「ねぇ、吉川さん」
「何でしょうか」
二人の視線は、同じものに向かっていた。どちらもそれから目を離すことが出来ずにいて、少しの沈黙の間にもお互いに様々なことを考えているのが分かる。しかし、二人ともまだこの時点では頭の中は整理出来ていないだろう。
「……これ、なに?」
ついに、落ちてきたそれを指差して、葵が尋ねた。吉川が、ゆっくりと頷いてから、それに応える。
「蛇ですかね」
「蛇に手足はないでしょ」
吉川は、ですよね、と言いたげに息を吐く。
「なら、トカゲです」
「こんな大きなトカゲいるわけない」
また吉川が頷く。自分でも、そんなことは分かっている。しかし、そうであって欲しいという願いを込めた聞き方であったが、葵ははっきりと否定した。
「……それでは、お嬢様は何に見えるんですか」
「笑わない? 」
「おそらく」
葵は一度空を見た。先程までは夕暮れであったのに、今は少し暗くなり始めている。それでも、まだそれの銀色の鱗から、夕陽の光が照り返えっていた。
もう何度目になるか分からないが、葵は再び降ってきたそれを見て、小さな声で呟く。
「……龍」
「……龍、ですか」
「でも、そうにしか見えない」
吉川も、これが蛇やトカゲではないことは分かっている。それどころか、現実ではあり得ないような生き物であることもしっかりと認識していた。しかしそれでも、この現実を簡単には認めてしまいたくなかった。今までの常識というものが、崩れていく気がしたのだ。
吉川は顎に手を当てて、再び注視するようにそれを見る。
橘家の庭に大きなクレーターを作ったそれは、大きく、長く、そしてどこか神々しさすらあった。
ワニのような頭部は、厳ついようであって、ニョロリと伸びる髭によって知的さもある。身体は蛇のように長く伸びていて、魚の背鰭のように沿って生えるエメラルドグリーンの毛は、天然では目に出来ないような美しい色に見えた。その胴から、身体に比べたら小さめのトカゲのような手足が生えているが、アンバランスさを感じなかった。銀色の鱗は一つ一つが職人が拵えたような上品さを持っていて、ずっと見ていたくなる気持ちになる。
「……確かに。確かに近いかもしれませんね」
吉川は、明確には応えなかったが、それでも葵の意見に賛成しているような言い方をした。
「……それで、どうしようか、これ」
「……どうしましょうか」
強盗などの侵入者が現れた時のマニュアルはある。しかし、龍が降ってきた時の対処方など、二人に分かる訳がなかった。
「まず、生きているのですかね」
「……どうだろう」
龍は、落ちてきてからずっと動いていなかった。Sの字を描くかのように横たわり、瞳はずっと閉じている。
吉川からしたら、龍には悪いが、生きていない方が楽だと思った。何かの刺激で龍が起きて、ここで暴れたりしたら、どうしようも出来ない。
「あ、髭が動いた。生きてるよ」
しかし、吉川の希望は叶わなかったようだ。葵は龍の鼻の下にある髭を指差していて、それは龍の鼻息によって確かにひょろりと動いている。身体は石のように動いていないが、息はしている。寝ているだけか、空から落ちた衝撃で気絶でもしているのか。
吉川は、今後について思考を纏めようとしていた。
まず、これはどこに連絡したら対処してくれるのだろうか。警察か、動物愛護団体か、自衛隊か。どれにしても大きな騒ぎになることが火を見るより明らかで、その後の対応を考えたら頭が痛かった。
「……うーん。タツヒコ、はちょっとなぁ。タツロウはなんか普通っぽいし……。リュウタ、いや、違うな……」
「……あの、お嬢様? 」
吉川の悩みとは全く違う方向で悩んでいる葵を見て、それがまた吉川の悩みとなりそうだった。
「吉川さん、名前、何がいいかな」
「……まさかと思いますが、一応尋ねさせてもらいます。どういうつもりでお名前を付けようとしているのですか? 」
「え? だって飼うのにも名前がないと不便でしょ? 」
当然そうに言い切った葵に、吉川はがっかりとした息を吐いた。
「我が家で飼えるわけないでしょう」
「だって、住む場所はあるでしょ? 庭もこれだけ広いし、塀も高いから他の人に見られる可能性も少ないよ。いやぁ、私、初めて家が広くて良かったと思ったよ」
「そういう問題ではありません。危険だ、と言いたいのです」
「大丈夫だよ。私、何となくだけど、この子と仲良くなれる気がする」
確信があるといった顔をしながら、葵は龍を見つめた。
葵は、動物に好かれやすい。いつか、モチノキ動物園から狂暴なライオンが逃げ出した時、たまたまそれがこの家に侵入してきたのだが、葵にだけは異常になついた。排除しようとする吉川の銃を下げさせて、凶悪な顔をしたライオンを撫でる葵は、ドキュメンタリー映画の一部分を切り取った絵になっていた。
しかし、だからと言っても、吉川はそれを許可出来る筈がなかった。
「駄目です」
強く言った吉川を見て、葵は、えー、と不満そうな声を出した。
「……それじゃあ、どうするの? 」
「……仕方ありません。ある人に連絡してみます」
本当に仕方ないのですが、と珍しく嫌そうな表情を顕にしながら吉川は言った。
「ある人? 」
「昔の知り合いで、とても物知りな人がいます。自称ですが、何でも知ってる博士と名乗っているので、もしかすると今回のことも何かアドバイスをくれるかもしれません」
「凄い人なの? 」
「凄い、と言われれば凄いのですが、如何せん性格の方が厄介でして」
吉川がそこまで言うのは稀である。それに、吉川の昔の知り合いというのも気になる。葵は、その人物に興味を抱き出していた。
