――――ああ、これでよかったのだ。
自らの心臓を引き抜く激痛も、彼を救えた安堵の前には些細なものだった。
小さき者、か弱き者を前にしながら、救いを求めていないからなどという勝手な理由で見殺しにしようとしていた自分が恥ずかしい。しかし、最低限の償いはできたのではないか。あるいは、茨の道を歩ませることになるかもしれない。か弱き身体には大きすぎる運命を押し付けたのではないか。そうした疑念は確かにあるが――――それでも、命を救えたことには感謝しよう。
自らが真に目指したもの。
第二の生を授かってまで追い求めた理想。
危うく見失いかけたソレに、彼は最期の瞬間に思い出せたのだから。
――――そう、俺は正義の味方になりたかったのだ。
たゆたう意識が浮上する。
大聖杯に還元され、消滅したはずの意識が再構築されていく。あるいはこれは『座』に戻るということなのかもしれない。
思考の片隅でそんなことを思う。
光とも闇ともつかぬ虚無の大海を流れ、暖かいとも冷たいとも言えぬ宙を舞う。
夢を見ているような感覚の中で、抗うという思考を働かせることもなく彼は流れに身を任せ、そして――――運命と出合った。
■
柔らかな日差しが窓から差し込む午後、青年は松の木で作られた机に向かい本を開いていた。
開け放った窓から吹き込む風は穏やかで、争いなどこの世には存在しないかのように平穏だった。
背中の大きく開いたニットのセーターに黒い綿パンという簡素な格好で、憂いを帯びたような精悍な顔立ちは二十代の前半くらいに見える。
しかしその身体から滲み出る「気」は歴戦の猛者そのもので、初めて対面した者は自然とその大きく偉大な気配に飲まれて言葉を失うことだろう。
そんな彼がいる部屋はログハウスの三階。より正確には屋根裏部屋というべきか。元々物置だったところを家主の好意で提供してもらっているのである。
「ん……? そこで何をしている?」
彼は、背後を振り返り声をかけた。
誰もいないはずの空間が不意に捻れて厚みを増し、一人の少女に変わった。
五、六歳の少女で、黒いローブと先端に星がついた小さな杖で着飾っている。あからさまに魔法使いといった服装であるが、その実彼女は魔法使い――――の卵である。
「姿を隠す魔法か。そんなものを使えたのか、キャシー」
キャシー。
それは少女の愛称で、本名をキャサリンと言う。この辺境の集落で宿屋をしている老夫婦の孫娘だ。
気のいい老夫婦で、身元不明の彼を手厚く迎え入れ、一室を宛がってくれている。足を向けて眠ることのできない恩人である。
彼に隠れ身の術を破られた少女は不機嫌そうにふくれっつらをしている。
「ちょっとくらいおどろいてくれてもいいのに」
危害を加える意思があるはずもない。
彼女はただ彼を驚かせたかっただけなのだ。
「ジー君、空気読めない」
「……すまない。だが、君の姿隠しが見事だったことについては驚いている。確か、魔法を学び始めて一月と経っていないのだろう?」
「うん! じいちゃんも筋がいいってほめてくれた!」
にかっと笑う少女は先ほどまでの不機嫌さが嘘のように明るくなった。
視覚的な隠匿はほぼ完璧と言ってもいいのではないか。足音や空気の揺らぎ、そして魔力の流れなどがあるので見破ること自体は難しくないが、目に見えないというのはそれだけ脅威である。
こんな風に戦闘に置き換えて考えてしまう彼とは違い、少女のほうはただ悪戯がしたくて練習したのであろう。
平穏な日々にあっても、自分はずいぶんと血塗れた思考から抜け出せないでいるようだと軽く自己嫌悪する。
「そだ、ジー君。じいちゃんが手伝ってって」
「分かった、が、何をすればいいんだ?」
「りりちゃんのさんぽ」
「……そうか、すぐに行く」
ジー君と呼ばれた青年は本を閉じてキャシーと共に階下へ降りる。
居候させてもらっている手前、この宿屋の雑用は一手に引き受けている。こう見えて、今日は週に一度の休みだったのだ。
それでも、手が足りないとなれば断わるわけにもいかない。
