豚に真珠。
「……プゴッ」
「む……」
ユクモ村、その北西にあるゲストハウス。
集会浴場とも隣接するこの大型の建物は、言わばハンター用の宿泊施設という役目をもち、俺のような旅行などで一時的に滞在するハンターがこぞって利用する人気の物件だ。
今日もまた、最近この村にやってきた旅行のハンターがこの部屋を借用しては、その部屋でくつろぐプーギーと戯れていた。
「プギィー?」
「よしよし、ほれほれ」
プーギーとは、言ってしまえば小さな豚だ。まだまだ幼い子豚で、つぶらな瞳がチャームポイントだろうか。その可愛らしい見た目からペットとしての人気が高く、その人気っぷりは一家に一匹とまで言わせしめるほど。
何と言ってもそのスベスベの美肌が特徴的で、その肌を撫でればプ二プ二とした感触が伝わってくる。アイルーとは違う撫で心地の良さに、心を奪われる人間は後を絶たないとか。
「フゴッフゴッ」
「こいつめ、こいつめ!」
そんなプーギーの背中やらお腹を撫で回し続けること数十秒。しばらくの間鼻を鳴らし、俺の手の匂いを嗅ぎ続けていたプーギーはとうとう跳ねた。俺への警戒心を解くかのように跳ね上がるその姿に、俺は一種の達成感を感じてしまう。ぴょんぴょんと跳ねては俺に擦り寄ってくるプーギー。中々どうして可愛いじゃないか。
そんなプーギーを見ていたら、とある考えが頭を
「プゴゴッ」
「――なぁ、イルル。お前って豚肉好きか?」
そんな思いをそのまま口にしたその言葉。言葉を理解できている訳ではないだろうが、俺に擦り寄ってきていたプーギーはその動きをピタリと止める。まるで氷やられにでもなってしまったかのように。
一方で、部屋のベッドの上でせっせと毛づくろいしていたイルルは、驚いたかのように顔を上げた。その反動で、口元に引っ掛かっていた毛が静かに舞い落ちる。
「……にゃっ、まさか旦那さん――」
「あぁ、折角だから豚肉でも使った飯を用意しようかと思ってな」
その言葉は、固まっていたはずのプーギーを震えさせ始めた。プルプルと、肉厚のその肌が揺れる。手にその感触が伝わってくる。
一方のイルルは困ったような、焦ったような、そんな表情で顔を染めた。まるで俺の心配でもするかのような、深刻そうな表情だ。
「だ、旦那さん? 大丈夫かにゃ? 疲れてるのかにゃ?」
「え? いや別に疲れてないよ。それよりも豚、食べたくないか?」
イルルの言葉は、俺を気遣うものだった。一体どのような捉え方をしたのかは知らないが、どうやら俺の心配をしていることには間違いなさそうだ。
だが、俺としてはそんな言葉は求めていない。今求めているのは、豚肉が好きか嫌いか。食べたいか食べたくないか、それだけである。
「え、にゃ、えっと――」
そんな意思を込めた目でイルルを見つめると、彼女は困惑しながらもその質問に対する答えを模索し始めた。まふまふと口を動かしては言葉を
だが、彼女の言葉の続きが綴られることはなかった。プーギーの雄叫びが、それを掻き消したのだ。
「プギィーッ!!」
「え――うわッ!?」
それは突然の突進だった。猪突猛進とはよく言ったもので、その小さな体でどうやってそんな威力を生み出すか分からない。しかし、その突進は油断していたとはいえ俺を突き飛ばすには十分な威力だった。
「プンギャーっ!」
思わず腰を着いてしまった俺を尻目に、プーギーは鳴きながらも走り出す。埃を立てながら、乱雑に部屋の扉を押し開けては何処かへ逃げ去ってしまった。俺もイルルも、目を点にするしかない。
「……逃げられちった」
「あの子の前で豚肉なんて言うからにゃ。……それにしても、プーギーまで食べようとするなんてボクでもちょっとどうかと思うにゃ」
「はぁ? いや別にプーギーは食う気ないけど」
「……みゃ?」
