ルイズ・フランソワーズは虚無のメイジである!
双月の異世界、ハルケギニアから魔法のゲートを通って恋人の祖国へと降り立ってもう結構な時が経つ。
異世界文化にも慣れた彼女は今、窮地に立たされていた。
――紙が無い!
平賀家のトイレの中で、ルイズは真っ青になっていた。
いや、別にお腹の調子が悪いとかじゃなくてね、紙がね、やわらか巻紙が無いの。英語で言うとトイレットペーパー。
ハルケギニアのトイレ文化をはるかに凌駕する技術大国日本が生み出した至宝が、まさか尽きていようとは。
あるにはあったよ? でもね、手のひらに収まる程度のサイズでね、これでどうしろっていうのよバカ。
ルイズはあせる。下半身丸出しであせる。
もう平賀の家にも慣れて、テレビやクーラーなんかも使いこなせるようになり、パーフェクトだと思っていたのに、まさかこんな失態を犯すとは。このままでは【レモネード】で濡れたままトイレを出なければならない。そんなのトリステイン貴族の矜持が許さないよ絶対に。
助けを呼ぶ――という選択肢はいくつかの理由で破棄された。
まず、才人のご家族に、こんな恥ずかしいことを頼む訳にはいかない。ダメな子って思われたらイヤだもん!
さらに言えば、お義父様は会社へ、お義母様は買い物に出かけてしまっている。お義母様、遅くなるって言ってた!
次に才人。恋人であり、お互いの恥ずかしいところも見せ合っている彼になら、あるいは頼んでもいいかもしれない。
才人の一般的ではない趣味というか性癖というか、そういうものをとある事情により記憶レベルで共有しているため、こんなことで才人が自分を嫌いになることはありえないとわかっている。むしろ喜ぶだろう。喜んでしまうだろう!
しかも、さらに、もしかしたら。
喜んでしまうのは才人だけではないのかも――しれない。
その禁断の扉を開ける勇気は、ルイズには無かった。
しかも、さらに、もうひとつ才人に頼れない理由がある。
才人は今!
学校に行っているのだ!!
……使い魔の召喚により、一年以上もハルケギニアで暮らすことになった才人は勉強が遅れに遅れており、留年だってしちゃっている。ルイズは才人を召喚したことにより留年をまぬがれたというのに!
そのため、学業に関して深い罪悪感を抱いている。自分のせいで才人にばかり負担をかけてしまい、お詫びにいっぱいサービスしちゃって上げちゃってるんだから、まあ、まあまあ、お釣りがくるレベルだろうし、才人がルイズに尽くしたっていいんじゃない? なんて思っちゃったりもするけどさ。学校にいるのに、わざわざ呼び出して、家のトイレまで紙を運ばせるって、どうよ。
ダメだ、頼れるのは自分だけ。
唇を噛み、ルイズは考える。
幸い、杖はどこに行くにしても持ち歩いている。トイレの中でもだ。
魔法でなんとかできないか? 偉大なる始祖ブリミルが残した虚無の魔法なら――。
だが、無い。
何も無い。
【レモネード】をしぼったばかりのヒミツの花園を綺麗にする魔法なんて無いのだ。
紙が無い。こんな致命的なミスを、お義母様がするだなんて。
少々自分勝手と承知しながらも、ルイズは恨んだ。才人を異世界に召喚し、うんと心配をかけさせてしまったにも関わらず、優しく許し受け入れてくれたお義母様を――恨んだ。
ああ、お義母様。どうしてやわらか巻紙をお忘れになられてしまったの?
ハルケギニアのアレでコレするより、ずっとやわらかくて快適で、ルイズはトイレのたびに天国気分だったのに!
どうしてこんなすばらしい物を忘れ――。
ハッと気づく。
そうだ。才人もお義母様も、やわらか巻紙のみに頼ってはいない。
メイン神器が他にあるのだと思い出した。
チラリと視線を落とした先には――スイッチ! ウォシュレットのスイッチがあった!
【ビデ】
これだ。これが勝利の鍵だ。
才人も言っていたじゃないか、やっぱりウォシュレットは最高だって。
だが――しかし――。
問題は、これをルイズが使えるのかという点。
無論、今やテレビもクーラーも使いこなすルイズだ。ウォシュレットの使い方くらい心得ている。
だが――しかし――。
実は今まで一度たりとも、ルイズは、この噴水の如きアイテムに身をゆだねたことはない。
だって、才人が使い方を説明する時にスイッチを押して、水がピューッて出たんだもの!
そりゃもう、こんな勢いでお尻に当たったらどうなるのって勢いでピューッて出たんだもの!
勢いよすぎてトイレから飛び出して、ルイズのお顔にかかっちゃったんだもの!
まだ才人にもかけられたことないのに!!
以来――ルイズはウォシュレットに恐怖を抱き、未だ、その恩恵にあずかったことはない。
だけれども。
今、技術大国日本が誇るやわらか巻紙が尽き果てた今、これに、神器に頼るしか道は無い。
信じていいのか?
やわらか巻紙を開発した技術大国日本だ、信じていい理由しかない。
後は! ルイズの勇気ひとつ!!
指を伸ばす――【ビデ】に!!
震える指先が、ついにそのスイッチに触れた。
触れ、触れて、撫で、撫でて……。
ダメ、押せない。
恐怖のあまりルイズの【ビデ】では無い方が縮こまる。
ああ、なんとも情けない姿。
なんとも無様な姿。
ウォシュレットに怯え、震える、ちっぽけな少女よ。
これがトリステイン貴族の姿が。
ヴァリエール公家の血を継ぐ者の姿か。
虚無の担い手の姿か。
そう――ルイズはわかっている、自分がどんなにちっぽけで、平坦で、ペチャンコな存在か。
偉ぶってみても、虚勢だなんて見え見えで、そんな時、支えてくれたのはいつだって才人だった。
才人、才人、ああ、才人。
愛する恋人のためにも、ルイズよ、【ビデ】を押せ。
押さなければ、今夜こそ才人と初めての【にゃんにゃん】をするという計画も崩れ去ってしまう!
もう何回も何回も、ハルケギニアにいた頃も含めたらもう二桁以上も【にゃんにゃん】しようとして失敗しているのに!
だからルイズよ、今こそありったけの勇気を振り絞れ。
レモンちゃんの【レモネード】を洗い流すべく、指に力を入れ――押せ。
「あっ――」
愛しいサイトへ。
あなたは今、遅れを取り戻すべく学校で勉学に励んでいることでしょう。
いつもいつも迷惑ばかりかけて、それでも、ついてきてくれてありがとう。
支えてくれて、抱きしめてくれてありがとう。
そんなあなたをねぎらいたくて、ううん、愛しくて、今日こそはと誓っていた。
でも、ごめんなさい。
ルイズ・フランソワーズは今、一足先に、天国のお花畑に至りました。
技術大国日本――バンザイ。
◆◆◆
「ただいまー」
学校から帰宅した才人が玄関の戸を開けると、その日もう六度目になるトイレから丁度出てきたルイズと鉢合わせになった。
トイレの戸を開けて廊下に出てきたところという恥ずかしいタイミングも相まって、ルイズは顔を真っ赤にしてしまう。
「おっ、おおおおひゃえりなしゃい!」
その日はなぜか気まずくなってしまい、またもや【にゃんにゃん】できないルイズちゃんであった。