「―――邪魔だ。そこを退け、桜」
「―――駄目ですよ。ねぇ、先輩」
まだ彼は完成していない。あの弓兵のような完成した騎士姿ではないが、聖骸布の赤外套を身に纏い、黒騎士の前で戦意を顕している。
強さ、と言う観点から見れば黒騎士が格上。
巧さ、で比較すれば人殺しは赤騎士の勝利。
「一対一で姉さんとは決着をつけたかったですけど、私個人の願いも潰えましたから。ですので先輩、もうここまで堕ちれば私は―――
だが、決意の固さは士郎を桜が上回っている。何もかもを賭けた大聖杯を成就させるためならば、信念も、愛憎も、感情さえ捧げている。
「それに切嗣さん、今までの全ての策は貴方から生み出たもの。それらはこの瞬間、遠坂凛と間桐桜の抹殺が為に集約されていたのでしょうけど―――でも、残念。
……息子共々、地獄に堕ちなさい。
勿論イリヤさんも、同じ固有結界に取り込んであげましょう。
永劫に続く幸せな家族の団欒。あの衛宮の家を、貴方達の魂を使って模しましょう。そして、アイリスフィールも、遠坂凛も、藤村大河も、メドゥーサも、死んだ皆の魂を集めて、何もかもを使って私の冬木に堕落しなさい。
その幸福に満ちた煉獄の中から―――世界の果てを見せて上げる」
現世こそ苦界である。桜の地獄とは、永遠の地獄。誰もが幸福に生きる事が許された日常と、死に満ちた無間地獄が同居する真性悪魔の異界である。
……苦しむだけでは、異界常識に囚われた魂が無駄になる。
死んで生きて、その輪廻さえ桜は地獄の中で模して、永遠に繰り返させるつもりだった。苦しんで苦しんで、でも魂が苦しめ無くなるほど焼かれ続けて死に絶えれば、擬似的な幸福な生によってまた、桜の中の地獄に作られた
間桐桜は魂を永遠に焼却し、全ての悪を廃絶する。
目指す願望は魂全てを滅ぼすことではない。その中にある悪性の滅却こそ、地獄が出来上がる目的なのだ。
「その通りだとも、間桐桜。故に私はおまえに賛同している。文字通りそれは、地獄を支配する悪神と成り果てること。
このアンリ・マユによって、我らの死後は一変する。
この世全ての魂が混ざり、ありとあらゆる人生に価値が定められる」
凛を呪泥に沈め、その彼女を放置した綺礼。凛の魂は生きた英霊と呼べる程のモノであり、汚染には時間が必要。天使への転生にはあらゆる邪悪が要り、それでも耐えて元のままである可能性が高い。故に聖杯が呪うだけではまるで足りず、綺礼の切開が必要不可欠。
つまり、切開された中身が生まれ変わる。凛を助けるタイムリミットは綺礼の起源で短くなり、彼女を助けたい士郎に残された時間は殆んどない。
そして、綺礼は桜を守る為だけに、士郎と切嗣の前に立ちはだかる。
「……変わらないな、言峰綺礼。
他人の不幸を幸福に感じ、悪としてのみ生きられるおまえの人生にも、何かしらの価値が生まれると?」
「変われるものか、衛宮切嗣。
……私はおまえたちが羨んでいる。しかして、やはり私は私としてのみ死ぬしかないのだろうよ」
本当なら、四人に言葉は不要であった。ただただ殺し合うのが正解であった。
―――そんな風に、正しいだけの生き方は出来なかった。
しかし、それでも自分達にはこれ以上の言葉は要らないと理解している。大聖杯を守る者と、大聖杯を殺す者。何処まで行っても交差しない平行線であり、言葉が通じて意思も理解しても―――殺し合うしかない、と実感するだけなのだから。
「しかし、おまえは変わったな――――」
けれども、綺礼は呪いを最後に一つ。
「――――真実、今から世界を救う正義の味方になる訳だ」
凶悪な殺意、膨大な悪意―――衛宮切嗣の、炎の轟きだった。それを引き継いだ士郎も同じく、壮絶なまでに無表情となる。
殺して、救う。何度も行った罪科。
この地獄を生き延びたとしても、死ぬまで繰り返す事となる所業。
言峰綺礼は、その業を祝福している。例え、綺礼が死んだ所でエミヤに間違いはなく―――綺礼と桜が二人を殺した所で、座へ堕ちるエミヤは永久に苦しみ続けるのだから。
「士郎。今だけで良い。僕は君の思い人を殺そうとした。だが―――!」
「―――今だけだ、爺さん。後でちゃんと、飯抜きで説教してやる」
「……ありがとう」
