――文化。それはどのような状況でも無くしたくはない。法律でも保障されているものだ。故に、そうした設備への投資は怠るべきではなく、惜しみなく行う必要がある。
それはどこでも、いつでも変わらない。
直樹 美紀
学園生活部における授業はほぼ座学で、ほとんどはゆきの幻想の中のものだがちゃんと慈が教鞭を取る場合がある。もちろん、宿題も出るし授業中の板書は必須。予習復習も出来る限りこなしておく必要がある。
全員が多忙故に週に二回、一時間半が授業の出来る限界だがあくまで学校の中に住んでいるという体裁を崩さないためにやめるわけにはいかなかった。
授業のレベルはゆきに合わせられているため、高校一年生のものが大半で高校三年生が習うものはあまりない。そういった応用的なものは悠里が自習という形で主に胡桃を対象に授業をしていた。
美紀と圭も入部後は授業を受けており、改めて学園生活部がこの状況下で日常を続けようとしているある種の凄まじさに驚いていた。
「――フランス革命は終わりを迎えました。ここまでで何か質問のある人?」
今日の授業は世界史で、フランス革命の付近を慈が教科書片手に話していた。素人丸出しな歴史家であるが、元々歴史関連の教師も考えていたので慈はちょっとだけ夢が叶ったようなものである。
教室にある机は五つだけで、生活部の全員が授業を受けていた。
それぞれの様子はゆきがちんぷんかんぷんといった顔でしきりに首を傾げており、悠里は穏やかな表情で板書を写すどころか速記レベルの速さでノートを纏めている。胡桃は退屈そうに、圭は教科書を見ているように見えて半分寝ているのか顔が随分と間抜けなことになっている。
残りの美紀はというと、悠里同様しっかりと授業を受けている。
このやる気の差はなんなのか。
「………………質問、無さそうね。じゃあ、来週は今日の範囲のテストをするから」
「えっ」
胡桃が露骨に嫌そうな顔をしたので慈は久々に教師らしい意地悪な顔をする。こういったことも大切だ。あくまでこれは“日常”を感じるためなのだから。
「それじゃあこの時間はおしまいね。日直の人ー」
「はーい!起立っ!」
世界史の時間を終わりにし、最後の挨拶を行おうと慈が呼びかければさっきまで眉間にしわを寄せていたゆきがバッと立ち上がって声を張る。授業が終わった途端にこれである。この反応だけは事件前後と何一つ変わらない。
「礼!」
「「「「「ありがとうございました」」」」」
「はい。じゃあ、しっかり予習復習するのよー」
荷物を纏めて慈が教室から出て行く。教壇から降りて、扉を開けて廊下に出れば、すぐに後ろからゆきたち五人の話し声が聞こえ始める。数は少なくても、そこにあるのはまさに女子高校生の日常。学園生活部最大の目的の一つは今でもしっかりと維持されている。
「ふぅ。さて、一度職員室に戻りましょうか」
慈ももちろん、日常を演じる。いつものように授業後は職員室へ。三階で授業をしていたので職員室はすぐそこだ。
ガラリと閉め切られた扉を開ければ、そこは既に荒れに荒れた室内。慈の席だけが何事もなかったかのように綺麗で浮いており、もうその光景に慣れた慈は何事もないかのように自身の椅子に座る。
教科書などをしまってから、授業の行程表をチェック。出席簿も漏れがないか確認し、宿題の提出の有無なども見る。
前回慈が授業を行った際に宿題を出したのは胡桃とゆきであったが、前者は最近本当に忙しかったので情状酌量の余地はあるがほぼやっておらず、後者はところどころ筆跡が違っている。
「(あぁ、また由紀ちゃんがやったのね)」
時折ある、ゆきが寝落ちしてから由紀が1〜2問だけ答えているという奇妙な出来事。ゆきの筆跡が幼く丸いのに対し、由紀は非常に綺麗である。書道もやらされていたのだろうか。
しかも、答えに関してもゆきは間違いが多く、由紀は全問正解である。それは事件前の由紀がわざと補習を受けようとしていたことの証左にほかならない。
論述問題もしっかりと正解しており、本当は相当に頭がいいということが慈はわかる。それこそ、由紀が本気で物事にあたったら解決出来ないものはないかのような。事実として、由紀の判断能力が高いと伺わせることが数度、密会の中であった。
