―――ここは何処か暗い場所だった。
脳に染みる消毒液の匂いに満ち、空間が浄化され過ぎていて不気味な雰囲気。
そんな場所に居るのは二人の人物。一人はカソックを着込む青年に、もう一人は寝込んでいる修道女。
「久しぶりだな、カレン」
「ええ。確かに久しぶりと言えるくらい会っていませんでしたね、お兄さん」
カレン・オルテンシアにとって突然出来た家族―――言峰士人は数年前に知り合えた唯一の親族だった。とはいえ、自分を捨てた男の養子であり、血の繋がりは一切無い。この男との関わり合いの重要な接点は一つのみ。
―――つまり、自分の実の父親らしき言峰綺礼と言う神父だけだ。
彼女が言峰士人と言うこの神父と出会ったのは必然と言えた。彼は生き残れた第五次聖杯戦争後、高校を卒業したと同時に巡礼の旅に出た。代行者や司祭としての業務を聖堂教会に頼んで一時的に休み、世界を旅する為に外へ出た。
しかし、初めての旅。勝手が分からないので最初は目印として、彼は父親の足取りを辿ってみる事にした。彼が生きて歩んだ道を、その景色を、見て回って見た。
……その旅の中、経歴を調べている時に知った綺礼の妻と、その娘の事実を自分の眼で確かめる為、彼はカレン・オルテンシアと出会うことになった。
「元気とは世辞でも言えん様子だが、まだ人の形で生きているお前を見れて良かった」
「笑いながら言う台詞ではありませんから、それ。
もっとも、そう言う貴方も相変わらず、腐った泥沼の道を歩んで気苦労が大変でしょう」
久方ぶりの兄妹の水入らず。カレンは気が付いた時には、彼との会話を楽しんでいる自分を発見している。やはりどうやら、この男は自分にとって普通ではないらしい。
毒舌を混ぜ合わせた世間話をし続ける。今の状態になったカレンと楽し気に話をする人物など、最早この神父以外に教会ではいない。オルガンも演奏出来ず、何を食べても味を感じなくなり、視界も機能しなくなってきた彼女にとって、士人との会話は丁度良い暇潰しとなった。
「なぁ、カレン」
「どうかしました、お兄さん」
会話を断ち切り、彼は目の前の死に逝く妹に問う。
「その姿、既に余命幾許も無いのだろう?」
「……そうね。後一、二年保てば十分でしょう」
―――被虐霊媒体質。カレンの容体の悪化はこれに尽きた。
彼女の肉体は既に良くない何かに変異してしまっている。このままでは何時かは肉塊の異形と化し、ベットで寝込んでいるだけでは生きる事もままならない。近い将来には延命器具を常に身に着けられ、冷凍保存される可能性すらある。
「カレン。お前は――――生きたいか?」
嘗て自分が死の淵で神父から聞いた言葉を、その神父の娘に言い放った。士人はこの巡り巡った今の瞬間が実に面白かった。
そんな妙に楽しそうな笑みを浮かべる兄を見て、カレンは呆れたように苦笑する。彼の内面は今一把握し切れず、開き甲斐のある精神的外傷も見当たらない。けれども、とても綺麗な作り物の笑顔を偽れる義理の兄は見ていて面白い。
「……はぁ。なにを言っているのですか。
この体質の治療法がない事くらい知っているでしょう。その質問に意味はないです」
この神父の悪辣さは自分に良く似ている。だからこんな、今直ぐにも死んでしまいそうな自分に対し、生に対して執着させるような言葉を言ってきても皮肉で返すだけ。
それに、もう受け入れたこと。
カレンからすれば、生きるとはそういうこと。結果、彼女はそれで死んだとしても唯の当たり前な結末。
「お前の言う通り、厄介なその体質に対する治療法は知らない。だが、体に刻まれた傷を癒し、人としての寿命まで生きる手段なら有るぞ。
―――それも、今から直ぐに行える」
驚いた顔で、しかし何処か呆れた表情で神父を見て、楽しそうに彼女は笑った。
「……まぁ、死なないで済むならそれに越した事は無いです」
この終わりを受け入れているが、彼女とて無理に死にたい訳では無い。しかし、今此処に至っては苦しむのも呼吸するような当たり前な生態なのだ。