「ああ。それに爺さんの心情は、嫌というほど理解している。だが、遠坂はもう殺させん―――!」
衛宮士郎は衛宮切嗣を許した訳ではない。だが、人を殺すのに爺さんが虚偽を行う訳がないのは理解している。命を天秤で計り、遠坂を殺す方が良いと判断したのは分かっている。許容は出来ないが、もし自分が切嗣の立場であれば、果たして遠坂凛を殺したか、否か――――
「なんですか、それ? 私を殺す為に確執を捨てると? 幾ら親子だからって怨敵同士で? 正義の為に、世界を救う為に、そこまでして自分の感情を徹底的に殺すと? 憎悪も感情も消し去ると?
ああ……それは、全く。狂いたくなる程、蟲の良い…………ッッ―――!」
―――呪いである。誰も彼もが、呪われている。
「成る程。ならば、英雄らしい悲劇に眠れ。
……懺悔の時だ。
おまえらの末路に、地獄以上に相応しい最期はない―――」
黒鍵を具現し、綺礼は予め腕に再装填しておいた
間桐桜より膨大な魔力供給が有れば不要な神秘であったが―――魔弾封じには最適な武装。
何より令呪を消費しても、聖杯より魔力を汲み上げれば良い。また装填すれば、魔弾が通じぬ魔技を幾度も行使可能。起源弾による回路破壊も、外部回路の魔力が使用と共に空っぽになれば全くの無駄。加速による高速機動とて、鍛え上げた武術で以って対処する。自分以下の技量しかない単純な速度など、令呪で同程度に身体強化した肉体さえあれば問題なし。
嘗てと同じく、偶然が重なったことで生まれた魔術師殺しの天敵―――言峰綺礼。
神父は自分の優位性を理解している。何一つ迷いなく、魔術師殺しを狩り殺しに走る。そして、綺礼が切嗣を理解しているのと同様に、切嗣もまた綺礼の能力は殆んど理解している。
一つは、魔弾殺しとなる令呪群。
もう一つは、受肉した悪性心臓。
遠坂凛を仕留め、機能停止に追い込んだ悪性心臓による呪詛の解放―――
綺礼の呪いは使い方次第で、汚染した相手の回路を機能不全にする効果もあの泥にはあった。
つまるところ―――決め手さえ当たれば、互いに一撃必殺。
「――――――」
「――――――」
刹那の交差にて、二人は己が絶殺に専心するのみ。泥化によって並のサーヴァントを越える回復力を持つが、霊核を砕かれれば流石に死ぬ。
狙いは其処だ。首か、脳か、心臓か。
あるいは四肢を引き千切り、弱らせた後に確かな死を与えるか。
「―――
「
肉体が許す限界、霊体が可能な極致。サーヴァントは令呪によって限界を越えた動きをし、空間転移さえ可能となる。それは令呪に聖杯の願いを叶える神秘が宿され、一時的にその概念の方向性に魔力が解放されるからだ。
そんな神秘を持つ令呪を同時に幾つも、強化魔術として解放。
生前の綺礼ではただの魔力源としてしか魔術に転用出来なかったが、大聖杯の神秘を九年間掛けて、霊体と、その魂に染み込ませ、呪詛が宿った綺礼ならば可能。限定的な聖杯の欠片として、真に令呪の使用が出来る条件が整っていた。
サーヴァント化した身体機能を、更に数倍化させて機動する魔術師殺しの悪夢。
だが同様に、聖杯の神父も身体機能を数倍にも増幅する狂気の域に達していた。
「―――!」
だけならば、切嗣とて死を覚悟しない。奴には中国武術の心得がある。令呪と魔術を合わせた気功の殺人技。そして、完全なる圏境とはまた違い、魔力を使う気配は色濃く残るとはいえ―――綺礼は、その武術と組み合わせ、令呪によって肉体を透明化させた。無論、黒鍵も同じこと。右手に三本、左手に三本。全身全刃、聖なる断片でもって魔に通ず。
加速した世界のおいて、切嗣は自分の肉体を魔術理論・世界卵を使った固有時制御で覆っている。分類するならば、固有結界と同じ結界魔術。つまるところ、五感と第六感以外では外界の情報を得られない。なので固有時制御中は視覚情報しか使えない。
透明化を見破ろうとも、探知魔術では不可能。加速中の切嗣では魔力探知や物体探知の魔術を使おうにも、そもそも自分が外界と固有時制御で断裂してしまっている。魔眼でもあれば視覚機能を追加するので問題はないが、他の手で探る為には、宝具を止める必要がある。
そして、加速解除は、今の綺礼が相手では自殺行為―――!