溜息を吐きながらも、イルルは呆れたようにそう言った。それも俺の意図とはすれ違うような内容で。
確かに今思えば紛らわしい状況で言ってしまったとも思うが、俺が言う豚肉は別にプーギーのことではない。プーギーを食べようとするならば、バルバレでとっくにやっている。俺が食べたいのは、このユクモ地方にはおり、かつバルバレ管轄領域にはいない豚だ。
「俺が言うのは野生のモンスターだよ。それもこの村付近にいる、ね」
「にゃ……ど、どういうことにゃ?」
◆ ◆ ◆
山を抜け、森を抜けて。高い山が幾つも連なる景色に取り囲まれた世界へと身を投じる。
――ここは渓流。ユクモ村のすぐ傍に位置する、この村にとっては最も馴染み深い狩猟地だ。
「相変わらず過ごしやすいところだな」
「にゃ~。何て言うか、風流だにゃ」
澄んだ空に浮かぶ紅い色。沈み始める陽が山陰に隠れ、その輪郭をなぞるように橙色の光が見え隠れする。白い雲と緑の山々、それらを彩るその橙は非常に美しい。
渓流とは、イルルの言う通りその風流な景色に定評がある、有数の絶景狩猟地なのだ。月刊『狩りに生きる』でも何度か掲載されており、この景色のために素材ツアーに出かけるハンターの後が絶たないのだとか。
「夜になる前に獲物を探しちまおう……」
「にゃ、ドス……何とかは森の方にいるらしいにゃ」
「ドスファンゴ、だな。そうか、地図でいうなら中央部辺りかな?」
ユクモ村の住民からの依頼。渓流に現れたドスファンゴが凶暴過ぎて困るという愚痴を綴った依頼書を握り締め、俺はベースキャンプから出た。
後から続くネコの足音が、次第に水気を含んだものへと変わっていくのを聞きながら、エリア1へと足を踏み入れる。水の湧き出る泉となっているこのエリアでは、数匹のガーグァが
「にゃ……これはガーグァにゃ? この地方にもいるのにゃあ」
「むしろ生息を確認されたのはこっちの地方が先なんだぜ。さ、先に進もう」
そんな小さな雑学を吐きながら、俺はガーグァの横を通り過ぎる。その事実にイルルは感嘆しながら、再び水の上を跳ね始めた。
一方で、突然見慣れない人物が現れたためかガーグァたちは驚き慌て、悲鳴と共に逃走。臆病なのはどこの地方も同じということだろうか。そんな旨そうな肉に涎を滲ませながらも、俺は敢えて目を逸らす。
「ガーグァも美味いけど、今はファンゴファンゴっと……」
「にゃ、にゃにゃ?」
そんなエリア1を抜けた先。そこには狩猟地らしくない、荒れ果てた廃村が鎮座していた。老朽化に老朽化を重ねた木材を重ね合わせた廃屋、それが幾つも立ち並んでいる。生憎人の気配はないが、その建物の周りには忙しなく鼻を鳴らす牙獣種の姿が数匹あった。
そう、ブルファンゴだ。厳つい牙に焦げ茶色の体毛を震わす奴らは、我が物顔でこのエリアをうろついていた。
「おっ……」
「にゃ、豚にゃ! 旦那さん、あれかにゃ?」
「惜しい。こいつらじゃないんだよなぁ」
その姿を見ては、イルルは飛び跳ねる。彼女の想像に一致したのであろうその姿に、あれこそがターゲットかとそっと俺の顔を覗き込んできた。そう思う気持ちも分かるが、残念ながらあれはターゲットではない。強いて言うなら、取り巻きといったところか。
一方で、嗅ぎ慣れない気配にでも気付いたらしい数頭のブルファンゴ。荒い鼻息を隠さない彼らは、その厳めしい蹄で大地を掻き始める。
「ブルルル……」
「にゃ、何か嫌な予感……にゃ」
「こいつらの肉も美味いが、今は親玉目当てだ。無視していくぞ」
ファンゴと俺を見比べてはおどおどするイルル。そんな彼女の手を引きながら、俺は隣接するエリア5に向けて脚を前に出す。
俺としてはこのエリアには特に用がなかったため、奴らの縄張りに踏み込むつもりなど毛頭なかったのだが、奴らとしてはそうはいかないらしい。溢れる敵意を盛大に漏らしながら、ついに駆け出した。一心に、俺らに向かって。