カレン・オルテンシアにとって、この異能は有っても無くても構わないが、無理に消したいと思うモノでは無かった。
「ですが、治らなくとも構いません。この苦痛は自分だけのもの。
私はこれで死んだとしても十分満足なので、別に大丈夫ですから。貴方が気にする事ではないのです」
「―――ふむ……」
「……?」
思案するような無表情で彼女の眼を見る。
「……そうだな。俺は別にカレンの異能を取り除こうとしているのではない」
「では、どういう?」
「方法はこれから話そう。だから安心してくれ。別にその異能が消える訳ではない」
「異能をそのままにし、尚且つ体が治り、更に寿命まで生きられる方法ですか。
……少し、胡散臭いわ?」
「否定はしない」
「そうですか。
……もしかして外法の類ですか、それ?」
確かに、人間を辞めてしまえば被虐霊媒体質など怪物の個性に堕ちる。特に死徒が持つ復元呪詛に掛かれば、内側からの自傷など簡単に治るだろう。
「まさか。流石の俺でも、人外への転生など進めんよ。死徒の血も手に入れようとすれば簡単に採取可能だが、今は持って来ていない」
「……分かりません。他には何も思い付かないですけど」
「俺は魔術師だ。霊媒治療も行える。しかし、お前の体質を根本から治す効果は出ない。
―――故に、それを如何にか出来るモノを生み出せば良い。
幸いな事であるが、その手の幻想に心当たりがある。そして、人を生かす事にあらゆる幻想の中で更に特化した宝具だ」
「……………」
彼女には勿論、そんな都合の良い宝具に心当たりは無い。故に黙って話の続きを聞くまでだ。
「それはアヴァロンと言う宝具でな。オリジナルも昔に見た事がある。故に、その情報も保有している。
……だが、今の俺の能力では生み出せない。
後何十、何百年と研究と鍛錬を積めば可能性は出てくるが、その時にはお前は確実に死んでいる。鞘を生み出せたところで運用も恐らく不可能だろう」
「……そうでしょう。
アヴァロンなんて規格外の幻想ならば、流石のお兄さんでも不可能ね」
カレンは知識だけでなら知っているが、アヴァロンは確かアーサー王が保有していた聖剣の鞘。老化を防ぎ、傷を癒す効果があるならば、彼女を人間の形に健康な状態で維持可能だろう。
確かにその鞘をカレンがもし使えるのであらば、異能を失うことなく生き、そしてカレン・オルテンシアとして天寿を全う出来よう。だが、そんなモノが都合良くカレンが手に入る訳でも無く、もし現存する鞘を手に入れたところでアーサー王では無い彼女では使用は不可能。
それがこの世の、人間の限界。しかし――――
「そこで、奇跡を起こそうと思う」
―――言峰士人と言う神父からすれば、既に踏破した限界であった。
「利用するのはアラヤとの契約だ。魂の限度まで力を後押しさせる」
「――――え?」
阿頼耶識との契約。つまり、人類の守護者にして抑止力の奴隷。
「……待って、待って下さい」
「安心しろ。世界を幾度となく危機から助け、人命も数え切れぬほど救った。
契約対象となる条件としてなら今の功績で十分だ。死後を売り渡す準備ならば完了している」
「―――やめなさい。
貴方、自分が何をしようとしているのか、わかっているの?」
「無論だとも。妹を救うのに命を掛けるのは、兄として当然ではないか」
「私は望んでいません。貴方に救われたいなんて思ってません。
この体を救えたところで、そのようなものはただの自己満足でしかない」
おまえの救済など迷惑だと言い切った。他人の自己満足で癒されていい人生では無い。彼女は彼女なりに自分の運命を気に入ってる。
「―――それが何だ?」
しかし、この男はカレンの言い分に欠片も興味を感じていなかった。自分よりも更に空虚な瞳が、心を飲み込むように見つめてくる。
「……もう、いい加減にして下さい。
理解している癖に、何故そのような真似をするのですか?」
