【完結】ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない兄になって死にたくなってきた   作:食卓塩准将

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本当に、本当に長らくお待たせいたしました
エタり明け一発目なのでクオリティはアレですが、少しでも楽しみにしてもらった方々に報いる事が出来れば幸いです

それでは、はじまりはじまり


第八病・ここだけの話はここだけで

 ──男は、砂糖水に群がるアリのように迫る眠気を押し殺しながらハンドルを握り、自身の職場と自宅とのちょうど間にある、市民会館に向かって車を走らせていた。

 何度目かのあくびをかみ殺しているその男の乗る車は、年季を感じさせられる立派な外国車で、そう簡単に一般市民が所有する事が出来ない物だ。 そんな車を悠々と走らせているのだから、当然それを運転している男もそれなりの所得や社会的地位を持つ人間だった。

 だが、今その男の顔を彩る表情は、そういった自身の現状に満足している者のそれでは無かった。 事実、男は心の中に押し留めておくのには限界となった不満を、誰に聞かせるでもなく口に出して言った。

 

「──ったく、何でこんな時間になって……もう帰ろうという時に……チッ」

 

 既に深夜を迎え、日付もとうに変わっている。 一日の仕事を終えて、これから自宅に帰ろうとしたちょうどその時分に、男の携帯電話に着信が掛かったのだ。 電話番号は登録されている者ではなく、やや不審に思いながら出てみると、聞いたことのない男の声で、今すぐ職場から車で十数分先にある市民会館に来いと言って来た。 唐突な話に困惑するが、相手はその事だけを伝えると自身の名前も名乗らず、説明を求めようとするより先に勝手に電話を切ったのである。

 当然、くだらないイタズラ電話と一蹴して無視することも出来た。

 しかし、ただのイタズラでわざわざこんな時間に、場所まで指定してそこに来いと言うだろうか? 行かない事は簡単だが、安易に決めるのも迂闊ではないか、そう考えたら最後、男は電話を無視する事が出来なくなってしまった。

『大した事でなければすぐに帰ればいい』、『市民会館までの道は、普段も家までの行き来に通うから』、そう自分を納得させる言葉を何度も吐きながら、同時にこれから会う事になる人間に対して様々な罵詈雑言を心中で吐き続けながら、とうとう目的地が目に見えて来た。

 ここに来るまでの建物は時間が時間だったのもあって、どれも明かりが消えていた。 当然、普段なら市民会館もとっくに夜の静寂の中に溶け込んでいるはずだったが、今は空に浮かぶ月に張り合うかの様に屋内の明かりが照っていた。

 車を駐車場に付け、市民会館の入り口に向かう。 するとそこにはまるでドラマに出て来るような黒服を着た、自身より遥かに体格の良い人物が銅像の様に立っており、男を見つけて口を開いた。

 

「お待ちしておりました、こちらへどうぞ」

 

 夜遅くに呼び出した事に対する詫びも入れないのかという文句が頭に浮かび上がるよりも前に、銅像はさくさくと屋内に入って行く。 慌てて男は声を張り上げる、ここに着くまでに蓄積した不満の蓋がズレた。

 

「お、おいお前!」

 

 低い声で怒鳴ったのにも関わらず、相手はたいした反応も見せず、機械的に振り向き、男の目を見て返事をした。

 

「なんでしょうか」

 

 まるで本当に銅で出来ているかの様な無機質な声に、男は僅かにたじろぐ。 そしてその声が、電話で聞いた者の声と同じ事に今更ながら気づいた。 途端に、彼の心は強気になる。

 

「なんでしょうかじゃないだろう! 一体俺に何の要件があるんだ! こんな時間にこんな場所までわざわざ来させて、まず先に言うべき事があるだろ? どうなんだ!?」

 

 沸騰した鍋からお湯が零れだすようにどんどんと不満が漏れ出し、遠慮なく相手にぶちまける。 しかし、それら一切をまるで気にもしないかの様に、黒服の男は淡々と言葉を返した。

 

「貴方をお呼びした方がこの先の部屋で待っております。 私はただここに貴方をお連れする事だけしか承っておりません」

「な、なにぃ……?」

「要件も貴方の要求する謝罪も、彼がしてくれるでしょう。 では」

「あ、待て……チッ!」

 

 今度は男の言葉に反応せず、黒服の男は静かに入り口の方へと戻って行った。

 後に残るのは腐った卵のような居心地の悪い静寂。 黒服が示した先には、会議室と書かれたプレートのある部屋の扉が一つあるだけだった。

 

「──チッ」

 

 何度目かの舌打ちをして、男はワザと大きく足音を鳴らしながら会議室に向かい、その扉を躊躇いなく開いた。 そうして、睨むように部屋の中心に置かれた長机の先に座る、自分を呼び出した人物の顔を見た瞬間、男は続いて吐き出そうとした言葉がのどに詰まり、募っていた苛立ちと眠気が吹き飛んだ。

 

「そんな、おまえ……いや、貴方は……っ、これは、どういう」

 

 目の前の光景が理解出来ない、そう身体を使って表現する男に対して、部屋の奥に居たその人物──綾小路悠は、穏やかに、寒空の月の様な明るくもどこか突き刺すような笑顔を浮かべながら言った。

 

「落ち着いて、まずは座って下さい。 今日の私は一学生としてではなく、綾小路家の人間として、()()()()()()(ざい)(ぜん)(あきら)さん。 貴方に話がありますので」

 

 自分より一回りも二回りも下のはずの少年の笑顔に、寒気を通り越した悪寒が男の中を駆け巡った。

 

 ……

 

 人間が、物事に対して「失敗した」と心から痛感する時とは、どのような時だろうか。

 見たい思っていたテレビを録画して、いざ見てみると、間違って全く違う番組を録画していた時? 

 中学校にやる合唱のパート分けで、本来自分が出せる音よりも高い声のパートに入ってしまった時? 

 受験期、普段慣れないボールペンを使って一枚しかない受験票に記入している途中で、誤って自分の名前を書き間違えた時? 

 一目見てから好きになって、結婚まで辿り着いた相手がその実、自分とはまるっきり趣味も価値観も違う人間だと分かった時? 

