――あなたのせいじゃないよって、一言。わたしはバカだから、受け止めて、笑顔でつつんであげることしか出来ない。
大丈夫。みんなが例え間違っていても、わたしはわたしで在り続けるから。
私立巡ヶ丘学院高校 三年C組所属 丈槍 由紀
慈の抑えているドアからドンドンドン!と強い衝撃が連続して起こる。施錠し、慈を含む人間三人分の重量があるからまだ保っているがこれがいつまで保つかはわからない。
「めぐねぇ。もう、つかれたよぉ………」
「ゆきさんしっかりして。大丈夫、いつか終わるから……」
「そうは言いますけど、これは流石に……!」
弱音を吐く由紀に慈は叱咤するが、同じく扉を抑えている悠里もいつまでこれが保つかわからなかった。扉の向こうからの悲鳴と怒号、聞き慣れた声が全てうめき声に変わったのは三十分も前のことだ。
「先輩………?」
そんな中、胡桃だけは屋上の園芸部の農園にいた。扉と十数メートルしか離れていない場所に一人の男子生徒と共に。
それを見ていた慈が異変に気がついた。男子生徒の傷口からまるで皮膚が引きつったかのように線が走り、黒い斑点も見える。胡桃も男子生徒の様子が変わったことに首を傾げていた。
「先輩、どうしたんですか?」
「待ってくるみ!ちがう、その人は!」
駆け寄りかけた胡桃を悠里が呼び止める。
「え、何言って」
「よく見て!」
「ッ!?恵飛須沢さん逃げて!」
悠里と慈の声とほぼ同時に、胡桃は“先輩”に突き飛ばされた。妙に彼女を突き飛ばした手は冷たかった。
「かはっ………!?」
背中を床に打ち付けた胡桃の目の前にいたのは彼女の知る“先輩”ではなかった。瞳孔は開ききり、瞼は限界まで見開かれ、口は顎が落ちたかのように開いている。
そこにあったものは人間の顔ではなかった。
「ひっ」
後ずさるように手を動かせばコツンと何かが当たる。それを胡桃は咄嗟に掴んだ。その動きに合わせて、“先輩”は胡桃に食らいつかんと上半身を突き出した。
「…………………」
慈は“あの日”の最後に起きた悲劇の場所に立っていた。恵飛須沢 胡桃。三年生で陸上部の生徒。時折、慈も恋愛相談を胡桃から受けていた。悠里と由紀とは面識が無いが、こんな状況の中、始まりが始まりだったのに精神を壊さずに二人と打ち解けていた。
しかし、慈が目を離せば時折悠里と胡桃は喧嘩をしている。それは主に由紀のことについて。
原因の一端は私にあるのに………………悠里と胡桃の喧嘩を見るたびに、慈は心が痛んだ。それでも止まる訳にはいかないのは、共犯者たる由紀の存在故か。
学園生活部に管理が引き継がれた屋上の菜園の一角には一つの十字架が建てられている。それは胡桃が初めて倒した“彼ら”であり、初めて殺した“人”の墓標。
今、慈の立っている場所こそが“あの日”に胡桃がスコップを初めて手に取った場所なのだ。
慈も胡桃の“先輩”が誰なのかは知っていた。陸上部の元エースのOBで、誰もが憧れていた学生なら一人はいそうなスポーツ万能タイプの少年。そして、担当クラス生徒からあだ名で呼ばれるぐらいには慕われていた慈は胡桃が“先輩”に抱いていた想いも何となくだが察していた。
菜園の土にはスコップが一本刺さっていた。どうやら胡桃のものではなく、普段悠里が農作業で使っているもののようだった。
それを慈は引き抜いて右手で持つが、少し重い。周囲を確認し誰もいないとわかってから、普段見ている胡桃のようにスコップを構え、そこから振るってみる。
…………とてもではないが、胡桃のように鋭くまるで槍使いのように扱うことなど不可能であった。
「私も戦えれば、いいのだろうけど」
「人から仕事とんないでくれっかな、めぐねぇ」