分からせる為に、自分の考えをリセットする為に、一度だけ溜め息を吐く。修道女は自分と良く似た神父を睨み、自分の思いを口にする。
「いいのです。このままで私は満足。自分が不幸だと嘆く事が出来るだけで十分。
……貴方を助けた養父の娘だからという理由だけで、私が自分で決めた人生に口を挟むのは、神父として傲慢と言えるでしょう」
「それは否定させて貰う。この罪は傲慢では無く―――強いて言うのであれば強欲だよ。
―――実感が欲しい。
―――感情が欲しい。
―――真実が欲しい。
お前を助けるのは自分の答えを得る為にする慈善だ。偽善にさえ成らない人真似だ。
……故に、もし何かを憎むのだとするなら―――お前を助けたいと願った愚か者と、死から救われてしまう己の不運を嘆いてくれ」
善意などでは無い。この男は終始、自身の求道の為に人を救っている。
カレン・オルテンシアはそんな、あの男の昔の家族だったから、と言う繋がり一つによって未来を掬い上げられてしまう。
「何故そのような……いえ、そのようなことの為に―――私を救うと言うのですか?」
「―――さて……どうだろうな。
確かに、
この手で特別な存在に値するお前の人生を紡ぐ事で、私は空白を埋める事が出来るかもしれない」
言峰士人にカレン・オルテンシアに対する愛情など無い。しかし、何かしらの執着は存在している。自分を火事から救ったあの神父の娘である女だと知った時、確かに胸に迫るものがあった。死に面しているカレンを助けてみようと思えたのだ。あるいは、更に苦しめたらどうかと思ったが、苦しみなどにもはや価値は無い。
―――むしろ、その逆である。
先の人生を捨ててまで命を救われたとしたら、カレンは一体何を思うのか。それも自分を捨てた父親が拾った子によって助けられたとしたら、何を感じるのか。
終わり無き地獄に兄を突き落とす要因となって生きてしまうとなれば、カレンは自分がどう成り変わるのか予測が出来ない。
「……ダメ。駄目です。
それに無駄ですよ。私はもう、自分の人生を許容している。これで私は満足なのだから」
「―――断る。
お前には生き長らえて貰う」
身動きがもう出来なくなっているカレンにとって、自分では既に言葉以外では足掻けない。そして、動ける頃には事は全て終わってしまっている。
彼を止めるには言論で意志を挫くしかなかった。
「守護者としての契約ならば、確かに報酬として私は癒される。
しかし、貴方の死後を無理に奪い、未来を与えられて、生きる事が出来たとしても―――それでは自分を許容出来ない
……それに何よりも―――貴方が何処にも逝けなくなる」
「なに。長く生きていけば何時かは自分を許し、兄の不運な幸先も割り切れるだろう」
「―――貴方は永遠に救われない。
それでは―――私の
優しいのでも無く、甘いのでも無く、それは無償の施しだった。
言峰士人に損得勘定など無い。そもそも利益を得たところで面白くも無ければ嬉しくも無い。逆に、不利益や損を被ったとこで悲しくも無ければ悔しくも無い。
―――結果。他人と自分の関係が全て、何もかもが釣り合わない。
完膚なきまでに壊れ切っている。頭に捩子が一本も刺さっていない。人として心の機能が失われている。人真似をして営みを模倣する泥人形でしか無い。
故に他人を憎悪する生態を持つ泥だけが、彼にとっての娯楽となる。それしか楽しいと感じられない。他にあるのは、養父から学んだ求道と王様から貰った誇りだけ。
―――この三つが至極簡素に絡み合ったのが、言峰士人と言う人間の在り方なのだ。
「もう良いだろう、カレン・オルテンシア」
そんな神父が笑った。カレンは寒気に襲われた。らしくも無く感情が暴れて、表情が崩れてしまいそう。
「―――…………っ」
「諦めろ。既に決めていたことだ。
―――私はお前を救いたい」
問答はこれ似て終わり。次に語り掛けるべき相手は、霊長を管理する集合無意識。
「―――アラヤよ、力を寄越せ。