「にゃ、旦那さん! こっちに来たにゃ!」
「無視無視、避けるくらいなんてことないだろ?」
ブルファンゴの突進力は小型モンスターの中でも目を見張るものがある。これに対応できるとなればリノプロスくらいしかいないのではないだろうか。アプケロスという鎧に包まれた別の生肉も存在するが、これはまぁ別の話。
と、褒めはするものの所詮は小型モンスター。避けるくらい造作もないことだ。
「モノブロスに比べれば全然大したことないよな!」
「ひっ、比較の対象がアレ過ぎるにゃ!」
危うい動きで飛び跳ねるイルルと、凄まじい勢いで転倒するファンゴ。激しい乱戦が繰り広げられる中、彼女は俺の軽口に声を荒げる。
そんなイルルの死角から、彼女目がけてもう突進する新たなブルファンゴ。回避の反動を抑えきれなかった俺は、それをそのまま蹴りに移行させた。飛び蹴りが宙を舞い、カブラSグリーヴがファンゴの横っ腹で炸裂する。
「ブギィッ!?」
「にゃ、旦那さん!?」
「数が多くねぇか……。俺が引き付けておくからお前は先に行きな」
「わ、分かったにゃ!」
どんどん現れるブルファンゴたち。まるで何かの予兆のように、物凄い速度で集まってくる。俺が見たことのない個数。ここまで集まってくるのは珍しい。
外敵の排除だけでここまでするなんてことはないよな。まるで何かから逃げているみたいだ。
「にゃ……旦那さん……」
「あん?」
増えゆくファンゴの動きを警戒しながらも、先に行ったはずのイルルの声に反応する。
エリア5に向けて走っていくのを確認したのだが、何故か彼女は立ち止まっていた。ただならぬ雰囲気を感じては、震えを隠せない。そんな印象だ。
「どうしたんだよ?」
「にゃ、にゃにゃ……こ、この子もただのファンゴにゃ……?」
「へっ?」
動揺を隠しきれない彼女の言葉。違和感漂うそれを飲み込んでは、彼女の方へ振り返る。
そこにあったのは、俺の背後で立ち尽くすイルル。と、その奥で佇む一際大柄なファンゴの姿だった。他の個体よりもやや白みがかった体に、より厳めく湾曲する牙。そして如何にも高慢そうなトサカ。
「……コイツだ」
「にゃ、にゃ?」
「……ドスファンゴだ! コイツだよコイツ! わざわざ自分から豚カルビになりにきたか!」
「ブゴオオォォォッ!」
俺の言葉に応えるように、奴は――ドスファンゴは猛烈な突進を仕掛けてきた。そこらのブルファンゴより一回り二回りは大きな体が、大地を抉り掻きながら爆走する。その姿はまさに、猪突猛進の権化だ。
「イルル、どいてな!」
「にゃ、ど、どうするのにゃ!?」
「迎え撃つ!」
ぴょんと飛び避けるイルルを横目に、俺も奴へ向けて走り出した。大きくうねる牙が風を斬る。そんな奴の武器に対抗するように、俺も腰の武器をチラつかせた。
テオ=スパーダ。粉塵煌めくこの刀身が、渓流の夕陽を浴びては紅蓮に染まる。
「ブルルルラアアァァァッ!!」
「――なんちって」
その牙に接触する瞬間。真正面から斬り付ける――なんて、馬鹿な真似はしない。大体、ただの人間が真正面からモンスターにぶつかったところで、押し負けるのは明白だ。ならば、避けて背後に回る。これに尽きるだろう?
「にゃ、旦那さん何かセコいにゃ……!」
「セコいとはなんだ、立派な戦術だろうがよ!」
宙を斬るドスファンゴの牙。突き飛ばすはずだった人間の姿はそこになく、あるのは背後から訪れる鋭い痛み。鋭いジャンプ斬りがその剛毛の鎧を斬り裂き、奴は忌々しそうに鼻を鳴らした。
「ブゴゴ……ッ!」
「……何か、滅茶苦茶興奮してないかコイツ?」
「にゃ、確かに……。すっごく荒ぶってるにゃ」
爛々と血走るその瞳が再び俺を捉える。興奮気味に鼻を鳴らすその姿から、奴が我を失っているのは火を見るよりも明らかだ。俺が背後から斬り付けたから、だろうか?