いつの間にか慈の後ろに立っていた胡桃に声をかけられ、慌てて振り返る。その際にスコップを思わず振り回してしまったが胡桃が瞬時にいなして事故は起きなかった。
「ごめんなさい」
「気にすんなって。で、さっき言ったことだけどめぐねぇこんなことする必要はないよ。あいつらをヤるのは私だけでいい」
「…………くるみさん」
スコップを肩で担ぐ胡桃に影はない。二人が立っている場所で起きたことなどまるでなかったかのように。
「そんでどうしたんだ?こんな時間に。りーさんも今は休憩してるし、ゆきは相変わらずだし」
「ちょっと風に当たりにきたのよ」
「ふーん」
関心が無さそうに相づちを打ちながら、胡桃は屋上の転落防止柵に近づいて下を見る。グラウンドでは相も変わらず彼らが蠢いており、そこから視線をずらしても周囲に広がる町は学校と同じく地獄が広がっている。
“あの日”、学校の周囲では火災や爆発が多発しゾンビにならなくとも炎にまかれて死んだ者やゾンビ化した者が乗っていた車にはね飛ばされた者もいた。その様を学校の屋上から慈たちは見てしまった。
由紀は泣き狂い、胡桃は目を背け、悠里は強く柵を握っていた。三者三様の反応だが、三人に共通していたのは「どうしてこんなことに」慈はそれが痛いほどわかった。
慈自身も“あの日”は酷いものだった。無事を問う母親からの電話は途切れ、同僚の教師からの電話も同じように断末魔と共に消えた。大切な人、見知った人、友も全てが侵されていく。
その最たる例を胡桃の“はじまり”は見せつけていた。
「ははっ。サッカーやってる」
胡桃が呆れたように呟く。慈もグラウンドを見てみれば、“彼ら”の足下を風に流されたボールがぶつかって転がり、その衝撃で“彼ら”が右往左往している。その様がまるで、サッカーをしているようだった。
もし、“あの日”が夢だったらどんなによかったことか。胡桃が見ている光景が本当にあの日のままなら、どれだけ幸せだっただろうか。大切なものは失ってから初めて気がつく。軒並みな言葉が酷い重さだった。
スコップを近くに置いた慈は気分を切り替えて胡桃に話しかけた。
「そういえば、くるみさんはどうしてここに?」
「んー?読書してた」
そう言って胡桃は左手に持っていた一冊の本を掲げる。人体に関する医学書のようだ。
「ど、どうしてそんなものを…………?」
「ほら、一人で行動することが多いから万が一自分の身体がぶっ壊れた時に、どこがダメなのかを知るためと…………後は相手の壊し方」
にひひ、っという笑みがとても悪そうだった。というより、妙に的確な斬撃や刺突を胡桃がするので学んでいたのかと慈はなんとも言えない気持ちになる。
「っと、そういえば前々から気になってたんだけどさ。あいつらって頭を潰せば止まるんだよな。もしくは首………背骨を壊した時か」
「そ、そうね。…………言われてみれば、首から上を潰さないと動き続けてるわよね。この前のもそうだったし」
「そそ。考えてみたんだけどさ、あぁいうのって昔やったことあるゲームで出てきたんだけどそいつらも頭を潰さないと倒せなかった」
ゲーム。空想の存在であったモノが今の彼女らの相手だ。なので、胡桃はもしかしたら意外とそういった知識が役に立つのではと思い始めていた。過信は禁物だが。
一方で、慈は内心ドキリとしていた。彼女とてまだ二十代中盤を迎えたばかりの女性である。多少はゲームもやっていたし、そういった類いのホラーゲームをやったことが一度はある。現実にまさか起こるとは思っていなかったが、確かに胡桃の言う通り。ゲームからフィードバック可能な知識があるかもしれないと、教育委員会から叱られそうなことを思った。
「そうねぇ。私もやったことがあったけど、今思えばわりと似ているところもあるわね」
