少女は龍と舞う   作:ぽぽぽ

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第9話

 

 葵にとっては、いつも通りの1日の筈であった。

 普段と同じように学校を終え、龍太郎にもっと美味しいものを食べさせてあげようと本屋で料理本を立ち読みして、でも龍太郎ってオニギリ以外食べるのかしら、と考え、それから商店街の人達に挨拶しながら帰る。

 

 

 葵は、家に戻ったら、と帰宅中いつも考えていた。

 

 龍が来るまでは、吉川とお茶をしたり本を読んだりする日が続いていた。

 でも今は、帰ったらまず龍太郎を一撫でするのが恒例で、楽しみになっていた。綺麗な鱗を手で一つ一つしっかりと確かめながら撫でて、あの純粋な瞳に向けて笑いかけることが、何よりも楽しみであった。

 そうして終わる1日を、葵はいつも期待していたのだ。

 

 

 だが、この日は違った。

 家に向かう途中で空に上がった黒煙を見て、いつも通りの1日とはいかないと、直感的に分かってしまった。

 

 黒煙は禍々しく空に昇っていき、無機質な感情をそのまま映しているようで、怖かった。

 

 ……まさかね。

 

 葵は自分に問う。

 遠目に見えるあの煙は自分の家から出ているものじゃない、と何度も言い聞かせる。そうしないと、心がもたなかった。

 

 自然と足は速まっていって、早歩きから気付いたら小走りになって、ついには汗をかきながら走り出す自分がいた。鞄に入ったペンケースがカチャカチャと音を立て、それと同時に鼓動が激しくなっていく。

 不安で心が一杯だった。

 

 

 

 魔物。闘い。

 

 清麿が言っていた言葉が唐突に胸に過る。

 龍太郎は、魔物だ。だからこそ、闘いに巻き込まれる時はくる。覚悟、と言うほどははっきりした意思はなくとも、そんな時が来るだろうな、と漠然とした不安だけはあった。ある程度、心の準備はしている筈だった。

 

 だけど。それでも。

 

 

 

 

 ……嫌だよ。龍太郎。

 

 

 

 葵は掌をぎゅっと握り混んで、どうしようもなくなって、家まで全力で走った。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

 

 葵が家に着くと、そこはもはやいつもの場所ではなくなっていた。門は破壊され、芝生は焼け付き、火薬の臭いが蔓延している。

 

 胃痛のような気持ち悪さは葵の胸を圧迫していった。辺りを見渡す度に、神経を引っ張られるような不快感が襲う。

 

 清麿とガッシュはボロボロになっていて、吉川さんは足を怪我している。

 

 

 そして、龍は、脅えた表情を浮かべていた。

 

 葵の胸は更に締め付けられるように痛くなって、涙が出そうだった。いつもの風景でないという事実は、こんなにも人の心を掻き乱すのか、と辛くて仕方なかった。

 

 葵は魔本の入ったカバンをぎゅっと両手でかかえる。

 

 

「ふふ、おやおや、貴女がこの家の娘なんですか」

 

 中性的な顔立ちをした子供が、不気味な笑みと共にそう訊ねてきた。背筋が凍るような恐怖を感じた。頬まで引き上げられた口角は鋭利に尖っていて、禍々しい。

 

 これが、魔物なんだろう。

 龍太郎とも、ガッシュとも違う。本当に魔を背中に背負っているような、嫌な圧を纏っていた。

 

 

 

「……何が起こっているかって? 見ての通り、闘いですよ」

 

 

 そう呟きながらゾフィスはゆっくりと前進して、葵に近付く。葵は身体を強張らせて、ひ、と小さく悲鳴を上げた。

 

 

 怖かった。

 怖くて怖くて仕方がなかった。

 日常では誰にも向けられることのない明確な敵意が自分に放たれていることが恐ろしくて、脚が震えている。自分が立つ場所が分からなくなるくらいに振幅の大きい地震が身体を襲っているようで、常に視界が揺れているような感覚がしている。

 

 

「……本を持っているのは、貴女ですか? 」

 

 

 そう尋ねられ、葵は反射的に鞄を両手で守るように抱えた。

 

 その動作を見て、ゾフィスは再び笑みを浮かべる。葵の行動は、正解を口走ってしまったようなものだった。

 

 

「ザケルガ!!」

「おっと」

 

 

 横から、まるで飛び出す槍のような勢いで雷が走る。それを、ゾフィスは簡単に避けた。

 

 

「橘! 逃げろ!」

「で、でも……」

「ここは私達がなんとかするのだ……!」

 

 

 ボロボロになっているガッシュと清麿が立ち上がって、ゾフィスに対抗しようとする。

 

 