「ハ―――!」
綺礼は、常に後悔していた。何故、第四次聖杯戦争の最後、勝ち切れなかったのか、負けたのか。そんな思いを宿す男が、衛宮切嗣の殺し方を思い浮かばない訳がない。
これは、サーヴァント化した綺礼の奥の手の一つ。
生身の人造人間で在りながら、自分以上に戦闘に特化した化け物―――あのエルナスフィールの心臓を抉り取った時と同じ殺し方だった。
ならばこそ―――魔眼、擬似発動。
両目に魔術式を施すことでサーモグラフィーもどきによる熱探知を切嗣はするも、無駄。守護者化した切嗣は生前の殺戮手法の妙を魔術である程度は模倣できるようにしているが、綺礼がその程度の魔眼に対応出来ない訳がなかった。綺礼の透明化は光学と熱に対するステルス機能を令呪によって引き出しており、触れれば分かればが、目では分からない。
となれば、太源の魔力濃度を測定する。専用の魔術式を刻んだ目で魔力の流れを見て、太源を有る程度は視覚化する。
当たり―――と、魔術師殺しは自分が賭けに勝ったのを悟った。
ぼんやりと姿を浮かぶだけだったが、両手から六本の刃を出す人型の靄として敵の姿を視認した。本当にギリギリであったが、何とか心臓と脳を黒鍵で抉られる直前で回避に成功。通り過ぎる不可視の刃を見ながら、静かに射撃体勢へ移る。
構えるは、数多の魔術師を殺害した
英霊となった衛宮切嗣の技量ならば、拳銃による遠距離狙撃が可能な腕前を持つ。魔術式による魔眼で気配の隠蔽を見破り、千里眼もどきでズーム機能もある暗殺者の両目だ。ライフル弾を改造した礼装魔弾「起源弾」をすれば、近距離遠距離も関係無く、敵の命を一方的に粉砕する。遠坂凛の頭蓋を砕いたのも、この魔技によるもの。拳銃自体にも固有時制御を掛けるには長い呪文詠唱と大量の魔力消費が必要な為、流石に戦いながらでは加速魔弾を撃てないも、彼の一撃必殺に間違いなし。
―――魔弾が躊躇わず発砲される。
―――硬化黒鍵は弾丸を薙ぎ払う。
令呪によって強化され、高密度な魔力に凝縮された刃は銃弾をあっさりと弾き飛ばした。しかし、魔弾は令呪で綺礼に効果は及ばないが、効果が発動していない訳ではない。黒鍵が内部から轢断され、一瞬で全て粉砕。
しかし、互いに分かり切った結果だった。
綺礼も透明化と言う搦め手を使ったが、ただそれだけ。
切嗣とて起源弾一発で殺害が出来るとは考えていない。
「
令呪の効果が切れ、神父の透明化が解除される。殺し手を知っているのは向こうも同じと考え、綺礼は顔に出さずにほくそ笑む。
―――令呪、全工程装填完了。
時間を掛けて殺す気など毛頭ない。全てを必殺として、自身の何もかもを綺礼は上乗せする。
「
宝具解放、固有時制御―――最大加速、開始。
切嗣は―――否、エミヤはもう躊躇わなかった。この場に士郎が居るのであれば、必ずしも自分が大聖杯を壊す必要がある訳ではない。目の前の神父さえ死ねば後に残るのは、遠坂凛を倒す為に魂が“崩壊寸前”になった間桐桜だけ。綺礼さえ命を賭して殺害すれば、自分の目的は叶うと合理的に判断を下した。
……つまり、彼は命を無視した。
サーヴァントの霊体を得たと言うのに、体が崩壊を起こす程の―――限界加速。細胞が一粒一粒死滅し、神経が蒸発し、筋肉が発火する極点の神速。もはや異界常識と呼べる一種の固有結界となった固有時制御の暴走である。
音速を超える手動で
加速した魔術師殺しに匹敵する敏捷強化を施す綺礼は、もはや令呪によって切嗣と同じく―――EXランクに近い迅さに至る。
―――早い、速い、迅い。