 人間が心から「失敗した」と痛感するのはどのような時かなんてのは、今四つの例を挙げたように、人それぞれだとしか言いようがない。

 三者三様、十人十色、百人百様、千差万別、言い方なんて幾らでもある。 日本語とは便利なものだ。

 さて、人それぞれという答えが出たが、ならば俺の場合になるとどうなのだろうか。 俺が心から「失敗した」と痛感するのはどんな時か、やはり俺にもいろいろあるが、すぐに思いつくモノとしては、まず前世の自分の人生だ。

 どんな人生だったのかは長くなるし、思い出したいような物でも無いのでここでは割愛させて貰う。 しかし、「後悔先に立たず」とはいうものの、既に死んでいて、もう後に立てるはずもない事を、後悔できる人間なんてのはそうそういないだろう。 これはおそらく俺にしか味わう事の出来ない、極端に特別な事例だと言える。 それが良いか悪いかは別としてだが。

 では極端ではなく、他人が聞いても納得出来るような一般的な事例を挙げるとすれば何になるだろうか。 これもまた唸るほどあるが、やはり今一番答えるのに相応しいモノと言えば──―、

 

「……こんな遅くまで、女の人と一緒に居たんだね? お兄ちゃん?」

 

 ──―妹、野々原渚を甘く見ていた。 という事だ。

 

「黙ってないで何か言ってよお兄ちゃん」

 

 拙い。 非常に拙い。 今まで経験してきた中で最も危機的な状況にあるといえる。

 バレていた。 気づかれていた。 見られていた。

 俺が隠し事をしていたこと。 女子に会おうとしていたこと。 夜中に家を出たこと。

 すべて、全て、総て、すべからず渚に筒抜けだった。

 何故、どうしてこのような状況に陥るパターンをまったく想定していなかったのか。 渚が風邪だからと油断していたから、夜遅くだから寝ているだろうとタカをくくっていたから、それらはもちろんだが何よりも、俺の頭が柏木に会うことだけを考えてばかりで、後顧の憂いを断つなんて発想を初めっから持とうとしなかったからに他ならない。

 

「どうしたの? いつもなら勝手にいっぱい喋るのに、どうして何も言ってくれないの?」

 

 そもそも、たとえ家を出た瞬間を見られていて、こうして玄関で待ち伏せされていたとしても、『夜にジョギングしていた』とでも言えば誤魔化せたんだ、なのに馬鹿正直に狼狽して、結局渚の発言を全て肯定してしまう形になってしまった。

 

「ねぇ、お兄ちゃん……」

 

 いや違う、ジョギング並みの距離を歩いたり走ったりしたことは事実だが、どうしてもそれでは隠せないものがある、『におい』だ。 CDの『野々原渚』は、一人でご飯を食べたという主人公の嘘を、おそらく服から『女のにおい』を嗅ぎ取ることで看破し、嘘をつかれたことに対して激高した。 もし仮に俺がジョギングしていたと言っていたならば、すぐさま俺から女の──柏木のにおいを嗅ぎ取って、今頃とっくに『終わっていた』だろう、むしろ今の状況のほうが良かったんだ。

 

「ねぇったら……っ」

 

 そんな判断すら分からなくなってしまうくらい、今の俺は自覚している以上の混乱をしているってワケだ。 どうする? 結果的に致命的な嘘を言わずに済んだとはいえ、渚に隠し事をしていたことに変わりはない、状況的にいくらかの差異はあるものの、実質CDの修羅場と同じようなものなんだぞ、それくらいは自覚できる。 だから、まずは──、

 

「──何か言いなさいよ! 黙ってるんじゃなくて!!」

「!?」

 

 ──っ、しまった、混乱した頭を整理しようとするので手一杯になってたせいで、あろうことかこの状況で渚を無視するなんていう最大の愚を犯してしまった! 危機に対する察知も重要度判断も何も出来ていない! 

 何でもいい、今すぐにこの場を収めるのはどの道無理だ、まずはこれ以上最悪な展開を避けるために何か言え! 『あー』でも『うー』でも良い! 

 

「……八宝菜」

「え?」

「ぁいやごめん、なんでもない」

 

 馬鹿か俺は。 何でも良いからって一番に思い出したのが綾瀬の作った八宝菜って、ふざけてんのか俺は、そんなに綾瀬の作る八宝菜が好きか、あぁ? いや、そうじゃなくて、確かに綾瀬の作る八宝菜はおいしいけど。

 

「……ふざけてるのかな、お兄ちゃん。 私のこと、馬鹿にしてるの?」

「いや、違うんだ、今のは」

「そんな風にでたらめなことばかり言って、いつも私のこと騙してきたんだね」

 

 当たり前の話だが、かえって渚の機嫌を損ねてしまった。

 

「本当、お兄ちゃんは演技が上手だね。 今日までずっと私のこと騙して、夜になったら女の人のところに遊びに行ってたんでしょう?」

「えっ、いや待て、それは違う──」

「私ぜんぜん気づかなかったなぁ、本当に、わかんなかったよ……」

「だから、それは誤解だって──」

「何が誤解だって言うの!!」

「っ!」

 

 続けて言おうとした言葉が、渚の怒声で引っ込んでしまった。 言葉というより、全身が竦んでしまう。

 

「私に隠れて女の人と会いに行ったのは本当でしょ!? 私はちゃんと『何か隠してることない?』って聞いたのにその時もテキトウなこといって誤魔化して、今だって私のこと馬鹿にして、何が違うの!」

 

 熱で寝込んでいたのが嘘のように、怒髪天を突くような勢いで俺を責める渚。 その言葉に、俺は何も言い返すことが出来ない。 だって、いくらかの認識の違いはあるものの、本質的には渚の言ったことは全て正しいからだ。

 俺は確かに今日、渚に隠れて柏木に会いに行った。 行く前に渚に何か隠してないかと聞かれたときは笑って誤魔化した。 渚が怒るのは当然の帰結なのは分かる、だがそれでも、俺は言われるままでいるわけにはかない。 誤魔化すのではなく、『言い訳』をする必要があるんだ。 それがどれだけ危ういことだとしても、もう誤魔化しは二度と通用しない。