ログハウスを出ると、同じ敷地に建っている宿屋の玄関前に白髪の老人が立っていた。宿の経営者で彼の広い主であるアルフ翁だった。
「いやぁ、休みだってのにすまんねぇジーク君。腰をやっちまってなぁ」
アルフ翁はハハハと陽気に笑っているが、杖と前傾姿勢を取っているところからしてぎっくり腰をかなりひどくやったらしい。動けるのが不幸中の幸いだろうか。
ジーク君などと呼ばれているが、本当の名前は別にある。
真の名をジークフリートというのだが、どうにも名前が長いということで自然と名前の前半部分で区切られてしまっているのだった。
気にすることはない。
むしろ、気さくに話ができる分、今までに比べればずっと気持ちが楽だ。
生前はネーデルランドの王子であり、竜殺しの英雄だった。当然、彼にこの老人のような態度で話しかけてくるような者はいなかったし、サーヴァントとして召喚された際もその出自を求められてのことだった。
対等な友人、あるいは客として扱ってくれる者と逢ったのはいつ以来になるのだろうか。
「ならば、後のことは俺に任せて休んでいるべきだ。奥方も心配なさる」
「うん、まあ、そうしようかとも思ったんだが、どうにも気が急いてな。外の様子を見に来てしまったんだよ」
「気が急いて?」
「ああ」
アルフ翁は視線を西に向ける。
小高いの丘の上に築かれた集落の外は平原と黒い森が広がっている。二〇〇人に満たない小さな村は、この地で農作物を育て、森で狩をして生活している。重要な産業は観光だが、それもここ数年とある事情によって停止しているのが実状だ。――――本来であれば、事業としてすでに成り立っていない観光業を営む宿屋の主人が行き倒れの人間を拾うということ自体がありえない話なのだ。
「前に一度話したかと思うが、あの森には化物が住んでおる」
「確か、二年ほど前に現れたのだったな。そのせいで観光業が続けられなくなったと」
アルフ翁はうむ、と頷く。
森に現れたという化物について、彼は深く語ろうとはしなかった。しかし、二ヶ月の間に情報を集めてみたところ、どうやらその化物が居座っているのが観光名所であり聖地としても扱われている泉なのだというのだ。
これまでに何度か討伐隊が結成されたが、目ぼしい結果を上げることができず、触らぬ神に祟り無しと村人はこの件について口が重くなっているのであった。
「去年は村で羊飼いをしている家が襲われてな、大打撃だったのだよ。観光などできるはずもない」
「辺境軍というものがあると聞いたが、そちらに出動を要請したりはしないのか?」
ふと湧いた疑問を投げかける。
この集落はヘラス帝国南部の辺境にある。それほどの怪物ならば帝国の軍が出動して討伐してもおかしくはないし、民の敵を討たないのでは統治者の能力が疑われよう。
「戦争の真っ只中ではそれも難しかろう。こんな辺境にかかずらうわけにもいかぬ状況らしくてな」
「戦争か。新聞には出ていたが」
現在、この「新世界」はヘラス帝国とメセンブリーナ連合が戦争状態にある。小さな領土争いが加速して、大規模な軍事衝突に繋がったらしい。
メセンブリーナ連合はヘラス帝国の北側の国だ。
帝国の中でも南部に当たるこの集落には戦争による直接的な被害は出ていないのだが、その反面優先順位を低くされておりこうした問題に対する支援の手が届かないのが実状だった。
若い者も一部は戦場に駆り出されている。
全体的に若者がいないのはそうした事情があるからであった。
「それが、気になるのか?」
「あの怪物が住んでいる泉の周囲には探知魔法が仕掛けてあるのだが、それがさっき反応したらしくてな」
「つまり、その怪物とやらが動いたということか」
「ああ。警戒のために門を閉めて誰も出入りせんようにしているようだが、まあ、いざというときはシェルターに逃げるしかあるまい」
強力な魔法によって守られているわけではない。
怪物とやらが襲い掛かってくれば、この集落をぐるりと取り囲んだ壁など容易く壊されるだろう。