「ん〜。そろそろ事件前のことも聞いでおくべきかしら」
丈槍という家については本当に何もわかっていない。一体どういう系統の富豪で、何をして、どう財をなしたのか。そもそも丈槍という名前に由来する企業を慈は見た事が無く、事件前はどうにか由紀のカウンセリングという形で家庭訪問をしたかったところだが許可を得られそうになかった。
金持ちの家だから、後ろ盾の無い私立巡ヶ丘学院高校は極力関わりたくなかったというのが慈の見解だが、本当にそれだけだったのか。未だに尽きない謎である。
ただ、無理に聞くのは危険だ。由紀の様子からして教育虐待を受けていた可能性が濃厚だ。変に心の傷をつついて状況を悪くするのはマズイ。出来れば今後の調査や情報収集では丈槍家について調べて行きたいところである。
由紀の実家についてはゆっくり進めて行くべきだと慈は思い、考えをそこまでにした。
「次は…………って、もう今日の授業はないわね」
次の時間の準備をしようかと慈は立ち上がったが、すぐに今日の授業は一コマだけで終わりなのを思い出し、再び席に座る。授業がなければ日中は巡ヶ丘について調べなくてはならないので、図書館に行こうと慈は気持ちを切り替えた。
が、そんな彼女の背後でガシャッガンッ!勢い良く職員室の扉が開いた。
「わひゃ!?」
「めぐねぇ!次の時間の授業だ!」
現れたのはジャージを羽織って体操服姿の胡桃だった。
「く、くるみさん?どうしたの?それに次の時間の授業なんて今日はないよ………?」
「四の五の言わずにこれ着て職員室前の休憩所に来てくれよ!」
そう言って胡桃が差し出したのは購買部で販売されている体操服だった。しかも未開封の新品である。有無を言わさずにそれを手渡された慈は呆然と椅子に座っている。
「じゃ!待ってるからな!」
再び勢いよく扉が閉められ、今度は引き戸の割れた窓ガラスの破片が床に落ちて音を立てる。扉の向こう側、つまり廊下の方から「あっ、いっけね」「くるみ?色々と雑よ?」などといった声が聞こえてくる。
状況が呑み込めないが、胡桃に着ろと手渡された体操着に慈は目を落とし、肩を落とす。あの様子では廊下の外に生徒たちがいる。この短時間で何があったのか知らないが、ここは体操服を着てあげるべきだろうか。慈は諦めて、体操着の封を切った。
「よぉーし。全員そろったな!横列に並べ!」
と、元気よく言ったのは胡桃である。彼女は何故かいつものスコップではなくどこから取り出したのか竹刀を手に持っている。そんな彼女の前には体操服に着替えた慈を含む学園生活部の五人。言われた通りに彼女らは横1列に並んだ。
「えへへ、めぐねぇ。体操服着ても似合ってるね」
「…………ゆきさん、それは喜べないんだけど」
慈は体操服を着た自らの姿を見下ろす。悲しい事に、違和感があまりない。長い髪の毛もポニーテールにしているせいか、余計に見た目は学生のそれである。先生の威厳なんてものは見事に破壊されている。
ゆきは同じ体操服姿のためかいつもより慈にべったりであり、その様はまるで先輩後輩のようだ。
その様を見て、悠里はあらあらと微笑ましく見守っており圭と美紀は苦笑いである。そんな五人を見て、胡桃がリノリウムの床に竹刀を叩き付けた。その音が何故かバシンッという軽い音ではなく、金属の棒を叩き付けたかのような鈍い音だったので、全員が固まった。
「これから授業をしようってのになんだぁ?その態度は?いいかっ!運動を、体育をする時はな!スポーツマンシップに則って清々しく、さわやかに――」
胡桃によるなんだかよくわからない演説が始まってしまい、悠里はため息をついた。ちょっと痛い子なところがある胡桃の妙な演説癖はわかっていたが、ここで発揮されるとは思ってもみなかった。というより、なんで熱血教師のような様子なのか。
演説を聞き流しつつ、悠里はこの状況になった時の事を思い返す。
――なんかつまんないよぉ。身体動かしたいー。
――ん?今、身体動かしたいって言ったよな?