そして、対価として死後を預ける事を契約する」
―――今この時、コトミネとアラヤの間に契約は結ばれた。
しかしまだ、まだであった。まだ間に合う。
言峰士人がカレン・オルテンシアに対して奇跡を起こさなければ、契約は破棄されて守護者になる事は無い。
「待ちなさい――――!」
これが正真正銘、最後の最後。止めるには今しか無かった。
「―――待たない。
必要な全ての準備が整った」
そして、妹の懇願を兄は斬り捨てた。
「―――
カレンの体質をどうにかする手段は無い。生まれながらの異能を消す方法も使えない。しかしこの先の未来、彼女の自傷を自動的に修復する宝具は心象風景の中に存在した。
宝具の名は
アーサー王の肉体を自動治癒する強力無比な宝具。本来の用途は魔法さえ防ぐ絶対防御であるが、肉体に組み込めば治癒用の礼装となる。
故に、鞘の所有者をカレン・オルテンシアとする。
そうしなければ、被虐霊媒体質で傷付く度に治癒は自動で発動不可だ。また、カレンではこの鞘を宝具として使いこなせないものの、肉体内へ埋め込んでしまえば、それなりの日数があればゆっくりと治癒が進行する。体質で衰弱していく心配も無ければ、今背負っている障害も何れは治るだろう。
「
――存在因子、具現――
――誕生理念、模造――
――基礎骨子、偽装――
――構成材質、複製――
――創造技術、模倣――
――内包経験、虚飾――
――蓄積年月、再編――
――因子固定、完了――
「―――
神父の手の上に浮かぶ宝具―――
単純にこれを型落ちで投影するだけならば、神父とてアラヤとの契約など不必要。しかし、この鞘の因子をカレン・オルテンシアに適合するように組み直した上で存在させるなんて真似は、例え彼が未来永劫自分を極めたとしても不可能な所業。
しかし今この瞬間、この世の道理を超過した奇跡が現われた。
この先、言峰士人は二度とこの投影魔術は行えないだろう。そもそもアヴァロンを投影出来たところで、アーサー王の因子を一切持たない彼では妖精郷との繋がりが全く無く、鞘の運営など本来は無理なのだ。だが、今だけは、その条理を覆していた。
「―――
真名を唱えられ、鞘は何百何千に分解される。極小まで細かに別れたパーツ一つ一つの行き先は無論―――カレン・オルテンシア。鞘が体内に吸い込まれ、彼女は自分の生まれながらの業から救われてしまった。
―――その日、神父は家族を助けて人では無くなった。
◇◇◇
第五次聖杯戦争から数年後の冬木。吐く息も白くなり、今年も秋が終わって冬の時期になる。
そこにある冬木教会には二人の人物が居た。
一人はここで暮らしていた言峰士人。もう一人は数か月前に新しく赴任して来たカレン・オルテンシア。
「本当、バカな人。貴方は私に過保護にも程があります」
最早肉塊の異形に成り果てるだけだったカレン・オルテンシアは、今もこうして人の形を保って生きていた。
無論、悪魔祓いの職を辞めた訳ではない。被虐霊媒体質が治った訳ではない。
ただ聖剣の鞘の癒しによってどんなに自傷しても、時間が経てば常に健康のままとなった。人の形を維持できるようになった。
「そう言うな。助けられるから助けただけだ」
「私は貴方に迷惑を掛けてばかり」
士人の推薦と本人の希望、そしてカレン・オルテンシアの悪魔祓いの功績が認められた事により、彼女は冬木教会の司祭となった。
カレンは既に二十歳を超えて日本の法律でも成人しているが、見た目はまだまだかなり若い。顔立ちも実年齢も一つの教会を任されるには歳若いものの、完璧な手腕によって彼女は教会を生真面目に運営していた。
「お兄さん。貴方はこれからどうするのですか?」
「この街で少し休みを取る予定だ。
その後は未定だが、してみたい事がまだ幾つか残っている。時期を見て出て行く」
「……衛宮士郎絡みですか。それとも美綴綾子か、遠坂凛に関係している事でしょうか?」
何処か拗ねた顔で神父を見た。そして、自分を見て更に笑顔になるこの男を見て、余計に表情を厭そうに歪める事になった。