そうなれば、長閑な風景が瞬く間に地獄に早変わりする。
そんなことは許されるものではない。
「軍が来ないというのであれば、こちらで対処するしかないだろう。怪物の特徴を教えてもらえれば、俺が首を落としてくるが?」
ジークフリートの言葉をアルフ翁は冗談と受け取った。
朗らかに笑いながら、その必要はないと首を振る。
確かにジークフリートは見た目からして屈強な男だ。戦士の風格がある。だが、それでも怪物に単独で挑むなど常識はずれにも程がある。それを認めるのは家主として無責任な判断だ。
「わしにも責任がある。お主に無茶は頼めんよ。たとえ、伝説の竜殺しと同じ名を持つお主であってもな」
少しばかり寂しげにアルフ翁は言った。
ジークフリートにとって、聞き逃してはならない単語があるとは思ってもいなかっただろう。
伝説の竜殺しと同じ名だと言ったのだ。
それはつまり、『ニーベルンゲンの歌』がこの世界にも存在するということではないのか。
「貴方は知っているのか? その伝説の竜殺しを?」
「ん? 若い頃は文学に嵌ったもんでな。物の役にも立たんかったが……『ニーベルンゲンの歌』は有名所じゃないかね?」
「そう、だったのか。なるほど」
「やっぱり変わっているなぁ、お主。もしかすると旧世界のことも分かっておらんかったか?」
「旧世界。こちらを新世界と呼ぶのは知っているが、それに対しての呼称だろうとは思うのだが」
「うぅむ。お主、ずいぶんと田舎に住んでいたのかねぇ。いや、今更詮索は無用だろうし、ここも十分に田舎だが……」
と驚いたアルフ翁は新世界と旧世界について簡潔に語ってくれた。
この新世界と呼ばれる世界と物理的に繋がっていない別の世界があるらしい。それを旧世界と呼び、ヘラス帝国は新世界に元々住んでいた者たちの国、そしてメセンブリーナ連合は旧世界から渡ってきた者たちの国というのが大雑把な区分らしい。
ヘラス帝国は獣人が多く、メセンブリーナ連合には純血の人間が多いというのも種族的な差となっている。
もちろん、人間と獣人が綺麗に分かれるものでもない。
アルフ翁のような純粋な人間ながらヘラス帝国の住民であるという者もいる。
そして、アルフ翁の話を聞く限り、ジークフリートが暮らした世界はどうやら旧世界に該当するらしいのだ。
「なるほど、感謝する。どうやら俺はまっさきに確認すべきことを後回しにしていたらしい」
「いやいや、わしもすっかり知っているモノとばかりな。まあ、旧世界の多くの人はこっちのことを知らんらしいし、お主みたいなのがいてもおかしくはないのだろうがね」
二ヶ月前、ジークフリートが目覚めて驚いたのは、魔術や幻想種に該当するものが日常に跋扈しているということだった。
彼が生きた時代にあっても幻想種の類は姿を消して久しく、強力な個体が時折人に害を為すという程度だった。魔術に関しても秘匿が第一で、生活に密接に関わっていたのは西暦に移行するよりも前の時代がほとんどである。
しかし、この新世界では日常的に魔術=魔法が用いられており、それもジークフリートの知るものとは理論からして別物、幻想種すらも通常の生態系の中に組み込まれているという異質さは受け入れるまでに多少の時間を要した。
立ち話をしていると、後ろから幼い声が聞こえてくる。
「ねえねえ、まだいかないのー?」
とてとてと歩いてくるキャシーは手綱を手にしており、その後ろに牛を連れているではないか。
「危ないだろう」
「だいじょうぶ。りりちゃんはおとなしいいい子だから」
角が立派に生えた乳牛だ。
魔法を習いたてのキャシーは普通の子どもと変わらず、暴れればそれだけで命に危険があるというのに。
「りりの散歩を頼んでいたのだったな。すまんすまん、引き止めてしまった」
「いや、こちらこそ立ち話を強いてしまったようだ。気が利かず申し訳ない」
「何、気にせんでくれ。立ってたほうが無理に座るよりは楽だしの。後で、治癒術でもかけてもらわなにゃあな」
などと言って、アルフ翁は玄関の中に入っていく。
