食前の運動として行ったテニス対決を終え、テニスコートを出た俺と朝倉先輩は、焼きそばにお好み焼き、クレープからたこ焼きと色んな出店が並ぶエリアへとやって来た。
「それで、お昼は一体何にするのかしら?」
「えっと……あ、見えてきましたよ」
大勢のお客さんで混雑する道を抜け、ようやく視界に入った目的地を指差す。朝倉先輩はその指の先に視線を向け、そこにある周りの出店より一回りほど大きい白い屋根型テントの出店をしばらく見つめると、疑問を抱いたような顔をしながら再びこちらへ目を向ける。
「あれは何の出店かしら? 正直よく分からないのだけれど……」
「流しそうめんですよ」
「流しそうめん……? それは、普通のそうめんと何が違うのかしら?」
「何がって……」
やっぱり知らないのか……お嬢様な先輩には無縁なものだろうしな、流しそうめん。庶民も無縁の人が多いけど。俺も小さい時何回かやっただけだし。
「行ってみれば分かりますよ。とりあえず、怪しい食べ物では無いんで大丈夫です」
「そう……友希君がそう言うなら平気ね。未知の物と遭遇するのは、ワクワクするものね」
流しそうめんに期待が高まっているようで、先輩は少々跳ね上がった声を出す。
楽しんでもらえてるようで何よりだ。このチョイスは正解だったかな。もし興味が無いとか言われたらどうしようかと思ってたけど。
内心ホッと安堵しながら、出店の方へ歩く。テントの中に入るとそこには数人のお客さんと、流しそうめんに付き物な巨大な全長約十メートルはありそうな竹。その竹を見た瞬間、先輩は顎に手を当て、首を小さく捻る。
「……ねぇ、この竹は何なのかしら?」
「この竹にそうめんを水と一緒に流すんですよ。で、それを箸ですくい取って食べるのが流しそうめんです」
「……それに何の意味があるのかしら? 流したところで味は何も変わらないと思うのだけれど」
「まあ、そうかもですけど……やってみれば案外楽しいですよ」
「……友希君が言うなら、そうなんでしょうね。いいわ、早速食べましょうか」
流しそうめんの正体を知ってか、先ほどよりほんの少しだけテンションが下がったようにも見えるが、一応興味は持ってくれているようだ。ここからハマってくれればいいが。
近くの係員の生徒に声を掛け、俺と先輩の二人分のお金を払い、割り箸とめんつゆの入ったお椀を受け取る。それから時間制限など、軽い説明を受けてから、他のお客さんと同じように竹の横に立つ。
先輩は相変わらず不思議そうに、水が流れる竹を見つめている。
「ここにそうめんが流れるらしいけど……正直どんな感じかよく分からないわ」
「まずは俺がお手本見せますから、見てて下さい」
先輩はコクリと頷き、俺の手元をジッと見つめる。
彼女の視線をヒシヒシと感じながら、俺はそうめんが流れてくるのを待つ。そして数十秒ほど待ったところで、ようやくそうめんが流れてくる。
ここでミスをしたら流石にカッコ悪すぎるので、落ち着いてそうめんの動きを見てから、ゆっくりと箸でそれを掴み取る。何とか取り逃す事も無く、そうめんの確保に成功する。そのそうめんの塊を落とさぬようゆっくりとお椀のめんつゆに軽く漬け、豪快にそれを啜る。
「……とまあ、こんな感じです」
「……やっぱり流す意味がよく分からないわね。美味しさは変わるの?」
「まあ、正直変わらないですけど……上手く行って多く取れたら嬉しくて、取れなかったら悔しい……とかあって、楽しいですし」
「ふぅん……まあ、とにかくやってみましょう」
やはり流す理由に納得していないような顔をしながらも、先輩は構えてそうめんが来るのを待つ。
その直後、次なるそうめんが早くも流れてくる。先輩はそのペースに少々驚きながらも、それを箸で掴む――が、半分ほど箸をすり抜け、そのまま下の方へ流れ去ってしまった。
「あっ……」
「あー、惜しかったですね。まあ、初めてだししょうがないですよ」
「……なるほど、これは確かに少々悔しいわね……そうめんをより多く味わうには、狙ったそうめんを少しでも多く捕らえる為の取り方に工夫を考えなければならない訳ね……フフッ、なかなか深いわね」