「だろ?あぁいうゲームだとよくさ、脳が残ってるとそれをウィルスだとかが刺激して、電気信号を出し続けるのと何故か食欲だけが異常に増して人間を襲うって感じだけど実際にそうっぽいよな」
食欲という言葉に一瞬、慈は嫌なイメージが過ったがすぐに流す。感情を抜きにして冷静に思考すれば、胡桃の言う通り“彼ら”は必ずどこかしら噛まれた後か、喰いちぎられた痕がある。
また、最初期に制圧した職員室の惨状を目にした慈は隣のデスクにいた同僚の女性教師の亡骸が“彼ら”のようになることすら出来ないほどに喰い散らかされていたのを憶えている。
何故食欲なのか?胡桃は想像がつかなかったが、慈はなんとなくだがわかった。
忌々しい「職員用緊急避難マニュアル」に記されたBC兵器“α型”“β型”“Ω型”。この三つのうちαとβはどうやら、水道に流したり空気中に散布する使い方が想像出来る記載があったが、最後のΩだけが説明文全文が黒塗りにされており詳細が不明だった。
「(まさか…………食欲、というのは感染拡大のために?)」
「めぐねぇ?」
「っ…………なんでもないわ」
嫌な予感ほど的中する。慈は既にそれが何度か起こったため、今回の推測も取っておく。それにこれが事実なら悪質というレベルの話ではない。
軍事的な知識なら胡桃の方に軍配が上がるため慈はそれ以上の“彼ら”の使い方が思いつかなかったが。
「さぁて、そろそろ見回りといきますかぁ。今日は何匹殺ろうかな」
「くるみさん!」
思わず慈は歩き出した胡桃を呼び止めた。胡桃はバリケードを越えて度々、見回りとして校内の状況や少なからず“彼ら”を仕留めてくるが、今のような言葉を慈は見過ごせなかった。
「ん?」
「くるみさん、そんなこと――」
言ってはダメだと続けようとして、慈は気がついた。胡桃の顔が酷く悲しそうに見えた気がした。まるで、そうしていないと壊れてしまいそうな。
これは、ゆきと同じだ。
「…………ううん。なんでもないわ。でも、気をつけてね。無理に倒さなくても、見てくるだけで」
「ウッス。ま、あくまで見回りだから目についたヤツだけな」
それじゃあ行ってくる、と胡桃は背中を向けて歩き出し空いている手を振って屋上から出て行った。
慈は胸のリボンを思わず掴んだ。こんな、こんなことを容易くさせるようにまでさせたのは自分だと。胡桃にだって割り切れないことがあるはずだ。三階の制圧時に慈たちが相対した“彼ら”は見知った顔がチラホラとあった。当然だ、三階には職員室と三年生の教室がある。
胡桃が“先輩”をスコップで刺貫いてから、慈が気がついた時には胡桃は誰よりも前に立ってスコップを振るっていた。まるでそれが彼女の義務であるかのように。義務だと思い込んで、割り切ることを放棄した。
胸が痛む。彼女たちを壊していく現実に殺意が湧く。それを慈は責任と義務で抑え付ける。これを発露していいのはあの子たちを守りきれなかった時か、自分が死ぬか、黒幕を追いつめた時だけだ。それまでは“佐倉 慈”ではなく“佐倉先生”じゃないといけない。
これをわかってくれるのは由紀だけだ。
再び屋上の扉が開く。今度は休憩を終えた悠里だった。
「あ、先生。おつかれさまです」
「お疲れさま、ゆうりさん」
即座に仮面を被って慈は悠里に朗らかな対応をする。悠里は農作業のために戻ってきたのか首にはタオル、両手は土に汚れた軍手をしている。
「今そこでくるみとすれ違いましたけど、見回りですよね?」
「そうよ。悠里さんはこれから続き?」
「はい」
微笑みながらしみじみと悠里は菜園に目をやる。彼女は園芸部と学園生活部を“兼部”している。“あの日”は偶然、当番の生徒がいなかったため、代わりに屋上にいたのが悠里だった。
菜園に向ける目はかつての部員たちとの思い出か。それとも、また別のことなのか。