二人を形容する言葉が選べない程、時間を置き去りにする程、ただただ加速し、強化し、意識のまま死に向かって疾走する。
ナイフを片手に握り、切嗣はコンデンターの照準を合わせ続ける。
綺礼もまた黒鍵を再び編み出し、両手に装備する。
刹那―――交差。
瞬間―――発砲。
銃口を押し付ける近距離からの射撃。切嗣は綺礼を殺したと理解した。流石に魔弾に加速は施していないが、それでも魔力による強化はされている。初速もその分上昇しており、サーヴァントであろうと一撃で葬る一射。それを殴り付ける様にして撃つのだ。殺意の分だけ、確実に殺せるだろう。
撃ったと同時―――綺礼がその場にまだ居ればの話だったが。
切嗣が引き金を引いたその動作を、綺礼は見逃さなかった。最初から起動させておいた令呪が命令通りに発動。
「――――――ァ……」
血反吐を撒き散らしてしまった。令呪によって綺礼は空間を跳躍し、仙人の縮地に匹敵する歩行で背後に回り込んでいた。引き金から撃鉄が降り、弾丸が発射される隙を只管に待っていた。
幾ら、加速した世界に住まおうが―――零に至る魔速に敵う訳もなく。
悪性心臓から汲み上げた黒泥で刃を編んだ神父の黒鍵が、魔術師殺しの腹部と心臓と肺を背後から串刺しにしていた。
「遺言は聞かん。さらばだ、衛宮切嗣――――」
「……ことみ、ね……き、れい―――!!」
串刺しにした宿敵に向け、見えないだろうが綺礼は笑っていた。あの時の屈辱を返す時であり、与えられなかった勝利による引導を渡す時だった。
「―――
黒鍵の刃から溢れ出る黒泥が、魔術師殺しの霊体を完全に融解させる。手足が泥となり、胴体も泥となり、顔のある頭部も全てが黒く崩れ落ちた。
その魔力、その霊子を―――綺礼は、悪神の呪詛を通じて喰らい殺した。
そして、泥の様に溶けて、全てが消えて逝く間際、衛宮切嗣は自分の敗北を実感していた。
最初から決めていた殺し方だったと、魔術師殺しと呼ばれる自分には分かってしまった。練りに練った完璧なタイミングと、自分の固有時制御を破る為だけに考え付いた令呪による強化と、空間転移による縮地技法。如何殺そうか煮詰めに煮詰め、あいつなら如何自分を殺そうとするのか夢想し続け、その全てが想定通りに進んだだけだった。
ああ、だったら仕方ない。
―――負けを認めるしかない。
ただただ士郎とイリヤを救えなかった自分を呪い、今までの行いを悔みながらも、士郎ならばと願いながら死んで逝った。
「ああ、そうだとも。今回は―――おまえの負けだ」
白兵戦において無敵の宝具―――その確信が、綺礼に許された唯一の勝ち目である。如何に加速しようとも、速度そのものを越えてしまえば殺せない道理はない。綺礼は令呪による幾つかの応用魔術を見せたが、転移による縮地は見せていなかった。
速さを武器にした所で、技と搦め手で罠に嵌めてしまえば価値はない。
死した父親から譲り受けた令呪こそ、綺礼が最も信頼する兵器である。
士人に遺品として生前は最後に渡したが、聖杯が自分をサーヴァントとして復元する際、この令呪が宝具として備わっていた幸運。恐らくは初めて泥に飲まれた時に、霊体の情報として大聖杯に登録されていたのだろう。
「成る程。ふむ、これが人理。抑止の守護者とは、私でも眩暈を覚える業の深さだな」
泥化して吸収した切嗣の魔力を、綺礼は心臓で吟味する。宿敵の霊子を呪詛に変換し、その過程で記録を全て切開した。
人類史―――あるいは、人理。
殺して、殺し回って、殺し続けて、殺し尽くして、一体何を守ると言うのか?