そうポツリと呟くと、先輩は何だか楽しそうに笑う。
そんな深いものでも無いと思うな、流しそうめん。工夫とか無しに、慣れれば結構簡単に取れるし。……まあ、先輩が楽しんでるならそれでいいか。
「とりあえず、取った分は食べたらどうですか?」
「それもそうね。少なくて満足出来ないけれど」
そう言いながら取ったそうめんをめんつゆに漬け、それをチュルっと啜る。
「んっ……うん、味は申し分無いわね。さて、次は少しでも多く取りたいところね」
「あっ、あんまり続けて取らないようにして下さいね。後ろにも人居ますから」
「ああ、そうだったわね。連続して取る事は出来ず、限られた時間の中でどれだけ腹を満たす事が出来るか……フフッ、なかなかスリリングな食事ね」
そんな凄い食事では無いと思うぞ……流しそうめんって。時間も余裕あるし、普通に腹は満たせる。でもまあ……先輩が楽しそうだし、いいか。こんな事でこんなに楽しめるなんて、先輩もお茶目なとこあるんだな。
テンションが上がって来た先輩に少々ほっこりした気持ちになりながら、再び流れる水に目を向けた。
他の人にも行き渡るように数回ほどそうめんをスルーし、俺は次に流れてきたそうめんを取りそれを食べる。その間も、先輩は次自分が狙うそうめんに集中するように、水の流れをジッと見ていた。
そして次のそうめんが目の前に流れてきた瞬間――先輩はそれを素早く箸で掴み、即座にお椀へ運んだ。今度は一欠片も逃す事無く、見事に全てを捕らえた。
「おおー、流石ですね」
「まあ、こんなところね」
と、先輩はどこか誇らしげに口元を上げる。
どんな事も一回やれば大体は物にしちゃうんだし、そうめんを掴み取るなんて簡単だよな。……決して誇れる事でも無いだろうが。
先輩は早速掴み取ったそうめんを口元に運び、チュルリと啜る。
「んっ……!」
その直後、先輩は少し口元を歪ませ、眉間にシワを寄せる。
「どうしました?」
「……少し、長く漬けすぎたみたい……」
「えっ? ……ああ、めんつゆがしょっぱかったんですね」
取った後しばらくドヤってたしな。そりゃしょっぱくもなる。にしても、そんなウッカリするなんて、先輩も可愛らしいとこあるんだな。
先輩の新たな一面に少し笑い声を漏らしながら、水の入ったコップを先輩に渡す。先輩はそれを受け取り、喉に流し込む。
「ふぅ……ありがとうね、友希君。以後気を付けるわ」
「ハハッ……先輩もあんなミスするんですね」
「私だって人間よ。ちょっとしたしくじりはするわ」
そりゃそうか。そういえば俺も何回か先輩のドジ見たことあるし。プール掃除の時とか。
「まあ、周りにやたらドジするお馬鹿が居るせいか、あんまり気にならないけど。それに、こういうミスをたまにはしないと、自分にウンザリするもの」
「先輩……」
「……ちょっと暗い話になってしまったわね。ごめんなさい」
「いえ別に……そういうドジがあった方が女の子としてはいいと思いますよ。少なくとも、今のはちょっと可愛いって思いましたし……って、変な事言ってすみません!」
完全に無意識で出た言葉に、遅れて恥ずかしさが芽生えつい謝罪してしまう。しかし、先輩は驚いた顔をしながらも、ほんの少し頬を赤く染め、すぐに嬉しそうな笑みを見せた。
「ありがとうね、友希君。凄く嬉しいわ」
「あ、いや、その……」
「ウフフ……照れ屋さんなんだから。さて、食事を再開しましょう。時間が無くなっちゃうわ」
「は、はい!」
熱くなった体を水を飲んで誤魔化してから、再び流れてくるそうめんに意識を向ける。
どうしてあんな事言ったんだか……スッゴイ照れ臭いんだけど。本当、俺のこのウッカリはどうにかして直さないとな。
そうめんと一緒にこの恥ずかしさも水に流れはしないか――そんな事を考えながら、俺は先輩と一緒に流しそうめんを楽しんだ。
◆◆◆
流しそうめんを十分に堪能した後、俺と先輩は再び行動を再開した。
劇や音楽やお笑いなどのライブ、展示系の出し物、参加型のゲーム系の出し物などなど――色んな出し物を見て回り、俺と先輩はその全てを楽しんだ。