 

「……渚」

「なに」

 

 直前とは真逆の冷め切った声にまた竦みかけてしまったが、すぐに気を取り直して言う。

 

「渚の言ったことは正しい。 俺は確かに渚に隠してたし、誤魔化しもしていた」

「……ふぅん、認めるんだ」

「でも、決して渚を騙そうとか、馬鹿にしようってつもりはないんだ」

「なにを──」

「何を言ってんだって思うのは分かる。 言っても信用がないって事も分かる。 でも信じてほしい、これだけは」

「……」

「誤魔化しとか、その場しのぎの嘘とかじゃなくて本当に悪いと思ってる。 いや違う、情けない話だが自分が渚の信頼を蔑ろにしていたんだって、怒鳴られてようやく分かった。 本当にごめん」

 

 全部言ってから、頭を下げた。 これで程度で今の渚の溜飲が下るとは思わない。 しかしたとえ言い訳をするにしても、先にやるべきことは、事態の解決や回避ではなく、素直な謝罪だと感じた。 それすら単なる自己満足にしか過ぎないのかもしれないが。

 

「……」

 

 頭を下げてから数秒経っても渚は黙ったままだが、俺は姿勢を直すことなく続ける。 そうして十数秒が経ったころ、ようやく渚が口を開いた。

 

「……もういいよ、そんな格好しないで」

 

 ため息にも似た息を吐きながら、渚が小さく呟いた。 その声色からは『許し』よりも『呆れ』の方が多いように感じた。

 

「また嘘を言ってきたら本当に、本当に許さなかったけど、ちゃんと謝ってくれたなら──、言い訳は、聞いてあげる」

「……ありがとう」

「……ちゃんと聞くから、最後まで言って。 でも、もしまたごまかしたり嘘言ったりしたら、絶対に許さないからね?」

 

 口調こそおとなしいが、ようは最終通告だ。 ここで渚を怒らせてしまったら本当に『終わる』。 それをひしひしと感じて喉の奥に小さな渇きを覚えた。

 渚のくれた最後のチャンスだ。 素直に警告に従って、一切の嘘偽りなしで話す。 もちろん、俺が話す内容は柏木園子が受けているイジメについてなのだが、この話をするには必然的に、どうしても学園や悠の実家である綾小路家が行った事件の隠ぺいについても話さなくちゃいけなくなる。 綾小路家についてだけは、俺だけでなく渚知っている悠の事もあるので言いたく無かったが、それをすると誤魔化しの内に入る。 悠にも後日謝る事にして、ここでは綾小路家の事も包み隠さず話すとしよう。

「予め言うけど、少し長い話だ。 お前の風邪の事もあるし、リビングで腰をつけて話したい」

「……うん、分かった。 早くあがって」

「ああ」

 

 靴を脱ぎ、ようやく家の床に足を付けた。 深夜のフローリングは夜の空気をふんだんに吸って、無様を曝した俺を嘲笑するかのように冷たい。 だがそれでも、先程までの渚の瞳に比べればまだ温かみが感じられる。 リビングの電気をつけて、俺と渚でテーブルに向き合うように座ってから、俺は今日までの自分がしてきた行動を思い返しながらおもむろに話し始めた。

 

「まず、俺が誰に会いに言ったのかだけど。 相手は柏木園子と言って同じ学年の、他クラスの生徒なんだ」

「かしわぎ、さん? 綾瀬さんじゃなくて?」

「綾瀬じゃない、先に話すことになるが、今日俺が柏木園子に会いに行くことは予めあいつも知ってるよ」

「え、綾瀬も?」

 

 どうやら渚は不特定に『女の人』と言って来たが、実際には綾瀬と会いに行ったと思っていたらしい。 予想が外れて、更にその綾瀬が俺の行動を把握してて、看過していた事が渚には驚きだったようだ。 その時点で、これが単純に恋愛絡みの話ではないという事に、渚は気付き始めたはずだ。

 

「……それで、どうしてその柏木さんって人に、お兄ちゃんが会いに行ったの?」

「いじめを、な」

「いじめ?」

「ああ、どうしていじめられてるのかを、聞きにいったんだ」

 

 この説明だけで『そうだったんだ、大変だったね』で終われば万々歳だったが、そんな展開なぞ同じ時間を百万回ループしてもあり得ない。 しかしだからと言って一気に説明しても、それで渚が理解を示してしてくれるとは限らない。 その為、あえて徐々に話す事で、より話の内容に渚が関心を向けてくれる可能性を上げる。 ほんの僅かでも良い、今俺がしている事に理解を示してくれる為に、出来る手段は出尽くすまで使っていく。

 

「いじめられてるの? その人が?」

「うん」

「それで、なんでわざわざそんな事をお兄ちゃんが聞く必要があるの?」

 

 それは当たり前の質問であり、同時に今回の俺の一連の行動全体に関わる決定的な疑問だ。 同じクラスのいじめ問題ならまだしも、わざわざ別クラスのいじめ問題に俺が関わる理由なんて無い筈だ。 日頃から正義感溢れたお節介野郎ならあり得なくもないが、自分の兄がそんな人間ではない事くらい、他ならぬ渚がよく知っている。 その渚だからこそ、今の俺の行動は奇怪に映っているだろう。

 そしてその疑問は、今から俺が口にする言葉で更に強い物になるに違いない。 俺は聞き間違いと錯覚させない様にハッキリと言った。

 

「柏木のいじめを解決するって約束したから」

「は?」

「っ……」

 

 怖い。 言葉の端から『ワケが分からない』という感情がありありと伝わって来る。 男として情けないが、渚の普段の口調とは似つかわしくない言葉、それもたったの一語だけで怖いと思ってしまった。

 でも止まっていられない。 渚には綾瀬のとき以上に俺が柏木のために行動する理由をしっかりと説明しなくちゃいけない、家の外では同じ空間にいる時間が多い綾瀬とは違い、渚の場合は学園こそ同じでも校舎が違う分、あらかじめ持っている情報の量や認識には大きく違いがあるからだ。

 