「さて、向こう側も全て終わったか……」
◆◆◆
間桐桜は、自分が限界なのなど理解していた。大聖杯と繋がり、黒化天使を黒騎使徒に作り変え、彼女ら全員を支配下に置いたのは良い。世界からの修正も既に何にも感じない領域まで肥大化した器と、凶悪なまで鍛え込まれた魂が可能とする神域の精神力だった。
その上で、自分の霊体を自己改造したのが致命的だった。
魔法使いと成り果てた遠坂凛と一対一で殺し合う為に、サーヴァントの霊核を取り込むのは必要不可欠だった。素のままの桜ならば英霊の一柱程度の情報なら、神秘として霊体に付属させるなど容易だっただろう。キャスターの宝具を利用したので、安全性も更に上がっている筈。
だが―――彼女は聖杯である。
有り得ない程の無茶の上で無理を重ねた愚行だった。
例えるならば、凛が嘗て観測した世界における衛宮士郎と同じ状態だった。彼は英霊の腕と繋がったことで、死が定められた時限爆弾と同じ状態になった。
「―――ああ、先輩……もう、これで終わりにしましょう」
自分で自分の命へ、桜は導火線に火を付いた。このまま戦えば桜の魂は、もう壊れる以外に未来はない。大聖杯が成就する以外に生き延びる術は存在せず、人間の魂から悪神の権能へと進化しなければ、彼女の人格と精神は絶対に崩壊する。
……それ程までに、凛に桜は拘っていた。
しかし、その願望も消え失せ、果たすべき執着はもう一つだけ。
言峰綺礼と衛宮切嗣の殺し合いから意識を外し、眼前の相手に専心する。士郎も同じく、黒騎士と成り果てた桜のみに集中する。
「
―――絶殺を此処に。
桜を止めるにはこれしか手段はないと判断。今まで鍛え続けた心眼で以って、敵と自分と状況全てを味方にして戦術を練った。
干将と莫耶を見て察知する。桜は魔力を込めて投擲された双剣を見切り、それが更に幾十にも投げ放たれると理解する。ならばと自分と士郎の間に影の使い魔を何体も展開し――――あっさりと、夫婦剣によって両断された。
「……ッ――――――!」
怪魔殺しを桜は思い出した。干将莫耶が本来持つべき退魔の神秘を解放し、士郎は桜が生み出す呪詛の怪物を討伐。最期の敵と見定めた男が、自分が最も得意とする虚数の使い魔に対する天敵だったと言う事実。
そして、桜が見るのは自分の元に迫った刃の群れ。
鶴翼三連―――否、三連を越えた幾重もの斬殺の刃舞。
前後左右から迫る何対もの夫婦剣は桜を囲み―――迫り来る何かもを、アロンダイトで粉砕する。対魔術と退魔概念によって虚数魔術は効き難いのもあるが、それも出力差で圧殺すれば問題ない。
刃陣に孔を空けた桜はそのまま疾走。
士郎も必殺を諦めず、桜に向かって踏み込んだ。
「―――
だが、投擲した夫婦剣の幾つかは完全に壊れず弾き飛ばされたのみ。それでも桜は走りながら構わず虚数の鞭で士郎を攻撃するも、その一撃一撃を強化した手に持つ双剣で斬り落とす。一本一本に宝具級の魔力を込めたが、夫婦剣は全て無力化した事実を驚きながらも彼女は認め―――背後から、戻って来た一対の双剣に襲われる。
壊し損ねた夫婦剣が、再び士郎が持つ夫婦剣に引き寄せられたのだ。干将は莫耶へ、莫耶は干将へと向かい、その途中に居る桜を斬殺する軌跡を描く。
「
そして、桜の眼前には士郎の姿―――死、であった。
ならば話は簡単。あろうことか桜は背後を見ることもなく後退しながら双剣を避け、背後から来た双剣に士郎を襲わせた。
「……な―――!?」
だが、士郎はあっさりとその策を見抜いている。自分に戻って来た干将を莫耶で、莫耶を干将で引き合わせ、そのまま桜に向けて撃ち返した。追加とばかりに更に双剣を投げ、先程の倍の数となった刃陣が、体勢が崩れかかった桜を襲う。
そして、後退した桜を追い、士郎も双剣を手に持ち追撃―――!