発端は圭の一言である。あそこまでガッツリ授業を受けるとは彼女も思っていなかったのか、ちょっと授業がつまらなかったらしい。慈の授業はいたって普通の山もなければオチもないわかりやすい授業である。その後の会話で美紀が暴露したのは圭の世界史などの授業の成績はすこぶる悪く、俗にいう優等生だった悠里が愕然とするレベルだったのだ。
その圭が言った一言が胡桃に聞かれると、あっという間に体操服に着替えた胡桃が「じゃあ、私が体育の授業をやってやる」とやる気満々でのたまったのである。
確かに、陸上部三年の恵飛須沢と言えばそれなりに優秀な選手だと面識のない生徒でも一度は名前を聞いた事があったらしく、事件前は情報通で交友関係も広そうな圭が「マジですか!?」と面白そうに反応していた。頷いていた胡桃が何故か悪い笑みを浮かべていたので、この時点で何かがおかしいと気がつくべきだったのかもしれない。
そして、慈を生徒扱いするという立場を逆転させての授業は今ここに開始されたのだ。
「――というわけでまずは準備体操してからランニング五往復の後に、シャトルランを十セット!」
「えー」
「ゆき、文句は圭に言えよ。というか、前々からトレーニングはしようと思ってたんだ。りーさんがちょっと前に言ってたからな」
「え?」
唐突に名前を呼ばれてちょっと間抜けな声を出してしまった有利だったが、胡桃の言う事を思い出そうと軽く記憶を掘り起こそうとする。霞んでいる記憶の中にかろうじで該当することが思い出され「あぁ……」といった顔を悠里はした。
「でも、りーさんってすごい力持ちだよね」
「そうなの?ゆきさん」
「うん。だってわたしも持てないような大荷物とか軽々持ったりとかー」
ゆきの言う事は本当で、単純なパワーなら実は悠里は学園生活部で抜きん出ている。特に二の腕の力は胡桃もスイッチを入れてようやく五分という有様で、それを後に聞いた美紀が内心、
「(これがNOUMIN……いや、ENGEIBUなのかな)」
と、冗談めいたことを思ったりもしていた。
「へー。じゃあ、りーさんはどれぐらいのものなら持ち上げられますか?」
圭が好奇心でそう聞くと、悠里は「そうねぇ」と良いながら慈の後ろに立った。
「ゆうりさん?」
「佐倉先生、ちょっと失礼します」
「ひゃっ!?」
一言断ってから、ひょいっと慈の腋に手を通して彼女を持ち上げた。その様子に全員が目を点にした。まさか人間を軽々と持ち上げるほどの力があったとは誰も思っていなかった。
ゆっくりと慈を降ろした悠里は周囲が固まっていることに首を傾げている。
「どうしたの?」
「あ、いや。腕相撲であたしが勝てないのも納得だな、と」
思わず一人称が戻るほどに驚いた胡桃はそう言って誤摩化すように笑いながら「準備運動すっぞ」と意識を切り替えた。
約二時間後。胡桃による体育という名のスパルタトレーニングは終わりを迎えた。胡桃を除く部員全員が汗だくな上に肩で息をして休憩所の椅子に座っている。
その中で、特にゆきはよほど疲れたのか慈に寄りかかっている。
「めぐねぇー………つかれたよ〜」
「ゆきさん、ちょっと暑い…………」
汗だくな二人を見てやり過ぎたか、と胡桃は思ったが何かあった時に一番逃がさなくてはいけない対象のため体力は一番つけて欲しいのだ。なので致し方ないと思い、気にしないことにした。