「佐倉先生はこれからどうするんですか?」
「そうねぇ、ゆきさんの様子を見てこようかしら」
「わかりました。ゆきなら丁度、部室にいましたよ」
「そっか……じゃあ、私はいくね」
「わかりました。私もキリのいいところで終わらせて戻ります」
悠里と別れ、慈は屋上を後にした。その背中を悠里は目を細めて見つめていた。
ノックを二回。感覚を大きく空けてすると、学園生活部の部室内から「どうぞ」と由紀の声が聞こえた。
慈は引き戸をサッと開けて、すぐに閉める。中には帽子を脱いだ由紀がいた。椅子に座り、何やら本を読んでいる。慈がよく見ると、それは国語の教科書だった。
「お勉強?」
「うん。こうしないと、ゆきが授業できないから」
由紀の返答になるほどと慈は思った。ゆきの過ごす幻想は由紀の記憶を頼りに作られたものだと慈は推測したが、どうやらそれは的中していたようだ。
摩耗する記憶を補助するために復習して、幻想を維持しているのだろう。
「それで、めぐねぇ。どうしたの?」
「えぇ、ちょっと」
時間は有限だ。慈は手短に胡桃のことや、外部からの物資補給。また“彼ら”の生態について話した。
だいたいのことを伝えると由紀は教科書を置いて「うーん」と唸った。
「くるみちゃんはまだ大丈夫だと思う。一番危ない相手を最初に………だったから。あと“皆”の生態はなんだか嫌な予感がする。ゲームと似てるってことは現実じゃなくても、前例があるわけだし」
「そうよねぇ。くるみちゃんは申し訳ないけど、一端置いておかせてもらって“彼ら”がゲームと似てるのが問題ね」
由紀の言う通り、ゲームとはいえ前例がありそれに似ているというのは少々気味が悪い。これは確認すべきことだと慈は思い由紀に伝えると彼女も同様のことを思ったのか頷いた。
問題はその肝心のゲームが慈の場合は寮に、胡桃はおそらく彼女の実家にあることだろう。現状では確認が困難だ。屋上から見渡す限り、住宅街は“彼ら”が密集している上に障害物も多い。囲まれたらおしまいだ。
「後は、外部への補給ね。危険だとは思うけど由紀ちゃんはどう思う?」
「私は悪くないと思う。りーさんも物資が少なくなってるのはわかってるし、購買部の残りはそろそろ缶詰だけなんでしょ?」
「えぇ。地下にいければいいんだけど、一階の制圧はまだ先。かといって外への補給はどこに行くべきか」
ここいら一帯のお店は間違いなく全滅だろうから遠出する必要もあるかもしれない。何より全員でいくとなるとまずは校庭の“彼ら”を素早く突破しなければならない。それがまず不可能だ。
慈はこういう時に運動が苦手な自分を呪った。運動会では教員対抗リレーでボロ負けだったのを思い出して思わずため息をついた。
そのため息をついた一瞬、瞬きをした時には目の前の由紀が帽子を被ってゆきに戻っていた。
「どしたのめぐねぇ?」
「え、あ。なんでもないわよ。それと佐倉先生」
「ん。ごめんなちゃい」
ふざけるゆきに慈は毒気を抜かれ、肩の力を抜く。今日はここまでかと気持ちを切り替える。
「(まずは今夜の購買部への買い出しと、明後日から手薄な夜を狙って二階の掃討・制圧。あとは上手く行けば一階への橋頭堡の確保。外へ行くのはその後ね)」
外へ行くのは補給のためだけではない。生存者の探索という僅かな希望もある。だが、少ない確率だとしても生存者がいるのではないかと慈は睨んでいる。“マニュアル”に乗っていた緊急避難場所はここ、巡ヶ丘学院高校だけではない。
リバーシティ・トロン・ショッピングモール。
聖イシドロス大学。
七冠駐屯所。同航空基地。
市立巡ヶ丘中央病院。
等の幾つかの避難拠点がマニュアルには指示されていた。有事の際は連絡を取り合えということなのだろうが何故か電話番号は黒塗りされていたため、確認できなかった。