「―――
桜にとってその程度、生温い臨死。危機ですらない。魔剣で以って撃ち返した双剣を弾き、士郎の斬撃を受け止める。
―――直後、魔術起動。
自分の身で相手を抑え込むことで泥沼に引き込み、魂を咀嚼して地獄へ叩き落とす。
並のサーヴァントならば死ぬ。上級サーヴァントでも、トップサーヴァントでも死ぬだろうランスロットと桜の思考が混ざった合理と奇策の戦術眼。しかしながら、相手にするのは剣製の魔術師である。潜り抜けた死地は数多く、相手にした魔物は数知れず。
聖遺物を柄に仕込んだ聖剣を虚空に投影し、それを沼の中心部に射出。
嘗てはヘクトールの槍であり、やがて聖騎士の愛剣となった天使の武器は、虚数魔術を浄化するのに適していた。士郎は自分に伸びていた影の触手が元凶ごと消え去ったのが分かり、そのまま桜との鍔迫り合いに持ち込む。
「なんて人……でしたら、
轟くは、泥湖の輝き。黒兜の内側から桜の呪文が士郎の耳にも入り、遂に避けられぬ絶死が来ることを察知した。
それを士郎は待っていた。流石の桜であろうとも、アロンダイトを発動させている間は、それ以外の魔術行使は不可能だと読んでいた。
危惧すべきは、眼前の魔剣一本。
心眼を全力で使い続けることで脳が酷使されて神経がすり減るも、士郎は巧みに全筋肉を駆動させて鍔迫り合いの状況を維持し続ける。それだけに専念すれば、次の策が勝手に発動する。
自分ごと巻き込み―――周囲に散らばった夫婦剣を全て手元に戻す。
このままでは桜と共に士郎はミキサーに放り込まれた肉塊の如きミンチとなろう。
桜は此処に至り、この死を理解する。鍔迫り合いと言う絶対の好機、双剣が飛んでくるのは分かっていた。それを利用する気も桜にはあり、魔剣解放を囮にして斬撃を出し、そのフェイクを隠れ蓑に魔術で応戦する心算もあった。
―――違うのだ。衛宮士郎は、自分自身を囮の罠としていた。
悪魔と半ば混じり、英霊化している桜であろうと、肉片にまでバラバラにされると完全な再生は不可能。いや、蘇生自体は可能だろうが、今の壊れかけの状態では蘇生したところで精神がまともなままでいられるか如何か分からない。
となれば、逃げ場は一つしかない。
前方には士郎、左右と後ろは影を切り裂く刃の群れ―――上空以外に逃げ場はない。
「
そう誘導して、策が成功した事実を士郎は悟る。だが、相手がそれを理解した上で乗り、態と誘い込まれているのも理解する。
だが、その程度の読み合い、勝てねばどうする。
上に飛び上がった桜に目掛け、手に持つ双剣を投擲―――瞬間、その双剣に向かって周囲の干将と莫耶も飛来する。互いに引き合う性質を利用し、何十もの退魔の剣が桜に向かって襲来。
「―――
その軍勢を、魔剣から放たれる泥光が粉砕。上空と言う足場の無い不安定な場所で真名解放を可能とするのは、ランスロットと言う規格外の技量を持つ騎士を取り込んだからこそ。
勿論、完全なものではないにしろ、干将莫耶の軍勢を蹴散らす程の神秘は蓄えており―――
「―――
―――衛宮士郎の絶殺は、遂に完成を迎えた。
剣を振った桜よりも更に上に飛び上がり、回路から魔力を噴出。上空で擬似的に踏み込み、大ぶりに振り上げた干将と莫耶が本当の姿を顕す。
投影魔術の真髄。研鑽した宝具―――オーバーエッジ。
もはや長剣と化した夫婦剣はAランク宝具を越える威力を誇り、桜の影の守りごと命を両断するに余りある神秘を保有。
上空で身動きの出来ない桜に向けて―――死が、降り下される……!