それを見送ってから、ジークフリートはキャシーから手綱を受け取った。
自分でできると言って聞かないキャシーであったが、さすがに牛の手綱を子どもに任せるわけにはいかない。
それがたとえ気性の大人しい乳牛であったとしてもだ。
「いつのーひかー、このそらに~、ひかりをともしー……」
流行歌だろうか。
道端のタンポポと思しき植物(ジークフリートの知るタンポポとは形状が異なる)を引き抜き、手慰みとしつつキャシーは歌いながら緩やかな坂道を下っていく。
丘全体を集落としたここは、家々が点在する上部と家が密集する下部に大きく分かれる。さらに住宅地は北部に集まっており、結果的に集落そのものが縦に伸びている形になっている。
本来であれば、牛の散歩は集落の西側の門から外に出て行うべきだが、例の怪物が動いたという騒ぎのために門は閉ざされていて開かない。
住宅地に牛を連れ込むということもできないので、丘の上部にある開けた牧草地だけで我慢することになる。
「まあ、一頭の散歩をするには十分な広さだが」
外に出ることになればりりには多少不愉快かもしれない。
少し離れたところに別の牛が数頭草を食んでいるのが見える。その近くにいる老人は、確か息子が都会で宅配の仕事をしているのだと語っていた人物であろう。
その息子も今は軍に関する物資の運搬を担当しているらしく、当人は気が気でないのだと言っていた。
「ジー君、みてこれ。アカハラテナガコガネ」
なにやら呪文のような言葉を唱えつつ、キャシーが翳してきたのは一匹の甲虫だった。
腹部が赤く前腕が体長の二倍ほどの長さだ。なるほど、それでアカハラテナガコガネか。
「詳しいな」
「虫のずかんをなんども読んだからね」
「そうか。ああ、勉強というのは大切だな」
ジークフリートはキャシーと共に手近なベンチに腰掛けて、りりの様子を見守る。
のそのそと地面の草を食むだけで、りりは特に動き回る様子はない。もともとあまり動くのが好きなタイプではないのだろう。門の外の広い土地を歩きたいという気持ちはあっても、ここで走り回ろうとはしない。
「ジー君はなにかいろいろとしってる?」
「何かとは?」
「んー、わかんない」
小首を傾げるキャシーにジークフリートは小さく微笑む。
このくらいの子どもは自分の言葉を省みることが少ない。こうした唐突な質問もよくあることだ。それに、存外鋭いこともある。
ジークフリートにとってこの世界は未知に溢れている。言語こそ習得できたものの、社会情勢や民族構成、文化生活する上で必要な知識や常識すらも不足している感が否めない。
聖杯戦争ならばある程度は聖杯が知識を授けてくれるのだが、ここではそうもいかない。自らで学び高めていかなければならないのだ。
「俺も分からないことが多い」
「そうなの? おとななのに?」
「そうだな。恥ずかしながら、まだまだ学ぶべきことが多すぎる。大人になってからも、勉強は続けないといけない。キャシーは大丈夫か?」
「ん、大丈夫。あたし、べんきょうはとくいなほうだからね!」
ベンチを飛び降りてくるりと回る。
それからジークフリートに胸を張って自慢する。
これくらいの子どもはこのくらい自信に溢れているほうがいい。いずれ社会の荒波に立ち向かうにしても、挑むという気概がなければ夢は追えない。
「ああ、きちんと勉強を続けられるのなら、あの二人もきっと安心するだろう」
ジークフリートが徐に立ち上がったのは、この直後であった。
前に進み出て、キャシーを庇うように立つ。鋭い視線で遙か西方を睨み付ける。
強い魔力の気配。それに、音がする。足音ではなく、空気を叩く力強い羽ばたきの音だ。
極めて巨大な生物が、徐々にこちらに近付いてきている。
その姿をジークフリートの人智を超えた視力はすでに目視で捕捉していた。
ここが高台でなければ、集落を取り囲む壁に遮られて発見が遅れただろう。
「キャシー。帰る準備を」
そう言いながら、ジークフリートはりりの下に駆けていき、手綱を取って引っ張った。
「えぇー、ちょっとはやいよ」