「初めて柏木を知ったのは、部活を悠と一緒に回って、最後に園芸部に行った時だった。 その時はまだ特に問題になるようなことはなかったんだ。 ただ、部員が一人だけで、夏休みが終わって後期に入っても部員が増えなかったら、園芸部が廃部になるってことを知った」

「……」

「次の日にな、放課後綾瀬の委員会の仕事に付き合わされて図書室に行ったんだ。 そしたらさ、人目に着きにくい場所で柏木が女子生徒の三人に囲まれてたのを偶然見たんだよ。 そいつらは元は柏木と同じ園芸部の部員で、一人が今図書委員だったから好きに図書室を使用できるのを利用して柏木をいじめてたんだよ」

「ふうん、それで、どうしたって言うの?」

「その日は、三人がすぐに図書室を出てって、後から来た俺と綾瀬から柏木が逃げたから、それっきり何も起きなかったけど、次の日にまた図書室で同じように柏木はいじめられていたから、それで──」

「見てみぬ振りできなくなったお兄ちゃんが割って入ったってこと?」

「──ああ、そういうことになる」

 

 事態の切っ掛けは発言通りしっかり聞いてくれて、理解もしてくれたようだった。 しかし当然ここまでの説明だけで納得してくれるはずもなく、『でも』と渚が続けて言った。

 

「単にいじめられてた事を先生に言えばいいんじゃないの?」

 

 来た、今回柏木の件で、綾瀬の時にも悠の時にも必ず言われた言葉だ。 なぜ素直に先生の力を頼らないのか。 悠にはやんわりと、綾瀬には直接聞かれ、その時々に俺はこう言った。

 

「教師に頼めば多分いじめは止めてくれるだろう、それは俺も同感だよ」

「だったら──」

 

『だったら』の先の言葉を俺は言わせない。 教師に言う事は確かに間違いではないのだ。 早期的な解決を求めるのならば、むしろ最適解でもある。 だがしかし、こと今回に限っては、柏木に関してだけは妥協にすら成り得ない最悪の回答になる。

 

「だめなんだよ、教師には言えないんだ」

「言えないって……どうして?」

「教師がしてくれるのはいじめを止める事だけだ。 当然いじめに至るまでの過程や理由は教師も聞くだろう、でも生徒同士のわだかまりを完全に消すなんて事は、教師には出来ないし、そもそもそこまでしようと考える教師はいない」

 

 いや、1000人集めれば両手の指に収まる程度には見つかるかもだが、わざわざそんなギャンブルを、綾小路家がトップに立つ良舟学園でする気にはなれない。 たとえいるとしても、いじめ問題の裏にそれ以上の爆弾を持つ柏木の為に動ける人間は、一人としていないのだ。 せいぜい園芸部顧問だった幹谷先生のように、隠れて事実を話してくれるのが限度だろう。

 

「……ずいぶん、ハッキリ言うんだね、お兄ちゃんにしては珍しく」

()()経験の結果、だよ」

「あぁ……そう」

 

 渚になら、今の言葉の意味が分かるだろう。 まあ、今頸城縁(前世)の話を持ち出す暇はないのでどうでも良いが。

 

「でもな、教師の力を仰がなかった事は正解だったんだ」

 

 ここまででは、渚以外の人間に言う場合では、単に俺が教師を信用していない捻くれた学生でしかないと思われても反論できなかった。 だが、悠に協力を求めてすさまじい勢いで、いじめの理由に繋がる情報が集まった。 そして俺も綾瀬と一緒に事情を伏せて幹谷先生から話しを聞き、結果的に俺の判断が間違っていなかった事が分かった。

 

「柏木がどうしていじめられてたのか、それを調べてく内に、去年の九月頃に学園で起きた事件に行き当たったんだ」

「去年の九月? その時に学園で事件なんて呼べる事なんてあった?」

「渚が知らないのは当然だよ。 事件とは言ったけど、当時は俺も含めて、学園の生徒の殆どが知らなかったからな」

「殆どが知らないって、どういうこと? だって事件だったんでしょう、誰も知らないなんてあり得ないじゃない、何があったの?」

 

 ここからは柏木の踏み込まれたくなかった領域に関する話になる。 だがもう流石にここでまた話すべきか否かを考える気はない。 彼女には申し訳ないと思うが、俺がここで渚に理解を得てもらえなければ、柏木自身にも身の危険が及ぶ事がおおいに考えられるのだから。 すくなくとも俺の渚がCDの『野々原渚』と似た思考回路をしているならば、その可能性は限りなく高いだろう。 言い訳臭いが彼女の為にも話さなければいけない。

 

「……園芸部の前の顧問だった教師が、放課後部室に一人でいた柏木を襲ったんだ」

「襲っ──て、え、え?」

 

 さしもの怒りモードの渚も、これには動揺したようだ。 もっとも、気が動転したのは一瞬だけですぐに気を取り直したが。 あるいは俺がゆっくりと喋っている間に、幾分か冷静な思考に戻ってきていたのかもしれない。

 

「言葉の意味はだいたい察しがつく……よな?」

「え、う、うん……」

「ならいい」

 

 流石にその程度の話は分かるか。 分からなかったらどうしようと思っていたが杞憂で済んだ。 兄としては複雑でもあるが。

 

「幸い、直前に他の教師がその場を見て止めに入ったお陰で、柏木は最悪の事にならずにはすんだ。 が、当然顧問は社会的に死亡、懲戒免職の形で学園を追放されたよ、今はどうしてるかは全く分からない」

「……それ、本当にあったの? そんな大変な事があったなら、普通はニュースになったり、そうじゃなくても誰も知らないなんて事あり得ないと思うけど」

「そうだよな、普通じゃあり得ない、俺だってこんな事去年の九月にあったなんて全く聞かなかったし、噂話ですら耳にしなかった」

 

 だから、それはつまり、普通じゃない事が起きたという事に他ならない。

 そしてそれこそが、彼女のいじめがただのいじめに収まらず、俺が関わるまでになってしまった最大の理由だ。

 

「渚は、悠の事は当然知ってるよな?」

「? お兄ちゃんの友達の、綾小路さんでしょ? もちろん知ってるけど……」

「じゃあ、悠の家の事は?」

「この地域でも有数の分限者だって、お父さんは言ってた。 お母さんも、資産家だって…………」

 