職員室に電話帳ぐらいありそうなものだがそれらもまるで“意図的に”血に汚れたり、そもそも無かったりとある意味で用意周到だった。
ここまでくると、もしかしたらこの騒動は意図したものではないのではとすら思えてしまう。本来であれば生き残りは慈たちではなく、その電話番号を全て把握しているものではなかったのかと。特に事件前にマニュアルの隠し場所を教えてくれた教頭。
慈は今更ながら彼がこの事件の原因を作った人間と関わりがあったのではないかと疑い始めていた。既に後の祭りだが。
同日の夜。夕食を食べ終えたゆきが唐突に「肝試しをしたい」と言い始めた。学園生活部として最近は生活ばかりしているから非日常を体験するという理由だった。
悠里、胡桃、慈からすれば苦笑いこそすれ、笑えない冗談だった。
ただ、やるやらないにしても購買部には今夜行くつもりだったため丁度よかった。慈はその「肝試し」を許可し学園生活部全員で夜の学校に繰り出すこととなった。
そして、電気もついていない暗闇の中に彼女らは足を踏み入れた。全員が物資回収用にリュックサックを背負い、胡桃はいつものスコップ。悠里は音に反応する“彼ら”を揺動するためにカセットプレイヤーを。
慈は気休め程度に作ってからしばらく放置していた槍を持っていた。
「なんかめぐねぇ、狩猟部族みたい」
「ゆきさん、ごめんね。私、そんなに視力よくないのよ」
「え?でも眼鏡とかしてないよね?」
「ゆき、それ多分そういう民族並にはないってことだと思うぞ」
「あ、そっかー」
隊列は先頭から胡桃、悠里、ゆき、慈という形だ。制圧完了した場所はともかく、まだ終わっていない場所では当然、胡桃が戦わなくてはならない。
「じゃあ、一度向こうを見てきます」
「あれ?りーさん、カセットプレイヤーなんかどうするの?」
「これはね、ゆきちゃん。私たちがお化けに会わないようにするためのおまじないをかけてくれるの」
悪戯っぽく悠里はゆきに言う。実際には制圧が完了していない階段から降りて二階の踊り場で音を流し“彼ら”を誘導するのだが。その階段は校舎中央の階段だ。購買部は学園生活部の近い階段から降りた方が早いのだが、そこまだ制圧が完了していないため迂闊には飛び込めない。
そのための陽動だ。
「なんかすごいオカルトだね!」
と、そんなことをわかるはずもないゆきはそう言った。慈は二人を一度見送って、槍を握りしめる。といっても、はっきり言って杖にしかならない。残念ながら慈は非力な女性だ。胡桃が使えば“彼ら”を切れそうだが、慈程度の力では“彼ら”を切ろうにも刺さってそのまま抜けなさそうだ。
数分後、音楽が流れ始め胡桃たちが駆け上がってくる。
「いきましょう」
「おう」
「はい」
慈の声に従い、隊列を組み直して近くの階段のバリケードを越える。途中でゆきが手間取ったが慈が手を貸して、大したロスにはならなかった。
階段を足早に降りると、胡桃が踊り場から廊下に出る前に左手を挙げて全員を制す。どうやら“いた”ようだ。
「どしたの、くるみちゃん」
「いや、ちょっとな。先行かせてくんね?」
「えー。ずるい」
「ゆきさん。順番に行きましょう?」
「まぁ、めぐねぇがそう言うなら」
渋々だがゆきは駄々をこねるのをやめて慈に従った。胡桃はそれを確認すると、静かに素早く廊下へと駆け込んだ。いたのはのろのろと中央の階段へと歩く“女子生徒だったもの”。他のゾンビの姿は見えない。既に誘導されているのだろう。
「(大音量で流したからテープが切れる時間までは大丈夫だろ)」
他が引きつけられているため、周囲に問題は無いと判断し胡桃はスコップを腰にためた。