「ああ、だが時間がない。りりについては後で迎えに来るとしてまずはキャシーが安全なところにいかないとだめだな」
「なに……?」
激しい風音が耳朶を叩いたのはこの瞬間だった。
キャシーは驚いて尻餅を突く。そして、りりは突然の来襲に我を忘れたかのように喉を震わせて暴れ始めた。
そんなりりを強引に引っ張り、近くの木に手綱をくくりつけたジークフリートは、キャシーを抱えて牧草地を出る。
「な、なに、なにきたの?」
困惑するキャシーと彼女を抱えるジークフリートの頭上を巨大な影が通り過ぎていく。
「竜だな」
「うぇ!?」
ジークフリートはキャシーを抱えたまま来た道を引き返す。シェルターがあるとのことだったが、その場所はまだ教えてもらっていない。ならば、自宅に戻るほうがいいだろう。
「舌を噛むから、口を閉じていろ」
下肢に力を込めたジークフリートは次の瞬間には急加速していた。
「ぐにゅ!?」
キャシーから妙な声が漏れた。
急制動のために喉から空気が漏れたのだ。
キャシーの負担にならない程度にセーブしつつ、ジークフリートは今出せる最速で坂道を駆け上がり、瞬く間にアルフ翁の下へ戻ってくる。
門前には慌てて外に駆け出す老婆の姿があった。
「きゃッ」
その老婆の正面にジークフリートは着地した。一息に一〇メートルを跳躍してきた結果である。
「あ、あ、キャシー。無事だったのね」
「おばあちゃん」
キャシーの姿を認めた老婆は、アルフ翁の妻アマンダだ。アマンダはすぐにジークフリートに駆け寄り、キャシーを受け取って抱きしめた。
「竜が現れたのが見えたので、まずはキャシーの安全確保のために戻ってきた。りりについてはこれから迎えにいくつもりだ」
大切な乳牛を置いてきたのは悔やまれる。ベストな判断ではあったが、あれもこの家の家族には違いないのだから置いてきていいという話にはならない。
「何言っているの。あなたもすぐに避難するのよ。近くにこんなときのためにシェルターがあるから」
「む……」
ジークフリートは丘の下に目を向ける。
あちらもかなりの騒ぎになっているようだ。
無理もあるまい。体長四〇メートルあまりの巨大な竜が暮らしている街の上空を飛びまわっているのだから。
鐘の音が鳴っている。
竜の襲来を集落全体に知らせる音だ。
「このまま捨て置くわけにもいかんな」
「あんた、何する気だね?」
アマンダに尋ねられたジークフリートはしばし考えた後で、逆に問いを返した。
「あの竜はアルフ殿が言っていた泉の怪物とは別物だろうか?」
「は? あ、ああ。あれがそうだよ。うちらの収穫を全部食い物にする化物さね。とにかく、そんなことは考えてても仕方ないだろう。逃げるが吉だよ」
「そうだな。だが、貴女は」
「あたしは動けない旦那を放ってはおけないからねぇ。だから、あんたにはキャシーを連れてってもらわないと」
「え、あ、おばあちゃん、こないの? おじいちゃんも?」
アマンダの話を聞いてじたばたと暴れだすキャシーは、今にも泣きそうな顔をしている。祖母と祖父が一緒に避難してくれないというのだから、その不安はかなりのものになるのだろう。
「なるほど、理解した」
そう言って、ジークフリートは踵を返した。
「ちょっと、ジーク君?」
「要するにあの竜こそがこの村を苦しめる諸悪の根源ということだな?」
「た、確かにそういう言い方もできる、けど、それが?」
「何、簡単な話だ。討伐してしまえばそれで済む」
ジークフリートの言葉を飲み込むのに、アマンダはたっぷり三秒もの時間を必要とした。
「じ、冗談はよしなよ。討伐隊が逃げ帰ってきた相手だよ。軍の出動要請までしてるくらいだ。たった一人でどうこうなる相手じゃない」
「ああ、かもしれん」
と言いながら、ジークフリートの顔に曇りはなく、竜に恐怖していないことが見て取れる。
「しかし、もう見過ごすわけにはいかない」
「あんた……」
「心配はいらない。キャシーを見てあげてくれ」
「あ、ジー君!? どこ行く――――」