 どうやら大まかな事くらいは既に把握しているようだ。 もっとも、学園の中でさえとんでもない金持ちだって噂が回っているのだから、渚が知ってても当たり前だが。 何故噂止まりで確たる事実として広まっていないのかだが、恐らく普段連れ添ってる俺があまりにも庶民だからだろう、金持ちが庶民とつるむワケがないと言う一種の共通認識。 悪く言い換えれば偏見だ、事実中学の時に一度だけそれが問題として浮き彫りになった事もあった。

 話がややそれてしまったが、渚や両親に、このまちに住む人の、恐らくほとんどが綾小路家については『大まかな事』しか分かっていない。 俺でさえ綾小路家の実態については、柏木の事を調べるにあたって副次的に知った事実なのだから。 ちょっとお金持ちだとか、月に一回海外旅行出来るだとか、そんな可愛い次元では無かった。 もっと驚くべき、まさしく庶民の発想なんてふた回りは優に超えているものであったのだから。

 

「どれくらい金持ちかと言うとな」

「ちょっと待って、今綾小路さんの家の話は関係ないでしょ、話をそらさないで」

「そらしてない、最後まで聞いてれば大きく関係してるって分かる話だ」

「……分かった、続けて」

 

 憮然とする渚だが、本当に関係している話なのだから最後まで聞いてもらわないと困る。 と言うより聞くと言ったのは渚の方なのだから、発言の責任は──いや、これについては俺が言える立場では全く無いな。 本当に反省出来ているのか自分が疑わしくなったが、まずは話を続ける事が最優先事項だ。

 

「俺達が通ってる学園、あるだろ」

「うん、それが何か──っえ、うそ、もしかして」

 

 先程とは違い、今の一言だけで瞬時に俺の言いたい事を察してみせた。 とはいえ、流石に顔も知っている兄の友人が、学園一つ作れるほどの分限者の人間だとは信じられないようで、躊躇いがちに聞いてきた。

 

「学園の創立者が、綾小路さんって事、なの?」

「厳密には、優の親父さんと伯父さんの二人がな。 理事長は勿論の事、校長含めた学園の責任者は軒並み綾小路家の関係者、らしい。 悠が言うにはな」

「そう、だったんだ……本当の本当に、資産家のお家だったんだ……あっ、じゃあ、それって──」

 

 このあたりは流石俺の嘘を見抜けた慧眼と言えるだろう、自分で無関係だと言ってたのにも関わらず、同じく俺が何か言うよりも早く、渚は先程までの柏木の話と今の綾小路家の話のつながりをたちどころに理解して見せた。

 

「悠の親父は綾小路家の次男で、当然伯父は長男だ。 そんな、次代の綾小路家の名を継いで行くかもしれない二人が共同で創設した学園で、教師が生徒に手を出した。 世間に広まれば不祥事なんかで済まない、綾小路家を継ぐどころか、家の名前に泥塗る事になってしまいかねない」

「だから、隠したの? 本当にそんな事なんて出来るの? 幾ら何でもそんな酷い事」

「悠が以前、自分の家を指してこう言った事がある、『金さえあれば何でも出来ると考える人間が多い』ってな。 言い換えれば、どんな事でも金がある限りは躊躇無く出来るって事だろうさ」

 

 そして、極めつけと言えばいいのか、ある意味で中途半端に過ぎた隠蔽処置が生んだ結果が、一人の男性教師が原因不明なまま学園から消えた、と言う事実だった。

 

「園芸部の生徒で元顧問がいなくなった理由を知っているのは、被害者である柏木しかいなかった。 そして当然柏木にも学園から口止めを強要されていた。 何も知らない他の園芸部員が唯一知っている事は、元顧問が最後に学園にいた日、部室に最後までいたのが柏木だけだったと言う事だ」

 

 本当、くだらない。 もう少し年齢が重なればそんな考えがぶっ飛んでる事に簡単に気づけるだろうが、あいにく高校生と言ってもまだまだ思考はガキのままだ、そんなくだらない考えだって簡単に信じるし、それに基づいてどんな腐った行動だって起こせる。 その事を、他ならぬ()()()()()()()()理解している。

 

「だからそいつらは柏木が原因だと思った。 根拠も無く、単純に柏木しか()()()()()だから、柏木が犯人だと決め付けた。 柏木も本当の事は言えないから、連中の幼稚な思い込みは確信に増長して、今も続いている。 もう顧問が消えた理由を聞くでも責めるでもなく、ただ痛めつける事だけに目的が挿げ替えられてな」

 

 俺がそう言いきると、渚はこれまでの会話を頭の中でまとめるためか、深く溜息を吐いてから目を瞑って暫く沈黙した。 無理も無いだろう、単純に夜中妹に隠れて綾瀬と逢引きしてるだけだと思っていたのが、予想に反して重苦しく複雑な内容だったのだから。

 体感でおおよそ五分程度だろうか、会話中は話す事に夢中だったので気にならなかったが、黙っていると部屋の空気がじわじわと体を冷たくしていく。 いい加減寒さが無視できなくなってきたところで、ようやっと渚が口を開いた。

 

「……つまり、お兄ちゃんは」

 

 ゆっくりと、ただの一言であってさえも誤りがないように、渚は言葉を口ずさんでいく。

 

「学校側ではどうしようも出来ない柏木さんの為に、いじめを解決しようと動いてた、って事なんだね」

 

 随分と短くまとまったが、確かにその通りで間違いは無い。 そうなるに至った経緯も、途中にあった事も、全部今ままでの会話で渚に言い尽くしたのだし、これ以上訂正を求める事もいたずらに否定する必要も無い。

 

「それで間違いない、合ってるよ」

「そう……」

 

 静かに頷く。 納得したのだろうか? いや、そうじゃない。 テーブルの上に置いた手を硬く握り締め、顔を俯かせて表情をこちらに見せないまま、振り絞るような声で渚は言った。

 

「何で……何で、お兄ちゃんなの」

 

『何で』、その言葉もまた、綾瀬に悠、柏木の全員から問われた言葉だった。 全く持って赤の他人であった筈の野々原縁が、何故そうまでして助けようとするのか。 それに対しての答えも、既に自分は見出している。