「―――あは……は、ははははははは!!!」
それを見抜けずして、何が裏切りの騎士か。あらゆる殺意、身に持つ合理、敵の能力を把握する武錬の具現。この死を待っていたからこそ、桜はケタリケタリと哂い声を上げる。
―――アロンダイトの真名解放は、まだ終わっていない。
発動したままの強制二連撃。
激突するは―――アロンダイトとオーバーエッジ。
「……さ、くらぁあああああ――――――ッ!!!」
粉砕するは―――魔剣の一閃であった。
干将と莫耶は斬り壊され、士郎は地面に目掛けて吹き飛ばされる。それでも士郎は無意識の中、咄嗟に夫婦剣を両手に投影する。身を守る為、魔術師として当然の自衛行為だった。
……気が付けば、眼前に桜が居る。
アロンダイトの切っ先は自分の胴体目掛けて一直線。
―――死ぬのか。
―――駄目なのか。
―――終わりなのか。
黒い光を発する魔剣が相手では、この干将莫耶では太刀打ちできない。新たに宝具を投影する時間もない。夫婦剣を強化する暇もない。
だが、それでも士郎は諦めることは良しとなかった。
無抵抗のまま死ぬのは許せなかった。
……そう決意した所で、もはや今の士郎では確かに桜を殺すことは出来ない。霊核に致命傷を与えない様に戦っていたのだとしても、相手が殺せないと今もまだ葛藤しているが、それでも尚、彼は戦い続ける事が出来る。
砕かれると分かっていても、士郎は双剣を振う。
技量の限りを尽くし、莫耶と干将で薙ぎ払って受け流し、次の手の為に生存する―――
“あ……駄目ですね、これ―――”
―――そんな、有り得ない幻聴を、士郎は兜の中から感じ取れた。
「……あ?」
サクリ、と鋭く美しい音。刃で鉄ごと肉を引き裂いた音。
振われた双剣は魔剣を素通りし、桜の肉体を大きく薙ぎ払っていた。内臓にも達する深い刀傷と、黒く汚染された流れ出る血。
宙に舞っているのは、血の雨であり、桜の肉体。
「何故だ……?」
落下する二人。士郎は咄嗟に堕ちて来た桜を抱き留め、そのまま彼女を守るように地面へ落下した。
衛宮士郎の必殺―――鶴翼三連を間桐桜は打ち破った。彼の業を上回り、止めを刺す直前まで迫ったのに、彼女は士郎を殺せなかった。
そして、自分の上で死体になりつつある彼女の体温を士郎は感じた。既に鎧を維持する余裕もないのか、彼女はランスロットの甲冑姿ではなく、元の間桐桜の姿に戻っていた。
「何故、ですか。ふふ、さぁ?