「お調子者なのです。いい年なのに。人をおちょくるのが好きで、癇に触る嫌がらせをしてきます。少し前までは相当落ち込んでいたのですが、最近になってまた連絡が来ていまして」
「好かれてるってことじゃん」
「あんな老人に好かれても……。大体、何がマジョスティック・トゥエルブですか。そんな意味不明なものに誘うためにわざわざ電話してくるなんて本当に……。いえ、すみません。私情を話すぎましたね」
吉川がここまで自分のことを話すのは、久しぶりであった。
葵には、その老人が吉川をいじる気持ちが少し分かる。冷静そうな吉川がたまに見せる別の表情は、そのギャップによってどこか面白いのだ。葵は、その老人に会ってみたくなった。
「とりあえず、私はその人に連絡をしてきます。……お嬢様、屋敷に戻りましょう」
「……うん」
吉川が先導するようにして玄関に向かっていく。葵はその後ろについて、家に入る直前に振り返って、龍をもう一度見つめていた。
○
「ま、抜け出すよね」
葵はそろりそろりと再び玄関から家を出て、一人で呟いた。吉川が、例の博士の連絡先を探している間に、見つからないように部屋を出てここまで来たのだ。
空はすでに暗くなっていた。真ん丸な月が出ている。
葵は龍を見た。銀色の鱗が、今度は月光を反射している。綺麗だなぁ、と葵はたまらずに声を出していた。
ゆっくりと、龍に近付いていった。先程までと全く変わらない体勢である。これだけ動きが少ないと、この龍が本当に無事なのかということも気になった。
身体の方を見てみる。傷一つなかった。あれだけ高いところから落ちてきたのに、精々土がついてるくらいだ。相当硬い鱗なんだろう。
もっと近付いてみた。龍の顔の側にまで行ってみる。葵など、一口で食べてしまいそうな大きさの口だった。吉川が心配するのが、よく分かる。
しかし、それでも、葵はこの龍が気になって仕方なかった。見た瞬間から、ずっと胸が高鳴っていた。
新しい生き物を見た興奮、というものではなかった。理由は分からないが、身体の芯から熱くなるよう感覚がしたのだ。この龍とは仲良くなれると、本気で思ったのだ。
「……うん。やっぱりこれかな」
葵が手を伸ばして、龍の鼻を撫でるようにして触る。摩擦が少なく、掌には心地よい冷たさが残った。
「『龍太郎』、でもいい? 」
尋ねるように聞いたその時に、龍は瞳を開けた。
葵は思わず驚いて、大きく仰け反ってしまった。龍の瞳の中に、葵の姿が映っているのが見えた。
きゅうう、という弱々しい音がした。龍にしては可愛らしい鳴き声であった。龍は鼻を葵にぶつけるようにして、ふんすふんすと鼻息を鳴らす。葵の匂いを嗅いでいるようだった。葵は冷たい鼻にくすぐったい感触を感じながら、身体を押される。嫌悪感を覚えることはなかった。
しばらくまさぐるように葵に鼻を押し当てた後、龍はもう一度きゅうう、とか細い声を出してから、瞳を再び閉じてしまった。
「……え? ねぇ。起きてよ龍太郎。ねぇってば」
一度接触したことから、元々少なかった龍に対する警戒心を無くした葵は、揺さぶるように龍の胴を触った。龍に動きはなく、葵にされるがままだった。
「ねぇってば」
「葵お嬢様」
ぴしゃりとした声がした。振り向けば、鋭い目をした吉川がいた。勝手に龍に接触したことに、やはり怒っているようだ。
葵は、大人しく頭を下げて謝った。自分が悪いことは分かっていた。それでも近寄らずにはいられなかったと正直に応えた。
吉川は、心配させないで欲しい。自分をもっと大切に冷静に物事を見なさい、と恒例の説教を葵にした後、目の鋭さを普段通りに戻した。
「……まぁ、いいでしょう。あの人曰く、人に対していきなり襲いかかることはなさそうですし。だからと言って、お嬢様のしたことが許される訳ではないのですが」
「……ごめんなさい。でも、その博士。本当に龍のこと知ってたんだ」
「ええ。随分と詳しすぎるような気がしました」
龍に対して詳しいとは、どういうことなのだろうか。他にもこのような生き物がいて、博士はそれを知っている人なのだろうか。
葵は色々と考えてみるが、その博士という人物がどこまで知っているかは、はっきりと分からなかった。
「葵お嬢様。近くに、本は落ちてないですか? 」
「……本? なんで? 」
葵が頭を傾げると、吉川も今一理解出来ていない様子で話を続けた。
「どうやら、そういうものは、皆本を持ってるらしいです。詳しくは分からないのですが……」
龍が本を持つなど、聞いたことがなかった。しかし、何でも知ってる博士の言うことだ。本当にそういうものなのかもしれない。
龍の周りをぐるりと一周しながら、とりあえず本らしいものが落ちていないか探すと、確かに一冊の本が落ちていた。
真っ白の絵の具に、ちょっぴりの緑を混ぜた、抹茶ミルクに近い色をしている本が、龍の背中側にあった。
葵が手を伸ばしてそれをとる。吉川は葵が龍の近くに手を伸ばした瞬間に警戒心を放ったが、特に何事もなく本を手にできた。
「結構厚いし、大きい本だね」
パラパラと本を捲る。見たことのない文字が羅列してあった。外国の文字なのかもしれないが、少なくとも葵の知っていない文字であった。
「この本が、どうかしたの? 」
「葵お嬢様、あなたのクラスに高嶺 清麿という人はいますか? 」
「……いるけど、どうして? 」
質問には応えずに、急に全く関係のなさそうなクラスメイトの名前を出されて、葵は少し困惑してしまった。
「その本のことは、彼に聞け。と。あの人がそう言っていました」