いや、どちらかと言えば、このエリアに現れた時からそうだったような気もする。
「ふぅん……。あの大量のブルファンゴもコイツが原因かもな」
「にゃ――あれ? ファンゴたちがいなくなってるにゃ」
辺りを見渡し、何となくだがこの状況の要因を理解した。それにはイルルも気付いたようで、彼女も驚いたような鳴き声を上げる。
そう、イルルの言う通りブルファンゴの姿が無くなっているのだ。あんなにたくさんいたはずのファンゴだったが、今は忽然と姿を消している。まるで何かから逃げるかのように。
「群れのボスがこんな調子じゃあ、そりゃ周りの豚も逃げるわな。人望……いや、豚望無くしてらぁ」
「にゃー。一体何があったのかにゃ?」
「さぁな。そう興味もない! あるのはお前の肉だけだ!」
荒い鼻息と共に牙を振り回すドスファンゴ。そんな奴の大振りな動きをバックステップで躱し、隙間を縫うように斬り込みを入れる。緋色の刀身から溢れ出る粉塵に、奴は眉を顰めながら再び地を掻き始めた。
「旦那さん! 突進来るにゃ!」
「分かってる、大丈夫だ!」
そのやり取りが終わるか否か。会話を終えるのも待たずして、奴は激しく走り始めた。砂利や小枝が飛び交い、地面に大きな爪痕を残す。その速度もこれまでとは比較にならない。その突然の挙動に、俺も思わず大きく跳び避けてしまった。
「……っと! 思ったより速いな!」
「にゃ……っ!? と、止まらないのにゃ!?」
「え――おぉっとぉ!?」
大きく回避し、隙を晒す俺。一方で、ドスファンゴも躱されてしまったために動きを止め、俺の方に向き直す――と思っていたのも束の間。イルルの驚愕の声が、そんな予想をあっさり瓦解させた。
振り返れば、突進の勢いを殺さずむしろ猛ダッシュで急カーブするドスファンゴの姿が。体を一度止めるより数段速いその捕捉力に、あえなく俺は弾き飛ばされた。
「いってぇ……!」
「だ、旦那さん!」
「ばっか! ドスファンゴはまだ止まってないぞ!」
吹き飛ぶ体を、片手剣で地面に縫い付けては何とか体勢を立て直す。そんな俺の様子に、慌てて駆け寄ってくるイルル。
その背後には、走る彼女を撥ね飛ばそうと、彼女以上のスピードで走り寄るドスファンゴ。
「にゃ――」
奴が駆け巡ったであろう軌跡が見える。縦横無尽に走るその生肉は、標的とした小さなネコに向けて速度をさらに上げた。そうして一直線に、彼女に向けて牙を震わす。
ダメだ。避けられない。イルルもはね飛ばされる。
――そう思った瞬間だった。
「にゃー! 負けるかだにゃーっ!」
「ブゴォッ!?」
「はっ!?」
何と彼女は、その土壇場でネコまっしぐらの術を繰り出したのだ。一直線に走るその物々しい牙に衝突する、同じく一直線で跳ぶ彼女の鋭い一閃。両者どっちも引かず、擦れ合うその衝撃はやがて自然に逸れ合った。
牙の軌跡と、剣の軌跡が宙に掠れゆく。突進を完全に止めることはなかったが、すれ違いようにドスファンゴの横っ腹を大きく斬り裂いていたようだ。奴の動きが、痛みによるぎこちなさに蝕まれていく。
「……にゃ、焦ったにゃ……!」
「ナイスだ、イルル!」
フラフラと足取りの危うい奴に向けて、俺は剣を収めた右手の盾を振り被る。勢いも速度も失った奴の脳天で炸裂する一筋の打撃。それが溜めに溜めていた粉塵を、より大きく散乱させる。
頭を襲った打撃に悶えるドスファンゴは、その溢れる橙色の空気に気付いたようで、ヒクヒクと鼻を忙しなく鳴らした。
「カツオのたたきならず、ファンゴのたたきってな!」
そんな奴に向けて振り回した左手の剣。分厚い刃が何度も奴の頭を打ち付けて、その度に大気の色を緋色に染め上げていく。ドスファンゴが痛みから立ち直り、もう一度俺に対して鼻を鳴らす頃には、目の前は紅蓮に染まり切っていた。
「ブゴッ……ブギィ!」
「おぉっと!」
そんな視界だというのに、奴は御構いなしだ。血走った眼で俺を睨むドスファンゴ。認知できる視界は、粉塵が舞おうと舞うまいと赤で染まっているのかもしれない。