そして刻々と時は流れ、三時半を過ぎた辺りで俺達は外の出店で少し遅めのおやつのクレープを買い、少し休憩を取る事にした。
「結構見て回りましたね……どうですか先輩、満足してくれてます?」
「愚問ね。私は友希君と二人きりなだけで、何もかも満足よ」
「そ、そうですか……それより、これからどうします? もう結構見て回ったし、時間もなんだかんだあとちょっとですし……」
「そうね……あとは適当に見て回るのもいいかもね。……ところで友希君、後夜祭は何か予定はある?」
「後夜祭……ですか?」
ウチの文化祭ではお疲れ様の意味を込め、終了後に後夜祭を行う。軽音楽部によるライブだったり、炊き出しだったり、キャンプファイアーをしたりと、結構盛大に行うらしい。
「もし何も予定が無いのなら、後夜祭でも私に付き合ってくれないかしら? 今日は……少しでもあなたと一緒に居たいの」
「先輩……もちろんですよ。今日は一日先輩に付き合うって決めてますから。後夜祭も付き合いますよ」
「そう……それじゃあ後夜祭が始まる少し前に、本校舎の下駄箱前で落ち合いましょう。本当なら始まるまでずっと一緒に居たいけど、クラスの片付けを放棄する訳にはいかないから。その時だけ、残念ながら離れ離れね」
「はい、分かりました」
俺も執事喫茶の片付けぐらい手伝わないとな……このデートの事をしつこく聞かれたりしなきゃいいが。
少し憂鬱な気分になりながら、手に持っているチョコバナナクレープを一口食べる。先輩もそれに続き、手にしているイチゴクレープをパクッと口にする。
「……もうすぐ終わってしまうのね」
「え?」
「いえ、後夜祭が残っているとはいえ、友希君との文化祭が終わってしまうのが少し名残惜しくてね」
「……まだ後夜祭があります。そこでも精一杯楽しみましょう。先輩がこれ以上無いってぐらい満足してくれるよう、頑張りますから、俺」
「友希君……フフッ、本当に優しくて真面目。ますます惚れちゃうわ」
先輩は俺をからかうようにニヤリと笑う。その笑みと言葉に微かに羞恥心を覚え、俺はそれを誤魔化すようにクレープを残り全て頬張る。
それを横で見つめながら先輩はクスクスと笑い、自分のクレープの残りを平らげる。
「ごちそうさま……さて、そろそろ行動を開始しましょうか。後夜祭が残っているとはいえ、まだまだ楽しまないと」
「そ、そうですね……それで、どうします? 行こうと思ってたとこは大体行きましたけど……」
「さっき行った通り、適当にブラブラと歩きましょう。それだけで私は楽しいから。なんなら、天城さん達をおちょくりに行きましょうか?」
「……それは止めましょう」
先輩の冗談にマジトーンでツッコんでから、俺は先輩の先を歩き出す。先輩も腕を組んで俺に並び、歩み出す。
それから俺達は目的地も決めず、文化祭終了まで適当に辺りを見て回った。後夜祭で一体何があるのかを考えながら。
そして数時間ほど経過したところで、文化祭はあっさりと終了の時間を迎えた。外から来たお客さん達が次々と帰って行く中、俺と先輩は一旦別れ、互いのクラスの片付けを手伝いに行く事にした。
先輩と別れて執事喫茶へと辿り着いた俺を待っていたのは、忙しなく執事喫茶で働いていた者達からの言葉責めの数々だった。
「俺達が忙しなく働いてんのにデートとか幸せだなオイ!」とか、「朝倉先輩と何をしたんだよ?」など、愚痴のように次々と押し寄せるそれを適当に流しながら、俺は店の片付けを手伝った。
大体の片付けを終わらせた後は、裕吾達と適当に話をしながら後夜祭が始まるその時を待った。
そして先輩と別れてから数時間、とうとう後夜祭の時間が近付いて来た。俺は裕吾達と別れ、待ち合わせ場所である本校舎の下駄箱前まで走った。
一階に着き、上履きから靴へと履き替えて外に出ると、そこには既に朝倉先輩の姿があった。
「先輩、もう来てたんですね」
小走りで駆け寄りながら声を掛けると、先輩は微笑みながら振り返る。
「ええ、片付けが予定より早く終わってね」
「そうですか……すみません待たせちゃって」