「……出来ると思いますか?」

「……くっ!」

「ラドム」

 

 ココの口からまた冷徹に呪文が唱えられ、ガッシュへと向かっていく。避けたとしても大きな爆発を伴うその技は、確実にガッシュの体力を削っていた。

 芝生に直撃した呪文は大きな爆音を立てて、地面を削った。

 

 

 やめて、と葵は泣きそうな声で小さく言った。

 これ以上自分の世界を壊されるのは、見ていられなかった。

 

「ふふふ。龍の魔本を持った貴女を、逃がすわけにはいきませんね」

「もしかして、あの子の心を弄くればパートナーに出来るのかしら」

「そうかもしれないね」

 

 

 

 ゾフィスとそのパートナーは、笑っていた。

 葵と吉川が感じたことのない笑みだ。

 笑みが、人をこんなにも恐怖に陥れることが出来るだなんて、彼女達は知らなかった。

 

 

「ふふ、貴女、今は本を読めないでしょう? 私に任せて下さい。そしたら、貴女をあの龍のパートナーにしてあげましょう」

 

 

 違う。

 葵は決して、そんな形で龍とパートナーと成りたかった訳ではない。

 吉川の体が、急に震えた。

 葵がどれだけ本気で龍を想っているかを知っていた。例え知り合ってからの時間が短くても、葵はあの龍が大好きだったのは、吉川にはよく分かった。だから、葵と龍の関係をぐちゃぐちゃにしようとしているゾフィスの行動は、許してはならなかった。

 平然と心を弄くるといった彼等は、きっと顔色一つ変えずにそれをやりきるだろう。

 脳裏に、葵が自分の名前を呼ぶ声が響く。

 幼い葵が、助けてと自分に言っている気がした。

 

 

 

「お、お穣様! 」

 

 

 最悪のイメージが想像出来てしまうのが、恐ろしかった。

 

 

 

「逃げて! お願い! お願いです! 本を!! 捨てて! 」

 

 

 

 だから、吉川はそう言うしかなかった。

 

 それは、吉川の本気の声だったのだろう。

 だからこそ、葵にはっきりその言葉が届いた。

 本を捨てて、という意味は、龍太郎を見捨てろ、ということなんだと。

 

 吉川にとってはやっぱり葵のことが一番大切で、だから、龍が居なくなることもとてもとても悲しいし、葵が悲しむのも分かるけれど、それでも見捨てろと、そういう悩みに悩んだ声だということが、葵にはしっかり伝わった。

 

 龍太郎は悪くない。

 悪いのは、こうして人を襲う魔物と、この闘いが存在することだ。

 でも、あの魔物も、この闘いも終わらせることが出来ないのならば、龍太郎には犠牲になってもらうしかないのだ。

 

 清麿は、その真意を汲んだからか、苦しそうな顔をして、頷く。

 

 

「……ティオ! 葵殿を連れて遠くへ逃げるのだ!」

「で、でも、ガッシュと清麿は!? 」

「私達は後からどうにでもなる! 葵殿をゾフィスに渡してはならぬ! 」

 

 

 吉川の気持ちは、当然ガッシュにも届いていた。

 ガッシュはそれでも、葵に本を捨てろとは言えなかった。だから、葵をどうにかして逃がすしかなかった。

 

 ティオが飛び出し、葵の元に行こうとする。だが、それをゾフィスは簡単にはさせてくれない。

 

 

「……っ! 橘ぁ! 本を捨てろ! それさえなければあいつらの目的はない! 」

「お嬢様! お願い! はやく!! 」

「葵殿! 逃げるのだ! 」

 

 

 三人の声が、葵に届く。

 

 それぞれが、葵のためを想って真剣に言ってくれているのだ。

 

 

 

 

(……本を、捨てる……)

 

 

 頭には様々な思考が巡った。この一瞬だけ時間が止まったような感覚すらあった。

 敵の目的は龍太郎で、この本さえ燃やしてしまえば、あの二人はここからいなくなってくれるかもしれない。

 少なくとも、もう私や吉川さんを狙う理由はない。

 上手くいけばガッシュ達も見逃してもらえるかもしれない。

 だから、本を捨てたら……。

 

 

 

(でも、でも、そうしたら……)

 

 

 

 

 葵は、自分の掌にある魔本を見つめたあと、ゆっくりと龍を振り返っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 龍の瞳は、とても、悲しくて、寂しい瞳だった。

 

 

 

 

 

 葵の心が一気に渦巻いた。

 逃げて、いいのか。

 龍太郎はそれで、幸せになれるのか。

 龍太郎のあの顔を、私は見逃していいのか。

 