「胡桃せんぱーい。ベットベトなんですけど、シャワー浴びたい」
「あぁ。浴びてこい。(意外と平気そうだな。美紀と圭は)」
美紀と圭は汗こそかいているが慈とゆきほど疲れ果ててはいない。そういえば、モール暮らしをしていた頃の二人はゾンビ共との交戦経験や探索をする程度には身体を動かしていたと胡桃は聞いていた。数が多いゾンビたち相手にその優位を崩すには素早さと一撃必殺が重要だ。
その点で言えば、美紀は身のこなしが素早く急所を突くことに慣れており、圭はそんな美紀のために周囲の状況をしっかりと判断出来る頭脳役である。美紀に追従出来る程度には動けるのだろう。
「めぐねぇ〜お風呂入りたいよー」
「えっと、シャワーしかないからそれは………」
圭と美紀がベンチから立ち上がった時に、顔を慈の腕にすりすりしてそうごねるゆきの姿があった。慈は疲れているためか若干生返事だ。我が侭を言うゆきに悠里が慈とは反対側に座り、宥めるようにゆきの手をとった。
「ゆきちゃん?我が侭言っちゃだめでしょ?学園生活部のために施設を使わせてもらってるし、シャワーだけでも感謝しないと」
「えー…………」
ぶーたれるゆきをよしよし、と頭を撫でて誤摩化す悠里。最近の変調はともかく、元から悠里は慈の次にゆきの扱いが上手いのだ。彼女にこの場は任せるとしよう。
「んじゃ、全員シャワールームに行くぞー」
胡桃がそう言ってシャワールームのあるほうへと歩き出すが、圭が何故か声を上げて待ったを出した。
「胡桃先輩!ちょっと……………」
「あんだよ?」
勢い良く立ち上がって、そのまま一足飛びに胡桃に接近した圭は胡桃の腕を引っ掴んで学園生活部の部室がある方の角に隠れた。
「なんだよ急に。暑いぞ」
「いや、そういえばなーと思い出したことがあって」
「何を?」
「確か、部活棟に運動部用のお風呂場ありましたよね。無駄に豪華な」
「……………………あっ」
耳元で伝えられた内容に胡桃はハッとした。そういえばあったなと、そんなものが。
巡ヶ丘高校の敷地はそれなりに長い歴史があるせいか広く、校舎裏には大きな体育館と様々な屋内外の部活用の部活棟も存在する。その部活棟には運動部の部員のみに使用を許された温泉のような造りの風呂場があり、胡桃は今のいままでその存在を忘れていた。
「そういえばあったな。すっかり忘れてた」
「先輩はシャワー派ですか?」
「いや、そうでもないが一応水を節約しようという意識がな。いくら浄水施設があるとはいえ万が一の事態が怖かった」
「なるほど」
「んで?それをどうするんだ?」
「………ちょっと、見てきましょうよ。使えるかどうか」
「マジで?」
これまでは学校の校舎だけを探索、制圧してきたためそれ以外の施設は胡桃を含め初期メンバー全員、気にかけた事がなかった。そういう点で、圭の提案は悪くないものだった。
少しでも今は新しいことをして、何かを切り開いて行く方がいい。
「………よしわかった。ただやるにしても今日の夜中だ。後、探索する時は美紀もつれてくぞ?」
「了解です。言っておきます」
トレーニングがあった日の深夜。慈に探索許可を得た胡桃は美紀と圭を連れて三階の音楽室にやってきていた。作戦の最終確認のためだ。
「よぉし、揃ったな。今回のミッションについて説明する」
教壇に立ち、黒板に簡単な校内の見取り図を描いた胡桃が言った。月明かりで明るく、黒板に描かれたものはちゃんと美紀と圭に見えていた。