「いいのよ別に。さて、行きましょうか」
スッと先輩は右手を差し出す。俺はそれを少し照れ臭くなりながら、軽く握り締める。
「えっと……後夜祭はグラウンドでやるんでしたっけ?」
「ええそうよ。そろそろ人が集まり始めるはず。混雑になる前に行きましょう」
「はい」
二つ返事をして、先輩と並んで歩き出す。
数分ほどでグラウンドに到着した後は、先輩が「静かに二人の時間が楽しめるところがいい」と言ったので、人が集まりにくそうなグラウンドの端、花壇の並びの方で後夜祭が始まるのを待つ事に。
薄暗いグラウンドにはチラホラと生徒が集まっていて、準備も進んでいた。炊き出し用のテントに、特設のステージ、そして中央には既に派手に燃え上がるキャンプファイアー。早くも後夜祭の雰囲気が出ている。
その光景を前に、先輩と今日の事を振り返るような会話をしながら、後夜祭が始まるのを待つ。そして数分後、大方の生徒がグラウンドへ集合した頃――
『――はーい、皆さんご注目して下さーい!』
ステージの方からマイク越しの声がグラウンド全体に響き渡る。それに先輩との会話を切り上げ、特設ステージの方へ目をやると、そこにはハル先生が立っていた。
「どうしてハル先生が?」
「閉会式じゃないかしら? 本当は学園長がやるはずだったけど、急な体調不良で代役を立てる事になったみたいだから」
「そ、そうなんですか……」
『昨日と今日の二日間、みんなお疲れ様でしたー。みんなが頑張ったお陰で、文化祭は大成功で幕を閉じました。そのお疲れ様会という事で、思う存分この後夜祭を楽しんで下さいねー! それでは、第三十七回、乱場学園文化祭を閉会。そして、後夜祭を開会しまーす!』
緊張感の無いいつもの調子なハル先生の言葉の直後――突然、無数の花火が上空へと上がり、夜空を明るく華やかに照らした。
スゲェ……去年もこんなに豪勢だったっけ?
『この後は軽音楽部によるスペシャルライブですよー。ライブで盛り上がるもよし。炊き出しのご飯をモリモリ食べるもよし。キャンプファイアーの周りで恋人とロマンチックに踊るもよし。危険な事をしないよう、楽しくエンジョイして下さいねー』
そう言い残し、ハル先生はステージを降りた。
「始まりましたね、後夜祭。これからどうします?」
「そうね……正直言うとやる事ってあまり無いのよね。軽音楽部のライブもあんまり興味は無いし……まあ、私は友希君と一緒に居れるだけで幸せだから満足なのだけれど」
「そ、そうですか……とりあえず、小腹も空いたし、何か食べましょうか。俺、炊き出しでなんか貰ってきますよ。先輩はここで待ってて下さい」
「あらありがとう。私は何でも構わないから、お願いするわね」
手を小さく振る先輩に見送られながら、炊き出しをやっているテントへ向かう。テントには既に大勢の生徒が集まっていた。俺はその順番待ちの列の後ろに並び、大人しく待つ。
炊き出しのラインナップはPTAの保護者の人達が作ってくれた炊き出し定番の豚汁、手作りのおにぎりなどなどだ。先輩には何でもいいと言われたので、とりあえず豚汁とおにぎりを二人分貰った。
両手に豚汁の入った器、両脇におにぎりと、結構ギリギリな状態で何とかこぼさぬよう注意しながら先輩の元を目指す。
それからどうにか豚汁をこぼさず先輩のところへ辿り着き、急いで持ってきた物を彼女に渡す。
「せ、先輩! お待たせしました……! 豚汁とおにぎりですけど……いいですか?」
「ありがとう友希君。ごめんなさいね、私の分まで」
「いいんですよ、俺が言ったんですし」
片手が空いて余裕が出来て少し安心しながら、近くの花壇の縁に腰を下ろす。先輩も受け取った豚汁をジッと見つめながら、隣に座る。
「先輩、豚汁飲むのもしかして初めてですか?」
「そうね……あんまりこういったものは食さないわね。おにぎりも、見た事があるだけで口にした事は無いわね」
「そうなんですか……庶民の味もなかなか美味しいですよ」
「友希君が言うなら間違えは無いわね。それじゃあ、頂こうかしら」
そう言って、先輩はそっと目を閉じて豚汁を啜る。