 私は龍太郎の何でもない。

 分かっている。分かっていた。

 本も読めない自分に。

 私に出来ることなんてなんにもない。

 

 

 

 それでも。

 

 

 それでも、龍太郎のために。

 

 私はーー。

 

 

 

 

 

 

 

 葵は、駆け出した。

 後ろを向かず、脇目も振らず、そのまま、真っ直ぐ真っ直ぐ進んだ。

 

 制止を呼び掛ける周りの声が聞こえる。でも、葵はそれでも、走った。

 

 

 

 爆発の呪文が飛んできた。足元に来たそれを本当にギリギリで転がりながら避けて、葵は龍の元へと向かった。

 制服が泥だらけのことなんて、まったく気に掛からなかった。

 

 

 

 

 なんとか葵は龍の側に近付いた。

 

 龍太郎の瞳には、まだ、寂しさが宿っている。悲しさが宿っている。

 

 

 

 

 

 だから葵は、龍太郎の頭を抱き締めるように覆い被さった。

 

 

 

 

 

 

 分かっていた。馬鹿な行動だと。

 それでも、そうせずには、いられなかった。

 後から皆がどれだけ怒るかも知っている。いや、自分はこれで皆に怒られることすらなくなる可能性すらある。

 でも、龍太郎の元に、来てあげなくては駄目だった。言ってあげなくては駄目だった。

 

 

 

 

 

 

「龍太郎。大丈夫。大丈夫だよ」

 

 

 葵は、笑顔でそう言った。

 それは、いつか自分が言って欲しかった言葉だ。一人でどうしようもない時、そう言って欲しいと想っていた言葉だ。

 擦りむいた膝から血が出ていたが、葵はずっと笑顔だった。

 

 

 龍は、その恐怖に満ちた眼を葵に向ける。

 

 宝石のように綺麗な瞳の奥に、笑った葵がしっかりと映っている。

 

 

 

 

 

「一人じゃないよ。私は、側にいるから」

 

 

 

 

 龍を抱く力を、そっと強める。宥めるように、癒すように、笑って伝える。

 

 

 

「寂しかったよね。ずっとずっと一人っきりで、怖かったよね」

 

 

 葵は、龍が千年前の魔物だとは知らない。

 

 でも、龍がずっと一人きりだったことは、何となく気付いていた。どうしようもないくらい長い間一人でいたことを、知っていた。

 それでもどうにか踏ん張ってここに来たということを、知っていた。

 

 

「ね、龍太郎。この家に来たのは、何か用があったんでしょ? 会いたい人が、ここにいたんでしょ? 私には、詳しいことは分からないけど、大丈夫だよ」

 

 

 

 黒煙の下で、葵は龍に伝えていた。

 せめて龍太郎が寂しさに悲しまないようにと祈りながら、誓いながら。

 

 

 

「一人にはさせないから。これで終わりになんて、絶対にさせないから。だって私は、龍太郎の、パートナーだもん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「茶番は終わりましたか?」

 

 

 ゾフィスの冷たい言葉が、ツンと響いた。

 葵が龍と対話している間、ガッシュと清麿が時間を稼いでくれたのだろう。そうとう体を張ったのか、二人の傷は更に増えていた。

 

 

「もういいでしょう。どうせ素直には従ってくれそうにないので、少し痛い目にあってもらいますか。……ココ」

「ギガノラドム」

 

 

 今までよりもずっと大きな光が本から放たれ、ゾフィスの手からは人一人を丸ごと呑み込めるほどの漆黒の球体が飛び出す。

 それが危険だということは、誰の目から見ても明らかであった。

 

 

「避けろ! 避けろーーー!」

 

 

 

 

 清麿の叫びとは裏腹に、葵は前に出た。

 身体を張って、龍を守ろうとしたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 大きな爆音が鳴った。

 風が辺りを無茶苦茶に掻き乱し、煙はもやもやと漂う。

 吉川は口許を手で押え、ティオは顔を逸らすようにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……龍、太郎? 」

 

 

 

 煙が晴れた時、葵は、無傷だった。

 

 

 龍が起き上がり、自らの尾で葵を守ってくれていたのだ。

 

 

 

 

「……っ! 」

 

 

 

 

 ゾフィスは、圧倒的なプレッシャーを身体に感じた。まるで大気までもがその圧に畏れているように、震えている。

 

 龍の瞳は力強く、そして、怒りに満ち溢れていた。

 

 

 清麿も、ガッシュも、ティオも。葵以外の全員がその力に怯えた。

 

 龍はゆっくりと体を起こす。

 それから、天に向かって全力で吼えた。

 

 

 

 ゾフィスは触れてしまったのだ。

 龍の逆鱗に。

 

 

 

 


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