「くるみ先輩、軍隊っぽいですよ」
「問題があるのかな?直樹曹長」
「そ、曹長……」
「はいはーい!先輩、私は!?」
「お前は中尉だな、圭。オペ子っぽいもん」
「なんでですか?」
「そりゃ圭みたいなオペ子とパイロットは寝たが――っと、流石に深夜テンション過ぎだな」
冗談を交えつつ、胡桃は話を切り出す。尚、何故か圭より階級が下に設定された美紀は落ち込んでいた。
「さて、冗談は置いといて………今回の目的は学校の裏側にある部活棟の調査だ。最重要確認目標は部活棟地下の風呂場。奴らがいるかどうかは“あの日”以降行ってないからわからん」
「あれ?でも先輩たちって校舎裏に墓場作ってますよね」
「圭の言う通りです。周辺の制圧は済んでいるものと考えますが?」
圭と美紀の指摘に、胡桃は頭を掻いて答えた。
「確かに、学校の真裏は始末したよ。最初は少なかったしな。でもそこから先は何もしてない。バリケードが張ってあったの気がつかなかった?墓場を囲うように」
「…………そういえば、鉄の棒を杭代わりにして有刺鉄線を巻いてましたね」
「だからあそこから先は実はまだ未開拓だ。体育館に逃げ込んだ連中もいたんだろうが出てこないところを見ると全滅してるだろうし、放課後だったから部活棟は酷そうだ」
美紀はなんとも苦い顔をした。
「もしかして、かなり危険な状況も考えられませんか?」
「考えれちゃうんだよな、これが」
「言い出しっぺなのでどうかと思いますが、やっぱりやめときます?」
苦笑いしつつ圭が言う。実際のところ、使えるかどうかもわからないのだ。部活棟に通じている水道が死んでいる可能性も高いのだから。しかし、美紀がそれに首を振った。
「いや、やっておこう。動けるうちに。そうですよね、先輩」
「あぁ。やれるうちにサブクエストは済ましとかないとな。基本中の基本だ」
「そのゲーム的な考えどうなんですか…………」
呆れたように返す美紀に、胡桃は気にするなといった様子だ。
「先輩の考え方はともかく、風呂場だけじゃなくて部活棟自体も探索することが出来たらいいと思います。圭はどう?」
「うーん。やるとなったらそこまでやったほうがいいかなー?ただ今日は…………」
「無理に調べん方がいいだろうな。私はともかく、二人とも昼間ので疲れてるだろ?」
胡桃が多少労るように言うと、それに対して圭はパッと明るい笑顔になった。
「あ、大丈夫ですよ。美紀を抱き枕にしながら昼寝したんで」
「…………………」
何故か美紀が顔を真っ赤にしているため、昼間の放送室で何があったのかはわからないが胡桃は「あっそう」と流した。
「まぁ、お前ら二人の乳繰り合いは「そんなことしてません!」――美紀が言うならしてないんだろうが動けるならそれでいいや。んで、ルートのほうだが一階の階段踊り場から直接裏口に出れる。そこから進軍だ」
「りょーかいです」
「把握しました」
「じゃあ、行くぞ。降りてからは高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応する」
作戦開始を告げるかのよう胡桃は言い、
「それ負けフラグじゃ…………」
それに対して美紀は先行きの不安を感じたのだった。
――A little before elsewhere.