「……どうですか?」
「……温かいわね……なかなか悪く無い味だわ」
「気に入ってくれたみたいでよかったです」
「ええ……流しそうめんといい、今日は友希君には色んな食べ物を教えてもらったわね。お礼に何か私も教えた方がいいかしら?」
「い、いいですよそんなの。それより、おにぎりの方も食べてみて下さいよ」
「そうね」
先輩は豚汁を花壇の縁に置き、おにぎりを包んだラップを剥がし、パクリと口にする。その直後――先輩は突然顔を歪める。
「ど、どうかしました?」
「いえ……私、梅干しは少し苦手でね……」
「そ、そうだったんですか……!? すみません、知らないで持ってきちゃって……」
「いいのよ……伝えなかった私が悪かったわ」
首を横に振りながらそう言うと、先輩は申し訳無さそうな顔をしながら、一口食べたおにぎりを再びラップで包む。
先輩、梅干し嫌いだったのか……知らなかった。どうやらこれ以上は食べれないみたいだな。
「えっと……そうだ、代わりに俺の食べます? こっちは鮭だし、まだ口付けてませんから!」
「気持ちは嬉しいけど……友希君に悪いわ。私は大丈夫だから、気にしないで」
「いいですよこれぐらい。俺は豚汁だけで大丈夫ですから、どうぞ」
「友希君……じゃあ、悪いけど貰うわね。……そうだ、食べかけでよかったらだけど、私のをあげましょうか? どうせ食べられないし」
俺のおにぎりを受け取ると、先輩はそう言って梅干しのおにぎりを俺の前に差し出す。
「い、いいですよ別に!」
「あら? 私との間接キスは嫌?」
「そ、そういう意味じゃ……」
「冗談よ。流石に食べかけを押し付けるほど、失礼じゃ無いわ。作ってくれた人には申し訳無いけど、これは後で処分するわ」
眉を潜め、先輩は梅干しのおにぎりを膝の上に置く。
「先輩、どうして梅干しが嫌いなんですか?」
「昔、お父様が好んで食べていた梅干しをちょっとした興味から口にしてしまってね。それがとても酸っぱかったのよ。それ以来、梅干し全般が苦手になってしまったの」
「そうなんですか……先輩にもそんな過去があるんですね。なんか意外です」
「私としてはちょっと恥ずかしい過去だけどね。こうして誰かに笑い話として語るとは思ってもなかったわ」
クスクスと楽しそうに笑いながら、先輩は俺から受け取った鮭のおにぎりを食べ始める。それを横に、俺も豚汁をゆっくりと啜る。
少し冷たい秋の夜風、グラウンドの中央でパチパチと燃える炎、特設ステージで派手に盛り上がるライブ、炊き出しの食欲を掻き立てる匂い、そこら中でワイワイと騒ぐ生徒達――後夜祭の場景を五感で感じながら、俺は今日の事を頭の中で振り返った。
文化祭も今日で終わりか……最初はどうなるかと思ってたけど、終わってみるとあっという間だったな。先輩も楽しんでくれたみたいだし、とりあえず大成功って事でいいのかな。……明日からは他の四人の相手も大変そうだけど。
今日のデートでまた先輩の色んな事を知れた。これが俺の出す答えに影響するはずだ。
俺が先輩の事を好きになるのか、それとも他の誰かを好きになるのかは分からない。そのタイミングも、いつか自分でも思いもせず急に来るかもしれない。今は、それが来るのを待とう。
でもそれだけじゃ無い。彼女達の納得出来るような答えを出せるようにしなきゃ。彼女達の未来を閉ざさない、最善の答えを考えないと――
「――友希君、また難しい顔をしてるわね」
「えっ、先輩……?」
「私達の事を真剣に考えてくれるのは嬉しいけど、今はその時じゃ無いわよ。今日は最後まで一緒に楽しみましょう?」
「す、すみません……」
また深く考えちゃったか……先輩の言う通り、今日は最後まで楽しもう。それが今の俺のやるべき事だ。
大丈夫、時間はまだある。焦っても、いい答えは出せないもんな。今は、みんなとの日常を楽しもう。
「ところで友希君、例の約束は覚えてる?」
「例の……?」
「テニスの時に言ったお願いよ。保留にしてたお願い、今言うわ」
ああ、あったなそんな事。今がお願いするタイミングって事か? どんなお願いなんだ?