キャシーが言い終わる前に、ジークフリートはその場から姿を消していた。
転移魔法か。
否だ。
残された空間に吹き込む烈風は、そこにいた青年が目にも止まらぬ速さで移動したことを示している。
伝説の英雄の瞬発力だ。常人の目に映るものではない。
常軌を逸した速度で丘を駆け下りるジークフリート。
道に溢れる人々が必死になって逃げようとしているのが分かる。その頭上を、一足飛びに飛び越えて、家の屋根を蹴ってまた進む。
見据えるのは黒き竜。
翼を広げれば優に五〇メートルには達するだろうか。
この世界の文献に目を通した際に竜が存在することは知っていたが、そこで得た知識を元にすればこの竜の大きさは平均値を大きく上回っているようだ。
竜は空を悠然と舞いつつ、風を起こして荷車が舞っている。
地上で悲鳴が交錯した。
ジークフリートの目には竜が引き起こした災厄の在り様がありありと映っており、耳には恐怖する人の声が届く。
胸にふつふつと湧き上がる炎は義憤かあるいは竜との戦いを求める戦意か。
地上から光の筋が竜の表皮を叩く。自警団の誰かが竜を攻撃したのであろう。しかし、頑強な竜の身体にダメージを通すには魔法の矢ではあまりにも威力が低すぎた。逆に怒りを買い、その反撃を誘発するだけだ。
「チィ……!」
竜の口内に滾る炎。それはジークフリートの身の内に宿るそれとは異なる本物の火炎。
比喩でもなんでもない。
「させん!」
ジークフリートは虚空より一振りの剣を呼び出した。
彼の愛剣にして竜を殺した至高の聖剣。
輝ける幻想の結晶は主の魔力に呼応して淡く光を放つ。
真名の解放には及ぶまい。
振るう一閃。
それは凝縮した魔力を以て圧倒的な剣圧となって黒き竜の頭を打つ。
ご、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおんんん……
頭を強かに打たれた竜は、狙いを大きく逸らして息吹を吐いた。
炎は彼方に飛んでいく。幸い、誰もいない無人の地に着弾して爆発した。
間に合ったことに安堵しつつ、ジークフリートは竜の横暴によって更地と化した商店街跡に降り立った。
腰を抜かした自警団の団員が三名、ジークフリートを唖然とした表情で見上げている。
「無事、なようだな」
頬は煤けているが、大きな怪我はなさそうだ。
「あんたは、確かアルフ爺さんとこの居候……」
「ああ、そうだ」
ジークフリートは頷いた。
「この竜は俺が仕留めよう。貴方がたは下がっていてくれ」
「は? ま、待ってくれ。こいつはそんじょそこらの竜じゃない。黒竜の突然変異体だ」
「詳しいことは知らんが、問題ないだろう」
振り向き様にジークフリートは剣を振り抜く。
その剣の圧で黒竜は押し戻される。
「すぐに終らせる」
今の一撃で黒竜はジークフリートの脅威を肌で感じたのだろう。すでに尻込みしている。そこは生物としての勘が働いたところだろうか。
防衛本能がそうさせるのか。
黒竜の口には二撃目となる火炎が装填されている。
ジークフリートは今度は剣を背後に振るう。発生した衝撃波が及び腰の三人の自警団員を弾き飛ばした。魔法使いは常時拳銃弾を弾けるだけの強度のある魔法障壁を張っているから、このくらいならば問題あるまい。問題があるとすれば、今まさに解き放たれそうになっている息吹のほうだが。
炎が撃ち落される。
爆炎がジークフリートのいた場所を吹き飛ばす。衝撃と熱が四方を駆け抜け、家々を半壊させた。
無論――――竜殺しの大英雄たるジークフリートがこの程度の炎で焼け死ぬはずもない。
炎が直撃する直前、竜の頭上にまで跳び上がったジークフリートは己が大剣を竜の脳天に向けて突き込んだ。
「貰い物の衣服を汚すわけにもいかんのでな。お前の全力を受け止めてやることはできん」
断末魔の咆哮を上げる間もなく、黒竜は脱力して地に墜ちた。
強大な生命力を有する黒竜も、脳を破壊されては命を繋ぐことは不可能だ。
魔法障壁すらも軽く斬り裂いて、幻想大剣はその命を奪い去った。