 

「昔俺がさ、いじめっぽい事されてたの、覚えてる?」

「昔? ……うん、覚えてるよ、初めて綾瀬さんが家に来た時の事でしょ」

「そう。 まぁいじめと言えるほどの事じゃあ無かったんだろうけどさ、それでも俺は何も出来なかったし、怖かったんだ。 そんな時に助けてくれたのが──」

「言わなくてもいいよ、覚えてるって言ってるでしょ」

 

 分かっていた事だが、やっぱり渚にとっては気に入らない話のようだ。 俺が嫌な思いをしていたと言う事実に気づけず、赤の他人だった綾瀬が俺を助けて、かつ一緒に帰ってきたと言う事実が、当時の渚には鼻持ちなら無いものだったのかもしれない。 そうだとしても、渚の神経を逆なでさせてしまうような事だとしても、嘘を言う事は出来ない。

 

「じゃあお兄ちゃんは、昔綾瀬さんに助けてもらったから、その真似をしてるって事?」

「まね……真似、か。 言われなかったから考えもしなかったが、確かに、俺は綾瀬の真似をしているのかもな。 俺自身にその自覚がなくても、俺の行動基盤に、綾瀬の影響が強く出てる事は確かだよ」

 

 でも、それだけではなかった。 綾瀬の影響だけではないのだ。

 

「それに加えてもう一つ、理由がある」

 

 これは綾瀬にも言わなかった、言えなかった理由。 同時に、渚にしか言えない理由だ。

 

頸城縁(前世の馬鹿野郎)はね、いじめが原因……で正しいのかな。 とりあえずまぁ、他人からの悪意に対して何もしなかった結果、アホみたいに死んだんだ」

「──っ!」

 

 渚が何を思ったのか、俯かせていた顔を俺に向けた。 怒っているのか、驚いているのか、はたまた悲しんでいるのか……哀しい事に、俺には分からない。

 

「だから、だろうな。 いじめられてる柏木を無視出来なかったし、無抵抗だったのが頸城縁(自分)と重なって気に入らなかったんだと思う」

 

 とうてい綺麗な感情とは言えない、ハッキリ言って自分でも認めるのは嫌だが、この身勝手な感情は同属嫌悪とでも言えば良いのだろうか。 同族とはいうが理由も無いのに何もしなかった死人と、理由があって何も出来なかった彼女とでは雲泥の差があるのは分かっているけれどもな。

 

「だから……だから、俺は二つの意味で動いてる。 失敗した自分(頸城縁)と、今の自分(野々原縁)の二人分、理由があるんだ」

 

 これで今度こそ、自分が言えることは全部言い切ったと思う。 とにかく一番に、渚に隠していた事は事実だったが、単に柏木と仲良くなりたいとか、恋人関係になりたいとか、そんな理由で行動していたわけでは無かった事は分かってもらえた筈だ。 ──そう、思い込んでいた。

 

「──どうして?」

 

「……え?」

 

 俺を見つめたまま渚が言った言葉は、その表情と同じに酷く乾いた、およそ感情が乗せられているとは思えない程に淡々とした物だった。 それなのに、棒読みに聞こえるどころか、言葉の裏に何かしらの情感が込められていると、嫌にハッキリと感じられる。

 だが素直に意味が分からなかった。

 俺はもう既に渚の『どうして』に対する答えを言っている、それなのにも関わらず、渚の口から出た言葉は納得でも不服でも無く、再度の疑問だった。 その言葉に俺の方がどうしてだと言いたくなる。 渚は未だに何が分からないと言うんだ。

 

「えっと渚……悪いが、お前が何を聞きたいのかが分からないんだが。 俺が柏木の為に動く理由は、さっき言ったよな?」

「そうじゃなくて」

「そうじゃ、ない?」

「なんで()()()()()がわざわざそんな余計な事をしているの?」

「余計な、こと?」

 

 一つ理解した。 いや厳密には理解にまで至らないが、渚の言葉が何を意味しているのかは分かった。

 今日まで、俺に『どうして』と聞いてくる人は三人いた。 一人は綾瀬、二人目は悠、最後の一人は柏木。 いずれも、俺が柏木の為に行動する理由を聞いていた。

 だが、渚の『どうして』は、先の三人とは言葉こそ同じではあるが、指し示すモノが似ているようで違うのだ。

 

「お兄ちゃんは自分からわざわざ面倒ごとに関わって行くような性格じゃ無かった。 いつも笑っていて、どちらかと言えば自分が楽になる方を選んで来た。 だから、今までは自分が家事をするなんて事は無かったし、帰りに荷物を一緒に持ってくれる事も無かったし、絶対に部活をしようなんて事も考えなかった」

 

 渚は今回の事だけを聞いてるのではなく、これまでの俺の行動全てに対して、疑問を投げかけている、それが渚の『どうして』が指している内容だ。

 何故それを今この場で聞いてくるのかまでは分からない、でも渚にとってはそれらが繋がっているのだろう。 しかし肝心の俺が、その問いに対してどう答えれば良いのかが分からない。 俺が部活をする事も、家事手伝いをする事も、全部渚が了承した事だと言うのに、何故ここに来て再度矢面に立つのかが、分からなかった。

 

 だが、俺がその疑問に答えを得る前に、唐突にこの時間は終わってしまう事になる。

 

 

「私は、あたしが言いたいのは──お兄ちゃんは……本と──はっ──」

「お、おい! どうした渚!?」

 

 椅子から立ち上がり、俺の元に詰め寄りながら何かを続けて言おうとしたが、最後まで言い切る前に渚の身体が俺の方に倒れて行った。 床にぶつける前にすかさず駆け寄り、渚を抱きとめる。

 

「渚、大丈夫……って、熱いぞお前!」

「こほっ……こほっ!」

 

 わざわざ体温計を使うまでも無く、抱きかかえただけでパジャマ越しに渚の体温が高くなっていることが分かる、それくらい今の渚は発熱している。 それだけでなく顔や背中や手足のどこも汗で濡れている、こいつ、こんな容態になってるのに今の今まで我慢してたのか!? 