キュッ、と上履きのゴムと汚れたリノリウムの床がすれた音が短く響き“女子生徒だったもの”が、不気味なまでに速く振り向こうとするが胡桃の速度ほうが凄まじかった。
「こんばんは。そしておやすみなさい」
感情を消した白々しい挨拶がせめての手向けにならんと、スコップが“女子生徒だったもの”の脇腹ごと背骨を粉砕。
素早く引き抜くと同時に、扉が開いていた“厨房休憩室”へと、胡桃は全身をおもいっきり回転させて全力を載せてスコップを“女子生徒だったもの”に叩き付けて室内へと叩き込んだ。
ドンガラガッシャンというギャグ漫画にありそうな音を立てて“彼女”は消え、胡桃は扉を静かに閉めた。
「(腰潰したし、しばらくは出て来れないだろうな)」
胡桃が階段のほうに振り向くと、悠里が覗いておりほっとしたのか胸を撫で下ろしていた。
障害を排除した学園生活部は手早く購買部へと辿り着き、明かりをつける。購買部には窓が無いためだ。内部にあるお菓子や缶詰。それにペッボトルの水や寮生活の生徒向けに用意されていたお米などを積めるべく、悠里が慈と胡桃のバックを借りてゆき共に中に入った。
購買部は普段から施錠してあるため内部に“彼ら”はいない。
「りーさん、それでどうするんだけっけ?」
「ゆきちゃん、ここで証拠の品をとってくるの。ここに来ましたよって」
「そっか。でも、持って行っていいのかな?」
「お金払うから大丈夫よ」
ゆきを上手くコントロールし、悠里は物資を集める。ゆきの扱いは慈の次に上手かった。
二人が中で動いている間、胡桃と慈は入り口で見張りだ。といっても、慈はまともに胡桃と並んだのは初めてで妙に緊張していた。身長は胡桃のほうが高いが、まるでホラー映画に出てくるような民間人を守る兵士のような風格を胡桃は見せている。
緊張する慈を見かねたのか、さわやかな笑みを浮かべて胡桃が口を開く。
「めぐねぇ、今更緊張してんのか?」
「あ、そのね…………思えば矢面に立ったのってこれが初めてな気がして…………」
「無理にそんなもん持ってこなくてもいいのに」
「でも――」
昼間に胡桃が見せた顔があまりに心配で、慈はつい普段は持つことなんてない武器を持ってしまった。武道の経験もなければ運動も得意でないのにである。
胡桃も何となくだが、彼女が自身を心配してこのような行動に出たのではとわかっていた。でも、この役目は自分のものだ。そう言い聞かせる。
「もしあいつらが来たらいなして逃げればいいよ。トドメはやるから」
「くるみさん………ごめんなさい」
「だから、謝るなっての。………でも、めぐねぇもこれでわかったしょ、武器を持つとすごい責任がのしかかるって」
胡桃の言葉に慈は頷く。長期的なものを慈は背負っているが、瞬間瞬間の責任の重さは胡桃のほうが上かもしれない。自身が死んだらそこで全て終わり。しかし、戦えるのは自分だけ。
それが胡桃をあそこまで強くし、変えてしまった原因の一つなのかもしれない。それに変わったといえば、少なくともこの状況になる前はここまで教師と対等に話そうとする子ではなかった。多少は砕けていたが。
購買部での物資回収を終えると、四人は帰り道にある図書館へと入った。このサバイバル生活で数少ない娯楽が読書であり、学園生活部の他に気を紛らせるための簡単な授業をするため参考書などを持って行くためだ。
慈も本来であれば国語だけだが、現在は数学を改めて勉強し直している。
「(まさかこの年になって数学を勉強しなおすとはねー)」
ゆきを連れてしみじみと参考書を手に取る。元々数学が好きではなく、そのせいか国語の教師になっていたのだが、結局自分が教えるために再び数学を学んでいる。
大学生時代に塾講師のアルバイトで致し方なく数学を教える必要があったため、その時もこうして勉強をしたなと慈は思い返していた。