それを肯定するかのように、奴は勢いよく駆け出した。目の先にいる敵を弾き飛ばそうと、その鋭い双牙を振り被る。
瞬間、鋭い金属音が響いた。固く鋭いその牙が、俺の右手の堅牢な盾へと突き立てられる。その切っ先と盾の表面が擦れ、あまりの勢いに火花まで散り始めて――。
それが引き金となった。溢れる細かい火花は、爆破の連鎖のように舞い上がる粉塵の尻を蹴り上げる。その小さな光は、漂う粉塵の一つ一つに飛び火していき、ついには大きな花へと開花した。
「プゴゥッ!?」
「そぉれ、吹っ飛べ!」
そう言うが早いか。その爆破の花は大口を開け、ドスファンゴを丸々呑み込んだ。そうかと思えば勢いよく弾け飛び、その巨体を勢いよく吹き飛ばす。奴が先程俺を吹き飛ばしたように、高く大きく。
「にゃあーん、ビンゴにゃ!」
「おっ……」
そんな奴の落下地点。そこには、およそ自然界では形成されないであろう奇妙な文様が浮かび上がっていた。
まるでネットを思わせる、重厚に編み込まれた細い線。中央部で煙を上げる、小型の爆破装置。もしかして。いや、もしかしなくとも――。
「ブゴっ……」
「落とし穴か……!?」
「そうにゃ、張っといて正解だったにゃあ!」
何と言うことか。俺がドスファンゴを引っ叩いている間、イルルはせっせと落とし穴の準備をしていたらしい。それも、俺が奴を爆破で吹き飛ばすことを予想して。
彼女の思わぬ作戦に驚きながらも、俺はすかさずドスファンゴへの距離を詰めた。ネットに背中から
「イルル、グッジョブだ。これにてチェックメイトだな」
ネットに牙ごと絡み、荒れ狂うファンゴの長。そんな奴の首元に、そっと左手の剣を添える。重厚で太い刃を持つのこの剣だが、斬れ味は鋭く優秀な部類だ。ドスファンゴ程度の毛の鎧を、そしてその下の肉を斬り裂くなど造作もない。
ネット越しに吹き出る鮮血。それを見ながら、イルルは小さく溜息をついた。
「にゃ、相変わらず容赦なしにゃ」
「しょうがないだろ? コイツの振る舞いには住民も困ってたしな。それに俺が食べたいし」
「……ほんとに相変わらずなのにゃ。それにしても、どうしてあんなに荒ぶってたのかにゃあ?」
「さぁね。自然界の出来事なんて、理解しようとしても不可解なことばっかしだ。あんまり深く考えない方が良いぞ」
動かなくなったドスファンゴの脈を確認しつつ、俺はギルドから拝借した一般的な剥ぎ取りナイフで血抜き処理を開始する。邪魔なネットからまず斬り始める一方で、イルルは静かに、ドスファンゴが現れた背後の森へと振り返った。
その森からは、木々の軋むような、砕けるような音が風に紛れて流れ込んでくる。そんな奇妙な森を、イルルは静かに見つめ続けていた。
◆ ◆ ◆
「――酢橘を絞るとどうなるでしょうか?」
「にゃ、果汁が溢れ出るにゃ」
「そうだな。じゃ、それをこの塩ダレに混ぜ込んだらどうなるか?」
「みゅ……酢橘の味がついた塩ダレに……なる?」
渓流の南東、高台に位置するベースキャンプ。そこで土鍋とフライパンを操りながら、俺とイルルは軽口を交わしていた。そんな会話で絞り出されたように、今回のポイントは
そんな酢橘を、今回はドスファンゴに利用する。この試みは、俺も初めてだ。
「うんうん。というわけで、今回は豚塩カルビに酢橘入りというのはどうだ? 良い響きじゃないか?」
「にゃ……塩ダレをカルビに掛けて、そのカルビをご飯にかける?」
「そそ。まぁ詰まるところ、ドスファンゴのカルビ丼だ」
そう言いながら、土鍋の蓋を湯気ごとずらす。その中で輝く五穀豊穣米をしゃもじでかき出しては、そっとお椀に盛り付けた。溢れる香りは深く、味わい深い。その良質な米に、俺は思わず涎を滴らせてしまう。いつかの七草粥で用いた五穀豊穣米、原産地直送だ。
「にゃ~、ご飯にカルビの脂が染み込んで、その上からタレをかけるなんて。贅沢にゃあ」
「酢橘の酸味が良い感じに効いてるといいけど。カルビに混ぜ込んだ刻みジャンゴ―ネギも良い色だ。美味そう」