 

「くそ、もう話をしてる場合じゃない、すぐに部屋に戻るぞ、服も着替えなきゃ!」

「待って……まだ、終わって……」

「そんな場合じゃ無いだろ! 死にたいのか!?」

「…………っ」

 

 ここまで渚の容態に気づかなかった自分への苛立ちと、焦る気持ちを抑えながら、急いで渚の部屋に向かった。

 まずベットに寝かせた後、一階からタオルと冷蔵庫の中のスポーツ飲料が入ったペットボトルを持ってきた後に、渚のパジャマを脱がせて汗だらけの身体を拭く。 パジャマの下は当然とは言え下着だけだったが、年頃の女子の裸だの下着だの今は気にしてられる状況では無い。

 そもそも妹相手にそんな気は起きないし、何よりこれ以上に渚の容態が悪化したら俺を信用して愛娘を家に置いてきた親父に見せる顔が無い。 替えのパジャマに着替えさせて体温計を脇に挟み、身体に布団を被せてから、半身だけ起こしてペットボトルの蓋を開けて飲ませようとした。

 

「渚、飲めるか?」

「……」

「……くそっ」

 

 もはや返事も出来ない程に意識が朦朧としている様だ。 とは言っても、無理に飲ませては逆に咽せて苦しませてしまうだけになるだろう。 水分は大切だが、それよりもしっかりと身体を休めせる事を優先すべきなのだろう。 せめて時間が深夜帯でさえ無かったら、綾瀬に助けを願う事も出来たのだが、今はそうもいかない。

 ピピッと軽快な音と共に計り終えた事を知らせる体温計を見ると、優に39度を超えており、明らか俺が家を出る前よりも悪くなっているのが分かった。 しかし、汗も止まって呼吸も汗を拭う前よりも穏やかになり、既に完全な睡眠状態になっているので、あとはもうこれ以上悪化する事は無いと思われる。 とにかく山場は去ったのだ。

 

「……はあぁ、もう、くっそぉ……」

 

 取り敢えずやる事が終わり、安堵の息を吐いきながら床に倒れこみ、ベッドに背中を預けた。 少しして内側からこみ上げて来たのは、どうしようもない位の自己嫌悪だった。

 渚が俺が家に帰るまでずっと玄関前に立っていた事を分かっていながら、俺はそれ以上の事にまで考えが及ばなかった、自己保身に思考が全て向いていたからだ。 そもそもの話、まだ治ってないのにあんな寒い場所に長時間居れば誰だって病症が悪化するのは当たり前だ、たとえ話をするにしても、俺はリビングでは無く渚の部屋で、ベッドに横にならせながら話すべきだった。 その方がまだ渚の身体の負担は軽かったのだから。

 それらを一切全く微塵も考えもせず、リビングに連れて行った理由はなんだ、考察するまでも無い、先にも挙げた自己保身の為に違いない。 どこに何があるのか全て把握している渚の部屋よりも、共通の空間であるリビングの方が話すにしてもはるかに安全だと、無意識下で分かっていたから、渚の容態よりも()()()()()()()()()()選んだのだ。

 

「ここに来てもこの有様かよ、ふざけてんのか……」

 

 どこまで自分大好き野郎なんだ俺は、そりゃ死にたく無いから色々考えるのは仕方ないさ、でもそれで結果的に渚を苦しめる事になってんじゃ意味ないだろうよ! 渚は俺のなんだ? 妹だろうよ、そんで俺は兄だ、ドヤ顔で言い訳垂れるより先に優先すべき事があんだろうが大馬鹿野郎!! 

 

「何が『本当に悪いと思ってる』だ、何が『渚の信頼を蔑ろにしていたんだってようやく分かった本当にごめん』だ、そんな事言ってる時点で既に何も分かって無かったじゃねえかよ、本当口だけは良く回るな、今もだけどよ!」

 

 こんな自分が柏木を助けようなんて、よく言えたモノだ、遊んでいるのかいい加減にしろ、馬鹿にしやがってふざけんな。

 目の前に自分が居れば思い切り殴りつけたい、自室なら手が壊れるまでそこらじゅうを殴りつけたい、だがここは渚の部屋で、俺は一人だけだ、だからそれら一切の自己満足にしかならない欲求も押さえつける。 それこそ、先にしなくちゃいけない事は山ほどあるのだから。

 

「ごめんって言葉も、今じゃ胡散臭くて言えないな、俺、お前に何も言えないよ」

 

 そう呟くのを最後に、俺はもう一度だけ渚の顔の汗を拭い、電気を消して部屋を出た。 もうこれ以上出来る事は無いのだから、後は良い意味でも悪い意味でも寝る事しか出来ない。 とにかく明日は柏木のいじめに決着を付けなくてはいけないのだから。 俺がうだうだと停滞しているんじゃままならない。

 結局、渚との意思疎通は成らず、それどころか大きく溝を作る形で、その日の俺の一日は終わってしまった。 心の中に、黒く淀んだ大きな澱を残したまま。

 

 

 翌朝。 部屋に戻っても素直に眠るのには、些かどころじゃない位に気分が優れなかったが、眠気は勝手に湧いてくるもので、結局ベッドの上に倒れて着替えもしないままに意識を手放してしまった。

 その為に寝つけが悪かったからか、寝る時間はいつもよりだいぶ遅かったのにも関わらず、起きる時間は六時十三分と、渚の看病のために早く起きていたここ最近よりもさらに早く起床する事になった。

 せっかくなので、昨日は遠出して汗が出たのにシャワーも浴びずに寝てしまったので、シャワーを浴びて汗臭くなった身体を洗い、心はともかく身体をスッキリさせてから朝食の用意をし始めた。

 渚の分のおかゆ、自分の分の焼き鮭に目玉焼きとキャベツの千切り、二人分の味噌汁を作り終えた後、先に俺だけ食事を摂って食器を片づけてから、昨晩の様にトレーに渚の分のご飯を載せて部屋に向かう。 が、いざ部屋の前に立つと、部屋の中に入るどころか、ドアをノックする事すら躊躇ってしまう。

 かと言って、このまま部屋の前で立ち往生するワケにもいかない。 深呼吸をしてから、俺は左手でトレイを持ち、空いた右手でドアをノックした。

 