「何だ。俺が居なくて寂しいのか?」
「いいえ。寂しいとかあり得ません。
……それにこの街に来てから、面白い人と知り合えましたから。別に人寂しさは無いです」
拗ねた妹を見て、何だか楽しくなるのは底意地の悪さ故か。士人は何時ものような笑顔ではなく、何処か世の中を面白がる道化師に似た気味の悪い笑顔を浮かべた。
「ふむ、成る程……人寂しさか。
お前はあれか、恋人とか作ってみる気は無いのかね?」
「―――ポルカミゼーリア」
「うお! ……またお前、凄い罵声を言うな。
―――お兄さんは許しませんよ」
「黙りなさい。そして、煉獄に堕ちなさい」
「地獄では無く煉獄か。お前も趣味が悪い」
「良い事では無いですか。苦しめば救われる程度には、未来に対する望みがあるのですからね」
「……ふむ。
まずはその意地の悪さを如何にかせねばならないか」
妹の真っ暗な未来を思い、態とらしい溜め息をする。何せ、行き遅れの代表的な見本が冬木にはいるのだ、主に虎の事だが。
「―――……本当、くたばれば良いのに」
と、モヤモヤを晴らす為に殺意を取り敢えず口にした。だって、こいつ、何かとてもウザい。そんな心情を彼女は欠片も隠さない。
「やはり、二十を越えた歳になっても、女と言う生き物は今一判り難い。罪や業の類ならば、一目で理解出来るのだがな。
……うむ。
なればこそ、たった一人しかいない妹の気持ちに気付けぬ未熟さを失くす為、今は鍛錬あるのみか。死ぬまでまだまだ、本当に腐るほど時間は存在している」
士人とて、自分が人から好かれているのか、嫌われているのか、そんな二択程度は悟れる機敏を持っている。と言うより、他の誰よりも人が隠している感情を暴いてしまう。
だが、それがどの程度なのか理解出来ない。
人が人に向けている感情の大きさを把握出来ない。それがどんなものか知識として分かっていても、実感としては余りにも未知で不理解なのだ。
「――――――」
この男は本当に壊れている。常日頃から、その在り様を隠しもしない。カレンのような人間からすれば、壊れている癖に日の当たる場所の中、何も苦痛に思うこと無く笑顔でいられる精神が可笑しかった。誰かと関わり合い、他人の心を知っていても、ただ言峰士人は見て遊んで揶揄して楽しんで、それだけだ。
……救われないのだ。何も救われない。
平穏の中に生きていても思う所が少しも無い。平和を謳歌する事が出来ない。家族や友人と暮らしているも幸福を得られない。
多分、もう記憶にない自分の父親はこの神父みたいな人間性に近寄ったものだったのだろう。多分、今の自分はこの神父から父親の影を見ているのかもしれない。カレンは自分の感情がかなり希薄になっているとは言え、自分以上に精神が壊れ切っている言峰士人を前にすると、そんな自分の人格を少しだけ忘れる事が出来た。
「……あ、それって、確か――――」
カレンの視線の先にあるのは、士人が首から下げている十字架のペンダント。確かその十字架は、言峰綺礼の遺品だったと、彼から聞いた事を唐突に思い出していた。
蜃気楼のように脳の中が曇り、言葉が勝手に出ていた。どうも普段は抑えている何かが、彼を前にすると我慢するのがヒドく難しい。
「この十字架は養父の、言峰綺礼の遺品だ。……欲しいか?」
「―――……いえ。要りません。
それは貴方の所有物として相応しい。私には似合わない」
「構う事は無い。十字架は他にも持っているからな」
彼は綺礼の遺品であった十字架をカレンに渡す。彼女は受け取り気など欠片も無いため動かないので、無理矢理手を開かせて受け取らせた。そして、彼女の長い銀髪を丁寧に流し、そのまま十字架を首に掛けさせる。
「――――ぁ」
何処か茫然とした表情だった。普段の彼女を知る者からすれば珍しいと思うのであろうが、士人からすればそんな顔も見慣れる位には長い付き合いだった。