「めぐねぇも勉強するの?」
「そうね、先生もちゃんと予習、復習はするのよ」
「え?でも漢字間違えたり――」
「丈槍さん?きっとそれは気のせいよ。いい?」
「はーい………」
恥ずかしいことを指摘された慈は思わずゆきを威圧してしまったが、軽く咳払いする。もう欲しい本は見つかったので手早くバックに入れて本棚に立てかけておいた槍を手に取る。
入り口では既に本を回収した胡桃と悠里が待機している。早く合流しなくては、と慈はゆきの手をとって本棚の列から出ようとした。
「………あれ?」
ゆきが、それに気がついた。
「ッ……………!!」
本棚の影から、現れた。“彼”に。
「だ、誰!?」
「(しまった……!)」
慌ててゆきの口を塞ごうにも遅かった。驚愕したゆきが声を上げ“彼”は反応した。ぎょろり、と生気のないしなびた目が慈とゆきを見つけていた。
「くっ………!」
慈が槍を構えて、ゆきの前に立つ。
「ゆきさん、ゆっくり後ろに下がって」
「……………………」
「ゆきさん?」
ちらりと、慈はゆきの様子を伺った。すると、ゆきは呆然としていた。まずいと慈の頭に警鐘が鳴る。最悪だ、迂闊過ぎた。本を選ぶことに夢中になりすぎて、周囲への警戒を怠っていた。
その結果、“彼”を見た由紀が自身にシャッターを降ろした。慈はすぐに正面へと向く。程なくしてドサリと、後ろで倒れるがする。自分がついていながら、ゆきに再び衝撃を与えてしまった。
唸るような音が“彼”から漏れ出す。ゆきの倒れた音に反応して前進する速度が上がった。慈が後ずさろうとして踵に何かが引っかかる。ゆきだ。
「………っ………うあぁぁぁ!」
声を上げて慈は槍を突き出そうとしたが、その前に“彼”は側頭部にスコップの斬撃を受けて本棚に叩き付けられた。
数秒間、痙攣したのち“彼”は動かなくなった。
「ふぅ。ゆきの声が聞こえたと思ったらもう一体いやがったか」
胡桃がそこにはいた。額を腕でぬぐいながら、今しがた倒した“彼”を見て、安堵したように息を吐く。そして、目の前で槍を突き出したまま硬直している慈を見た。
「めぐねぇ、怪我はないか?」
「………あ、そ、そうね」
「んで…………ゆきは気絶しちまったか」
胡桃はそう言うとゆきに近づき、彼女に肩を貸して持ち上げようとする。
「くるみさん、手伝うわ」
「いや、いいよ。りーさん」
「えぇ、手伝うわ」
あまりのことに悠里の存在が飛んでいた慈は慌てて胡桃に呼ばれた悠里のほうへと向く。慈と目が合い、悠里の顔はあまりいいものではなくゆきを危険に晒したことを怒っているようだった。
その顔を見た慈が視線を足下に落とすが、胡桃を手伝おうと近寄ってきた胡桃が言った。
「バリケードの件もありますし、これでおあいこです。次からは絶対に気をつけてください」
「ごめんなさい………………」
私は何をやっているんだろう。順調にいっていたから、慢心していたのかもしれない。慈はそう思って、槍をギュッと握りしめた。なんて無責任。自分を責めたい気持ちで一杯になる。
「よっと。りーさん、そっちは大丈夫か?」
「なんとか。荷物もあるから少し重いけど、大丈夫」
ゆきを二人で持ち上げた悠里と胡桃が立ち上がる。自責の念で固まる慈に胡桃は声をかける。
「めぐねぇ、さっさと戻ろう。階段はすぐそこだから帰りはめぐねぇが代わりにわたしたちを護ってくれ」
「お願いします、先生」
何事もなかったかのように、二人に頼まれ慈は悔しさを抑え込んでいつも通りに返事をする。
「そうね。じゃあ、いきましょう」
今度は慈が胡桃のように前に立った。
幸いにも、慈が槍を使うようなことは起きなかった。寝室である放送室へと戻った四人はゆきを寝かせると、胡桃がカセットプレイヤーを回収しに、悠里と慈はゆきにつくことにした。