「よ、涎溢れてるにゃ。早く食べようにゃあ」
白い米を濡らすように、そっと重ねるカルビの層。薄くスライスしたそれは、脂身も程よく含んでおり、薄橙色の肉と黄緑に染まる刻みジャンゴ―ネギのカラーリングが素晴らしい。そこに煌めく塩ダレの霞んだ透明は、米の白さと薄い肉の色をそっと染め上げた。
「あっさり仕上げてみたつもりだが……どうかな?」
「にゃん、いただきますにゃっ!」
箸で摘まみ上げたその物体は、渓流の紅の夕陽を美しく反射した。光で煌めく海面を思わせるその美しさ。溢れる肉の香りと酢橘の酸味、塩ダレの鼻に優しい透き通るような匂いに俺は図らずとも心を躍らせてしまう。
これを口に入れたらどうなるか。想像するのも難しくない。口内で溢れる唾液にもいよいよ味が付いてしまったかのようで、不思議な味覚に包まれてしまいそうだ。それを上書きするかのように、俺は一口、肉と米を口に入れた。
まず初めに伝わってくるのは、以前も口にした五穀豊穣米の旨み。それも、粥状ではないただ炊き上げた、そのままの感触だ。一粒一粒がもちもちと柔らかく、その上で簡単に解れていく。食べやすく、飲み込みやすい。流石はユクモ村原産なだけはある。産地直送なその新鮮な旨みに、俺は唸る声を押さえられなかった。
そんな米にかかった肉の旨み、塩ダレの風味。意図にうまく沿ったその味はとてもあっさりとしており、塩特有の口どけの良さ、そしてキーとなる酢橘の酸味をよく形成している。舌を刺激するその酸味がドスファンゴの脂をよく含んだ肉と絡み合い、非常に風味豊かだ。混ぜ込んだジャンゴ―ネギの、歯応えある食感もまた良い。噛むのが楽しい。
しかし、予想外な部分もあった。この丼のメインとなるドスファンゴだが、そのカルビが思ったよりも脂が多いのだ。その脂分相応に味も濃くなり、肉としての主張も激しくなる。これには少し予想外。塩ダレはあっさり仕上げたつもりだったが、肉としての味が強すぎる。全体としてはあっさりとは言えない、ややこってりとした味に仕上がってしまった。
「……うぅむ、思ったより味が濃いな」
「にゃ、ファンゴの味って濃いのにゃね」
「くどすぎやしないか? 大丈夫か?」
「にゃ、ボクは平気だにゃ」
イルルとしては特に問題ないようで、はぐはぐと食べ続けている。満足そうに微笑む姿は、作ったものとしては何だかこそばゆい気分だ。日頃俺に付き合わせてしまっているがために、彼女の舌もまた肥えているのだろうか。
「しかしなぁ、もっとあっさりしたもんになるかと思ったんだがなぁ。流石はドスファンゴ、そこらの豚よりも太く強い味だ」
「……にゃ? 旦那さん他の豚も食べたことあるのにゃ?」
「おう。そりゃもちろんプー……いや、ただのブルファンゴをな、うん」
「……もう、あえて触れないでおくにゃ……」
~本日のレシピ~
『塩ダレドスファンゴ丼酢橘入り』
・ドスファンゴ(カルビ) ……200g
・五穀豊穣米 ……2合
・ジャンゴ―ネギ(刻み) ……20g
・酢橘 ……1個
・塩ダレ ……100ml
・にんにく ……1/4個
・胡麻油 ……大さじ1杯
・レモン汁 ……大さじ1杯
・塩 ……小さじ1/3杯
・胡椒 ……適量
そんなこんなで今回は、ドスファンゴ丼酢橘入り。……これ見てピンと来た方もいらっしゃるのではないでしょうか。そうです、某コンビニエンス的な7-11時営業企業で発売されている某弁当が元ネタでございます。何だかあれを気に入ってしまいまして……不覚にも美味しかった。
爆走生肉を倒すというのも、若干適当になってしまった節もあります。何て言うか、なまじ大型モンスターでもないが故にどれくらいまで配慮すればいいのか分かりません。そんな可哀想なドスファンゴくんには合掌を。ちなみに、彼の興奮の原因や、木々に軋みはこの次の話への布石となってい(るつもりでござい)ます。
それでは、次の更新でお会いしましょう!
グランツさんからイラストいただきましたー。可愛いシグイル。癒されます。
【挿絵表示】