『――以上でこの時間帯の放送を終了する。次回の放送は三時間後。巡ヶ丘に異常なし』
ラジオ放送用の機器を使用し、放送を聞いていたのは黒いジャケットを着た二十代と思しき女性だった。ショートヘアに若者らしい化粧をし、耳に幾つかピアスをている。
彼女を見たものは風貌からして明らかに女DJと判別出来るだろう。
「ふぅ。この市役所の放送もそうだけど、意外と生存者はいるもんだねぇ」
女性――この機器の前に腰掛ける彼女の名は“赤島 透子”――は存外希望もあるものだと染み染み思った。市役所から時折流れる巡ヶ丘の状況や危険集団の存在を知らせる放送に、ジャズのゲリラライブ。後は何かのカルト集団と思しき連中の放送など………意外と余裕のある連中が多いようだ。
透子もその余裕のある連中に含まれる。元々ラジオのMCだったこともあり、彼女は偶然避難出来た今居るキューブ型の施設内でラジオ番組を自主制作して流している。
救援物資が多量に存在しているため、彼女自身は生活に苦を抱いていない事から他の人を少しでも支えられたらと思い、番組を制作したのだった。
既にそれなりの時間が事件から経過しており、透子のいる周辺地域には生存者がいない。いや、正確にはこの“放送局”で生活しているのは三人と一匹であるため孤立しているわけではないのだが。
「センセとるーちゃんはそろそろ帰ってくるかな」
“放送局”の正面はほとんどゾンビたちが存在しない。だから、犬の散歩ぐらいなら多少は平気だった。何より、彼女らの飼っている犬はとても賢いと透子は知っている。
犬の名前は太郎丸。透子の避難している“放送局”に後からやってきた二人に連れられたきた生存犬の一匹だ。
流石に“放送局”の一体何から中身を護るんだと言わんばかりに重い扉は開けられないが、引き戸であれば自力で開閉して出入りするし、本能的に“ゾンビ”が敵だと理解し臭いで早期警戒を促してくれる。
女性、しかも非力なものしかいないせいでゾンビを退治するなど出来ないし、何より“放送局”の生き残りのうち一人は女子小学生である。スプラッタなものは見せられない。
「といっても、私は怖がらないあたり肝が据わってるんだよなぁ、るーちゃんは」
透子の見た目はどうみても子供受けしないはずなのだが、るーちゃんと透子の呼ぶ女子はわりと懐いていた。彼女を連れてここに逃げて来たもう一人の生存者である黒川という小学校の養護教諭はるーちゃんには姉がいると言っていたので、そのせいもあるのだろうか。
透子自身は妹などいないので、るーちゃんの反応に戸惑いながらも妹のように可愛がっていたのだが。
そのように同居人たちのことを考えていると、後ろのほうでガコンと音が鳴った。施設最上部のハッチが開閉されたのだろう。ということは同居人たちが戻ってきたということだ。
重厚な鉄の擦れる音と共に透子の真後ろにある扉が開かれる。
「わんっわんっ!」
「おぉっと!太郎丸」
少し開かれた瞬間、一匹の子犬が駆け寄ってくる。この犬こそ、“放送局”の飼い犬。太郎丸である。
太郎丸は透子へと駆け寄ってジャンプし、透子はそれを両手でキャッチ。頭をガシガシと撫でてやる。本当は散歩帰りなので足を洗ってやらなければならないが、太郎丸はどうやら帰って来たらすぐさま透子にくっつきだかったようだ。
「ン〜可愛いヤツだな。るーちゃん、黒川センセもお帰り」
「えぇ、ただいま」
「…………」
太郎丸に続く形で入室したのはるーちゃんと呼ばれる、どこか大人しそうなロングヘアの幼い少女と、その少女と手をつないでいる黒髪をアップで纏めた女性だった。黒川は返事をしたものの、るーちゃんと呼ばれた少女は無言で首を上下に動かすだけだった。
彼女は失語症だった。
「いやはや、外はどうだった?」