「それに俺が持っているのは、親父のそれと同じ種類のものだ。つまり、兄妹御揃いの十字架と言う訳だな」
「……はい」
カレンは父親の、そして兄の物でもあった十字架を見る。そして彼女は、自分が首から下げている十字架を両手で優しく握り締め―――静かに祈りを捧げた。
「…………」
士人もそれを見守る。彼の心の内には何も無いのかもしれないが、今は亡き父親を思う娘が尊いものなのだと言う事は分かっている。
素直では無い妹は、とても我慢強い。何事にも耐えられる。
そして、何よりもカレン・オルテンシアと言う人間は言峰綺礼の娘であり、また言峰士人の妹なのだ。
この女は自分の歪みを理解した上で、兄とそう呼んでくれている。まさか、こうも家族関係が巧くいくとは思わなかったが、それでも現状は良い方向に進んでいるのだろう。
―――そして、言峰士人もまたカレン・オルテンシアの歪みを許容していた。
言峰綺礼がそうで
「……さて、カレン。今日の昼は何が食べたい?」
「そうですね。……泰山なんて良いと思います。あそこの麻婆豆腐は舌と臓腑に染みて、この上なくとても美味です。
……後、夕飯はお兄さんの手作りが良いですね。自分も体が動きますので、出来れば今回も料理を教えて欲しいです」
「承った。移動は如何する?」
「―――天気も良いので歩きたいです。体を動かすのって最近、何だか楽しいですから」
「確かに。偶に自分の足で街を見て回るのも一興だろうな」
兄は笑い、妹も笑う。二人の笑顔は二人とも違う意味を持っているが、この二人はそんな事を気にしなかった。
そんな価値観のズレなんてもう良いのだ。今はただ日常を楽しもう。士人の事を思いならがも、カレンはそんな事を考えていた。
神父に救われた自分は、この義理の兄を救ってあげたい。けれども、兄は既に完結間際で救う余地がない。そもそも、ただ単純に、この人間の在り方と生き方が何故だか愛おしい。救われたとか、義理の兄だとか、本当は最初から関係が無かった。
―――だから今はこれで良い。
カレンはそう結論を出す。そう区切りを付けて、満足に動く足を使って兄の後に続いて行く。礼拝堂の外は太陽が輝き、ともて暖かな日差しであった。
◇◇◇
魔術協会封印指定執行部。
第五次聖杯戦争に参加した魔術師の一人、バゼット・フラガ・マクレミッツは嘗ての戦争で見た相棒―――アヴェンジャーのサーヴァントの夢で見た過去が脳裏に過ぎった
それはたった一人の女の命を救う為、英霊になってしまった男の話。バゼット・フラガ・マクレミッツは第五次聖杯戦争中、夢で垣間見たアヴェンジャーと言う英霊の始まりを思い出していた。
「…………―――」
かりかり、と無言でペンを走らせて封印指定の報告書を書く。
気を抜いて不意に何故かその事を思い浮かべたが、それも当然かと自分へ自分に結論を出した。
「――――ふぅ……」
ここ数年前はゆったりとして楽しいと感じる協会での生活だった。自分は執行部にいて封印指定狩りを毎回のようにしていたものの、知り合いが第五次聖杯戦争後は多く増え、魔術師と言うよりも一人の人間として実に充実していた。
―――しかし、それも完全に崩れ去った。
衛宮士郎は固有結界の発覚によって封印指定となった。遠坂凛はゼルレッチが課す修練を乗り越えて時計塔を去った。自分の弟子にして時計塔へ入学した美綴綾子も既に旅立ち、色々と各地で悪さをしていると噂を聞いている。友人の息子である言峰士人も、結構大きな噂を聞く程馬鹿騒ぎを起こしているらしい。一年遅れて時計塔に来た間桐桜も既に冬木市に帰っている。
「……封印指定衛宮士郎ですか。これで彼も一端の御尋ね者ですね」
―――正義の味方。
こと衛宮士郎と言う人物を言い表す言葉はこれ以外に存在しない。
「………相変わらず動きが派手だわ。
今度は死徒や魔術師の殺害の為では無く、戦争停止の為に中東辺りの戦地で出てきそうですね」