「渚、朝ごはん持ってきたぞ」

 

 昨日までなら、すぐに返事が来たが案の定今日はなんの返事も返ってこない。 それだけで嫌になって来たが、気持ちを抑えてドアノブを回した。

 

「渚、入るからな」

 

 一応断りを入れてから、ゆっくりと部屋に入る。 見ると渚はこちらに背を向けるようにしてベッドに横になっていた。

 

「……渚、朝ごはんだけど、食べられるか?」

「いらない」

 

 ぶっきらぼうではあるが、やっとこちらの問いかけに対して返事をしてくれた。 それだけでも幾分か心が軽くなってしまうのは仕方ないだろう。

 

「でも、風邪悪化してるだろ? ちゃんと食べなきゃ──―」

「良いから、ほっといてよ」

「……っ」

 

 これは駄目だな……、分かってはいたが、昨日からずっと渚は俺に対しての態度を軟化させてはいないらしい。 となると、後は俺がいない時に食べてくれることを願うばかりだ、今の状態で俺がごねても泥沼化するだけだろうし。

 

「……分かった、じゃあ、ご飯は置いとくから、お腹すいたらちゃんと食べてくれな? 食べ終えた食器は、廊下にでも置いといていいから」

「…………」

「……じゃ、俺、行ってくるよ。 今日は土曜日の登校だから、普段よりは少し早めに帰られると思うけど、もし体調がもっと悪くなったら、すぐに電話してくれな?」

「…………」

 

 依然こちらの顔も見せない渚の背中にそう言ってから、俺は部屋を出る。 だが、ドアノブに手を掛けてドアを閉める前に、振り返ってもう一度、渚の背中に向けて言った。

 

「……俺は確かに最近、渚が納得できない行動ばかり取って来たかもしれない。 でもな、俺は渚を蔑ろにするつもりは本当に無いんだ。 昨日渚が俺に言おうとした事は、渚の身体が良くなったら、必ず聞くから、だから待っててくれ」

「…………」

「最後まで自分勝手でごめんな……じゃあ、行ってくる」

 

 言うべき事、伝えたい事を出来うる限り言った後に、俺はすぐに鞄を手に取って、家を出た。

 

「……そういう事じゃないよ、ばか」

 

 ──その、搾り取ったように呟いた渚の声を、俺はまたしても聞くことが出来なかった。

 

 ……

 

 通学路を歩いていると、公園を過ぎた辺りで背後から声を掛けられた。

 

「縁、おはよう」

「んっ……あぁ、おはよう綾瀬」

 

 この辺りで俺に声を掛ける人間は決まっている、幼馴染の綾瀬だ。 今日も今日とて特徴的な大きいヘアリボンが、俺に駆け寄る綾瀬の動き合わせて上下に揺れている。

 

「朝一緒になるのは、珍しいな」

「そうだね、いつもは渚ちゃんと一緒だから、少し貴方の方が遅いし……、渚ちゃんは今日も体調悪いの?」

「ん……まあ、ね」

 

 渚の事を尋ねられて、思わず言葉が濁ってしまうのを抑えられなかった。 それでも表情には出さなかったつもりだったが、綾瀬には簡単に見抜かれたらしい。

 

「昨日、渚ちゃんと何かあったんでしょ」

「……あぁ。 柏木の事について、渚に隠していたのが分かられて、それから俺の不始末の所為で風邪が悪化した」

「やっぱり、か」

 

 沈黙が起きる。 歩く速さはそのままに、二人の間の空気だけがゆっくりになっていく感覚を覚える。 俺は昨日から続く自己嫌悪に引っ張られたまま何も言えず、口火を切ったのは綾瀬の方だった。

 

「私は、ね。 否定はしないから」

「……え?」

「渚ちゃんに黙ってたのは間違ってたのかもしれない。 でも貴方が渚ちゃんに心配掛けたく無かったって気持ちは分かるし、それも間違いでは無いと思うの。 それにほら、あの子貴方と女の子の事になるとジェラシー凄いし」

 

 そう笑っていいながら、綾瀬は俺の目を見つめながら、ハッキリと言った。

 

「貴方の今までの行動や判断は、全部が全部正しいワケじゃなくて、大小問わずに、絶対に間違いは沢山あったんだと思う。 そうだとしても私は、今の渚ちゃんを想う気持ちや柏木さんを助けようとする気持ちが、間違ってたり非難される様なモノじゃ無いって思うよ」

「綾瀬……」

「だから安心して。 渚ちゃんや他の人が、何より貴方自身が自分を嫌いになっていても、私だけは貴方を嫌いにならないし、否定もしないから」

 

 そうはにかみながら言う綾瀬の言葉に、情けなくも、ほんの少しだけ、涙腺が緩んでしまった。

 

「ありがと、綾瀬……でも、恥ずかしいぞ俺が」

「何言ってるの、貴方よりも言ってる私の方が恥ずかしいわよ」

「あははは! そりゃあ確かにその通りだ」

 

 ああ、本当に、本当にありがたい。 昨日までの自分の行動に後悔は残っている、だが綾瀬のくれたほんの僅かな言葉だけで、もう心の澱は消えてくれた。

 ──と、こんな話をしている内に、いつの間にか見慣れた校舎が目の前に現れていた。 良舟学園、俺達の学び舎でありながら、ある意味では柏木のいじめを生み出した元凶その物。 もっとも、いじめの原因を校舎の存在に当ててしまえば、この世のいじめは全て『学校があるのが悪い』なんて暴論に至ってしまうのだが。

 そんなくだらない事を考えつく程度には心に余裕が戻った俺に、綾瀬が発破をかける様に言った。

 

「今日が一番大事なんだから、しっかりやり切ってよね」

「おう、やる事やって、後悔も懺悔も反省もその後だ」

 

 もう自己嫌悪に心を占めさせるのはお終い、それらは全部終わったら、改めてもう一度相手にする。 今は、これからは柏木の事を終わらせる事だけに全てを集中させるんだ。

 

 そう心に決めて俺は校門を超えて、学園の敷地に足を踏みつけた。

 

 

 ──to be continued


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