「変わらず、ですね。若狭さんと太郎丸が楽しく散歩出来ましたよ」
「そっか。るーちゃん、楽しかった?」
透子が聞くと、るーちゃんは肩からかけているポシェットからメモ帳とボールペンを取り出し、それに何かを書く。数秒後、書いたものを透子に見せた。
『たのしかった。太郎丸もはしゃいでました』
「よかったよかった。今日は晴れてたし、ここいらはアイツらも少ないし、今後はこうして散歩もいいかもね」
るーちゃんは頷いてから言葉を書く。
『太郎丸も育ちざかりですから』
「そうだね。太郎丸もそれでいいかな?」
「わんっ!」
元気のいい太郎丸の返事に、透子は再び頭を撫でる。まだ子供だというのに理解力のある犬である。将来がとても楽しみだと透子は思った。
「よしっ。太郎丸、センセに洗ってもらいなさい」
そう言って透子は太郎丸を床に置いて手放し、太郎丸は黒川のほうへと歩いて行った。
「では、太郎丸を洗ってくるので。若狭さんは…………」
『瑠璃もてつだいます』
「ありがとう」
二人と一匹は風呂場のほうへと消え、透子は肩の力を抜いた。黒川はまだ若いが一回りは年上でおまけに美女だ。明らかに学校の養護教諭というよりはどっかの敏腕社長秘書のほうがお似合いな容姿である。しかし、るーちゃん曰く『学校ではやさしくて人気でした』とのことで実際に黒川が誰にでも優しい女性だと言うのはわかっていた。
事件後のショックで失語症になったというるーちゃんのためにアニマルセラピーも兼ねて太郎丸と出来るだけ一緒にいさせたりと、誰かのためにという意識が所々見て取れた。
「大人、か。私は責任を持てる大人になれたのだろうか」
椅子に深く腰掛けて、透子は天井を見上げながら言う。
ただ、それがわかるかどうかはこれからの人生だし、少なくとも手近なところに大人はいる。彼女を手本に出来ればいいのだが――。
ここは巡ヶ丘わんわん放送局。絶望的な日々に僅かでも希望を配ろうとする者たちが集う、小さな放送局。
ここには、希望と夢しかない。いるのは未来を約束された二人と一匹。そして、責任を持つべき大人だけだった。
<今回の変更点>
「授業」
実は一回もやってるところが今まで出てなかった。ちゃんとめぐねぇも皆も先生と生徒をやっている。
「ENGEIBU」
どこかのNOUMINのようにドラゴンスレイヤーにはなったりしない。ゾンビスレイヤーにはなったが。
「胡桃のスパルタトレーニング」
余裕があるなら当然、トレーニングはしておくべきである。実はつい最近までの面倒ごとで滅入っていた気分を払拭するために行った。
「部活棟」
原作だと影も形もなかったものを大捏造。強いて言えばアニメ版の学校左裏手にある家屋に相当。お風呂完備。多数の部室を確保。
「太郎丸」
満を持して登場。噛まれてもいないし、空気感染もしていない。ここでは黒川さんの飼い犬ということになっている。とても賢く愛嬌もある。
いやぁ、十話地獄でしたねぇ。
それにしても太郎丸は何犬なんだろうか。
「赤島 透子」
原作における女DJ。名前が無いとやりづらいということになり名前付きに。気のいいお姉さん。
「若狭 瑠璃」
るーちゃん。容姿はりーさんの回想+るーちゃん(幻)。表紙カバー外して表紙に載ってるるーちゃんを見たとき電流が走った。
尚、名前はこちらの設定のため原作で出ちゃって違ったらご愛嬌。
「黒川」
夕日に次ぐオリジナルキャラ。養護教諭で見た目はエロいお姉さん。真面目だが物腰は柔らかい。カウンセラーとしても小学校では活動していたらしい。本作における太郎丸の飼い主。
ちなみに、ゾンビたちの様子や小学校での生徒たちの状態から感染症と判断し“放送局”の物資の中からワクチンを見つけ出して透子と瑠璃、そして黒川自身にそれを投与している。