俺はそのまま地面へと体を打ち付けた。ベチャ! と聞き心地があまり良くない音が耳に届き、びっしょりとした気持ちの悪い感触が背中を駆け巡る。だが、痛みはさほど大きくは無い。どうやら、雨のお陰でほんの少しだが地面がぬかるんでいたようだ。
頭打って大怪我、ぐらいは覚悟してたんだが、なんとか軽傷で済んだみたいだ。腹の方は痛いし、泥だらけだが。
「イタタ……海子、平気か?」
「あ、ああ……お前こそ、大丈夫か?」
「なんとかな……いやー、一時はどうなるかと――」
「ニャアァァァア!」
思った――そう口にする寸前、海子が抱き抱えていたマルが急に雄叫びを上げ、俺の腕に噛み付いた。
「イタタタタタッ!」
「こ、コラ! 止めないか!」
海子が叫ぶと、マルはパッと噛み付くのを止め、海子の腕をすり抜け逃げ出す。が、それをすぐさま夏紀が捕まえ、優しく抱き抱える。
「っと……もう逃がしませんよ! って、それより! お二人ともご無事ですか!?」
「平気平気。軽い打撲程度だろうから」
「す、すまない友希……私のせいで」
「いいって事よ。海子が平気なら、俺はそれで十分だから」
「そ、そうか……それより、そろそろ離してくれないか?」
と、雨音に消え入りそうな声を出す。その言葉に、俺が今海子の事を思いきり抱き締めている事に気が付き、慌てて腕を広げる。
「す、スマン!」
「い、いや……助けてくれたのだから、責めはしない」
海子はゆっくりと起き上がり、軽く汚れを払ってから俺に手を伸ばす。俺はそれを取って立ち上がり、付いた汚れを払う。
これは風呂入らんと落ちんな……ま、海子に何も無かったからよしとするか。
「……また、助けられてしまったな」
「また?」
「お前には、何かと助けられてばかりだ。今度は私が助けると、守ると決めたはずなのにな」
「海子……別にいいじゃないか、何度助けられても。助けられる事は悪い事じゃ無いんだから。それとも、海子は俺に私を助けるなとでも言いたいのか?」
「そ、そういう事では無いが……」
「ならいいだろ。俺は海子が危なかったから助けた。だったら、海子も俺が危ない時に助けてくれればいいからさ」
「友希……」
俺の名を呟くと、海子は頬を染めながら、嬉しそうに笑みを浮かべる。
「お前には敵わないな……私はお前のそういうところに惚れたんだな」
「い、いきなりなんだよ……!」
「え? ……ちち、違うぞ! 今のはその、なんというか、思った事が口に出たというか……!」
あたふたと両手を動かし、視線を泳がせる。いつも通りな海子に笑いがこぼれそうになるのを抑え込みながら彼女を見ていると、傍らでそれを黙って見ていたであろう夏紀が、申し訳無さそうに声を掛けてくる。
「あのー、いい雰囲気のところ申し訳無いんですが……雨も強くなってきましたし、あいなちゃんとマルくんを帰す為にそろそろ行きませんか?」
「そ、そうだな! よし、本降りになる前に急ぐぞ!」
「お、おう!」
こちらをマルを抱っこしながら見るあいなちゃんの下へ慌てて歩き出し、俺達はそのまま彼女の家へと向かった。
どうやら彼女の両親は留守だったようで、あいなちゃんはお留守番を破ってこんな時間まで出歩いていた事を怒られずに済むと、一安心したようだ。
あいなちゃんとマルを無事家まで送った俺達は、彼女と別れて帰る事に。
時刻は既に五時半を回り、辺りはすっかり暗くなっていた。幸い雨は思ったほど強くはならず、だんだんと収まってきている。これなら傘無しでも大丈夫そうだ。俺としては、泥が落ちるからちょっと降ってほしいが。
「思いがけず、大変な一日になったな」
「ですね……でも、マルくんが見つかってよかったです。ところで世名さん、怪我は大丈夫ですか?」
「なんとかな。家帰って風呂入れば大丈夫だろ」
軽傷だという事をアピールする為にぐるぐると腕を回すが、その瞬間に腰辺りに痛みが走り顔が歪む。
ぬかるんでたとはいえ、がっつり打ったしな……これぐらいで済んでるのは案外奇跡かもな。早く家に帰ってゆっくり休んだり、傷の手当てをしないとな。マルに噛まれたとこは生傷出来てるし。
「……友希!」
弱い雨の中を三人揃って歩いていると、不意に海子が立ち止まって少し強張った声を上げる。
「そ、その、そんな風に怪我をさせてしまったのは私のせいでもある……だから、せめてもの罪滅ぼし……いや、感謝の証として……」
「……? 何が言いたいんだ?」
「だ、だからその……今から、ウチに来い!」
「……へ?」
まさか過ぎる突然のお誘いに、俺はすっとんきょうな声を出す。それに海子は自分の言葉がおかしい事に気が付いたのか、顔を真っ赤かにしながら俺を指差す。
「か、勘違いするなよ!? そんな格好じゃあれだし、怪我も早めに手当てしておいた方がいいだろう! だから、帰る前に少しウチで休んでいけという意味だ! 別にそういう意味では無いぞ! 少し休んだら帰ってもらうからな!」
「分かってるよ……でもいいのか? お邪魔して」
「構わん! お前がさっき私を助けたように、私がそうしてやりたいだけだ! 文句はあるか?」
「……いや、お言葉に甘えさせてもらうよ。実はちょっと体も痛いしな」
体の痛みもだんだん強くなってるし、体も濡れて寒い。ここから家まではちょっと遠いし、休ませてくれるのは有り難い。それに……ちょっと帰るのが怖い。
チラッと、俺は右手にぶら下げた、泥だらけのビニール袋へ目をやった。中身は当然、例の限定シュークリームだ。海子を助ける際に、思いっきり投げ捨てたから、恐らく中身はぐっちゃぐちゃだ。これを楽しみにしている友香へ持って行くのは、少し恐ろしい。
「よ、よし、それじゃあ私の家に行くぞ。な、夏紀、お前もどうだ?」
「私は家もそう遠く無いし、遠慮します。お二人の邪魔をしちゃあれですし……」
「へ、変な気を使わなくていい! 大体、そういうのじゃ……」
「あ、私の事は気にしないで下さい! それじゃあ、またよろしくお願いします!」
ぺこりと素早く頭を下げ、夏紀はすたこらと俺達の前から立ち去った。
「あ、おい! だからそういうのじゃ無いと言ってるだろう……まあいい、私達だけで行こう」
「おう」
「……言っておくが、本当にそういう事では無いからな!」
「分かってるよ」
そこまで言われると逆に疑いたくなる。だが、疑ってしまうとなんだか気まずくなりそうなので、俺は何も考えずに、海子と一緒に彼女の家へと足を進めた。
海子&夏紀と一緒に猫探し。今回登場したあいなちゃんは、残念ながら今後登場する予定は今のところございません。
次回、友希君三度目の雨里家訪問。