ボソボソ、と声に出さずに唇だけ動かす。あの迷わない分からず屋の英雄を見ていると、止めたいと思うのだがそれを無粋だと感じる自分がいる。なので、すっきりするかと思い言葉に出してみるも、別に心の澱は消えてくれ無かった。
まだ時計塔に居るのは自分だけ。
一人の人間として仲が良く、自分からも友人だと言える多くの人達はもう外の世界に出て行った。
無論、まだまだ時計塔にも知人友人がいるのだが、寂しいと感じてしまう自分を偽れない。そういう風に思ってしまう自分を誤魔化す事無く笑って認められる程度には、彼女はとても内面が強くなった。
「―――旅……ですか」
綺礼にも昔、そんな事を言われたのを思い出した。
「……………はぁ」
確か、彼ら四人と最後に会ったのはアルズベリ。其処で起きたのは死徒、魔術師、代行者の全てが入り乱れた
その結果、魔術協会は大打撃を受けた。余りにも多くの戦力を失った。
死徒二十七祖も幾つもの祖が死に絶えた。埋葬機関員も幾人が戦死して代行者も多くが死んだ。中でも死徒の派閥が消滅した影響は凄まじく、色々と吸血鬼共の社会では混乱が激しくなっているらしいとか。
「……私だけ、まだ迷いの中。結構な物事が吹っ切れた筈なのに」
外の世界で戦い続ける友人たち。思い悩むバゼットは、そう言えばたった一人の弟子と最近、まるで会っていない事に気が付いた。彼女は魔術師としての弟子であると同時に、戦闘者としての弟子でもあり、歳の離れた気の合う同性の友人でもあった。
……彼女は弟子と最後に会話した時の事を思い出す。
その内容は結構胸糞悪いものだ。確か、衛宮士郎が戦場で知り合った人物に裏切られて処刑台送りにされそうなところ、その裏切り者を自分が射殺して助けたと、暗い顔をした綾子から報告された。個人的には良くやったと褒めたい心情だ。はっきり言って、裏切り者には死以外の罰は相応しく無い。他にも色々と喋ったのだが、一番強く印象に残っているのがその話。
しかし、衛宮士郎は美綴綾子に助けらたのだが、どうやらそれ以来、余り関係は良く無いモノになったとか。だがまぁ、そんな風になるだろうと綾子は理解を示しており、衛宮に嫌われるのも納得している模様。おそらく士郎の方も心情としては兎も角、理性的な部分では綾子の行いを許しているのだろう。
バゼットは、そんな弟子の心情を何となく把握していた。分かっているものの、彼女からは良いアドバイスなんて出来やしない。精々が今度会った時にでも、一緒に酒を飲んで愚痴を聞いて上げようかな、とか考えられる程度だ。
「…………っ、痛――――――!」
その時だった。彼女の腕が急に痛みだしたのは。
「―――って、まさか……!?」
袖を思いっ切りめくる。其処にあったのは、嘗て目にした戦争への参カの印。
「……――――――――――――」
認める同時に、バゼットは覚悟した。第六次聖杯戦争の開幕。自分は如何やら未練と後悔に満ちていたようだ。そして、使い損なった召喚の触媒はまだ持っている。
バゼット・フラガ・マクレミッツが拳を握り締め、戦争へと赴く為、次の瞬間には席を立つ。戦意に満ちた目を隠すことなく、封印指定執行部の部屋を出て行った。その後ろ姿に弱弱しさなど欠片も無い。ただ前へと強く歩き続ける者に宿る戦士の信念を纏っている。
―――それが彼女が参加する新たな戦争の始まりだった。
もう、拳に迷いはない。嘗ての苦悩も自分は受け入れた。ただ漠然と、この度の戦いは地獄に成ると言う予感が、彼女の足を更に強く強く歩ませていた。
ぶっちゃけ、今までの話は長いプロローグみたいなものでした。元々は第六次モノにする作品を第五次からやってみようとか無謀な考えを実行してしまい、こんなにも楽しんで長い間執筆していました。
第六次はオリキャラやオリ鯖がそこそこ溢れますので、今までみたいに原作の土台が無いので不安定になると思いますが、執筆していきたいと思ってます。
読んで頂きありがとうございます。次回の更新は遅くなると思いますので、この作品を忘れないで頂けると嬉しいです。