「まさか倒れちゃうなんて」
悠里はゾンビを見ても今まで倒れたことがなかったゆきに少しビックリしていた。確かに、あの距離で見たのはほとんど初めてに近いのかもしれない。いつもなら『不良』と処理されて逃げるはずだ。
だが、今回はそれがなかった。不意打ちに近い形だったからか、それとも――
「(めぐねぇがいたからか)」
悠里が目を向けるのはゆきの手を握って心配そうにしている慈の姿。初めて武器を持って、初めて油断した姿を見て、悠里はなんとなく妙な親近感がこの教師に湧いたが余計に心配が増えていた。
元々、担任である佐倉 慈という教師とはそれなりに仲がよかったが丈槍 由紀と悠里はせいぜいクラスメイトであるだけの関係で、事務的な会話すらほとんどなかった。
しかも、彼女は少々幼い気質が影響してクラスから浮いていた。頭が悪い訳ではなかったが、寂しさから慈の気を引こうとわざとテストで悪い点数をとっていた気がしていた。
悠里はそれを遠目で眺めていたが、今ここにいる慈を見ると少し異常だ。悠里自身、ゆきに依存しているのはわかっている。彼女が幻想を見続けているからこそ今自分は正気を保っていられる。ただ、そう思っていてもゆきへの気持ちは普段、そこまで重いものではない。
だがしかし、目の前の慈は自分以上ではないかと思ってしまう。ただの補習授業の常連だったにしては慈も入れこみすぎているのは無いか?まるで「彼女がいなくなったらどうにかなってしまいそう」にも見える。
今まで悠里は自身にかかる責任の全てを慈に預けてきたわけだが、その重さが今、ゆきが倒れたことにより強くのしかかっているのではないかと。
「(……………そうね。先生だって、私たちと同じだもの)」
今まで、心のどこかで悠里は慈に甘えすぎていた。大人だから、先生だからなんとかしてくれると。だが違う。慈も人だ。油断もすれば、落ち込みもするし、失敗もする。それでも、私たちを護ろうと必死になって慣れない武器を持ち出したりした。
なんで私たちが、というのは慈も同じだと悠里はこの時初めて思った。
だからこそ、学園生活部の部長として自身も責任を持たなくてはならない。もう大人は慈一人しかいない。だから、自分もそうならなくてはならない。
そうでもしないとその内、この人は潰れてしまう。悠里はそう思った。
<今回の変更点>
「めぐねぇが武器を持った!」
ただのカカシですな。俺たちなら瞬き(ry
「りーさん、実は精神的なストレスが一番軽い」
めぐねぇが全力全壊なので、めぐねぇなら何とかしてくれるという保険のおかげで多少はマシな状態。ただし“多少”なので残してきた家族に関しては地雷。
これから責任を少し負担していくつもりのようだ。
「くるみちゃんが強過ぎる」
最初にやってしまった相手が最大の脅威だったため、色々と吹っ切れた。
……………ように見えて実はゆきの次に精神状態が危ない。ヤろうとするとスイッチが入る。それが原因で身体能力が上がっている。普通はスコップで人斬ったりなんて出来ない(当たり前)。
「SAN値が一番ヤバいのは」
ゆき(幻想作った)>くるみ(最近倒すのが楽しくなってきた)>慈(実は原作りーさん並の心労)>りーさん(めぐねぇ保険で安心)
「制圧後の惨状」
あなたは隣の席の同僚の無惨な姿を見てしまった。クラスメイトの惨い姿を見てしまった。
「学園生活部それぞれの推理・知識」
めぐねぇ・由紀:マニュアルからだいたいの状況がわかっている。めぐねぇは高校どころか周辺自治体もグルではないかと確信している。
くるみ:ゾンビ知識はゲームから、倒し方は怪我への対処方法を学びながら。
りーさん:状況はわかったが、何故こうなったのかはわからない。めぐねぇが何かを隠していると疑っている。