わたしにも、分かりません。ああ、でもこんなんじゃ、結局、姉さんも殺せなかったんですかね。あなたはどう思いますか、先輩?」
何故か、なんて士郎には分かっている。桜も、それは分かっている。本当は、殺したいなんて思っている訳がない。
……もう十年以上前の思い出だ。
けれども、あの時は藤ねえが居て、桜が居て、それが当たり前で。壊れた自分が苦痛に感じる程、あの日常は幸せに満ち溢れていた。
第五次聖杯戦争後には、家族も増えて、友人も増えて―――桜の笑顔も、もっと増えていた。イリヤや遠坂がワイワイと騒いで、言峰が無意味に騒ぎを大きくして、美綴が奮闘してはからかわれ。皆で大人に隠れてお酒を飲んだり、言峰と沙条が企画した旅行に皆で行って記念写真を撮ったり、柳洞寺で本格的な肝試しをしたり、ロンドンに行ってもまだまだ大人になり切れない学生で。
楽しくて、下らなくて、何もかもが面白くて、輝いていて―――
「……泣いて、くれる……のですね―――?」
「―――桜」
―――ぼそりと力無く呟く桜を抱きしめる。
「馬鹿、ですね。もうわたしは貴方が知る後輩じゃありませんよ。捕まえた時、あんなに犯したじゃないですか。そんな身勝手な女に涙なんて、流しちゃいけません。
先輩は、わたしの最期に泣いちゃいけないんです……」
桜に致命傷を与えたのは、士郎による疵。しかし、それはもう完治している。治癒すれば助かるのであれば、士郎もここまで絶望したりはしない。
手にとって、桜を解析して、魔術師として“視”ることで彼は分かってしまっていた。
霊媒医術が得意ではない士郎が一目で理解出来てしまう程に、今の桜は霊体が壊れて仕舞っている。
桜は導火線に火が付いてしまった時限爆弾と同じで、自分の一撃が止めになって遂に―――死の火が、魂にまで追い付いてしまったのだと。そう、士郎は理解してしまった。
「それでも、それでも一つだけ言えることがあります。お願いです、信じて下さい。
わたしは化け物になってしまって、心を失って、お爺様と同じ蟲になってしまいました。けれど、それでも――――」
だから士郎は震え続ける桜を、その震えが止める様に強く抱きしめる。
「―――それでも……わたしは、先輩を愛してました。
今はもう失くしてしまって、手遅れになってしまって、こんなことになってしまったけど―――貴方を、愛していたのだけは本当です」
血を吐き出す。士郎に抱き留められた桜は、赤く塗れながら血と一緒に笑みを溢す。段々と体温が下がり、命の灯が消えそうになるのが、触れている彼には良く分かった。数え切れない人の死を見てきた所為で、命が弱まるのが正確に感じ取れて……そんな冷徹な自分に、まだ少しだけ残っている感情は吐き気を覚えた。
「すみません。いけないって、こんな姿になっても過去は変えられないって、分かってました。このままだと先輩に殺されるかもしれないって分かってたけど、やらないとダメになりそうだった。
……本当、面倒な女に付き合わせてしまって―――ごめんなさい」
「……桜―――良いんだ。
オレはおまえに会えたことに後悔はない。面倒だなんて、一度だって思った事はない」
「そうですか。ええ、嬉しいです。久しぶりですね、こんな気持ち。でも……」
桜はもう、自分の記憶さえ定かではない。辛うじて姉と先輩が分かるだけで、自分が間桐桜である自覚さえ失っている。
「……もう、これで最期ですね―――……あぁ、何だか、とても寒くて、眠いですね」
「―――そうか。
なら、オレが必ずおまえを起こすから。安心してくれ」
「は……い、せん……ぱ………い………――――」
士郎は桜を強く、強く、抱きしめて。もう何の反応もないことを実感した。桜は生きているが、生きているだけ。屍と同じで、笑わないし、喋らないし、涙も流さない。
心を失った抜け殻になった。
生きているだけの誰でも無いヒトになってしまった。
「桜……さく、ら―――?」
桜の心が今―――壊れた。
士郎は何も映さない彼女の瞳を見て、全てが終わったのだと分かった。
「あ、ぁあ―――あ、うあ、あ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
大聖杯の前で残ったのは、衛宮士郎と言峰綺礼のみ。