「……それで、お願いって?」
「簡単な事よ。私と、踊ってくれないかしら?」
「お、踊る……? な、なんでですか?」
「後夜祭のキャンプファイアーの下で、二人で華麗なダンスを踊る……何だか素敵じゃない?」
「そ、そうですか……?」
確かに、キャンプファイアーの周りでダンスを踊ったりする事はあるけども……二人だけでそれはちょっと恥ずかしくないか?
「大丈夫、わざわざキャンプファイアーの近くまでは寄らないし、ここなら人目も集まりにくいわ。暗いし」
「だ、だとしても……それに俺ダンスなんて出来ませんよ?」
「簡単なステップだけだから平気よ。私がリードしてあげる。それとも……友希君は約束を破るのかしら?」
「うっ……!」
それを言われたら……確かに何でもお願いを聞くと言ったが……まあ、いいか。減るもんじゃ無いし、それぐらいなら。
「分かりました……踊りましょうか」
「ありがとう。さあ、手を取って」
スクッと立ち上がり、俺へ手を差し出す。俺はそれを取り、立ち上がって彼女と向き合う。
「俺、本当にダンスの経験なんて無いですよ? どうすれば……?」
「手取り足取り教えてあげるわ。まずは相手の全身を抱き締め、顔を近付けて……」
「それ違いますよね? 流石に分かりますよ!」
「あらバレちゃった。頬に口付けをしてあげようと思ったのに」
お茶目だなオイ……この調子じゃ何されるか分かったもんじゃ無い。
「……今日はありがとうね、友希君」
「い、いきなりですね……」
「今日というこの日を、私は一生忘れないと思うわ。愛しいあなたとの、私だけの思い出を……高校最後の文化祭、最高の思い出が出来たわ。本当にありがとう」
「先輩……俺の方こそ、なんだかんだ楽しめましたよ。先輩の事色々知れたし、また答えに近付けた気がします」
「そう……今日の事が私にとっての最高の未来に繋がる事を祈ってるわ。……じゃあ、始めましょうか」
先輩はそっと俺の両手に自分の手を絡ませ、身を寄せる。彼女の胸と俺の胸が重なり、彼女の激しい鼓動が伝わってくる。
そして先輩はほんのりと染まった顔を上げ、うっとりとした幸せそうな瞳で俺を見つめながら、口を開いた。
「終わっちゃうのが残念だけど、最後にもう一つ素敵な思い出……私に頂戴ね?」
柔らかい笑顔を見せた次の瞬間、先輩は俺をリードするように動き出した。
それから俺達は、遠くに燃ゆる炎を背に、小さな踊りを続けた。端から見ればぎこちないかもしれない。けど、先輩はとても楽しそうに、嬉しそうに俺とのダンスを続けた。そんな彼女を見て、幸せそうな彼女の姿を見て、俺もなんだか少しだけ嬉しかった。
こうして、波乱から始まった俺の文化祭は――幕を閉じたのだった。
長かった文化祭編もようやく完結です! 朝倉会長の勝利感が半端ないけど、正妻を巡る物語はまだまだ続くぞい。
次回は再びやって来る、学生が避けては通れないあのイベント――の予定。